【注釈】
■3章の区分について
3~4章全体は、大きく四つに分けることができます。ニコデモに代表されるファリサイ派ユダヤ教徒とイエスとの出会い、洗礼者に対するその弟子たちからの問いかけ、サマリアの女とイエスとの出会い、神を畏れる役人とイエスとの出会いです。それぞれの人物は自分の属する人たちを代表していますが、彼らのイエスに対する反応もまたそれぞれです。
3章だけに限ると、イエスとニコデモの対話(1~21節)と、イエスと洗礼者の関係についてと(22~30節)、天から降った御子について(31~36節)の三つに大別することができます。
さらに、イエスとニコデモの対話部分だけを見ると、導入部(1~3節)で始まり、ニコデモの再度の問いとイエスの答え(4~8節)、三度目のニコデモの問いとイエスの答え(9~12節)という形をとります。二人の対話を内容的に分けると、1~8節は聖霊に関すること、9~12節は証しに関すること、13~21節は「人の子」と「神の御子」に関することです。
ヨハネ福音書では、イエスと相手の人との対話が、いつのまにかイエスひとりが語る言葉へ移行したり、あるいはヨハネ福音書の作者自身が語る言葉になる傾向があります。だから、ニコデモとの対話の場合も、10節以下のイエスの答えがどこまで続くのかがはっきりしません。13節からは「人の子」が登場して、三人称で語られますから、12節までを一つの区切りとすることもできます。しかし、「人の子」を含む13~15節は、12節のイエスの問いを受けて、これを16節以下の「神の御子」へつなぐ働きをしていますから、13~15節は、これに先立つ二人の対話に続くと見て、ひとまず15節で区切ることにします〔新共同訳〕。
福音書の著者ヨハネは、先に、「光と闇」(1章5節)、「モーセとイエス・キリスト」(1章17節)、「水とぶどう酒」(2章9節)、「神殿とイエスの体」(2章21節)のように二つの表象を比較対照させています。「水」「ぶどう酒」「神殿」「青銅の蛇」などは、旧約聖書以来の慣用的な表象ですが、ヨハネ福音書は、すでに慣用になっている表象を新しい仕方で再創造することによって、共観福音書には見られない独特の表象体系を構成しています。このように、既成の表象に新しい意味をこめて、イエスにある霊的な事態を伝えようとするのです。?
■3章と文献批評
20世紀の半ば頃までは、3章では資料的な入れ替えが行なわれているという説が提示されていました。その代表的なものは、3章31~36節を同21節に続けることで、22~30節と31~36節を入れ替えるという提案です。これによって21節から31節へ内容がつながり、30節の洗礼者への言及が4章1節へうまくつながるというのがその理由です。さらに過激な提案として、2章13節~3章10節を12章1~19節の後につないで、神殿からの商人追放とイエスとニコデモの対話が、ベタニアでの香油注ぎとイエスのエルサレム入場の後に続くように配置するという説も出されました。こうすることで共観福音書の神殿の浄化と一致するからです。しかし、このようなヨハネ福音書の資料の入れ替え説は、逆に見直されるようになります。現在では、ヨハネ共同体による編集をそのままの姿で受け入れ、3章で語られている内容それ自体に注目してこれを解釈する傾向にあります〔マキュウ『ヨハネ福音書』〕。
■3章
[1]【ニコデモ】ニコデモはヨハネ福音書だけに登場する人物で、3章1節/7章50節/19章39節にでてきます。回を追うごとに彼がイエスを信じるようになったことが示唆されますが、今回はイエスと彼の「最初の出会い」です。この福音書は、彼を「ファリサイ派に属する人」「ユダヤ人たちの議員」と紹介していますが、彼は、ファリサイ派を代表する人でも、「ユダヤ人」全体を象徴する人でもありません。ニコデモは、この福音書にたびたび現われる「ユダヤ人」とは明らかに異なる性格を帯びているからです(7章50~52節参照)。原語の「ニコデーモス」という名前はギリシア名ですが、当時のユダヤ人の間ではごく普通の名前でした。この人物を福音書の著者による創作と考える必要はありません。著者の資料あるいはヨハネ共同体に伝えられた伝承にすでに彼の名があって、それは実在の人物につながるか、あるいはその人をモデルにしているかもしれないからです。しかし、彼はこの福音書以外に現われませんから、それ以上特定できません。「ユダヤ人の議員」とは、エルサレムの最高法院を構成する71人の一人で、当時のユダヤ社会では最高位の階級の人です。? ところで3章1~2節のニコデモの描写が、洗礼者のそれと類似しているという指摘があります〔水垣渉「覚え書き」「洗礼者ヨハネとニコデモ:ヨハネ3章1節以下の一つの解釈」2013年5月13日〕。