【注釈】(1)
■奇跡物語集
 イエスのことを語り伝える文書や口伝には、イエスの言葉を集めたイエス様語録(Q文書)もありましたが、そのほかに、イエスの行なった奇跡を伝える「奇跡物語集」、イエスの十字架刑の様子を伝える「受難物語」などがあったと考えられています。今回のカナの奇跡は、この「奇跡物語」から出ています。イエス様語録は、比較的知的な階層の人たちの間で成立したと思われますが、「奇跡物語集」のほうは、おそらく、素朴なユダヤ人キリスト教徒たちの間で語られた伝承を編集したもので、イエスの受難後10年くらい経って、40年代にできたと想定されます。
 「奇跡物語集」もイエス様語録同様に、現在文書として残っているわけではなく、その存在が確認されているわけでもありません。四福音書の本文批評を通じて推定されているものですから、このような物語集が資料として存在したと想定されるだけです。マタイ福音書やルカ福音書と違って、ヨハネ福音書には、イエス様語録が資料として用いられた形跡がありません。しかし、奇跡物語集は、ヨハネ福音書を構成する大事な資料だと考えられます。
 フォートナは、ヨハネ福音書が二段階の編集を経ていると見て、本文を分析しましたが、同時にこの福音書が奇跡物語によって構成されている点にも注目しました。彼はヨハネ福音書の奇跡をそれが行なわれた場所に応じて二種類に大別します。
〔A〕(1)2章のカナの奇跡(新しい時代へのしるし)。(2)4章の役人の息子の癒やし(イエスを信じるためのしるし)。(3)6章のパンの奇跡(聖餐のしるし)。(4)6章の水の上を歩く奇跡(イエスが共にいるしるし)。以上の四つがガリラヤでの奇跡です。
〔B〕これに対して、(5)5章のベテスダの癒やし(救いのしるし)。(6)9章の盲人の癒やし(光のしるし)。(7)11章のラザロのよみがえり(復活のしるし)。これら三つはエルサレムで起こった奇跡です〔Fortna.?The Fourth Gospel and its Predecessor. (1988)48-49.〕。
 これらの「しるし」を章の順番に沿って見ると、(1)(2)ガリラヤ→(5)エルサレム→(3)(4)ガリラヤ→(6)(7)エルサレムのように構成されていて、ガリラヤとエルサレムとで交互に「しるし」が与えられる構成を採っているのが分かります。ヨハネ福音書には頁の入れ間違い(錯簡)があったのではないかと言われていますが、フォートナによれば、そうではなく、地理的に見ると不自然なガリラヤとエルサレムとの交互の場面転換は、ヨハネ福音書の編者による意図的な「しるし」構成から来ていることになります。
■カナ物語の編集
 カナの奇跡物語の編集過程は、ブルトマンなどによって考察されていますが〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕、ここでは、フォートナに従って、想定された原物語と編集部分(【 】の部分)を紹介します〔フォートナ前掲書〕。(  )は、もとの形なのか、編集なのかが確かでない部分です。
 
 【三日目に、】(ガリラヤの)カナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、母が【イエスに、「ぶどう酒がなくなりました」。イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」】召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。そこには、【ユダヤ人が清めに用いる】石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。【このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、】花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」イエスは、この最初のしるしを行なって【ガリラヤのカナで、その栄光を現された】。それで、弟子たちはイエスを信じた。
 
