20章 御霊の風                          
                          3章1〜15節
■3章
1さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。
2ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」
3イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
4ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」
5イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。
6肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。
7『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたがたに言ったことに、驚いてはならない。
8風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」
9するとニコデモは言った「どうして、そんなことがありえましょうか」。
10イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。
11はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。
12わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。
13天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。
14そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。
15それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」
                     
【講話】
                    【注釈】
■ニコデモと「しるし」
 アウグスティヌスという人は、4世紀から5世紀にかけての西ローマ教会を代表する神学者です。彼は、そのヨハネ福音書の講話の中で、ここでのイエス様とニコデモとの対話を、すぐ前の2章の終わりの節「イエスはご自身を誰にもお委ねにならなかった」に続けて解釈しています。アウグスティヌスは、ニコデモを前回出てきた「イエスの名を信じた」人の一人と見なしているのです。イエス様は彼らに身を委ねませんでした。なぜでしょう? それは、ニコデモが、洗礼を希望する者ではあっても、ほんとうの意味で、イエス様との「霊的な交わり」(コイノニア)の意味を理解していなかったからです。洗礼を希望する人、あるいは洗礼を受けた人は大勢います。その人たちは「キリスト教徒」と呼ばれています。けれども、その人たちは、ほんとうの意味での「キリスト教徒」がイエス様から受け取るべきものを受け取っているでしょうか? こうアウグスティヌスは問いかけたのです。
 この問いかけは、現在でも、アウグスティヌスの時代と同じように、と言うより、なおいっそう切実な問いとして、わたしたちに迫ると言えましょう。すでに洗礼を受けて教会のメンバーになっているクリスチャンも、聖書やキリストのことをなに一つ知らない人も、「クリスチャン」になるとは、イエス様を信じるとは、いったいどういうことなのかを、もう一度考え直してみる必要がありそうです。なぜなら、クリスチャンになることは、「どうして、そんなことがありえましょうか?」とニコデモが思わず問い返したほど不思議な出来事だからです。ここには、イエス様との「霊の交わり」に入るというきわめて大切なことが問われています。「イエス様の霊」は「聖霊」あるいは「御霊(みたま)」と呼ばれています。
 聖書のことをなにも知らない人でも、イエス様が、キリスト教の教祖として偉大な「教師」であること、聖書には神様の教えが語られていて、そこにはいろいろ「ためになること」が書かれていることを知っています。けれども、聖書を読んでイエス様の教えを知るだけなら、「不思議なこと」とは言えません。それだけなら、ニコデモのような驚きは生じません。
 読者の中には、イエス様を信じて病気が治ったとか、ほかにもいろいろな霊的体験を見たり聞いたりした人、あるいは自分でそれを体験した人もいるかもしれません。そういう体験は、確かに「不思議なこと」です。実は、ニコデモも、そういうあなたと同じ状態でイエス様のところへ来たのです。彼はイエス様に言いました。「神が共におられるのでなければ、あなたがなさるようなしるしを、だれも行なうことはできません。」ニコデモは、自分の見知った不思議を「しるし」と呼びました。神が共におられなければ、そういう「しるし」が起こるはずがない。こう彼は思ったのです。彼にも、「しるし」が、イエス様を信じる大きな力になったのです。
