17章 カナの奇跡
                2章1〜11節
■2章
1三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。
2イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。
3ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。
4イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」
5しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。
6そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。
7イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。
8イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。
9世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、
10言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」
11イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。
                     
【講話】
                   【注釈】(1)
                   【注釈】(2)
■お酒と宗教
 昔、美濃の国にたいそう親孝行な息子がいました。父親が病気でしたが、その息子は貧しかったので親になにもしてやれませんでした。そこで、神様にお願いしますと、山の奥にある滝の水を汲んできて、それを飲ませなさいというお告げを受けました。そこで息子は山の奥にある滝の水を汲んで来て父親に飲ませると、それがおいしいお酒に変わっていました。
 これはわたしが少年の頃に聞いた伝説で、現在の岐阜県養老郡にある「養老の滝」にまつわる話です。この伝説はお能でも演じられていて、そこでは、滝の水は病気に効く霊泉とされているそうです。古代では、酒は薬用としても大変貴重な飲み物であったことが分かります。ちなみに天正天皇は、この霊泉の発見にちなんで、年号を「養老」(717〜24年)と改めました。伝説が歴史になったのです。この話にもあるように、お酒は「百薬の長」と言われて、古くから大切にされてきました。お酒はお米と並んで神事には欠かせない飲み物です。御神酒(おみき)とお供え餅は、西洋のぶどう酒とパンにあたります。
 ところが、もう一方で、酔っぱらい運転あり、酒の上での喧嘩ありで、酒にまつわる悩みは絶えることがありません。度が過ぎると中毒になってしまいます。祭りの時にはお酒が欠かせませんが、これが過ぎて羽目をはずすと人々に大迷惑をかけることになります。どうもお酒には、良い面と悪い面が分かち難く結びついているようです。
 お酒のこのような性質は、実は宗教と似たところがあります。宗教にも、酒に酔うように、なにかに「酔う」ということがつきまといます。ある種の恍惚状態、英語で「エクスタシー」と言いますが、これが伴わなければ宗教としては未だ不完全だとわたしは思っています。それは、宗教が人間の心の深いところと結びついていて、日常の世界では現われてこない世界が、宗教によって開かれるからです。しかし、宗教でも、自分の世界に陶酔して熱狂状態になると、自己の世界に閉じこもって、ほかのものを一切排除する傾向に陥ることがあります。こうなると宗教は争いの原因になります。残念ながら、現在も宗教的な争いが絡む紛争が世界のあちこちで起こっています。お酒にも「良い酒」と「悪い酒」があるように、宗教にも「良い霊酒」と「悪い霊酒」があるようです。やっかいなのは、この二つが分かち難く絡み合っていることです。
■御霊のお働き
 かつてエディンバラに留学していた時に、ウイスキー通の友人に薦められて極上のウイスキーを味わったことがあります。イエス様のくださる御霊のぶどう酒は、たとえて言えば、極上のウイスキーみたいなところがあります。軽くて決して悪酔いしない。とてもさわやかで体も軽くなった感じがします。もっとも、初めてこの霊酒を(思い切って!)味わうときには、かなり激烈な体験をします。聖霊体験は、人により場合によってずいぶん違いますから、わたし個人の体験を一般化することはできません。カナのぶどう酒は、終末でのメシアの到来を喜ぶ祝宴のための霊酒だと言えます。このぶどう酒の「酔心地」が、どのようなものなのか。カナの霊酒の味を読者の方にもぜひ味わっていただきたいものです。
 イエス様の御霊の働きは、第一に、自分自身の内に本来宿っているものが露出した、というよりも、わたしたちの存在を超えたところから「訪れてくる」もの、という感じがします。神が人に個人的に顕現することを、英語で"visitation"(訪れ)と言います。その人に本来属するものではないが、その人の根元に人格的に働きかける力、これが御霊の働きだと言えます。自分に本来具わっているものではないという意味で、人間の心の奥に潜む霊力が生(なま)のまま放出される状態とは異なります。