 もとの奇跡物語は、素朴な信仰に基づいていて、イエスが実際に行なったこととして語られています。しかし、ヨハネ福音書の編者は、これらの奇跡をイエスがメシアであることの「しるし」と見なして、奇跡に象徴性を与えて、それが<霊的な出来事>であることを示そうとしています。だからヨハネ福音書では、奇跡が単なる霊能の業ではなく、イエスが神から遣わされたメシアであることを「開示する物語」へと変わるのです。このために、ヨハネ福音書では、奇跡の場面は、やや間接的に描かれていて、しかも、共観福音書のように驚きや不思議を与えた様子もなく、比較的静かな雰囲気で語られます。従来カナの奇跡は水がぶどう酒に変わる奇跡に注目が集まり、さらにヨハネ福音書の「反ユダヤ人」な性格のために、ユダヤ教を意味する「水」と福音を表わす「ぶどう酒」を対照/対立させて解釈する傾向がありました。しかし、2章~4章は、7章以下に見られるほど「反ユダヤ人」なところが見られません(神殿の浄化の記事を除く)。フォートナが指摘するように、4章までは、ヨハネ共同体とファリサイ派ユダヤ教との対立が激化する以前の、本来のヨハネ福音書伝承が生きているのではないかと思われます。だから、「水」から「ぶどう酒」への変化も、洗礼者とイエスとの対比を表わしていて、両者の対立関係ではなく、一方から他方への<移行>だと見るほうがいいようです。カナの奇跡物語は、内容的に見れば3章22~30節の洗礼者(花婿の友人)とイエス(花婿)の対比へとつながるのでしょう。
■テキストを読むこと
 カナの奇跡が、何を意図して語られているかをめぐって、様々な説があります。しかしここで、聖書に限らず、一般にテキストを「読む」とは、どういうことなのかを考察したいと思います。どのようなテキストも、必ず三つの要因を具えています。(1)テキストの送り手、(2)テキストそれ自体、(3)テキストの受け手、この三つです。送り手とテキストは、密接に関係しますが、ちょうど絵画や音楽などの芸術作品のように、できあがった作品は、その段階で送り手を離れて「一人歩き」を始めます。だから、送り手とテキストそれ自体は区別しなければなりません。ヨハネ福音書で言えば、「送り手」はヨハネ福音書の作者と編集者です。「テキスト」は現在のヨハネ福音書の本文です。「受け手」は、ヨハネ福音書ほんらいの読者たちだけでなく、現在のわたしたちをも含みます。
 テキスト本文を「調べる」とは、単にそこに語られている事実関係や背景を分析し考察することだけではありません。これら三つの要因のどの部分をどの程度テキストの解釈に取り込むのか? 三者のこの配分を見極めることがとても大事です。送り手と受け手は、テキストを仲介にして出会い、語り合います。これら三つが総合されて、ある理想的な配分に到達した時、そこに「調和」(ハーモニー)が生まれます。するとその解釈は、調和によって美しい音楽のように、その「調べ」を奏で始めるのです。これが言葉のほんとうの意味で「調べる」ことです。このような調べは、ちょうど楽器の幾つかの弦のように、それぞれが適切な配分/割合/比率で響かなければ不可能です。その比率こそ、ratio(計算/割合/思慮/理性/理論)の働きであり、ratio を支えるreason(理性)の働きです。だから「理性」とは、コンピューターがやるような論理や計算だけでなく、オーケストラの指揮者のように、音楽を奏でるように働かせるものです。これは、人間だけができる「理性」の最も大事な働きで、わたしたちが聖書を解釈する場合も、これら三つの調和がとても大切になります。今述べたことに従って、カナの奇跡への解釈を整理すると、次のように三つに分別することができましょう。
■作者の意図
【水からぶどう酒へ】