 しかし、神が人間と共に居られる「しるし」は、必ずしも「摩訶不思議(まかふしぎ)」でなくてもいいのです。「しるし」をもう少し広く解釈すれば、そのほかにも、「神が共におられるに違いない」とわたしたちに悟らせる「しるし」がたくさんあります。例えば、ヨーロッパの大聖堂に入って、美しいステンドクラスや立派な祭壇や有名な聖画を見ているうちに、「ここには神様がおられるに違いない」という気持ちになります。日本でも、いろいろな宗教団体が、様々な形で大がかりなイベントをやり、多くの人々を集めています。参加している人は、そこに集まる大勢の人たちと、目の前で行なわれる大きな出来事を見て、「ここにはカミかホトケがいるに違いない」という気持ちになります。壮大な合唱や踊りや絵画や儀式、これらも、不思議な体験と同じように、わたしたちを信じさせる「しるし」になるからです。御霊の体験も宗教的な建築や壮麗な儀式も、わたしたちの目や耳や体で感じとることができる、すなわち、五感で体験できます。言うまでもなく、五感だけでなく、わたしたちの理性にも働きかけます。しかし、わたしたちの五感を通じて働く「しるし」の力は、想像以上に強く、わたしたちの理性さえも支配してしまう傾向があるのです。
■ニコデモの発言
  ニコデモは、イエス様に向かって言います。「わたしはあなたが神から遣わされた教師であると知っています。」ニコデモが言う「知っている」は、ユダヤ教のラビたちが、聖書の理解に基づいて、神の言葉を「知っている」という意味です。彼は、自分の聖書の知識と、そこから導き出した彼なりの神学的な判断から、イエス様は神からの教師に違いないと結論したのでしょう。だからこそ、イエス様に向かって「あなたこそ、神から遣わされた教師です」と言うのです。ところが、イエス様の答えは、彼の予想を超えるものでした。そもそも彼は、神の国という霊的な出来事を「知ること」は愚か、「観る」ことさえできない状態にあることが暴露されたからです。彼は、自分の神学的な知識と、自分の聖書理解と、自分の信仰に基づく判断から、確信を持ってイエス様が神からの教師だと考えたのですが、その自分が、霊的な神の国も、これに関わる聖書の言葉も、神の聖霊の事態も、何一つ「知らなかった」のです! 二人の出会いは、先ずこういうちぐはぐな状態から始まります。
■新しく生まれる
 イエス様は、ニコデモが「しるし」を見て自分のところへ来たのを知っていました。しかし、彼の「しるし」信仰を否定はしませんでした。けれども、そのような信仰を肯定もしませんでした。その代わり「新しく生まれなさい」と言われたのです。ニコデモは少し当惑しました。イエス様の言うことが飲み込めなかったからです。彼はイエス様の「新しく」を「もう一度」と受け取りました。そして、自分がもう一度母の胎内に入って「生まれ変わる」ことだと考えたのです。
 これはニコデモの思い違いでした。イエス様は「天の父」によって、肉体の命とは違う性質の霊の命を受けなさいと言われたのですが、ニコデモは、「母の胎内」でもう一度肉体の命を得ることだと考えたのです。この誤解は、ニコデモが、「生まれる」ことを、五感と肉体で知ることのできる「しるし」としてしか理解できなかったからです。
 ただし、イエス様がここで言われる「新しく生まれる」は、人間が別の人間になって「生まれ変わる」ことではありません。近頃は、ここでイエス様が言われたことを「死んでからもう一度生まれ変わる」ことだと解釈する人がいますので、この点に注意してください。ここで言われていることは、いわゆる輪廻転生ではありません。
 イエス様は、先に言われたことを、今度は「水と霊から生まれなさい」と言い換えられました。この「水と霊」にはいろいろな解釈があります。もし読者の中で、これから洗礼を受けようとする方がいるなら、この言葉を「洗礼の水と同時にイエス様の御霊があなたに降る」と理解して、水の「しるし」だけでなく、同時に御霊による「霊水」の洗礼を受けるように祈り求めることをお勧めします。もしあなたが、すでに洗礼を受けたクリスチャンなら、「水の洗礼だけでなく、御霊の洗礼こそ大切」だと理解して、霊的に新しくされるよう祈り求めることをお勧めします。もしあなたが、聖書もキリスト教も知らないで、これを読んでいるのなら、人間は「母の胎から生まれる」だけでなく、御霊によって生まれなければ、ほんとうに意味のある人生を送ることができないと理解し、これを求めてください。
 先に説明したとおり、「しるし」は目で見たり耳で聞いたり体で感じたりするものです。ニコデモはそういう「しるし」に神の存在を感じとったのです。しかし彼は大事なことを見落としていました。それは、不思議な体験であれ宗教的な儀式やイベントから受ける感動であれ、そういう宗教的な体験には、その背後に「ことば」が存在していることです。
■語りかける「ことば」