 だから第二に、御霊の働きは、本来自分に具わった性質をそのまま無条件で発散させたり露出させたりしません。その理由は、人間が宿す罪性にあります。人間の生(なま)の性質をそのまま露出させたり噴出させたりすると、恐ろしい結果を招くことを御霊が知っているからです。御霊の働きは、人間の奥に潜む根元の罪を露呈させますが、御霊には、その罪を照らしてこれを照破し、我欲の罪業を赦しで覆い、その上で、これを解消する働きがあります。
 第三に、このように、御霊の働きは、人間の自我を人格的に変容させます。聖書では、これを「新しく生まれ変わる」こと、すなわち「新生」と言います。「熱中」とか「夢中」には、人の意志や理性でコントロールできないところがありますが、イエス様の御霊の働きにあっては、人間の意志や理性が大切な働きをするのです。
 第四に、御霊は、全人格的に働きます。全人格的に働くのは、イエス様の御霊がわたしたちの理念や思想の「知的な」営みだけでなく、全身全霊で感じる体験だからです。それは、個人に働きかけますが、その心身が、このためにコントロールを失うことはありません。だから、なにかに「取り憑かれる」ことではありません。聖書の言う聖霊とは、「イエス様ご自身の御臨在」が働く人格的な交わりの霊性だからです。
■神話とイエス様
 神話の神々は、人間に具わるある種の性質をそれぞれに表現しています。ギリシア・ローマ神話のマルス(闘いのカミ)も、ヴィーナス(性愛のカミ)も、ダイアナ(処女性のカミ)も、ディオニューソス(熱狂のカミ)も、地上のどこかに実在した人物(キャラクター)ではありません。それらは、いつの時代でも、どこにでも存在する「無」時間的な人間性の「タイプ」を表わすからです。
 これに対してイエス様は、地上の特定の時に特定の場所に実在した歴史上の人物(キャラクター)です。ですから、イエス様は、人間の性質の一部分を表現した比喩的(神話的)な存在ではありません。肉体を具えたわたしたちと変わらない全人格的で全身体的な存在なのです。イエス様は、人間の部分的な性質を表象として表すものではなく、全存在的な人間であること、それが無時間的な存在ではなく、歴史の中に実在した人物であること、この二つの点で、ナザレのイエス様とギリシアや日本の神話のキャラクターとは基本的に異なります。
 しかし、イエス様が実在した一人の人物であるのなら、まさにそのゆえに、わたしたちとは別個の存在です。時間も場所も遠く隔たった人として、わたしたちとは、なんらかかわりを持たない存在になります。その意味では、ディオニューソスやヴィーナスのほうが、わたしたちにより身近に感じられます。なぜなら、彼らはわたしたちに具わる性質を具現する表象として「神話的な」人物像だからです。
 では、イエス様は、わたしたちとどのようにかかわるのでしょうか? イエス様が、御霊となって、わたしたち一人一人に具体的に働きかけるのは、イエス様が、歴史に実在した人物であると同時に、それが<復活したイエス・キリストとして>、御霊となって現実に臨在しておられるからです。だから、これを「神話化」と呼ぶ学者もいます。だとすれば、これは「キリスト神話」です。しかし、この「神話」は、歴史上実在したナザレのイエス様に働かれた聖霊が、十字架と復活を通じて現在のわたしたちにも働いてくださるという意味での「神話」ですから、キリスト神話には、ディオニューソスのような神話性だけでなく、歴史的な実在性が含まれてくるのです。「聖書神話」の持つ独特の性格がここにあります。イエス様の御霊が働くとき、わたしたちとは「別の人格として」働くこと、しかもそれが、わたしたちに全人格的に働くこと、これが、わたしたちの実生活の場で具体的な体験として起こるのです。
■キリストに「酔う」人
 「クリスチャン」とは、ほんらい「キリストに酔う」人のことです。イエス様に「熱中する」人のことです。ですからこれは「キリスト・マニア」です。このように言うと、クリスチャンは、ディオニューソス的な存在だと思うかもしれません。ところが聖書では、この状態を「イエス様と共に死ぬ」と言い表わすのです。そうなると「水杯」に近くなります。水杯は、死ぬ覚悟で交わすものです。イエス様の内に己を投げ込んで、「イエス様と共に死ぬ」。そこまでいくと、「キリストに酔う人」になる。「水がぶどう酒に」変わるのです。イエス様に言われて、召使いたちは、水を水瓶に溢れるまで入れました。イエス様と共に死ぬところまで「水をいっぱいにした」。するとそこに、すばらしい酔心地が開けてくる。これがカナのぶどう酒の不思議です。なんだかコジツケみたいな解釈ですが、聖書の「読み取り」と「読み込み」とは、必ずしもはっきり区別ができませんから、こういう解釈も許されると思います。
 わたしはイエス様の「御霊に酔う」ことが、イエス様の福音の核心だと思っています。しかし、こういう御霊の信仰は「熱狂主義」と呼ばれて警戒される傾向が、残念ながら日本のキリスト教にもあります。「熱狂主義」か「水杯」か。ディオニューソスかユダヤ教の水瓶か。お酒を飲む「異教」か、素面(しらふ)の「キリスト教」か。どうやら日本のクリスチャンは、この両方の狭間で混乱しています。いったい、なにが正しいのでしょうか?この問いへの正解が、今回の奇跡物語に含まれています。イエス様が水をぶどう酒に変えてくださる。これがカナの奇跡の「しるし」の指し示す方向です。
