【注釈】
■1章
 今回を含めてここまでに、イエスは(1)先在のロゴスであり(2)神の小羊であり(3)聖霊を与える方であると証しされています。(3)を除くと、共観福音書の洗礼者から、このようなイエス像は証しされません。だから、ヨハネ福音書の洗礼者とそのイエス像はこの福音書の作者の創出だという説がありますが、むしろ、ヨハネ福音書は、共観福音書の洗礼者の証しを「解釈している」と言うほうがより正しいでしょう。それは、洗礼者のメッセージの「終末性」(マタイ3章7~12節)をさらに深めていると言えます。ヨハネ福音書は、旧約聖書の終末と裁きの伝承に基づいて洗礼者の証しを洞察し、そこから「キリスト教的な」洗礼者像を生みだしたのです。ヨハネ共同体は、洗礼者宗団から参与してきた人たちへ向けて洗礼者とイエスのつながりをこの神学によって論証しようとしたのでしょう〔ブラウン『ヨハネ福音書』(1)〕。
[29]【その翌日】ヨハネ福音書には、共観福音書のように、洗礼者がイエスに洗礼を授ける場面がでてきません。しかし、ここの「その翌日」は、イエスが受洗した次の日を示唆するとも考えられます。読者は、イエスが洗礼者からすでに洗礼を受けていること知っているのです。なお、洗礼者が「見て言った」の原文は「~見るそして言う」(現在形)です。
【見よ】この言い方は、人が天的な啓示を受けた時に発する言葉で(1章36節/同47節/19章27節)、これの起源は旧約聖書にさかのぼります(サムエル記上9章17節「見よ。この人だ」)。
【神の小羊】この世を裁く小羊の終末での顕現は、共観福音書の洗礼者の言葉にふさわしいと言えますが(ルカ3章7~9節/同17節)、洗礼者が、到来するメシアに「受難の僕」像を抱いていたかは疑問です。しかし、「荒れ野の声」がイザヤ書40章3節からでているのなら、「神の小羊」がイザヤ書53章7節の「小羊」につながるのは不自然でないでしょう。主の僕と聖霊とのつながりはイザヤ書61章1節にあります。だから「神の小羊」はイザヤ書から出た終末的なメシアの表象で、世界の悪を滅ぼす「イスラエルの王」を意味します(ヨハネ黙示録7章17節/同17章14節)。ただし、ヨハネ福音書の原語は「アムノス」(小羊?)で、ヨハネ黙示録では「アルニオン」(子羊?)です。この違いは、内容よりも著者の違いから来ると思われます。問題は「神の小羊」が表わす意味ですが、以下に三つの解釈をあげておきます。
(1)終末に顕れて世の悪を滅ぼす「黙示的な小羊」(ヨハネ黙示録5章6~10節)があります。ヨハネ黙示録との関係で見るなら、「刺し貫かれた小羊」(ヨハネ黙示録5章6節)、小羊の歌(同15章3~4節)、「命の水の源である小羊」(同7章17節/同22章1節)、「その血で諸民族を贖う小羊」(同5章9節)などがあげられます〔ブラウン『ヨハネ福音書』(1)〕。この小羊像はユダヤ黙示思想から出ています(例えば『第一エノク書』90章38節の「黒い雄牛から変貌して白い羊の群れを導く黒い角の指導者」)。
(2)「受難の主の僕」としての小羊像があり、これは、イザヤ書の「苦難の僕」から出ています(イザヤ42章1~3節/同49章1~9節/50章5~9節/特に52章13節~53章9節)。ただし「受難の主の僕」(イザヤ書53章7節)の表象は、七十人訳のギリシア語では「プロバトン」(羊)で、「アムノス」(小羊)ではありません。また、世の罪を<取り除く>ことと、世の罪を<背負う/担う>(イザヤ53章4節/同11~12節)こととは異なるという見方もあります(この違いは「取り除く」の注釈を参照)。
(3)「過越の小羊」という解釈があります〔バレット『ヨハネ福音書』〕。「主の僕」を「小羊」と呼ぶのは隠喩ですが、「過越の小羊」は真正の「小羊」のことです。とりわけヨハネ福音書では、「過越の小羊」が受難のイエス像と結びつきますから、過越の際に小羊の血を塗るために用いる「ヒソプ」(19章29節=出エジプト記12章22節)、イエスの骨が砕かれなかったこと(19章33節=出エジプト記12章46節)なども過越の小羊の傍証になります。ただし、贖罪の捧げ物には雄牛か雌山羊か雌羊が用いられますから(レビ記4章3節/同28節/32節)、厳密に言えば過越の小羊は「贖罪の供え物」でないという見方があり、ここの「小羊」は、贖罪のために朝夕日ごとに捧げられる「雄羊」のことではないかという見方もあります。しかし過越の際に、家々の鴨居に塗った小羊の血によってその民が救われたことと(出エジプト記12章3~8節)、犠牲の捧げ物としての小羊が罪の赦しと救いを現わすこととを厳密に区別する必要はないでしょう。また、「羊」と「小羊」とが並行して用いられても不自然ではありません(出エジプト記12章5節)。