水垣氏によれば、1章6節「人が現われた/神から遣わされた/その名はヨハネ」という構文は、3章1節の「人がいた/ファリサイ派からの/その名はニコデモ」と構文的に並行します。ただし、その内容は「神から」と「ファリサイ派から」とが対照的です。さらに1章7節で「彼は/来た/証しのために」とあり、3章2節で「この者は来た/彼のところへ/夜に」とあります。洗礼者が「光について証しするために」(1章8節)来たのに対して、ニコデモは「夜に」訪れるのです。「すべての人が光を信じるために遣わされた洗礼者」と「ユダヤ人の支配者でありファリサイ派からのニコデモ」という対比をこれらの並行した叙述に見出すことができます。これらは、3章22節以下の洗礼者とイエスとの関係へいたる伏線となっているのでしょう。
[2]【ある夜】この福音書では、「夜/闇」は「昼/光」と対照されますから、ここの「夜」も、ニコデモが霊的に暗闇と無知の中にいることを示すという見方があります。またニコデモがほかの「ユダヤ人」を恐れて、わざわざ夜イエスを訪れたという解釈もあります。ただし、ファリサイ派は「夜に」教師から律法を学ぶ習わしがあった(詩編1篇2節参照)とも指摘されています。
【ラビ】ユダヤ教の教師に対する呼び方です。ニコデモはイエスを今までにない新たな律法の教師であり、その解釈者だと見ているのです。イスラエルでは「神の律法」と並行して「神の知恵」も伝統的に重視されてきました。最近の研究では、イエスは、預言者であると同時に「知恵の教師」として人々に知られていたと考えられています。
【わたしども】ファリサイ派では、このように複数形で問答する場合がありました。ラビたちの言う「知っている」は、確かな根拠に基づいていることを意味します。だからニコデモは、イエスの霊能の業が神からの「しるし」だと確信したのです。なお「(あなたがなさっている)そのようなしるし」とあるのは、2章23節にでてくる「しるし」のことでしょう。
【できない】「できる」・「できない」は、今回の箇所に6回でてきますから、ここのキー・ワードの一つです。ニコデモがイエスを律法の教師と呼んでいるのは、イエスが行なっている霊能の業が神から出ていることをニコデモが「知っている」からでしょう。だからニコデモは、自分の聖書の知識に基づく神学的な判断から、イエスが行なっている霊能の業が、神から来ているに違いないと確信してイエスのもとを訪れたのです。
[3]【はっきり言っておく】ここの「アーメン、アーメン」は、それまで述べたことに関連しています。特に「イエスは答えた。『アーメン、アーメン、わたしは~に言う』」は、イエスが尋ねられたことについて答えるときの言い方です(3章3節/5章19節/6章26節/同53節/8章34節/12章24節など)。これに対して、「答えた」がない場合は、通常イエスが先に述べたことをさらに敷衍(ふえん)して説明する際にでてきます(5章24節/6章32節/10章1節/13章16節など)。ところで、ヨハネ福音書では、「<あなたに>言う」と2人称単数への呼びかけは、今回のニコデモとの対話と、ペトロに向かって言うの場合(13章38節/21章18節)だけです。13章38節でのペトロの自信過剰な発言に対するイエスの否定は、そのまま今回のニコデモの自信ある「知っています」に対する否定と重なります。
【新たに】原語は「新しく」(3章3節)とも「上から/天から」(3章31節)とも「初めから」(ルカ1章3節/使徒言行録26章5節)とも訳すことができます。だから、このギリシア語の副詞「アノーセン」は、時間と空間とが一体になった時空一如の内容を含む言葉です。ここでも、「新しく」と「上から」の両方の意味を含みますから、この3節では、イエスが「新しく」の意味で語ったことをニコデモは「再び」の意味に受け取ったのです。
特に今回は、「アノーセン」(上から/新たに)、「フォーネー」(音/声)、「プニューマ}(風/霊)などギリシア語で掛け詞(かけことば)がでてきます。このため、この問答部分は、後代の創出だという意見もありました。しかし、ヘブライ語の「ルーァハ」(息/風/霊)も「コール」(声/音)も掛け詞になります。イスラエルの知恵の教師による問答形式をイエスが採用したかどうか確かではありませんが、ヨハネ共同体内で、イエスの言葉に基づく知恵問答が、ギリシア語で行なわれていて、それが、ここに採り込まれているのかもしれません。。イエスの時代のエルサレムの指導層にはギリシア語を話す人たちが多く、イエス自身も大工の仕事などで、ナザレからそれほど離れていないギリシア風の都市セフォリスなどでギリシア語をある程度使用したと考えられます。だから、このニコデモ伝承もイエスの語り方に矛盾するとは言えないという指摘があります〔キーナー『ヨハネ福音書注解』(1)〕。
