【注釈】(2)
■1章19節~2章12節の構成
 序の言葉に続いて、1章19節から2章12節までが、一つのまとまりを形成しています。1章の終わりまでは「その翌日」(29節/35節/43節)によって区切られていて、最初の四日間の出来事を語っています。継いで「三日目」(2章1節)とありますから、この「三日目」に第4日を加えて数えると、第4日と第6日との間に1日が加わることになります。こうして、イエスの伝道の「最初の週」が終わります。
第1日(1章19~28節):洗礼者自身の証し。
第2日(1章29~34節):洗礼者によるイエスへの証し。
第3日(1章35~42節):洗礼者の3人の弟子とイエスの出会い。
第4日(1章43~51節):フィリポとナタナエルとイエスの出会い。
〔第5日〕
第6日(2章1~12節):カナでの婚宴。
 ところが、上記の第3日については問題があります。41節の「まず/先に」(プロートン)は、「朝に」(プローイ)という異読があるからです〔新約原典テキスト批評〕。この読みを採るなら、「朝になって彼(アンデレ)は」となりますから、シモン・ペトロとイエスの出会いは、アンデレとイエスの出会いの翌日のことになります。だから、三日目のアンデレとイエスとの出会いの日の後に、<第4日(1章41~42節):シモンとイエスの出会い>が加わります。この読み方だと全部で7日間になりますから、カナの婚宴は七日目になります〔McHugh. John 1-4. ICC. 113〕。
 この1週間を創世記の初めの1週間と対応させて、「新たな創造」の開始の週と見る解釈もありますが、これが作者の意図なのかは疑問でしょう〔キーナー『ヨハネ福音書』(1)〕。それよりもむしろ、この6/7日間は、12章1節に始まる受難週と、これに続く復活の6/7日間と対応しているという見方のほうがより適切です。だとすれば、「三日目」のカナの婚宴はイエスが復活した日に相当しますから、この日に悲しみの水が喜びのぶどう酒に変わることになります。
■1章
[19]【ヨハネの証し】共観福音書と異なり、ヨハネ福音書には「<洗礼者>ヨハネ」という呼び方は一度もでてきません。ただ「ヨハネ」とあるだけです。これは彼が「洗礼のため」ではなく、ひたすら「光について証しする」(1章7節)ために来たからで、彼自身による「光についての証し」が、ここから本格的に始まります。
【エルサレムのユダヤ人】原語の「エルサレム」は、ヘレニズム風な綴り方の「ヒエロソリュマ」です(ヨハネ黙示録ではヘブライ語に近い「イエルーサレーム」)。「エルサレムの」は、神殿の場であると同時に、ユダヤの中央権力を指します。そこから遣わされたのが、ここの「ユダヤ人」です。しかし、洗礼者自身もイエスも洗礼者の周囲の人たちも全員が「ユダヤ人」ですから、彼らに「ユダヤ人」が遣わされたというのはおかしな言い方です。ヨハネ福音書の「ユダヤ人」には独特の意味がこめられているのが分かります。ここは、その「ユダヤ人」が登場する最初の箇所です。この言葉はこれから幾度もでてきますが、そのたびに意味合いが異なり、ここでは「エルサレムの支配体制」を意味する「ユダヤ人」です。
【祭司やレビ人】洗礼者自身が祭司の出ですから(ルカ1章5節)、彼とこの人たちとの対立は興味深いです。祭司には指導層に属する人たちと、地方の下層祭司がいました。洗礼者は地方の下層祭司の家の出だと思われます(ルカ1章5節/同39節)。「祭司」も「レビ人」もヨハネ福音書ではここだけです(ただし「大祭司」「祭司長」は20回ほど〔新共同訳〕)。「レビ人」は身分において祭司に劣り、神殿での音楽や門番、あるいは神殿の警護にあたりましたから、ここでは神殿警護の役人のことでしょう。彼らは、イエスの頃のエルサレムの指導層であるサドカイ派から派遣されてきたのでしょう。
【ヨハネのもとへ遣わして】洗礼者の洗礼運動には、社会的な地位のある人たちも参加していましたから、エルサレムの中央権力は、彼の活動に懸念を抱いて、彼を「審査する」ために人を遣わしたのです。
【どなたですか】原語の「誰なのか」は、「何者なのか」(21節)の意味です。原文では「誰で<ある>のか」と「ある」が強調されていますから「どういう身分/資格の者なのか?」と尋問したのです。