 ニコデモは、「神のお言葉」を知らなかったわけではありません。それどころか、彼は「イスラエルの教師」として、先祖から伝わる聖書(旧約聖書)をよく知っていたはずです。ところが、彼は、その聖書も、「目で読む」書かれた言葉、「耳で聞く」語られる言葉としてしかとらえていませんでした。読者の中にも、「言葉」を目で読むもの、耳で聞くものとしてしか考えない方がいるかもしれません。しかし、五感で認知できる言葉には、実はその奥に、音となり文字となる前の「ことば」が存在しているのです。わたしたちが聞きとる言葉は、いわばそれらの奥に潜む「こと」(言/事)から発しています。
 わたしたちが何かを言葉に出して語る前に、わたしたちの内には、言葉以前の「ことば」がすでに働いています。人は、それを理性や知性の働きだと考えがちですが、決してそうではありません。その時その場に臨んだとき、自分でも思いがけない言葉が口をついて出る、こういうことがよくあります。言葉は、理性や知性ともかかわりますが、それらを超えたもっと奥の方から働きかける力なのです。
 人間には、言葉が生まれつき具わるとは言えません。人は誰でも言葉を「学ぶ」からです。わたしたちは、すでに存在している日本語なり英語なりの言語の世界に「生まれ」なければ、言葉を語ることができません。自分で言葉をつくったり発明したりできないのです。言葉は、わたしたちがそれを語る前に、わたしという個人を超えた「ことば」としてすでに存在していなければこれを語ることができないのです。言葉は、動物の本能のように生物として生まれながら具わったものではないこと。言葉は、個々の存在を超えていて、目に見えず感覚でとらえることのできない「ことば」として、すでに存在していること。この二つを心に留めてほしいのです。
 イエス様がニコデモに注意をうながしたのも、このことです。ニコデモはそれまで、神からの御言葉を、「しるし」と同じものとしてしか理解していませんでした。宗教現象、特にイエス様の御霊の働きの奥には、感覚で知ることのできない「こと」が存在している。このことをイエス様はニコデモに悟らせようとされたのです。目で見たり耳で聞いたり体で感じることも、広い意味で「言葉」の中に入ります。絵画も音楽も踊りも、わたしたちに語りかける言葉の働きをします。しかし、ここでイエス様は、肉体や感覚に訴えるよりも深い意味で、霊的に語りかける「ことば」が存在することを悟らせたいのです。
 なんだか難しいようですが、そんなに難しいことではありません。実は単純なことなのです。不思議な体験や霊感、そのようなものがなにひとつなくても、立派な聖堂や祭壇や合唱やその他の宗教的なアトラクションがなくても、聖書のお言葉の奥から、神様の語りかけが、これを読んでいる一人一人の読者にすでに届いている「そのこと」に気づいてほしいのです。ただそれだけです。体で感じる体験や、目や耳に訴える宗教的な雰囲気は、人の心を神へ向かわせますから、それなりの意味を持っています。しかし、ほんとうに大切なのは、実はそんなに大げさことではなく、単純に聖書のお言葉の奥から神様の語りかけを聴き取ることだけです。パウロも、同じことをこう述べています。
  み言葉はあなたの近くにあり、
  あなたの口、あなたの心にある。
          (ローマ10章8節)
 あなたは、今、自分の部屋か、学校の図書館か、ひょっとすると電車やバスの中でこれを読んでいるかもしれない。それでも神様の御言葉は、あなたのもとにちゃんと届いているのです。礼拝や宗教的な雰囲気、あるいは不思議を体験しなくても、霊の言葉があなたの心を啓(ひら)く。そういうことが十分ありえるのです。目に見えて、体に感じる「しるし」にあまりとらわれすぎると、かえって神からあなたへの直接の語りかけを聞き逃したり、なにか別のものにすり替えられたりするおそれがあります。ニコデモがイエス様のところへ来たときに、彼はまさにそのような状態でした。だから、イエス様は、彼の「しるし」信仰を否定も肯定もされなかった。その代わり、ニコデモにこう言われたのです。「アーメン、アーメン、わたしは<あなたに語る>」(原文直訳)。
 今回の箇所だけで、イエス様はこの言い方を三度繰り返していますから、この言葉が鍵であると分かります。そうです。イエス様は真実に(アーメン)、今、この言葉を読んでいるあなたの側にいて、<あなたに語っておられる>、こうヨハネ福音書あなたに告げているのです。それは、直接目や耳で、いや、あなたの頭脳でさえも、理解できないかもしれない。しかし、聖書から発する霊波とも言うべき「霊言」が、確かに存在していて、わたしたちに届いていることをヨハネ福音書は伝えたいのです。
■主客一如
 み言(ことば)の光を視る、み言(ことば)の声を聴く、そこからいろいろな体験が始まります。み言が「働く」からです。「神の国を観る」とあり「御霊の声を聴く」とあるように、御霊が働いて「語りかける」と「見えてくる」もの「聞こえてくる」ものがあります。ある人には、祈りとなって働き、別の人には幻(ヴィジョン)となり、またある人には異言となり、あるいは癒しとなり、あるいは預言ともなります。実は、音楽や絵画やその他の美術・芸術を含めて、キリスト教の教会が生み出す宗教文化のもととなるのが、こういうみ言の働きです。様々な奇跡や不思議体験もこれらと同じ根から産まれています。