【神の国】ヨハネ福音書で「神の国」は、ここ3節と5節だけです。ニコデモ伝承あるいは資料にあったのが、そのままここに用いられたのでしょう。この言い方は、ほんらい天へ昇って「神の王座」のヴィジョンを観ることを意味し、「主なる神が支配する権威」あるいは「その支配領域」を観ることを指します。
16節以下で敷衍(ふえん)されるように、「神の国」は、イエスを通して顕される命へ一人一人を導き入れる神の愛として働きます。この事態は、これを与えられる人には、全く<新しい>霊的な出来事の開示であり啓示ですから、肉眼で見ることができません。ただ神から人に与えられる霊的な洞察を通して、神の国に近づきその存在を悟ることができるだけです〔McHugh.
John 1-4. ICC. 226〕。
なお、5節の「神の国に入る」は、ヨハネ福音書では、未来のことではなく、現在すでに「起り始めている」ことを意味します。ただし、この事態は、必ずしもヨハネ福音書に限られるわけではなく、共観福音書でもパウロ書簡でも、「すでに始まっている」ことと「その事態が終末に成就する」ことは、密接に関連し合っています(マタイ12章28節=ルカ11章20節/マルコ9章1節もこの意味に近い)。
イエスの頃でもヨハネ共同体の頃でも、ファリサイ派は神の国の出現が「未来に」生じる出来事だと信じていました(11章24節参照)。ファリサイ派であるニコデモもイエスの与えるしるしが<将来起こるべき>「神の国」を証ししていると考えたのでしょう。イエスは、彼にもう一歩進んで、<今の時に>「神の国を観る/覚知する」ように勧めているのです(5章24節参照)。
[4]【もう一度】イエスが「上から」あるいは「新に」と言ったのをニコデモは「もう一度」の意味だと取り違えています。イエスは比喩(霊)的な意味をこめて言っているのですが、ニコデモはこれを字義どおりに母の胎から「生まれ変わる」ことだと受け止めたのです。
「新たに生まれる」は、当時のユダヤ教の一派であるクムラン宗団では、洗礼を受けて入団することを指しました。1世紀のユダヤ人の思想家フィロンもまた、モーセが第二の誕生を得るために天の霊界へ昇り律法を受けたと述べています。とりわけ、イエスの頃のファリサイ派では、異邦人が改宗してユダヤ教徒になることを「新たに生まれる」と言いましたから、もしもニコデモが、イエスの言われる「新たに生まれる」を異邦人の改宗者を意味すると受け取ったのであれば、ユダヤ教の教師である彼に向かつて異邦人がユダヤ教に改宗するのと同じことをイエスが要求しているかのように聞こえます。だから、彼はこの言い方をとうてい受け入れることができなかったでしょう。
【母の胎】この福音書と同じ頃の『ヘルメス文書』(13章)には、「母の胎」について、「死すべき胎からは死すべき命が生まれる」と語られています。ヨハネ福音書がここで、直接この言葉を反映しているとは考えられませんが、同じような考え方が背景にあるのかもしれません。プラトンは、その『ファイドロス』で、正しい生き方をした人の魂が、新たな人間の姿で天において「生まれ変わる」と述べています。ニコデモがここで言うことも、一見すると「人間の生まれ変わり」を指しているようにもとれますが、ここで語られている「再び生まれる」をいわゆる「輪廻転生」と結びつけるのは正しい解釈でありません。
[5]【水と霊】
【本文について】5節の本文については問題があり、「水と」が欠けている異読があります。このことから、ほんらいは「霊によって」だけであったのが、後に教会の洗礼に配慮して「水と」を挿入したという説があります。続く6~8節も「水」について触れていないことも挿入説の理由とされています。ヨハネ共同体が「水」よりも「霊」を強調するのは、共同体が同時代のユダヤ教と対立関係にあったこと、またその後期にはグノーシス的な宗団からの影響によって分裂を余儀なくされたことなどから、水の洗礼だけでは不十分で、「霊による洗礼」の必要を痛感したためだという見方があります。だとすれば、ヨハネ福音書の編集者は、ヨハネ共同体が使徒的な教会に参与する際に、使徒的教会の洗礼観に一致させるために「水と」を加えたのでしょうか?