 この物語で最も注目を惹くのは、イエスによって「水がぶどう酒に変わった」という奇跡です。この奇跡をどのように解釈するにせよ、ヨハネ福音書の作者の意図が、この点に一つの焦点を当てているのは間違いありません。ここでは、「ユダヤ人の浄めの習わしに従って」水瓶が置かれていたとあります。このことが意味するのは、水瓶の「水」が、<ユダヤ教の水による浄めの儀式/慣わし>を象徴していることです。イエスは、この「水」を「ぶどう酒」へと変えることによって、自分が神から遣わされたロゴスの受肉であることを顕したことになります。だから、福音書の作者の意図は、地上での「イエスの霊性」が、従来のユダヤ教(浄めの水)から喜びのぶどう酒へと大きな転換をもたらしことを証しすることです。これこそイエスを通して顕される栄光の「しるし」だからです。これを言い換えると、ユダヤ教のきよめの祭儀が、イエスの霊的人格によって<置き換えられる>ことです。
 カナの奇跡に続いて、エルサレムの神殿が、復活したイエスの「からだ」によって置き換えられます(2章19~21節)。仮庵の祭りでは、エルサレム神殿での雨乞いの水が、イエスの与える御霊の「命の水」によって置き換えられます(7章37~38節)。エルサレム神殿の燭台は、イエスが照らす「世の光」によって置き換えられます(8章12節)。
 このように、ユダヤ教の祭儀をイエスの来臨によって置き換えることで、そこに新しい時代が到来したことを示すのです。だから、ぶどう酒の奇跡は、「新しい創造」を顕すものです。ただし、カナの奇跡には、直前の1章にでてくる洗礼者との関わりがありますから、この点で、ヨハネ福音書のほかの奇跡とはその意図するところが違っています。
【メシアの婚宴】
 「水」から「ぶどう酒」への変容は、この奇跡の場である「結婚の宴会」と結びついています。「婚宴」は、メシアが「歴史的に到来した」ことを証しする場になります〔ブラウン『ヨハネ福音書』(1)〕。メシアの到来が「結婚の宴」で象徴されるのは、旧約聖書から新約聖書へ受け継がれた伝承です(イザヤ書54章4~8節/同62章3~5節)。
 メシアの到来は、クムラン文書では、パンとぶどう酒による「メシアの宴会」としてでてきて〔『会衆規定』(Ⅱ)17~21節〕、これが新約聖書にも受け継がれます(マタイ8章11節)。とりわけカナの物語は、結婚と宴会が一つになる「婚宴の場」の出来事です。福音書では「神の国」の到来が婚宴の譬えで表わされます(マタイ22章1節以下/同25章1節以下)。特に婚宴は、ぶどう酒と結びついています(マルコ2章19~22節=マタイ9章15~17節=ルカ5章34~38節で)。洗礼者の断食とイエスのぶどう酒の喜びが対比/対照され、「新しい革袋」に入れる「新しいぶどう酒」は、従来のユダヤ教に代わるイエスの福音の象徴なのです〔バレット『ヨハネ福音書』〕〔ブラウン『ヨハネ福音書』(1)〕。このように、「水からぶどう酒へ」の変容とメシアであるイエスの来臨がもたらす「婚宴」の喜び、この二つは、重なり合ってカナの物語を支える作者の意図です。
■本文の意義
【復活の週】
 洗礼者の自分についての証し(1章19~28節)に始まって、洗礼者によるイエスへの証しがあり、続いて弟子たちの入門が語られて、「三日目に」カナの婚宴が来ます。すでに指摘したように、この期間をヨハネ福音書の日数で数えると、婚宴が六日目にあたります。「三日目」が復活の日を象徴するとすれば、カナの奇跡は、イエスが最終的に到達した栄光の姿を予兆していることになります。
 しかし、ここの「三日目」が復活を象徴するという解釈は、必ずしも自明ではありません。もしもヨハネ福音書の作者が、「三日目」によってイエスの復活を象徴しようとしたのなら、より明確な指標が必要でしょう。こういう解釈は、テキスト本文からは読み取ることができますが、はたしてこれが、福音書の作者の意図したことなのか確かでありません。だから「三日目」は、これに先立つ弟子入りの出来事に続く日という意味以上に出るものではないという見方もできます〔キーナー『ヨハネ福音書』(1)〕。これは、作者の意図とは直接かかわりなく、本文それ自体が、読者に提示する読み方が存在することを教えてくれます。だから、この解釈が「正しい」のか、単なる偶然の結果なのか、あるいは作者が意図しない「誤解」なのか、これを判断することができません。テキスト本文には、このように、作者の「巧まざる結果」が表われることがあります。筆者は、これも一つの解釈として、これを全面的に退けることができないと思います。