 ヨハネ黙示録(「小羊」が35回ほど〔新共同訳〕)を除くなら、新約聖書では、「小羊」がイエス・キリストと結びついて5回でてきます(1章29節/同36節/使徒言行録8章32節/第一コリント5章7節/第一ペトロ1章19節)。使徒言行録ではイザヤ書53章7節の「主の僕」として引用されています。また「きずや汚れのない小羊の尊い血」(第一ペトロ1章19節)とある小羊にも「過越の小羊」像が反映しています。
 なお、「小羊」を「僕」あるいは「子」の意味に解釈するのであれば、「神の僕/子」の意味になりますから、イザヤ書の「主の僕」と内容的につながります。アラム語の「タルヤ-」には「子ども」と「子羊」の両方の意味があり、「子ども」は同時に「僕」の意味にもなるので、「小羊」が「僕」と結びついたとしても不自然ではありません〔McHugh.?John 1-4.ICC. 133〕。ただし、「神の小羊」はヨハネ系文書だけにでていますから、洗礼者の「神の小羊」が、ヨハネ共同体において初めて「受難の僕イエス・キリスト」を指し示す新たな意義を獲得したと推定されます。なお、東方の正教会(ギリシアやロシアの正教)では「小羊」を「受難の僕」と理解し、西方のローマ・カトリック教会では「過越の小羊」と理解する傾向があるようです〔ブラウン『ヨハネ福音書』(1)〕。
 ところで、ヨハネ福音書にでてくる「世の罪を取り除く神の小羊」が、はたして洗礼者自身の口から出たかどうか?という疑問があります。この点について明確な例証をあげることはできません。しかし、イエス以前のユダヤ黙示思想では、「角が生えた小羊」と「角を持つ羊の主」が出てきます(『第一エノク書』90章6~16節)。この「小羊」と「羊の主」は、羊の群れを貪る禿鷹や野獣と「闘う羊」であり、終末において「征服し勝利する」羊です。ヨハネ黙示録6章5節以下の「小羊」は、この黙示的なメシアの羊から出ていると思われますから、「神の小羊」が、メシアを表わす用語として用いられていた形跡があります〔Beale.?The Book of   Revelation.NIGTC. Eerdmans (1999).351〕。だとすれば、洗礼者が、来たるべき「裁きのメシア」として「神の小羊」を用いた可能性があります。ただし、彼が言う「メシア」は、後の新約聖書で用いられるような幾つもの意味が融合したものとは考えられません。洗礼者からヨハネ福音書にいたるまでには「神の小羊」の形成について神学的な発展があったと見るべきでしょう〔McHugh.?John 1-4.?ICC. 128/133〕。
【取り除く】「取り除く」(アイロー)は現在形ですが未来をも指します。この動詞は七十人訳のギリシア語では、サムエル記上15章25節/同25章28節で「取り除く」と「罪を赦す」の両方を意味します。「罪」は単数でこの世の罪全体を指します(第一ヨハネ3章5節の「罪」は複数で罪深いもろもろの行ないを指す)。イザヤ書53章4節の「担う/背負う」とヨハネ福音書の「取り除く」はやや異なっていますが、七十人訳ではヘブライ語「ナーサー」が「担う」と「取り除く」の両方に訳されています。「罪を取り除く」は、洗礼者の終末的なメシア観にふさわしくないという見方もありますが、「取り除く」ことは「滅ぼす」ことをも含んでいます(第一ヨハネ3章5節と同8節を比較)。
[30]【わたしが言った】原文は「わたしが言ったのはこの人のことである」で、これが節の冒頭に来ます。「わたし」が強調されていますが、これは1章15節とほぼ同じす。共観福音書は、洗礼者とイエスとの時間的な違いをはっきりさせますが、ヨハネ福音書では、時期/時間よりもイエスの優越性を表わしています。
【わたしの後から来る方】原文は「わたしより先に存在していた人がわたしの後から来るであろう」です。神からの使者でも、主あるいは主に代わる方(メシア)の到来の時を知らないのです(マラキ書3章1~2節を参照)。ただし、ここで洗礼者が言う「方(人)」とは、「すでに復活したイエス・キリスト」のことではありません〔McHugh.?John 1-4. ICC. 134〕。洗礼者は、ここでエリヤのことを指していたのではないかという説があります。そうだとすれば、弟子たちがイエスにエリヤのように火で焼き尽くすことを求めた理由も理解できます(シラ書48章1~3節/ルカ9章52~56節)〔ブラウン『ヨハネ福音書』(1)〕。