[20]【公言して隠さず言う】原文は「彼は告白/公言した。そして否定しなかった。そして彼は『わたしはキリストでない』と告白/公言した」で、同じことを繰り返しています。これはヘレニズム世界で法的な尋問を受けた時の答弁の仕方だと指摘されています〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。おそらく洗礼者の弟子たちの中には、彼をメシアだと信じていた人たちがいたのでしょう。これに対して、洗礼者自身は、自分がメシアであることを肯定も否定もしない態度をとるようなことをせずに、自分がメシアでは<ない>こと、これを否定<しなかった>という意味です。彼は、はっきりと「わたしはメシア/キリストではない」と言い切ったのです。したがってここは、「自分は(メシアでないと)告白/公言し、(メシアであることを)きっぱりと否定して、(改めて)メシアではないと告白した」となります。洗礼者のメシア性をこのように強く否定しているのは、おそらく、ヨハネ共同体に参加してきた洗礼者の弟子たちの中に、イエスと洗礼者とを比較する人たちがいたからでしょう。ここには彼らへのメッセージもこめられているのです。
【わたしはメシアではない】「わたし」が強調されています。「メシア」とあるギリシア語の原語は冠詞付きの「ホ・キリスト」です。「メシア」はヘブライ語から出た言葉ですが、「キリスト」はこれのギリシア語訳です。新共同訳では、四福音書のギリシア語の原語「クリストス」をこのように「メシア」と訳していますから注意してください(文語訳/口語訳では「キリスト」です)。
 洗礼者がヨルダン川で洗礼を授けていた頃、ユダヤの人たちは「メシア」の到来を待ち望んでいました。メシアは終末に到来すると信じられていましたが、その内容は様々で、ダビデ王権を再来させるメシアから、『第一エノク書』のような人の子メシア、クムラン宗団のように預言者と祭司と王という三人のメシア待望もありました。洗礼者は、メシアが別にいる/来ると告白していますが(3章28節/ルカ3章15~16節)、彼の言う「メシア」がどういう意味なのかは語っていません。イエスの頃のパレスチナでは「メシア」とは「ダビデ王のような支配者」の再来を意味する場合が一般的でしたが、洗礼者が自分の後から「ダビデ王的なメシア」が来ることを期待していたかどうかは疑問です。
[21]【では何ですか】「では何者か? お前は(ほんとうに)エリヤなのか?」という意味です。洗礼者の洗礼運動は終末的な性格を帯びていて、洗礼は、主として死海の西北岸にあるクムランから見て東方のヨルダン川で行なわれていました。クムランは、エルサレムの指導層に対して批判的でしたから、指導層は洗礼者の洗礼運動にも疑惑を抱いたのです。「では」(ウーン)は、ヨハネ福音書に190回ほどでてきますが、第一ヨハネの手紙には1度もでてきません。
【エリヤ】エリヤは生きたまま天へ昇りましたから(列王記下2章11節)、捕囚期以後において、彼は生きていて終末の「主の日」に先だって「神の怒りを鎮めるために」再び来ると信じられていました(マラキ書3章23~24節/シラ書48章1~10節)。特に前2世紀頃には、偉大な黙示的小羊が顕れるのに先立ってエリヤが戻ると言われていました(『第一エノク書』90章31節/同89章52節)。洗礼者が次に引用しているイザヤ書40章3節はマラキ書3章1節と共に、エリヤを指すと解釈されていたのです。ただし、このエリヤは、ダビデ的なメシアではなく祭司的なメシアだと言われていました〔ブラウン『ヨハネ福音書』(1)〕。
 マルコ1章2節はマラキ3章1節を引用して洗礼者をエリヤだとし、マタイ11章14節はイエス自身の言葉を引いて「あなたがたが受け入れるなら彼はエリヤだ」としています。洗礼者の身なりはエリヤ伝承に近いものでしたから(マルコ1章6節)、共観福音書では、洗礼者と「荒れ野の声」(イザヤ書40章3節)とがエリヤと結びつけられたのです。
 ただし、共観福音書によれば、ヘロデを含む人々は、洗礼者とエリヤとを区別していたようです(マルコ6章14~15節/同8章28節/マタイ17章10~13節)。イエスに従う前は洗礼者の弟子であった者たち(ペトロたち)も彼をエリヤだとは思っていません。洗礼者もイエスも、生前は「エリヤ」ではないかと言われていましたが、洗礼者は自分を「荒れ野で叫ぶ声」だと告げています。この「声」が、メシアの到来を告げるエリヤの声であることが明らかにされたのは、イエスの復活以後のことで、洗礼者とエリヤが同一視されるのは、イエス復活以後のキリスト教会においてでしょう。
 ヨハネ福音書の描く洗礼者像は、共観福音書のそれとはやや異なっています。ヨハネ福音書もマラキ3章1~3節にある「主の道を備える者」として洗礼者を見ていますが、共観福音書のように「神からの裁きの火」をもたらすエリヤ像ではありません(マタイ3章7~10節)。この意味で、ヨハネ福音書の洗礼者が、イエスのことを「世の罪を取り除く神の小羊」と呼ぶのは意義深いことです。