このような見方に対する反論として、異読がごく限られていること、したがって「水と霊」は初期の本文に含まれていたと考えられることがあります。さらに、そもそも「水」を教会の洗礼の水の意味に限定して解釈する必要があるのか?という疑問があります。ヘレニズム世界では「水」は誕生と結びついており、その上、旧約以来の伝承では、「水と霊」が民の新たな霊性の革新を表わす表象であり、新たな神殿の出現が「霊」と「水」とに結びついていることもあげられています(エゼキエル書11章16~20節/同47章1~12節)。したがって、「水と霊」は、福音書の最初期から本文の一部であり、ヘレニズム世界の「水」の象徴を背景にしつつも、「水と霊」には、イスラエルの民と神殿の再生伝承が受け継がれていると解釈することができます。これに、後の教会が、「洗礼の水」という新たな解釈を加えたと見るのが適切でしょう。
【解釈】「水と霊」をめぐって、大きく三つの解釈があります。
(1)この二つの言葉は一つのことを意味していて、「水」は、キリスト教の教会が入信する者に授ける洗礼の水を指し、「霊」は、洗礼を受ける者にこれと同時に授けられる聖霊の宿りを意味する(テトス3章5節参照)。これは、教会の最初期の洗礼に対する一般的な解釈です。
(2)水が「生まれる」ことの象徴とされた背後には、母の胎内にある誕生の水がイメージされています。したがって、「水」は、ユダヤ教でもヘレニズムの宗教でも誕生の象徴として広く用いられていました。だから、ここの「水」を特にキリスト教会の洗礼と結びつけるのは二次的な解釈にすぎないという見解があります。この見方からすれば、人間は先ず母の胎内(の水)から生まれ、その後に聖霊によって「新に」生まれなければならないという解釈が成り立ちます〔ブラウン『ヨハネ福音書』(1)〕。
(3)今一つ、ヨハネ福音書の背景として、当時のファリサイ派ユダヤ教が、ヨハネ共同体を含むキリスト教に対して厳しい弾圧を行なっていたことがあげられます(90年頃)。このためファリサイ派とヨハネ共同体との間に激しい論争があったと思われますから、ニコデモとイエスとの対話にも両派の対立が反映していると見るのです。このような背景に照らしてみると、「水の洗礼」を受けるだけでは不十分で、人はさらに御霊の働きによる「霊の洗礼」を受ける必要があるという解釈が成り立ちます。このように、水の洗礼よりも霊の洗礼を重視するのは、ヨハネ共同体が厳しい弾圧の中で、外的な洗礼よりも内面的・霊的な洗礼の必要を痛感したからだと考えるのです〔新共同訳『新約聖書注解』(1)〕。これだと「水<だけでなく>霊にもよる」という解釈になりましょう。これがヨハネ福音書の作者がほんらい意図していた意味でしょうか。だとすれば、この「新生」は、ヘレニズム世界の人たちやファリサイ派ユダヤ教の人たちの考えている宗教的な儀礼によってもたらされるものではなく、なにかもっと通常の人間性を超えた霊的な変容を指す「新たな生まれ」を意味しています〔キーナー『ヨハネ福音書注解』(1)〕。
【入る】この語は3節の「観る」と同じ意味で用いられていて、「観る」も「入る」も<体験する>ことを指します。しかし、神の国を「観る」ことと、これに「入る」ことを区別して、イエスがニコデモに御国がすでに来ていることを「観る」ように勧めているのに加えて、ヨハネ福音書の編集者は、ヨハネ共同体の読者に「その中へ入る」(原文は"enter into")ように求めているという解釈もあります〔McHugh.?John 1-4. ICC. 227〕。なお、「神の国に入る」では「神の」の代わりに「天の」という異読があります。ほんらいは「天の」であったのが、3節に合わせるために「神の」に変えたという見方もありますが、むしろ「天の」は、マタイ福音書の影響を受けた後からの変更でしょう(マタイ5章20節など参照)。「神の国に入る」という言い方は、ヨハネ福音書ではここだけです。