【イエスの母】
 カナの物語で注目されているもう一つのモチーフは「イエスの母」です。ヨハネ福音書の作者は、イエスたちが婚宴に加わる前に、まずイエスの母を置いてから(2章1節)、これに加えるかたちで、イエスとその弟子たちを配置しています。ヨハネ福音書では、彼女は決して「マリア」とは呼ばれず、常に「イエスの母」と呼ばれます。ここでの「母」の役割とイエスとの関わりは、後述するように、カトリックとプロテスタントの間で解釈が食い違ってきました。しかし、最近では、両者の違いは埋められつつあるようです〔ブラウン『ヨハネ福音書』(1)〕。
 今回の「しるし」の場でも、イエスの母への愛情が示されています。「母」は、息子イエスに向かって、ぶどう酒が尽きた事態を執り成そうとします。同時に彼女は、父以外の誰かがイエスに命令することができないのを知っています。ヨハネ福音書での「母」の登場は、ここと19章の十字架の傍らだけです。19章で「イエスの母」は、「イエスの愛する弟子」に引き取られます。そこの「母」は、信じる者たちの共同体、すなわち「エクレシア(教会)」を象徴するという解釈があります〔ブラウン『ヨハネ福音書』(1)〕。
 今回彼女は、イエスから「女よ」と呼びかけられます。この呼びかけには、堕罪した第一のエヴァに対応する「第二のエヴァ」として「女」が示唆されているという解釈があります。この「女」は、罪を贖う第二のアダムである御子イエスと対(つい)を成しています。ただし、こういう予型論(タイポロジー)的な解釈は、エイレナイオスやテルトゥリアヌスなど、キリスト教の2世紀後半以降の解釈です。
 カナの「母マリア」は、十字架の下での母マリアへつながり、ヨハネ黙示録の「女」とも共通する点が多く見受けられます。(1)どれも「女」と呼ばれます。(2)創世記のエヴァとつながり、「産みの苦しみ」を味わいます。(3)創世記3章15節の「女の子孫」は、メシアだけでなくキリスト教会全体をも指すと解釈されています。こうして、カナ物語の「女」は、「マリア」であり、「メシアの母」であり、「教会の象徴」という見方が生じることになります。ただし、ヨハネ福音書で強調されているのは、マリアがエクレシア(教会)の象徴だということであって、後代のマリア崇拝とは区別されなければなりません。彼女は、イエスに執り成すけれども、命令はイエスの父から来るのです。また、歴史的に見れば、ヨハネ福音書の「イエスの母」は、メシアの母として「個人」であることを排除するものではありません。
 このような「イエスの母」への解釈は、2章のカナ物語と19章25~27節の十字架の傍らの母とを対応させるところから生じたものです。このように、本文のある部分が、別の部分と対応し比較される時に、一箇所では表わすことができない様々な意義が<本文それ自体から>生じてくるのです。こういう対応関係は、おそらく作者の意図したことではないでしょう。しかし、対応関係が作者自身によって意図したことでなかったとしても、新約聖書、あるいは聖書全体の連鎖の中で帯びてくる意義ですから、見過ごすことができません。人が意図して語る言葉は、その人自身さえ思いもしなかった意義を帯びるからです。特に聖書のように、神の言葉を記録する文書においては、本文の送り手の意図を、本文それ自体が帯びる意義そのものと同一視することができません。この場合、人は、「神の言葉」を語らしめられている器(うつわ)にすぎないからです。
【花婿イエス】