 このように、様々なエリヤ信仰がパレスチナに広く行き渡っていて、エリヤこそメシアに油を注ぐと言われていました(マルコ8章28節/同9章11~13節参照)。ちなみに、このエリヤ信仰は、現在のイスラエルでもまだ続いていて、北ガリラヤのツフォットにあるカバラの会堂には、今もなお、エリヤの再来に備えてエリヤの座る椅子が置かれています。
【あの預言者】モーセが約束したと伝えられる預言者のことで、終末に訪れると信じられていました(申命記18章15節/同18~19節)。イエスもこの預言者だと信じられたとあります(1章45節/6章14節/なお使徒言行録3章21~23節を参照)。
[22]~[23]ブルトマンは、内容的なつながりから、この二つの節を編集者による後からの挿入だと見ています。しかもその編集者は、おそらくヨハネ共同体以外の共観福音書系の教会の手によると見るのです。その根拠は、ここに共観福音書と共通するイザヤ書40章3節が引用されていることです〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。しかしヨハネ福音書の引用の仕方は、共観福音書のそれとはかなり違っています。その上、共観福音書系の教会が手を加えたとすれば、肝心のイエスの洗礼が抜けていることが説明できません。したがって、この編集は、同じヨハネ共同体内で行なわれたと見るべきです。
【返事をする】四福音書を通じて、「答える」には「アポクリノマイ」が最も頻繁に用いられますが、ここは少し異なっていて、「返答する/返事を伝える」"give the answer"という言い方になっています。この「返答を与える」は、正式の裁判で、尋問の際に「返答する」ことを指しますから、ここでも「返答次第ではただではおかないぞ」という脅しの意味がこめられています。この言い方は、ここ以外に、ピラトが官邸内へ戻って、イエスに「お前はどこから来たのか?」と尋ねた時に、「イエスは<返答を与えなかった>」とある箇所だけにでてきます。ヨハネ福音書では、これによって、ここでの洗礼者の「返答」と、ピラトの前でのイエスの「無言の返答」とを対応させるのでしょうか〔マキュウ『ヨハネ福音書』〕。
【荒れ野で叫ぶ声】引用はイザヤ書40章3節の七十人訳からです。七十人訳では「<荒れ野で叫ぶ>声。主の道を整えよ(障害物を取り除くこと)。私たちの神の路をまっすぐにせよ」とあります。ヘブライ語原典では「叫ぶ声。『<荒れ野に>道を整えよ。干からびた地に私たちの神の公道を(まっすぐに)通せ』」となります。「道を備える/整える」とは、ほんらい王侯の訪れの行列に備えて、その通り道の備えをすることです。共観福音書では七十人訳にしたがって引用されていますが(マタイ3章3節/マルコ1章3節/ルカ3章4~6節)、ヨハネ福音書の引用は、ここでの洗礼者の返答にふさわしく短縮されていて、その上「(道を)<備える>」とある七十人訳の動詞が違っていて、「まっすぐに通せ」となっています。「荒れ野で(叫ぶ声)」には、イスラエルがカナンの地に侵入する以前の「荒れ野で」主ヤハウェを信じていた時代を連想させますから、「昔の純粋な信仰を取り戻せ」という含みがあります。七十人訳の「荒れ野で叫ぶ声」にはこういう意図がこめられているのでしょう。ヘブライ語原典のほうは「荒れ野に道を備える」ですから、これは、捕囚のイスラエルの民が、再び<荒れ野を通って>ユダヤの地へ帰るための道のことです。
 ところで、「道をまっすぐに通せ」とある洗礼者のこのイザヤ書の引用は、12章38~41節で、主の言葉を聞こうとしなかった民へのイザヤ書からの引用と呼応していると見られています。12章の終わりで、イエスのこの世に対する宣教が終わりますから、今回の洗礼者に始まり12章で、ヨハネ福音書の前半(「しるしと栄光」の部)が終わります。だから、イザヤ預言は、「しるしと栄光」の部の始めと終わりとを囲んでいるのです〔マキュウ『ヨハネ福音書』〕。
