15章 最初の弟子たち
1章35〜42節
■1章
35その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。
36そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。
37二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。
38イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」と言うと、
39イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。
40ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。
41彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。
42そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた。
■イエス様に従う
今回の箇所には、「ついていく」「従う」が3回繰り返されています。「従う」とはイエス様の<弟子になる>ことです(8章12節)。弟子になるとは、イエス様と「共に居る」ことです(12章26節)。イエス様と共に居るなら、イエス様の行なわれた業を自分も行なうように仕向けられます。自分も行なうとは、ほかの人の真似ではなく、ほかに誰も行なっていない仕方で、自分だけの道を歩むことです(21章22節)。
共観福音書では、イエス様が「わたしに従いなさい」と言われると、シモンとその兄弟アンデレが、漁師の網を捨ててイエス様に従ったとあります(マルコ1章16〜18節)。現在ではこれが、その人の職業を捨ててイエス様にお仕えすること、すなわち、牧師や司祭など、教会の聖職者になることだと解釈される場合が多いようです。しかし、ヨハネ福音書にはそのような聖職への示唆はなく、ただイエス様と共に「泊まり」、その下に「留まる」ことだけが求められるのです。共観福音書にある「網を捨てる」は、網よりもイエス様を<選ぶ>ことですから、もしも人が、自分の仕事/職業よりも、<まず>イエス様を選ぶならば、その人はイエス様の召命を受けて、イエス様に従う者です。召命とは、イエス様がその人にお与えくださる仕事ですから、その仕事を常にイエス様のために用い 、仕事を通してイエス様を顕すならば、後はイエス様が導いてくださいます。「まず、神とその御国を求めなさい」(マタイ6章33節)とイエス様が言われたのはこのことです。
■人が人を人に導く
洗礼者は、ふたりの弟子と一緒に立っていて、イエス様を目にして証しします。ふたりの弟子は、洗礼者の証しを聞いて、イエス様について行きます。彼らには、まだ何一つはっきりとは見えていません。何を問うべきか? それさえも分からずについていくのです。洗礼者の証しが意味することも、イエス様がいかなる人かも、ついて行く弟子たちには少しも明らかでないのです。それでも、洗礼者の言葉を「信頼して」ついて行った。信仰とは、イエス様に「ただついて行く」ことから始まります。
するとイエス様は、振り向いて彼らを見て言われます。「何を探し求めているのか?」彼らは答えます。「先生、あなたはどこに宿っておられますか?」(1章38節)。これはイエス様の寝所を尋ねているのではありません。イエス様というお方が、ほんとうに宿っておられる場は、いったいどこなのか? こう尋ねているのです。するとイエス様は言われた。「来て見なさい」(1章39節)。これが「答え」です。原語でわずか三語です("Come,and see.")。考えたり、思い悩んだり、学んだりする前に、先ずイエス様についていく。するとイエス様が振り向いて(顧みて)くださる。そこで、イエス様と顔を合わせるのです。とにかくイエス様を見れば分かることがたくさんあります。そしてイエス様のお言葉を聞くのです。イエス様のお顔を仰ぎ、イエス様のお言葉に耳を傾けるなら、人はイエス様の「み姿に接して」、イエス様を信じるようになります。ついていく者には、だんだんと、そのお方が分かります。
そして、共に歩む歩みの中で、自分の問いを見出し、自分なりの答えを見出すのです。人生は一人で歩むべきものではなく、二人で歩むべきもの、四国のお遍路さんが言う「同行二人」(どうぎょうににん)です。従ううちに、必ず、イエス様の「御栄光を観る」ようになります(2章11節)。やがて彼も、洗礼者のように、人をイエス様に導く証し人になるでしょう。こうして、人が人を人に会わせる連鎖が生じるのです。「わたしたちは、メシア(キリスト)に今出会った」(1章41節)と。
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