 イエス様の御霊は、神からの「知恵の御霊」とも言われますが、「知恵の御霊」の一番大切な働きは、わたしたちひとりひとりをイエス様のところへ導いてくれることです。ちょうどマリアさんが、「この人の言うことは、なんでもそのとおりにしなさい」と言って召使いたちをイエス様に導いたようにです。5世紀の有名な教会の指導者であるアウグスティヌスという人が、このカナの奇跡を次のように言い表わしています。
「神は理由なしに婚礼の席に来られたのではないと考えなさい。奇跡のことは別としても、この出来事自体に、ある神秘が含まれている。わたしたちは、彼〔イエス様〕が入って来て見えない酒で酔わせてくださるよう、戸を叩こう。わたしたちは水であったが、彼はわたしたちをぶどう酒とし、知恵ある者としてくださるからである。わたしたちは以前愚かな者であったが、今は彼の信仰を知る者である。この奇跡の中でなされたことを知ることは、きっと知恵そのものに属しているに違いない」〔『アウグスティヌス著作集』(23)ヨハネ福音書講解説教(1)泉治典/水落健治訳〕。
■新しいぶどう酒
 お酒は、どんなにうまく調節しても、狂乱の酒の本質は変わりません。時々それが、とんでもない方向に「悪酔い」となって噴き出します。なんらかの「酔っぱらい集団」によって、国家が引きずられると、わたしたちは、民族的・国家的な災厄に陥ることになります。ところが、イエス様の酒は、「後から出るもの」なのに「よいお酒」なのです。神様は、わたしたちの国のために、「よいぶどう酒を今までとって置いて」くださった!
 イエス様の福音という酒は、この意味で、全く新しいお酒です。その酒の名前を「神の愛」と言います。これに酔う者は、けっして悪酔いすることがありません。カナの婚礼のぶどう酒は、それまでどこにもなかったものでした。この良質のぶどう酒が、それまでの古いぶどう酒に取って代わったのです。
 聖書は、イエス様の御霊によって読むときに初めて、ぶどう酒の味がします。御霊によって初めて聖書の御言葉に酔うことができるようになります。ヨハネ福音書では、このカナのぶどう酒のように、ユダヤ教の祭儀をイエス様の御霊によって置き換える、ということが、これからもしばしば行なわれます。このようなぶどう酒は、イエス様の十字架による罪の赦しとイエス様のよみがえりと御霊の降臨、これら一連のイエス・キリストの御業によって、わたしたち一人一人の内に成就するだけでなく、民族的な規模においても生じる出来事となります。
■最初のしるし
 カナの物語で、イエス様は「最初のしるし」を行なったとあります。「最初の」しるしとは、ここから、新しい「時」が始まることを指しています。11節に結びとして、「弟子たちはイエスを信じた」とあります。彼らは、イエス様のナニを信じたのでしょう。「栄光」を見て、イエス様の全人格的な御臨在を信じたのです。彼らには新しいぶどう酒が与えられ、新しい「時」が始まります。わたしたちの心身に、イエス様による新しい命が宿り、新しい時代が「始まる」のです。世界が、少しずつ変わり始めます。それは個人個人にも起こりますが、イエス様の御霊の交わりであるエクレシア共同体にも起こります。霊的な「時」の変化は、外からは見えません。ちょうどこのカナの物語のように、静かな奇跡として起こり、確実に進行していくからです。
「一つの世界から他のもう一つの世界へ、一つの時代(アイオーン)から次の時代へと、沈黙したまま容易に往きつ、戻りつ。小さな一団の人々の生は完全に改変されるが、しかしその存在はいぜんと同じ状態のまま進行する。・・・・・何も変わらない。しかしすべてが変わる。・・・・・やがて来るものが今ここにある。あると思えるようなものはもはやない」〔C・G スローヤン『ヨハネによる福音書』鈴木脩平訳〕。これがイエス様の御霊によって生じるわたしたちの出来事です。
 最後に、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』から引用します。これは、主人公アリョーシャが、敬愛したゾシマ長老の葬儀の場で想ったことです。
 「おや?・・・・・なにを読んでいるのかな?<ぶどう酒つきたれば、母イエスに言う『かれらにぶどう酒なし』・・・・・>という言葉がアリョーシャの耳にはいった。『ああ、そうだ、ここのところを聞き逃してしまった。聞き逃したくなかったんだがなあ。僕はここのところが大好きだ。これはガリラヤのカナだ、最初の奇跡だ・・・・・。ああ、この奇跡、ああ、このすばらしい奇跡!その最初の奇跡を現わすにあたって、キリストの訪れたものは、人間の悲しみではなくて、その喜びだった、人間の喜びを助けられたのだ・・・・・。』『人間を愛するものは、その喜びも愛する・・・・・』これは亡くなった長老が絶え間なく口にされたことで、あの方の主な考え方の一つだった・・・・・。 」(小沼文彦訳)
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