【わたしよりも先にいた】問題は、このような言葉がはたして洗礼者の口から実際に出たのか?という疑問です。おそらく洗礼者が言う「来たるべき方」とは、ほんらいマラキ書3章1節で預言されていたとされるエリヤを指していたのでしょう。この信仰が、イエスこそエリヤであるとする信仰へ受け継がれたと見ることができます(ルカ9章52~56節にはエリヤ像が反映しています)。マルコ9章12節が「苦難の主の僕」としてのエリヤを指すとすれば、「神の小羊」=「受難の僕」=エリヤという図式が想定されます〔ブラウン『ヨハネ福音書』(1)〕。ヨハネ福音書の洗礼者の言葉はマタイ福音書のそれと共通するところがありますから(マタイ3章14節)、さかのぼると共観福音書と共通する伝承から出ているのでしょう。しかしここでも、ヨハネ福音書は共観福音書のイエスの洗礼の出来事を解釈し直しています。
 おそらく洗礼者宗団は、洗礼者がイエスよりも「先に来た」ことをもって、洗礼者の優位性を主張したのでしょう。これに対してヨハネ福音書は、イエスが洗礼者よりも<遅く来た>ことが劣っていることにはならない。なぜなら、イエスは洗礼者よりも「先に」存在していたのだからと答えるのです。なお、ヨハネ福音書で「先在」は次の箇所にでてきます(1章1~2節/同15節/同30節/8章58節/17章5節)。イエス・キリストの先在についてはローマ16章25~27節とコロサイ1章26節「世の初めから世世にわたり隠されていた神の神秘」をも参照。
[31]【わたしは】原文は「わたしもまた/そしてわたしは」 "I too/And I"です。この箇所で、3回でてきますが、「わたし」を強めるためです。「わたし(洗礼者)だけが、イエスが神の小羊であることを啓示された」の意味でしょう。
【知らなかった】洗礼者がイエスを「知らなかった」とあるのはマタイ福音書とヨハネ福音書だけです。エリヤは「隠れて訪れるメシア」だと考えられていましたから、これもほんらいはエリヤのことかもしれません。ここでの洗礼者の言葉を字義どおりに受け取るなら、洗礼者はイエスの受洗の時まで、イエスを知らなかったことになります。しかし、ルカ1章39~45節によれば、二人は幼児の頃から知り合っていたことになります。ヨハネ共同体もルカ福音書のこの伝承を知っていたとすれば、ここで洗礼者が言う「知らなかった」は、イエスが「先在の神の子」であることが分からなかったという意味になります。洗礼者自身も、イスラエルに現われるまでは、荒れ野に一人いたこともこの節と関係するのでしょうか(ルカ1章80節)。
【イスラエル】ヨハネ福音書では「ユダヤ」がイエスと対立する意味を含むのに対して、「イスラエル」は善い意味で用いられています(1章47節/同49節)。
【現れる】ヘレニズム世界では形容詞「明らかな」(ファネロス)が一般的に用いられていますが、これの動詞「現われる/顕れる」(ファネロー)はヘレニズム世界には見られない造語です。七十人訳でも一度しかでてきません(七十人訳エレミヤ書40章6節「わたしは自分自身を彼らに<あらわそう>」。新共同訳ではエレミヤ書33章6節)。ところが新約聖書では、動詞が50回以上でてきます(ローマ1章19節/コロサイ1章26節/第一テモテ3章16節など)。特に第一テモテ3章16節の「キリストは肉において現われた」は、ヨハネ福音書のここの用法に近いと言えます。なおここでは、「現われる<そのことの>ために」となっています。洗礼者の証しは、「ナザレのイエス」が、歴史的な人としてイスラエルに現われて、神の御臨在を「現わす/顕す」ことを人々に知らせるためです〔McHugh. John 1-4. ICC. 135〕。
【水で洗礼を授ける】原文は「<それだからこそ>、<このわたしは>、水で洗礼を授けるために来た」です。「洗礼する」は分詞形で「水で洗礼しながら」イエスを待っていたことです。共観福音書では、イエスが洗礼者から洗礼を受けたことが明記されていますが、ヨハネ福音書ではこれが抜けています。洗礼者の弟子たちにイエスが洗礼者に優ることを証しする際に、イエスが洗礼者から洗礼を授けられたことが障害になっていたのでしょう。そのためもあって、このような証言が洗礼者の口から語られているのです(マタイ3章14~15節も同様)。