 上の項目では、イエスの母を教会(エクレシア)と関連づけました。しかし、その一方で、カナの奇跡が結婚の喜びを表わす奇跡であることを思えば、その喜びには、花婿、それもイエス自身が花婿であることを示唆しているとも考えられます(3章29~30節を参照)。そうだとすれば、ここに花婿を待ち望む「花嫁なる教会」の姿が浮かび上がってきます。花嫁を待つ花婿像から判断すると「あなたとわたしとは何の関わりがあるのか?」というイエスの言葉も、親しみをこめた母への愛情とは少し違う意味が読み取れましょう。先に述べたように、カトリックでは「母としての教会」を重視するのに対して、プロテスタントでは「花嫁としての教会」を重視する傾向があります。なお、母なる教会と小羊イエスの花嫁なる教会の関係は、ヨハネ黙示録の12章1~2節の産みの苦しみにある「女」と同19章7~8節の小羊の婚礼の「花嫁」と対応するのでしょうか。
このような「花婿としてのイエス」という読み方は、ここでの作者の意図かどうか確かでありません。こういう解釈は、ヨハネ福音書の「本文それ自体が」創り出すつながりから生じるからです。さらに言えば、花婿をヨハネ黙示録の小羊と関連させ、エクレシアをその花嫁として対応させるのは、聖書全体を一つのまとまった文書として扱う時に初めて見えてくる解釈です。
■読者の受けとめ方
【聖餐】
 古代の教父たちは、カナの物語の「ぶどう酒」が教会の聖餐を象徴していると解釈しました。しかし、ヨハネ福音書では、聖餐が具体的な形で語られていませんから、この解釈は、直接ヨハネ福音書の本文が証しすることではありません。またヨハネ福音書の作者の意図だと見ることもできませんから、2世紀以降に生じた解釈だと考えられます。
【ディオニューソス神話】
 ディオニューソス(日本名は「ディオニュソス」)は、ほんらいギリシア北部のマケドニアとその東のトラキア地方の神で、女性によって崇拝されていました。この神がギリシアに入りギリシアの神になりました。
 ディオニューソスは女神ヘーラーによって狂気(マニア)を送り込まれますが、その彼が、ぶどうの樹を見つけたカミです。地中海沿岸のあらゆる場所を訪れますから、ぶどう酒の伝わる所にディオニューソス(別名バッコス)も伝えられたことを物語っています。ローマに渡った際のラテン名は「バックス」(Bacchus)で、英語名は「バッカス」です。バッカスはジョゥヴ(Jove)/ジュピターの息子です。
 ディオニューソスは自分を受け入れない者に狂気(マニア)を送り込みます(現在の「マニア」の語源)。そのマニアは「伝染」(エピデミ)します(伝染病「エピデミック」の語源)。狂乱に取り憑かれた男性(バッケイオス)も女性(バッケイア)も、しばしばディオニューソスの生け贄/犠牲にされます。
 ディオニューソスは常に仮面をかぶって現われます。このため彼は、全く正反対の二つの性格を帯びることになります。アッティカ(現在のアテネの地域)に入ったディオニューソスは、「慎み深く忍耐強い神となり、温情ある寛大な神」に変じます。狂気をもたらすぶどう酒は、これを水で割ることによって、適度の強さになり、医療や祝いの酒に変じます。こうして、ぶどう酒は神への御神酒(おみき)になります。ディオニューソスがテーバイからアテナイへ向かうのに応じて、仮面の下に隠されていたもう一つの顔、人間を祝福し益をもたらすぶどう酒の神がその顔を見せ始めます。ぶどう酒は人間を狂わせる「悪い働き」から、これを水で割ることで適度に用いるなら、人間に益を与える「文明の神」に変じました。
〔ヘレニズム的解釈〕
 20世紀の半ば頃までは、カナの奇跡の背景にディオニューソス神話が存在しているという見方が有力でした〔ブルトマン『ヨハネの福音書』。原書は1937年~41年〕〔G・S・スローヤン『ヨハネによる福音書』鈴木脩平訳(1992年)〕。けれども現在では、このような見方は後退しています。しかし、ここで注意したいのは、ヨハネ福音書が、小アジアのエフェソなど、ヘレニズム世界の人たちによって読まれる場合に、ギリシア的な文化に親しんでいた読者が、ヨハネ福音書のカナの奇跡の背後に、上に述べたようなディオニューソス神話との類似性を見出すのはごく自然なことです。