[24]「遣わされた」という動詞の分詞形は、冠詞のある/なしで、「その遣わされた者たちは」と「(彼らは)遣わされていた」のふたとおりの読みができます。したがって、「彼らはファリサイ派から遣わされていた」"Now? they? had been sent from the Pharisees."[NRSV]という読み方と、「ファリサイ派から遣わされた(ファリサイ派の)者たちもそこにいて~」"Some Pharisees who were in the deputation asked him."〔REB〕という読み方とが可能になります。後の読み方だと、祭司やレビ人とは別個のグループがファリサイ派から派遣されていたことになり、これに対して、前者の読みでは、「彼ら」すなわち19節の「祭司やレビ人」は、ファリサイ派から派遣されていたことになります。
 洗礼者の運動では、サドカイ派とファリサイ派とどちらの派からも洗礼を受けに洗礼者のもとへ来ていたとあります(マタイ3章7節)。洗礼者が、当時のサドカイ派だけでなくファリサイ派からも疑惑の目で見られていたのは確かですから、洗礼者の頃には尋問に来た人たちの間に、ファリサイ派から派遣された人たちがいても不自然ではありません。「遣わされた人たちにはファリサイ派からの人たちもいた」は、イエスの頃と一致しています。したがって、ほんらいは冠詞抜きで、別個のファリサイ派グループがいたことを指しているのでしょう〔マキュウ前掲書〕。
 祭司とレビ人はエルサレムの支配層であるサドカイ派に属していましたから、ファリサイ派から派遣されたとは思えません。したがって、「<彼ら>はファリサイ派から遣わされていた」というのは、イエスの頃にはありえないことになります。
 では、どうしてこのような書き方がしてあるのでしょう?ヨハネ福音書が書かれた90年頃には、エルサレムはローマ軍によって破壊されて(70年)、サドカイ派の支配層は存在していません。その後は、主としてファリサイ派のユダヤ教が存続していて、ファリサイ派とヨハネ共同体とが対立関係にありました。だから、ファリサイ派の登場は、ヨハネ共同体の頃の事情を反映した後からの追加だと見ることができます。このように見ると、ここに登場する「ユダヤ人」には、イエスの当時存在していて、洗礼者を尋問したサドカイ派からの祭司とレビ人たちと、ヨハネ共同体の頃のファリサイ派とが、重ね合わされていることが見えてきます。言わば、30年前後の「祭司とレビ人」と90年頃のファリサイ派が重ね合わされていて、イエスの頃とヨハネ共同体の頃とがダブらせてあるのです。この意味で、ヨハネ福音書がここで言う「ユダヤ人」は、時間的に見れば「時の二重性」を帯びています。
[25]【彼らはヨハネに尋ねた】洗礼者が、終末的なメシアでも「あの預言者」でもないのなら、なぜ終末を迎えるための洗礼を授けているのか?というのが、彼らの質問の意味です。25節は洗礼者の洗礼運動がどのような性格ものであったのかを改めて問いかけていると言えます。
【あの預言者】申命記18章15~18節に「モーセのような預言者が現われる」と預言されています。クムラン宗団は、終末の敵との戦いには「この預言者」が到来すると期待していました(前100年頃から?)。使徒言行録3章22節は、イエスをこのモーセのような預言者に含めており、ヨハネ6章14節/同7章40節でもイエスとモーセとの関係が語られています。「モーセとエリヤ」の組み合わせは山上の変貌(マルコ9章4節)にでてきます。祭司たちが提示した3人の人物は、クムラン宗団が期待する3人のメシア、「モーセのような預言者」「祭司的預言者」「ダビデ的メシア」に一致するという指摘もあります。
[26]~[27]【わたしは水で】「わたし」が強調されています。洗礼者はファリサイ派の問いに直接応えることをせず、自分の水の洗礼よりもはるかに重大な出来事が起ころうとしていることを伝えて、しかも彼らはそのことが分かっていないと言うのです。ここで洗礼者は、水の洗礼と聖霊の降臨とを区別していて、「後から来る方」は「聖霊と火で」バプテスマすると告げています(マタイ3章11節)。
 ただし、洗礼者の頃のユダヤ教では水と霊の二つの洗礼は同一視されていました(エゼキエル書36章25~27節/ゼカリヤ書13章1~2節)。クムラン文書も次のように言います。「神はその時、神の真理によって人間のあらゆる行ないを浄め、人間性を洗い、聖なる霊によってあらゆる邪悪な行為を清めて人の肉の内奥に潜む邪な霊を消滅させる。浄めの水のように、神は真理の霊をそれぞれに振りかける」(1QS.Col.4.20-21)〔DSS(2)121-22〕。水の洗礼と聖霊のバプテスマとが区分されるようになったのは、イエス以後のキリスト教会においてだという説がありますが(使徒言行録19章1~6節)、二つの洗礼の区別は、ここでヨハネ福音書が証言するように、洗礼者にまでさかのぼるのでしょうか。
