14章 神の小羊
                     1章29〜34節

■1章
29その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。
30『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。
31わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」
32そしてヨハネは証しした。「わたしは、”霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。
33わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『”霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。
34わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」  
                        【講話】
                     【注釈】

■洗礼者の証し
 ヨハネ福音書というのは、読み返す度毎に不思議な光を放つ文書です。これを読むうちに、御霊の不思議な輝きへと引き込まれていくのを覚えます。おそらくこのような体験は、わたし一人ではないでしょう。言うまでもなく、聖書全体が「み言葉が開けると光が射し出る」(詩編119篇130節)と言えるでしょう。しかし、ヨハネ福音書の場合は独特の意味でこのように言えると思います。それがどうしてなのか、わたしにも長い間謎でした。しかし、今回とりあげる箇所に、どうやらその秘密の鍵のひとつが隠されているようです。その鍵とは、この福音書がイエス・キリストをどのように見ているのかというその視点にあります。神学的な表現を遣うなら、その鍵はヨハネ福音書の「キリスト論」にあります。
 その特徴は、今回のテキストを、共観福音書の語り方と比較するとよく分かります。共観福音書では、洗礼者ヨハネの登場に続いて、洗礼者によるイエス様の洗礼、天からの声とともに聖霊がイエス様に降臨したこと、続いてイエス様が荒野で受ける試練の物語が続きます。ところが、この福音書では、これらが、そのままの出来事としては描かれません。代わりに、これらの出来事が、洗礼者ヨハネの口をとおして、いわば間接的に語られるのです。ここでの洗礼者は、徹頭徹尾イエス様を人々に証しする証人です。「彼は証しをするために来た」と7節にあるとおりです。したがって、共観福音書のように、洗礼者がイエス様の伝道に先立つ先駆者であるという視点はここにはありません。洗礼者は、読者の視点をひたすらイエス・キリスト一人に集中させるのです。それもイエス様の振舞いや出来事よりも、イエス様が<どのようなお方>であるのかを、その内側から、いわば外からは隠されたイエス様の霊的な秘義を深く多重的に伝えるのです。
■犠牲の小羊
 ヨハネ福音書は、今回の所で、イエス様のお姿を、「神の小羊」と「聖霊によって洗礼を授けるお方」と「神の子」の三つの称号で表わしています。「小羊」と言うとみなさんは、かわいい小さな羊の姿を思い浮かべるでしょう。それは、傷つきやすく優しい従順な動物です。
  彼(キリスト)はあなたの名で呼ばれる。
  ご自分を小羊と呼ぶ。
  彼は柔和で穏やかで、
  小さな子どもになられた。
  僕は子ども、あなたは小羊
  僕たちは彼と同じ名前。
     (ウィリアム・ブレイク)
  ブレイクは、ここで、聖書の「小羊」を子供と重ねています。旧約聖書でも「小羊」は、愛しい子どもの姿と重ねられます。ところが、このかわいらしく愛しい小羊は、古代では、神に供える犠牲/生け贄の動物として用いられたのです。羊は、特に遊牧の民にとって、豊かさと繁栄の象徴として、またその従順さによって犠牲に向いていたのでしょう。
 創世記22章には、神がアブラハムに、自分の愛(いと)しい一人息子のイサクを神への犠牲に捧げるよう命じる話があります。アブラハムがイサクに手を下す直前に、神はイサクの身代わりに、雄羊を捧げるように導きます。だから、この雄羊は人間の身代わりとして犠牲にされます。アブラハムにとって、イサクは、ブレイクが歌った小羊のように愛(いと)しい大事な独り子でした。イサクの犠牲は、父なる神が、愛する独り子のイエス様を犠牲に捧げる出来事を前もって示す予型(タイプ)であり(ヤコブ2章21節)、雄羊の犠牲は、イサクが死から復活したことを表わすと見なされています(ヘブライ11章19節)。アブラハムと愛し子イサクの物語は、言わば、神の独り子イエス様の十字架と復活を予め示していたことになります。