[32]【見た】完了形の動詞で、イエスの洗礼の際に生じた出来事は現在でもなお継続していることを表わします。ここで用いられている原語「(留まるのを)観た」は、ヘレニズム世界では不思議なことを知性によって「観る」あるいは「観想する」ことです。ヨハネ福音書では、「肉眼でも見る」ことですが、それが超自然的な認識を伴って顕れることをも含んでいます。
【鳩のように】鳩の<ように>とあるのは、辞義通り「鳩の姿」を見たことです。古代において、鳥は「神の知恵」の表象であって、鳥が誰かにとまるのは「王を選ぶ」印でした〔バルト『ヨハネ福音書』〕。特に鳩はパレスチナでは神聖な鳥と見なされました。ただし、強調されているのは「<誰が>聖霊によって洗礼を授けるのか」という点ですから、洗礼者が「密(ひそ)かに」鳩を見たことによって、「誰が聖霊によってバプテスマを授けるか」、そのことをイエスに「観た」という意味です。
【霊がとどまる】四福音書を比較すると「霊」"The Spirit"がマルコ1章10節=ヨハネ1章32節で、「神の霊」"God's Spirit"が マタイ3章16節で、「聖霊」"The Holy Spirit"がルカ3章22節です。「鳩のように/姿でその人の上に降る」は四福音書共通です。「天から」とあるのはヨハネ福音書のみです。しかしヨハネ福音書だけは、イエスの洗礼そのものに触れていません。ヨハネ福音書はまた「天が開けた」ことも「天からの声」も、その言葉についても語りません。また、「その人の上に<とどまる>」はヨハネ福音書だけです。 特にここ33節の「霊が留まる」は、イザヤ書11章2節「その上にヤハウェの霊がとどまる」を反映していると思われます(七十人訳では「神の霊が休らう/とどまる」)。だからこの「霊」が、後半の「聖霊」を指すことが分かります。
[33]【聖霊によって洗礼する】マタイ3章11節=ルカ3章16節では「聖霊と火によって」です。聖霊の注ぎは「救い」をもたらしますが、火は「裁きと浄め/焼却」を表わします。「火」とあるのは後からの追加ではなく、ほんらい洗礼者の言葉にあったのでしょう。これに対してマルコ1章8節=ヨハネ1章33節は「聖霊によって」で、しかもどちらにも冠詞がありません。新約聖書では「聖霊」は通常冠詞を伴って用いられますから(マタイ12章32節/同28章19節/マルコ13章11節など)、無冠詞の「聖霊」は、ユダヤ教ほんらいの「聖なる霊」の用法にやや近く、ヤハウェによる「創造的な命の働き」という原義をも保持しているのでしょう〔マキュウ『ヨハネ福音書』〕。「(聖なる)霊と火」→冠詞なしの「聖霊」→冠詞付きの「聖霊」→ヨハネ福音書独特の「助け主」(パラクレートス)のように、聖霊観がイエスの霊として人格化し内在化していく過程をここに読みとることができます。「聖霊の洗礼によって、水の洗礼が押しのけられ<取って代わられる>のではなく、聖霊による洗礼によって水による洗礼が立ちもすれば倒れもする」〔バルト『ヨハネ福音書』〕。
【聖霊】ここでは先の「<霊>が鳩のように降る」とある箇所を念頭に置いています。ここの「霊」はマタイ3章16節では「神の霊」であり、ルカ3章22節では「聖霊」です。欧米では不幸にして、「霊」を 「肉体」と区別して「精神と肉体」"spirit and body"のように二元論的に見る傾向があります(日本でも明治以後にはこの傾向が強い)。しかし、ヘブライ語「ルアハ」は、ほんらい「動く大気」から出ていて、「風」「息」「霊」を同時に意味します。この場合、「霊」の中に「息」と「風」の二つの意味が含まれていると見るほうがいいでしょう。「息」は人を含む生物の個体に宿り個体から発しますが、「風」は個体の外にあって、しかも外から身体的に働くのを体感することができます。だから、「霊」には、ほんらい人間の個体の内に宿るものと、外から人に向かって働くという両方の意味が含まれていることに注意してください。これは七十人訳のギリシア語「プニューマ」でも同じです。だから、これの動詞「プネイン」は風などが「吹く」ことです。七十人訳の創世記2章7節「命の息」は「プノエーン(息)・ゾ-エース(命の)」と名詞形です。