【立っている】この動詞は完了形で、「あなたがたの真ん中に<しっかりと立っている方が存在している>」ことを強調しています〔新約原典テキスト批評〕。
【わたしの後から来られる方】27節は構文上26節にかかる節の形になっています。"...among you stands one whom you do not know, 27the one who is coming after me... "[NRSV]
(1)これを26節だけで一つのまとまった文と見なし、27節を独立させて読むこともできます〔新共同訳〕。
(2)「わたしの後に来る方」が抜けていて、「・・・・・あなたがたの知らない方がいて、その方の履き物の紐を・・・・・」と26~27節を一つの文とする読み方もあります。
(3)「わたしの後に来る方はその履物の紐を解く価値もわたしにはない」という読み方もあります〔McHugh.?John 1-4. ICC. 122〕。この読みは、「わたし(洗礼者)」と「後から来る方」との時間的な前後関係と、同時に両者の価値の違いを際立たせる内容になります。どれも内容的に大きな違いはありませんが、強調の置き方がやや異なってきます。
【資格もない】共観福音書では「値しない」(ヒカノス)がヨハネ福音書では「資格がない」(アキシオス)と人間的な価値の有無を強めています。また、共観福音書の「履物」は複数なのにヨハネ福音書のほうは単数です。「その方の片方の履物さえ、その紐を解く値打ちもない」という意味でしょう(ルツ記4章7節を参照)。
【履物の紐を解く】これは通常奴隷の仕事でした。転じて弟子が師を敬う姿勢を言うようにもなりました。
[28]ここで「第一日」が終わります。ここのように地理的な指摘で区切りを付けるのがヨハネ福音書の特徴です。
【ベタニア】この場所は10章40節にもでてきます。なお12章1節のベタニアはここのベタニアとは全く別の場所です。「ベタニア」は、ほとんどの写本の読みですから現在でもこれが用いられています〔新約原典テキスト批評〕。
(1)現在、死海からヨルダン川沿いに8キロほど北に先駆者聖ヨハネ修道院(ギリシア正教)があって、伝統的に、そこが洗礼者の洗礼の場所とされてきました。アラム語の「ベト・アイナ/ネ」は「水の家」を意味し、これのギリシア語が「ベタニア」になったのでしょう。
(2)しかし、ここの「ベタニア」には、「ベタバラ」と「ベタラバ」という異読があります〔ギリシア語原典脚注〕。ベタバラは、修道院のやや北で現在のエル・マフタスにあたります(最近の聖地案内では、修道院の南にあたるエイン・ハイラが洗礼の場とされているようです)。
(3)また、「ベタラバ」のほうは、現在でも「ベト・ハ・アラバ」(柳の家)として地名が残っています。ベト・ハ・アラバは、ヨルダン川とエリコの真ん中あたりで、ヨルダン川から8キロほど西にあります。このあたりには幾つも泉があったので、「水の家」「柳の家」などの地名で呼ばれていたのでしょう。「ベタラバ」は、現在に残るこの地名から出ていて、これがもとの「ベタバラ」の代わりに用いられたのでしょうか。
 ここでは、「ヨルダンの<向こう側>」(東側)とありますが、モーセは、ヨルダン川東岸のピスガの山から西方に広がる約束の国を見渡しました(申命記34章1節)。死海の東北端から東へ7~8キロの所にネボ山があり(現在のヨルダン領アル・ファサリの近く)、そこから死海の西北端近くのエリコまで約27キロです。ネボ山から北西に山系が広がっていて、そのどれかがモーセが昇ったと伝えられるピスガ山です(申命記34章1節)。ピスガ山からは、ヨルダン川を挟んで真西にエリコが見えたでしょう。
 洗礼者は「荒れ野」にいて洗礼を授けていたのですが、ヨハネ福音書はそこが「ヨルダンの<向こう側>」という言い方をしています。おそらく、イエスの最初の出発点をヨルダンを渡って民を率いて「約束の国」に入ったヨシュア(「イエス」のヘブライ語)と比較しているのでしょう。だとすれば「ベタニア」という地名は象徴的な意味を帯びていることになります。ヨハネ福音書の作者は、ヨルダンの向こう側の「ベタニア」で区切り、そこからイスラエルの約束の国へ入る新しい旅が始まることを言おうとしてのでしょうか。結論として現在では、死海の真北で、現在のベト・ハ・アラバからエイン・ハイラなどヨルダン川の西側から、対岸の東側を含む一帯が洗礼者の洗礼活動の場であったと推定されています〔バイツァー『聖書大百科』(2013年)269頁地図〕。
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