 聖書で犠牲の小羊を代表する例としては、「過越の小羊」があります。イスラエルの民が、エジプトから脱出するまでに、神はエジプトにさまざまな災いを下し、最後に「死の罰」を下します。このときに、イスラエルの民は、小羊の血を各々の家屋の鴨居に塗り、その肉を家族毎に食べることで災いを免れたとあります。この出来事を記念するのが過越祭で、ユダヤ教では最も大切な祭りの一つになっています。ヨハネ福音書で、この過越の祭りが大切な意味を持っているのは、この「過越の小羊」が、人間が神に向かって犯した罪への贖罪の犠牲となられたイエス様と同一視されているからです。
 かわいらしい小羊を犠牲に捧げるとはずいぶん残酷な祭儀だと思われるかもしれません。しかし、現代でも、戦争やその他の原因で様々な災害が生じると、災害の「犠牲」にされるのは、強い大人たちではなく、かわいい子どもたちです。わたしたちは、部族間、民族間の紛争とこれによって生じる飢餓状態の中で、罪のない何十万という「小羊たち」が、死んでいったり殺されていくのをテレビなどで見ています。わたしたちは、現在でも、生きた子どもたちを犠牲にしているのです。
 「人間は人間にとって狼」とは、古代ローマのことわざですが、犠牲を必要とするこのような構造こそが人間社会の根元に潜む罪です。この罪性は、「宗教する人」である人間の自己反省や自己努力で解決できる限界を超えるものです。人間にはできないこと、これを神は成し遂げてくださった。神は、人間の罪を取り除くために、神の御子を人間の罪深い存在と同じ姿でこの世に遣わし、そのお方を人間の罪を背負う犠牲の献げ物とすることで、人間の罪を解決してくださったのです(ローマ8章3節)。洗礼者が証しする「世の罪を取り除く神の小羊」が意味するのは、「このこと」なのです。
■受難の小羊
 旧約聖書では、「過越の小羊」と並んで、もう一つ大切な意味が小羊に課せられています。それはイザヤ書53章に現れる「主の僕」としての小羊です。少し長いですが、あえて引用します。
 
  彼は軽蔑され、人々に見捨てられ
  多くの痛みを負い、病を知っている。
  彼はわたしたちに顔を隠し
  わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
  彼が担ったのはわたしたちの病
  彼が負ったのはわたしたちの
    痛みであったのに
  わたしたちは思っていた
  神の手にかかり、打たれたから
  彼は苦しんでいるのだ、と。
  彼が刺し貫かれたのは
    わたしたちの背きのためであり
  彼が打ち砕かれたのは
    わたしたちの咎のためであった。
  彼の受けた懲らしめによって
    わたしたちに平和が与えられ
  彼の受けた傷によって、
    わたしたちはいやされた。
  わたしたちは羊の群れ
    道を誤り、それぞれの方角に迷い出た。
  そのわたしたちの罪をすべて
    主は彼に負わせられた。
  苦役を課せられて、かがみ込み
    彼は口を開かなかった。
  屠り場に引かれる小羊のように
    毛を切る者の前に物言わない羊のように
    彼は口を開かなかった。
       (イザヤ書53章3〜7節。私訳)
 イザヤ書のこの部分は旧約聖書の中でも重要な箇所です。それは、ここに描かれている「彼」が、やがてイスラエルに現れる主から遣わされるメシアの姿だからです。ここに描かれているメシアは、決して堂々としたメシアではありません。人々に軽蔑され、見捨てられたメシアです。しかも、その惨めな姿は、自分のためではなく、「わたしたち」の身代わりとなり<わたしたちの罪を背負った>ゆえの姿です。これは、人々の上に立っ「神の僕」ではなく、「受難の僕」です。彼の受難はわたしたちのためであり、彼の受難によって「わたしたちに平和が与えられた」のです。「わたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた」からです。この主の僕は、自分の受難を堪え忍ぶことによって、わたしたちの罪、すなわち「世の罪を取り除く」ことができるお方になられたのです。
 わたしたちが、このイエス様を、自分自身の罪の犠牲だと認識するとき、ほんらい自分自身が背負うべき罰を背負って、自分の罪を神のみ前に執り成してくださったのが、十字架のイエス様なのだとハタトと気がつくとき、己の内に潜む罪の深さを知るのです。同時に、その罪を根元から解決してくださるイエス・キリストの霊的な命の力が湧いてくるのを覚えるのです。これがキリストの御霊のお働きです。ほんものの「宗教」が、ここから始まります。