 絵画でも音楽でも、芸術作品は、一度これを作り出した作者の手を離れると、作品それ自体が一人歩きを始めて、時代や地域によって、原作者が思いも及ばなかった意味を帯びるようになります。これと同じように、聖書の本文も、作者の手を離れると、福音書記者のほんらいの意図とはかかわりなく、時代と地域によって、様々な読み方を可能にして、その結果無数の新たな意味や意義を生み出すようになります。
 このカナの奇跡も、そのような解釈を可能にするよい例です。ヘレニズム世界のクリスチャンたちは、水をぶどう酒に変えたイエスの奇跡物語を読む度(たび)に、かつてディオニューソスの神が自分たちの世界で行なっていたことが、今や新しい意味を帯びて、「イエスの奇跡」として、それまでのディオニューソス神話に「取って代わる」働きをするのを見出したことでしょう。だから、この意味からすれば、カナの奇跡は、ヘレニズム世界のディオニューソス神話を後にして、新しい時代の訪れを迎えていると解釈することができたと思われます。このように、聖書本文ほんらいの意図を離れた意義づけもまた、その時代、その時、その地域とそこの文化によってもたらされた「御霊の働き」による聖書解釈の一つであることを忘れてはならないのです。
 ■カナ物語と洗礼者
 3章22~30節の洗礼者とイエスとの関係を表わす記事は、ほんらい1章34節の洗礼者の証しに続いていたと考えられます。したがって、洗礼者によるイエスへの証言→洗礼者の弟子がイエスの弟子になる→カナの婚宴へ、というつながりから見れば、そこに洗礼者による水の洗礼からイエスのぶどう酒による喜びへという移行を読み取ることができます。
 ヨハネ福音書の前半部は、後のユダヤ教とヨハネ共同体の対立<以前の段階>にあった始祖ヨハネによる伝承がそのまま保存されていると見ることができます。この見方だと、エッセネ的な傾向があった洗礼者の「水の洗礼」からイエスの「霊的な喜びのぶどう酒」への移行が、クムランのメシアの宴からイエスの到来を祝う宴へと移行するのとうまく重なります。
 洗礼者の「花婿の友人」としての証言と、カナの奇跡とが重なると、洗礼者による洗礼を受けてから、独立して伝道を開始するまでのイエス自身の霊性の推移をうかがわせる貴重な伝承が見えてきます。ヨハネ福音書は、洗礼者とイエスとを対照させるよりも、むしろ両者の結びつきを重視しています(3章29節)。洗礼者とイエスとを花婿とその友人だと見なそうとする意図は、ヨハネ共同体に、洗礼者の弟子だった人たちがいたことと関連します。それは、洗礼者から洗礼を受けたイエス自身が、洗礼者による裁きと浄めの洗礼から、悦びの聖霊へと移行した経過があったことを推測させてくれます。
 ユダヤ教の教団と厳しい対立関係にあったヨハネ共同体が、このような奇跡物語をなんの伝承的な根拠もなく「創出した」とすれば、それは直ちに当時のキリスト教諸教会からだけでなく、ユダヤ教側から厳しい批判を招いたでしょう。カナの奇跡物語は、イエスとその家族と弟子たちが、婚礼の宴に招かれたという事実と、その際の御霊の働きから生まれたと想定するほうが、創出説よりも適切です。そこで起こったイエスの霊的な働きによる結婚の悦びの宴こそが、この奇跡物語の発祥の起源なのです。
 このような霊的な出来事は、これを歴史的な客観的な「史実」として記述することができません。だから、ヨハネ福音書の奇跡物語は、そのまま「史実」ではありません。記述された出来事がそのままで歴史的な事実だと考えてはならないのです。なぜなら、それらの記事は、ナザレのイエスを通じて起こった聖霊による<霊的な出来事>を伝えようとしているからです。聖霊にある出来事を<歴史的な>出来事として客観的な言語で記述することはできません。霊的な出来事は「水をぶどう酒に変える」とあるように、比喩的象徴的な言葉でしか伝えることができないからです。
                 戻る