[6]【肉から~霊から】当時のヘレニズム世界の哲学では、人間の存在を不滅の霊魂と死すべき肉体とに分けて見ようとする傾向がありました。このヘレニズム的な霊魂と肉体の二元論は、イエスの頃のユダヤ教にも、またヨハネ共同体の頃のファリサイ派ユダヤ教にも少なくとも「理解されて」いました〔キーナー『ヨハネ福音書注解』(1)〕。しかし、ここは、そのような「霊魂」と「肉体」の二元的な分離あるいは対立関係を語っているのではありません。「肉」は「肉体」のことではなく、人間の心と体を含む全存在を指していて、この意味での「肉」は、やがて滅びる存在であることを意味します。これに対して「霊」は、そのような肉の人間存在を通して、滅び行く肉のまさにその有り様(よう)の中から、不滅の霊性を<創造する>という神の不思議な聖霊の働きを指しています。ヘブライ語の「ルーァハ」も、ギリシア語の「プニューマ」も、神とその御子から来る聖霊が、人間の現実の存在に働きかけて、圧倒的な力によって、人間の現実の中に不思議な有り様を創り出すことを表わします〔ブルトマン『ヨハネの福音書』の(注)にはこの点についてすぐれた注釈がでています〕。
ただし、パウロ書簡では、「霊」と「肉」が対立的にとらえられていて、「霊」に対して「肉」の罪性を強調する傾向が強いと言えます(ガラテヤ5章17~18節/ローマ8章5~8節)。パウロのこの傾向は、ヘレニズムのストア哲学からの影響でしょう。パウロに比較すると、ヨハネ福音書では、「罪の肉」と「聖なる霊」とが対立する傾向がそれほど強くありません。ヨハネ福音書の「霊」は何よりも<イエスの霊性>を表わします(1章33~34節)。だから、「肉と霊」が対照されているのは、「肉の存在」である人間の弱さ・はかなさと、それにもかかわらず、この肉の人間において生じる霊による「新生」と、そのような働きが、イエスの霊性によってもたらされることの三つが相互に関連し合っています〔マキュウ『ヨハネ福音書』〕。ヨハネ福音書の「霊/聖霊」は、このように、肉の命と霊の命の不思議な(創造的な)相互関係を通じて「まことの命」を創り出す働きをします。イエスを通して啓示される「生ける神の命」こそが、唯一の「真の命」であるというのは、ヘブライの伝統的な生命観を受け継いでいると言えましょう。
[7]【驚いてはならない】教師が弟子に霊的なことを教える際によく用いる言い方です。
[8]【風】ヘブライ語(ルーァハ)もギリシア語(プニューマ)も「風」あるいは「霊」と訳すことができますから、ここでは「風/霊」の二重の意味でこの語が用いられています。なお「その音」とあるのは「その声/霊の声」と同じです。コヘレトの言葉11章4~5節に「風の向きを気にすれば種を蒔けない。雲行きを気にすれば刈り入れはできない。妊婦の胎内で霊や骨組みがどのようになるのかも分からないのに、すべてのことを成し遂げられる神の業が分かるわけがない」とあります。日本語の訳では、七十人訳に従って「風向き」と「(人の)骨組みをつくる霊の働き」とは分けて訳されていますが、ヘブライ語では、両者が内容的につながっています。「風/霊」が、人間の理解を超えた神の御霊の働きを表わす表象として用いられているのです。
【その音】原語「フォーネー」(音/声)は、七十人訳では「神の声」としての「雷」を思わせます(詩編29篇8節)。なお、ヨハネ黙示録14章13節の「声」は「御霊の声」です。先には神の国を「観る」とあり、ここでは御霊の声を「聴く」とありますから、「観る」ことと「聴く」ことが、御霊の世界を悟る大事な働きです。
「どこから来て」(過去)と「どこへ向かう」(未来)のか? これが神の働きによる霊的な出来事の本質です。過去から未来へ向かうその出来事は<現在にあって>のみ体験できる事です。今もなお生きて働く神のみ言(ことば)であるナザレのイエス、このイエスと共に歩むことが、わたしたちに起こる「出来事」のすべてです。