 こういう不思議体験を、科学的に分析することで、その実態を解明しようとする時代が来るかもしれません。しかし、その場合の「科学的」とは、現在わたしたちが考えている科学とはずいぶん違う意味を帯びると思います。なぜなら、現在一般に考えられている科学は、ある現象を観察する人間がいて、その人(主体)が、自分とは別個の存在である現象(客体)を客観的に観察し分析することで、その現象を成り立たせている理論を導き出すという方法がとられているからです。
 観察する主体(subject)は、観察される対象(object)を、自分から切り離された存在と見なさなければ科学的な方法論は成り立ちません。しかも、その対象は、人間の五感や体験(実験)で認識できなければなりません。このように、主体が対象に実験という方法で働きかけることによって、科学の理論が導き出されます。ところが、人間がこのようにして理論を導き出すときに、どうしても用いなければならないのが「言葉」です。言うまでもなく、ここで「言葉」というのは、数式や科学記号をも含んでいます。人間は自分の考えを言葉で表現しなければなりません。だから、言葉は、人間の科学的な営みそれ自体を成り立たせています。
 先に説明したように、人間の五感や体験で触れることのできる現象は、科学的に解明することが可能です。たとえ不思議と思われる霊的な現象でも宗教体験でも、それが「現象」であり「体験」である限りは、科学的に解明することができます。しかし、それらの現象を成り立たせている根元的な「ことば」それ自体を科学的に解明することは容易でありません。なぜならこの場合、人間は、人間の言葉によって、人間の営みを成り立たせている「ことば」自体を解明しなければならないからです。言葉が言葉を言葉で解明する。ここでは、観察する主体と観察される客体と方法とが同じなのです。「主客一如」の世界です。しかも、主体も客体も静止しているわけではない。宇宙は、時間にあって常に「動いている」からです。したがって、現在考えられている科学の方法では、聖書が伝えようとする「ことば」を解明することができません。
 今までお話したことから分かるように、聖書の「ことば」は、人間の感覚や人間の体験、それどころか、人間の思考そのものさえも、ある意味で「無」の状態において初めて知ることができる「ことば」です。それは、言わば、とらえ<られる>ことによってとらえ、判断<される>ことによって判断し、思考しない状態で思考されます。このような根元の「ことば」を人間が知る行為を昔の人は「悟る」と言い表わしました。それは、「ことば」によって「ことば」を知ることです。パウロはこれを次のように言い表わしています。
   わたしたちがこれについて語るのも、
   人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、
  「霊」に教えられた言葉によっています。
  つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。
                        (第一コリント2章13節)
■御霊の風
 イエス様は、ニコデモの体験と彼の「しるし」信仰を否定も肯定もされませんでした。霊的な現象を体で体験するのは、イエス様の御霊のお働きですから、これを否定したり、このような体験を拒否したりするなら、神様からのせっかくの恵みを無意味なものにする危険があります。しかし、くどいようですが、現象や体験は、神のみ言それ自体ではありません。み言は、現象や体験を生み出し創り出す根元の力ではあっても、それ自体は現象や体験と同じではないからです。
 「御霊の風は思うままに吹く」とイエス様は言われたのはこのことです。現象や体験は、わたしたちに御霊が働くときに生じる「御霊の声」です。御霊の風が吹くときに、音を出すのは風なのか、風に吹かれるわたしたちか。どちらでもあり、どちらでもない。わたしたちは、素直に、無心に、御霊の風に自分を委ねるだけです。「霊風無心」です。御霊の風は、ある時は強く、ある時はかすかに、時には激しく、時には弱く吹きます。今日は東から吹くかと思えば、明日は西から吹きます。このように言うと、御霊の働きはでたらめで、その日その時の風任せだと思うかもしれません。しかしそこには、驚くほど不思議な法則が働いています。自然の風でさえ、決してでたらめには吹きません。季節によって変化しながら、驚くほどの規則性をもって吹きます。御霊の風も同じです。
 風をとらえようとしてもできません。黙って風に「吹かれる」だけです。すると驚くほど不思議な力が働いて、あなたの全身が軽くなるのです。神を知ろうとするのでなく、神に「知られている」ことを察知するのです。するとそこにイエス様が顕れる。ナザレのイエス様とはこういうお方だったのか、と悟るのです。神とイエス様と御霊の風、まさに父子御霊の三位一体(さんみいったい)です。御霊の働きは、その極まるところ決して激しいものではありません。穏やかで静かです。「霊風無心 春風接人」の境地です。