■聖霊によってバプテスマする方
 洗礼者はここで、「この方がイスラエルに現れるためにわたしは来た」と告げて、続いて「水で洗礼をしながら」を付け加えています。「水による洗礼」は、罪からの「きよめ」を表わします。それまで神に従わなかった人が、神に立ち帰り、今までのすべての罪が赦されて、新しく生まれ変わって再出発する。洗礼の水は、この出来事を象徴します。
 ところが洗礼者は、自分の来た目的が「この方(イエス)がイスラエルに現われるため」であると語っています。だから、彼の洗礼は、まだ現われない未知のお方を待ち望む洗礼、時間的に見れば、「やがて現われる」メシアを待ち望む洗礼です。31節から33節までを「字義どおりに」読むなら、洗礼者が水で洗礼を授けたのは、イエス・キリストが人々に現れる以前のことです。だから、この方が鳩のように降る聖霊を天から授かった後には、それまでの洗礼者の水の洗礼とは異なる「聖霊による洗礼」が訪れることになります。すなわち、「聖霊による洗礼」が、洗礼者の「水による洗礼」と対照されてきます。だから、洗礼者の洗礼は、厳密に歴史的な視点から見れば、現在多くの教会で、イエス様を救い主として受け入れた人が受けている洗礼とは異なるものです。
 しかし、洗礼者が「イスラエル(の民に現れる)」と言うのは、イエス様が現われる以前のイスラエルの民だけを指すのでしょうか?この福音書を読むヨハネ共同体の人たちは「イスラエル」に含まれないのでしょうか?ここで言う「イスラエルに現れる」は、ヨハネ福音書を読んでいる現代のわたしたちも「この方と出会う」ことを含んでいるのではないでしょうか。「わたしはこの方を知らなかった」とは、洗礼者が、イエス様の洗礼まで「このお方」を知らなかったことです。「神の霊によらなければ」だれもイエス様の本当の姿を知ることができないからです。洗礼者の水の洗礼は、まさに<このこと>を知るためなのです。 
 バルトという神学者が指摘しているとおり、ここで問われているのは「だれが聖霊の洗礼を授ける方なのか」ということです。この基本的な問いをわたしたちの前に据えるとき、ヨハネ福音書が証ししている洗礼者の水による洗礼とイエス様の聖霊による洗礼との違い、あるいは両者の間に横たわる落差が、現在の教会が行なっている洗礼によって克服されているとはとうてい思えないのです。
 マルコ福音書では、「わたしは水で洗礼を」「その方は聖霊で洗礼を」と対照されています。ところがヨハネ福音書では、「わたしは水で洗礼を」「<わたしの知らなかった方>は聖霊で洗礼を」となっています。しかも、この「わたしの知らなかった方」は「あなたがたの知らない方」(26節)なのです。わたしたちは水の洗礼を「知っています」。少なくともクリスチャンならだれでも知っています。しかし、わたしたちは、はたして「聖霊で洗礼を授ける方」を知っているでしょうか。水の洗礼の奥には、「聖霊によってバプテスマを授ける方」がおられて、わたしたちをそこへと招いてくださるのを知っているでしょうか。これがヨハネ福音書がわたしたちに問いかけていることです。ヨハネ福音書が、福音の出来事として、現代のわたしたちに伝えたい大切な問題がここに提示されているのです。
 聖霊による洗礼は、水の洗礼を無効にするものではありません。わたしたちが、与えられた洗礼にどこまでも忠実に従うならば、わたしたちの知らなかったお方に出会い、必ず聖霊のバプテスマに与ることができる。このことをヨハネ福音書は証ししているのです。
■神の子
 「神の子」という称号は、イエス様に与えられるほとんどすべての称号をその中に含めることができるほどの広がりを持っています。したがって、「神の子」について、今回はごく簡単に触れておくことにします。この言い方は、先の二つの称号、「神の小羊」と「聖霊によって洗礼を授ける方」を受けて、これらを締めくくる意味で用いられています。
   わたしはそれを見た。
   だから、この方こそ神の子であると
   証ししたのである。
                (1章34節)
 ヨハネ福音書では、御子と神との親密さが強調されています。イエス様が、聖霊によって洗礼を授けるのは、イエス様とイエス様を信じる人たちとの間に深い「霊的な交わり」が成り立つためです。この交わりは、イエス様を通じて、その父である神との交わりへ人を導き入れるものです。父なる神とその子イエス様が一体となった交わりが、聖霊の働きをとおして、わたしたちを父なる神との交わりへと導くのがヨハネ系文書の特徴です。そこに、神の子を通じて、人と神との交わりが啓(ひら)けるのです。