【そのように】原語「フートゥス」を「まるで・・・・・のように」と訳して、ここは「霊」と「風」とを区別しているという解釈もあります。しかし「わたし(イエス)はあなたがたを愛してきた。<そのように>(今回と同じ原語)あなたがたも互いに愛し合いなさい」(13章34節)とあるのは、イエスの愛と弟子たちの愛を区別して、イエスとは異なるけれどもイエスになるべく近い<ように>という意味ではありません。イエスの愛<そのままを>あなたがたの愛としなさいという意味です。だから今回の8節でも「プニューマ(霊風)は自分の好むところへ吹く。プニューマから生まれるものとはそういうものである」の意味に取るべきです。ちなみに「風」と「霊」を区別しながら比較するのは直喩(simile)で、「霊風」のように一つに受け取るのを暗喩/隠喩(metaphor)と言います。
先の「水と霊」についても、これを直喩として解釈すれば、洗礼の水と聖霊の働きを区別する解釈が生じるでしょう。しかし「霊水」として暗喩的に解釈すれば、洗礼の水は<そのまま>聖霊の働きを表わすと受け取ることができます。だから、先にあげた三通りの解釈はどれもそれなりに正しいと言えましょう。ヨハネ福音書は、イエスが<今(あなたに)語っている>と語っているのです。これを受け取る人に生じる事態は理論や教義ではなく<霊的な出来事>です。霊的な出来事は、直喩にせよ暗喩にせよ、その事態を一つの視点からだけでは正しく聴き取る/読み取ることができません。だから幾つかの解釈によって囲まれる<その範囲全体>を多重的に「正しい」と見るのが適切でしょう。
[9]【どうして?】イエスが「新しく生まれる」ことは人間の力でできることではなく、それは御霊(プニューマ)の働きによるから、「人はそれがどこから来るのか、どこへ行くのかを知らない」と語って、「新生」が人間の理性(知性)を超えた不思議であることを証ししています。ここでニコデモに求められているのは、<イエスが神から遣わされている>啓示者であることを悟り、イエスを信じることだけです。しかし、ニコデモに代表されるファリサイ派ユダヤ教の神学は、神の出来事でも、人間の理性による認識の範囲内にあると考えています。だから、ニコデモは、イエスの諭(さと)しにもかかわらず、なおも、なんとか<自己の理解できる領域のこと>として把握しようと問いかけるのです。しかし霊的な出来事は、人間の理論や分析で解明できるほど単純ではありません。自分が下した理性的な判断それ自体によって<逆に自分が判断され裁かれる>という事態だからです。ニコデモはここで初めて、御霊の事態が人間の理性にとって「躓き」であることを体験したのです。この「躓き」の可能性は、後に6章60節で、イエスの話を聞くユダヤ人の間で現実に起こります〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。
[10]【イスラエルの教師】原語には定冠詞がついていますから「イスラエルの正式の教師」という意味で、特に律法学者を指します。イスラエルの教師なら「霊」のことをよく知っているはずではないか、それなのに、あなたはこのような「霊の出来事」を洞察することができないのか?と言われているのです。ニコデモは、イスラエルの教師として、アブラハムの子孫が「神の国へ入る」ことができることを知っていたはずです。だから、アブラハムの子(ユダヤ人)として「生まれる」ことが「神の創造による新生」と結びつくことは、彼にも(そしてヨハネ共同体の相手の「ユダヤ人」にも)理解できるはずです(8章31~40節参照)。しかしここは、神の独り子である<イエスその方を通じて>生まれ変わることですから、この段階でのニコデモは、まだそこまで行かなかったのです。