 ニコデモが、イエス様の言われることをどの程度理解できたのかは分かりません。ただ、彼は、自分が今まで学んできた聖書とは違う次元の宗教的・霊的な事態があることに気づいたようです。そこでイエス様に思わずこう聞き返しました。「どうしてそんなことがありえましょうか?」この質問にイエス様が驚いたかどうか分かりません。しかし、イエス様の答えには、驚きの様子がうかがえます。「あなたは、イスラエルの先生なのに、今まで、こんなことさえ知らなかったのか!?」
 神のみ言を聴く秘訣はなんでしょうか? 聖書の知識でしょうか? その人の知力でしょうか? 宗教的能力あるいは霊能でしょうか?いわゆる「信心深い」ことでしょうか? どれも違います。神のみ言を聴く秘訣は、なによりも、それを聴きたいと「祈る心」です。ただ「願望する」ことではなく、今まで知らなかった聖書の御言葉の語りかけに「身を委ねる」心です。14章1節に「神に入信せよ」とあるとおり、神からの働きかけに没入することです。これはある種の「神がかり」状態です。異言、預言、ヴィジョン、エクスタシー、病気が治る不思議など、いろいろな事態が生じることもあります。しかしイエス様は、「神に入信しなさい」に続いて「わたしの内に入信しなさい」と言われるのです。ナザレのイエス様の御名を呼び求め、このイエス様に没入すると、「神がかり」が鎮まり、「愛・喜び・平安」(ガラテヤ5章22節)の霊が訪れます。
 ニコデモが、心から聴きたいと願っていたかどうかは分かりません。もしかしたら、ファリサイ派の議員としての立場とプライドが、それ以上踏み込んで尋ねることを彼にためらわせていたのかもしれません。人間が神の前に自由でいることができるのは、個人として神と向き合っているときです。あなたが、自分ひとりではなく、組織の一員として神に向き合うときには、そのような自由があるとは限りません。その場合、人はたとえ聴きたくても、聴くことができない「事情」に縛られるからです。ニコデモの場合もそうだった可能性があります。なぜなら、イエス様はこう言われたからです。「<あなたがたは>わたしたちの証しを受け入れない。」
■青銅の蛇
 民数記21章には、モーセの率いるイスラエルの民が、荒れ野で火のような蛇に咬まれたときに、自分たちを苦しめている姿そっくりの青銅の蛇を、救いの「しるし」として仰ぎ見ると、蛇の力、すなわち罪の力から抜け出すことができたとあります。イエス様が「天から降られた」とあるのは、罪に染まった我欲の人間存在のまっただ中へと宿るためです。イエス様が「上げられた」のは、どうにもならないわたしたちの罪業を、ご自分の問題として引き受け、わたしたちの罪のための「贖(あがな)い」の犠牲としてご自身を捧げることで、罪を赦し、わたしたちを自我の罪業から救い出すためです。ヨハネ福音書が、ここでの青銅の蛇についてわたしたちに語りたいのはこの事です。
 わたしたちにできることは、かつてイスラエルの民がしたように、自分に咬みつく罪を見ないで、この罪を背負い、十字架でわたしたちの罪の罰を自らに引き受けてくださったイエス様のお姿を仰ぎ見るだけです。罪を自覚するのは大切です。しかし、自覚するのは、救いの「しるし」であるイエス様に目を向けることによってなのです。罪に気を取られることでも、自分の力で罪を取り除こうとすることでも、まして罪をとり繕うことでもありません。素直にイエス様のみ言に聴き入り、これに従って、御霊の導きに己を委ねるだけです。自分を、いわば、イエス様のみ言に「浸す」(バプテスマする)のです。これが御霊の働きです。これが「水と霊で生まれる」ことです。己の罪にとらわれることなく、御霊の風に吹かれるままに素直に生きる、み言の働きかけから、こういう生き方がわたしたちに啓(ひら)けてきます。
 イギリスのロンドンに、セント・ポール寺院があります。この寺院の回廊には、一枚の大きな絵が掲げてあります。そこには、蔦の絡まる古びた家の入り口の戸を茨の冠をかぶったイエス様がノックしている姿が描かれています。イエス様の左手には、明かりの灯ったランプが下げられ、右の手は、閉じられた戸をノックしています。辺りは真っ暗闇で、戸口も蔦で覆われていて、長い間開かれたことがないことを示しています。しかし、イエス様は、その戸口にそっと立って、静かに、何度も戸を叩いて合図を送っています。中にいる人がだれかは分かりません。その人が、ノックの音を聞いているのかいないのかも分かりません。一つだけ確かなのは、その戸を開くことができるのは、外に立っているイエス様ではなく、中にいるその人だということです。その絵の下には、次のように書かれています。
 見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。
 だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、
 わたしは中に入ってその者と共に食事をし、
 彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。
        (ヨハネ黙示録3章20節)
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