 したがって「霊」は、目に見えませんが確かに体感できるものです。また「霊」は、人の「外部から」来ることがあります(サムエル記上16章14~23節/列王記上22章21~23節/列王記下2章9節)。「霊」は、外部的に働くだけでなく、人の内面にも宿ります(創世記26章35節「悩みの霊」/イザヤ書66章2節「霊の砕かれた人」)。この点で日本語の「気」に近く、「天気」「大気」のように外部的であり、同時に「気分」「元気」のように内面的です。「気合い」などは、内部的であり同時に外部的な働きを指しますから、主観と客観とが一つになる主客一如の世界です。
 この「霊」が特に創造主である神と結びつく場合には、それは「神の言葉」と同一視されて(サムエル記下23章2~3節)、神の預言者たちを通して、あるいは神の霊を受けた聖なる書物を通じて、歴史を導き、人類を教い、神の言葉を啓示します。旧約聖書では「神/主の霊」と呼ばれますが(創世記1章2節/詩編33篇6節/イザヤ書11章2節/同48章16節/ミカ書3章8節など)、新約ではこれが「聖霊」になります。特に「主の日」と呼ばれる終末には、神の霊の大傾注が起こり、歴史への神の介入が生じると預言されていました(エゼキエル書36章26~27節/ヨエル3章1~2節/使徒言行録2章17~18節)。
 ダニエル書の時代以後には、神はイスラエルにその霊を遣わして預言者たちに語らせることはせずに、もっぱら律法によって民を導くとされるようになりました(第一マカバイ記4章46~47節)。しかし、前135~63年頃にかけて、神は再びイスラエルに聖霊を遣わしてくださるという期待が高まり始めて、『ソロモンの詩編』や『第一エノク書』の「たとえの書」では、終末での聖なる霊の降臨が待望されるようになり、終末における「人の子」の到来が待ち望まれるようになりました(『第一エノク書』62章5節)。
 1章32節/33節で、「聖霊」が洗礼者の口から証しされるのは、このような時代背景から来ています。神の創造の御霊が、地上の人々と自然界に臨んで、人を神の聖性と義の世界へ導くと信じられたのです(ルカ1章67~79節)。ただし、この段階では、「聖霊」は、後のキリスト教会の教義にある三位一体の第三の位格(ペルソナ)のことではありません〔McHugh. John 1-4. ICC. 136-38.〕。
[34]【わたしは見て証しした】原文は「わたし<も>観たので証ししている」です。?「観た」も「証ししている」も完了形ですから、洗礼者の証しそれ自体が完了して、その証しがヨハネ共同体の時まで継続していることを意味します。
【神の子】現在ここは「神の子」と読むのが一般的です〔原典新約テキスト批評〕。しかし、ここを「神に選ばれた方/子」と読む異読があり、現在でもここを「神に選ばれた方」と読む著名な学者たちが多くいます(ハルナック/シュナッケンブルク/ツァーン/クルマン/エレミアス/ボワマール/ブラウン/バレット)〔McHugh.?John 1-4. ICC. 141〕。英訳聖書では"the Son of God"。?欄外に?"God's chosen one" [NRSV]/"God's  Chosen One"〔REB〕。その理由は、「神の子」のほうが、イエス以後の教会ではより一般的ですから、「神に選ばれた方」→「神の子」と移行するほうがより自然だと考えられるからです(その逆は不自然です)。「(神に)選ばれた方」は、黙示的文書にしばしば表われていて(『第一エノク書』39章6節など多数)、パレスチナのユダヤ教では、特に世の初めから先在していて、終末に顕現する審判者かつ救い主を意味しました。だからイエス在世当時のパレスチナで、洗礼者がこの用語を用いるのはごく自然です。ちなみに第一ペトロ2章4節には「神に選ばれた方(石)」とあり、ルカ23章35節に「もし神のメシアで、選ばれた者なら」とあります。1章34節でもこの読みを採れば、イザヤ書42章1節にでてくる主に「選ばれた者」で、主の霊が与えられ、「暗くなる灯心を消すことなく裁きを導き出す」メシア預言と一致します。もしもこの読みを採るならば、1章19~59節には、「神の小羊」「神に選ばれた方」「ラビ」「メシア」「神の子」「イスラエルの王」「人の子」など、イエスに与えられる七つの称号がすべて出そろうことになります。
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