[11]【知っていること】語るほうも聞くほうも、「わたしたち」「あなたがた」と複数形なのは、作者が、イエスの言葉をヨハネ共同体の語る言葉と重ねているからでしょう。ヨハネ共同体とファリサイ派ユダヤ教との間に行なわれた論争がここの背景にあるのかもしれません。「知っている」と「観ている」は組み合わされて、証人による証言が真実であることを告げる法廷で用いられます(3章32節参照)。なお、11~12節では、相手に「わたしたち」と複数で呼びかけながらも1人称単数「わたし」に戻っています。
[12]【地上のこと】ここで再び一人称の単数が用いられます。天から降ってきたイエス一人が、複数の「あなたがた」を相手に語るのです。「地上のこと」とは「地上で行なわれる神の業」のことですから、内容的に見れば直前の5~8節の「新たな誕生」を指すのでしょう。だから、必ずしも「天」に対して「地」をおとしめているのではありません。「御霊の水」も「御霊の風」もイエスの霊性を顕す暗喩(メタファー)ですから、この事態はイエスからの啓示によらなければ、人知だけではどうにもならないのです。これに対して「天上のこと」とはイエスの復活と昇天以後のことでしょう(6章61~63節/8章28~29節を参照)。
[13]【天から降ってきた者】創造の初めから神と共に居た「知恵」の「聖なる霊」が、天から地上に遣わされて、神の御旨(みむね)を人々に啓示するとあります(箴言8章22~31節参照)。このようにヘブライの伝統では「知恵」がしばしば擬人化(人格化)して用いられました。イスラエルのこの「知恵の御霊」は、ダニエル書7章13~14節の「人の子」と結びつき、さらにシラ書では「知恵」が「律法」と一つにされて(シラ書24章23~34節)、イエスの「人の子」に受け継がれ、ヨハネ福音書の「知恵の受肉」思想へと発展したとわたしは見ています〔キーナー『ヨハネ福音書』(1)参照〕。箴言の知恵は「処世術」にすぎないから、「人の子」に関わる黙示思想から知恵を区別しようとする見方もありますが、わたしは、箴言の知恵もダニエル書の黙示的「人の子」も「アポカリュプシス」(啓示)として同じ系列において理解すべきだと考えています〔フォン・ラート『イスラエルの知恵』参照〕。
また、ここの「天から降る者」をヘレニズム世界で言う人間の霊魂の昇天と関連づけて、天に昇った人の魂が再び地上に降りて来るという意味に取るべきではありません。これに近い見方として後期(2世紀)のグノーシス的な霊魂あるいはソフィア(知恵)の降下説がありますが、ヨハネ福音書はここで、人間の霊魂が降下することでも、天に昇った人間の霊知が「知恵」として降下することを指しているのでもありません〔キーナー『ヨハネ福音書注解』(1)〕。大事なのは、神のロゴスが地上に降り「人の子」として受肉したことなのです。この人の子こそが、その受難と復活の「栄光」を受けて初めて昇天したことです。世の初めから創造に携わったロゴスは、「神の知恵」(箴言8章22~26節)という旧約の伝統的な「イスラエルの知恵」を背景にしていますから、ヘレニズム世界で言う「人の霊魂」のことではなく、全人格的なペルソナとしてのロゴス(ソフィアの側面も具えています)が、人の子イエスの霊性となって地上に宿ったことを指しているのです。これがフィリピ2章6~9節/エフェソ4章9~10節/第一テモテ3章16節/ 第一ペトロ3章18~22節が言おうとしていることであり、ヨハネ福音書はこの信仰と一致しているのです。
【人の子】この名称は、旧約ではほんらい「人間」を指す言い方でしたが(詩編8篇5節)、ダニエル書(7章13~14節)では諸国民を支配する黙示的なメシアとして「人の子」が用いられています。ダニエル書の「人の子=メシア」は、終末に到来して、地上の悪しき権力を裁き、全人類を統治する権威を天から授かる者です。
イエスの時代には、「人の子」は、間接的に「自分」を指す場合にも用いられました。イエスだけがこの言葉を自分を指すときに用いています。ただし、共観福音書でイエスが「人の子」であると言うのは、イエス個人を指すだけでなく、ダニエル書のそれを受け継いで、全人類を代表して終末に裁きを行なう権威を天から与えられている者をも含みます(マルコ13章26~27節/ヘブライ2章6~9節=詩編8篇5節)。地上におけるイエス個人と終末に再臨する「人の子イエス」という二重性が共観福音書の「人の子」の特徴です。