 しかし、このような親密さは、人間のほうから神を知り、こちら側から神と親しくなるという仕方では語られません。そうではなく、イエス様が神から遣わされた方として、しかも、わたしたちの罪を赦し贖い、わたしたちをイエス様と一つに結ぶことによって、神からの言わば「贈り物」として与えられるのです。わたしたちが神を知ったのではなく、神がわたしたちにご自分を顕してくださるのです。ヨハネ福音書で洗礼者が、イエス様のことを「わたしよりも先におられた」と語らせているのは、このことです。「神の小羊」としてのイエス様は、そもそもの初めから神とともにおられて、神のみもとからわたしたちに贈られてきた方だからです。
 御霊が鳩のように降り、この方に「留まるのを見た」とあります。共観福音書と比較してみると分かりますが、この「留まる」は、ヨハネ福音書独特の言い回しで、イエス様のご臨在が、聖霊となってわたしたち一人一人に「宿る」こと、イエス様を信じ受け入れる人が「だれでも神の子となる資格を与えられる」(1章12節)ことを指しています。ここに、わたしたちを超えた神の「超在」と同時に、その神が、御子イエス様の御霊を通じてわたしたちに「内在される」という不思議を見ることができます。この不思議こそが、ここでの「神の子」が表す意味です。それは、神の側からの人間への深い慈愛の顕れなのです。
■ヘントの祭壇画
 最後に、一つどうしても紹介したいものがあります。それは現在ベルギーのヘント/ゲントにある祭壇画です。実はわたし自身もまだベルギーを訪れたことがないので、この祭壇画を実際に見ていません。これは、ヘントの聖バーフ大聖堂/聖バボ聖堂にあります。この祭壇画は、ファン・エイク兄弟が継続して1432年に完成しました。兄が他界した後を弟が受け継いだのです。祭壇画は二つの扉で折りたたまれています。扉を両側に開けると、真ん中を中心に、両翼を持つ祭壇画が現われます。全体が上下二つに区切られていて、上段の中心に赤い衣をまとったキリストが王笏を持って座しています。三層の冠を頂いていますから、これはキリスト像と言うよりも三位一体の神性を現わすのではないかと言われています。向かって右には、洗礼者ヨハネが聖書を開いてキリストを指しています。左には、聖母マリアが聖書を開いています。右翼の上段には、パイプオルガンを演奏する天使たちがいて、左翼には合唱する天使たちがいます。右翼の端には裸のエヴァが立っていて、反対側の左端には、いちじくの葉で裸を覆ったアダムが立っていて、人間の原罪が上段の全体を囲んでいます。
 下段に目を移すと、真ん中に「神秘の小羊」がいます。その右翼には、修道士たちの一群がいて、さらにその右端に巡礼者たちがいます。左翼には、キリスト騎士団がいて、先頭に白い馬に乗った騎士が描かれています。その左端には、正義の審判者たちがいます。
 この祭壇画の中心は「神秘の小羊」です。中心に祭壇があり、その上に白い小羊がいて、じっとこちらを向いています。小羊の胸からは血が金杯に注ぎ出されています。小羊のはるか上には光輪が広がり、中心に聖霊を現わす鳩が翼を広げ、その光輪を受けて小羊の頭が光の冠をいただいて輝いています。
 小羊の右には、先端にヒソプを付けた槍を持つ天使がいて(ヨハネ19章28〜30節参照)、左側には、T字型の十字架を持つ天使がいます。祭壇を天使たちが囲んでいて、その前に左右に二人の天使がいて香炉を振っています。その下の中心には噴水が立っていて頂点に天使がいます。三段の噴水からは、命の水が、宝石を散りばめた水盤に注ぎ出されています(ヨハネ黙示録22章1節)。
 祭壇の小羊と天使たちを中心に、左右に分かれて二つの人の群れがおり、さらに奥に、左右に分かれて人の群れがいます。前方の右にいるのは十二使徒で、その後ろに教会の聖職者たちがいます。左側にはユダヤの預言者たちが旧約聖書を読んでいて、その後ろに異教の文人たち(ウェルギリウスなど)非キリスト教徒たちがいます。奥の右側には女性の殉教者たちが棕櫚の葉を持っていて、左側には殉教した男性の聖職者たちがいます。
 扉を閉じると、下段には洗礼者ヨハネと使徒ヨハネが左右に立っていて、その両側には、この祭壇画を寄進した商人夫妻が左右にいて手を合わせています。中段の右に聖母マリアが、左に天使ガブリエルがいますから、これは受胎告知の場面です。
 これ以上の説明は控えますが、この祭壇画は、中世ヨーロッパの宗教観を現わす最高傑作と言われています。キリスト教の宗教観を代表するとさえ言えるでしょう(祭壇画は、インターネットで「ヘントの祭壇画」「ファン・エイクの神秘の小羊」で検索して見ることができます)。
                                  ヨハネ福音書講話(上)へ