ヨハネ福音書の「人の子」は、地上におけるイエスただ独りの意味に限定されると言っていいでしょう。この「人の子」に対応して、14章以下で、復活した御霊のイエスとして「パラクレートス」が現われます。ヨハネ福音書では、すでに1章51節で見たように、「人の子」はヤコブの夢につながります。そこでの「人の子」は、神と人間を結びつけるいわゆる「仲保」の働きをします。ヨハネ福音書のこのような「人の子」は、イザヤ書49章で語られる「主の僕」からきていると言えましょう。人の子が「上げられる」とは、彼が、十字架と復活を経て「栄光を受ける」(17章1~5節)ことを指しています。
なお、ヘレニズム時代では、「人の子」は、ユダヤ人の思想家フィロン(前25~後45/50年)の思想に見られるように、プラトン的な思想の影響を受けて、天から降り、万象の根元に実在する「元型人」「真の人間」を意味するようになりました。フィロンに代表されるヘレニズム時代の「人の子」は、哲学的なイディア思想の特徴を帯びていますから、どちらかと言えば「非人格的」な存在に近いでしょう。
これに対して、ヨハネ福音書の「人の子」は、共観福音書と同じ歴史の枠の中で語られていますから、イエスは明らかに「歴史的な人間存在」です。特にヨハネ福音書では、共観福音書と異なり、「人の子」が<地上にいた間の>イエスを指していることに注意してください。しかも「その人」が同時に「天から降ってきた人」であること、すなわち神から遣わされた「人の子」に神の聖霊が宿っているというのが、ヨハネ福音書の「人の子」の特徴です。〔詳しくはヨハネ福音書補遺の「人の子」を参照〕。
【天に上がった者】13節は、12節のイエスの言葉「地上のこと」と「天上のこと」を受けています。「降った」はアオリスト(過去)形で、続く「上がった」は現在完了形です。繰り返しになりますが、かつて天において神と共にいた方(ロゴス)以外に「天から降った者」はだれ一人いない。その方こそ地上に存在した人の子であり、その人の子イエスだけが「天に昇った」というのがここでの意味です〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。 ここは「天上のことを知らせるためには、<その前に>地上から天に昇った者が先にいて、その者だけが、天上の知識を携えて地上に降る」という解釈があります。そうではなく、イエスは、先に父から託された使信を携えて地上に降り、その後で天へ上昇したのです〔ブルトマン前掲書〕。だから、黙示文学でのエノクのように、天のことを地上の人間に知らせる目的で、先ず地上から天に昇った者のことを言おうとしているのではありません。地上を歩んだ「人の子イエス」自身が天からの啓示を携えて降った者であり、その人の子が「上げられる」ことによって初めて、救いの業を成し遂げたというのが「受肉」(1章14節)の意味することです。人間イエスこそ、天から降ってきた「人の子」であると承認することが求められるのです〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕〔キーナー前掲書〕。
上に述べたことを前提にしながらも、この13節では、後の教会が、復活したキリストを地上のイエスに反映させる仕方で、「人の子の降下」を言わば<昇天したキリストから>観ているという解釈があります〔ブラウン『ヨハネ福音書』(1)〕。これに関連して、この箇所には難問があります。それは「<(今現在)天にいる>人の子以外に天に昇った者はだれもいない」という異読があることです。この異読は「天に上がった」が現在完了形であることから生じたのかもしれません。しかし、「すでに天に高挙されている」イエスの視点から見て語っているこの読み方は、ここでの人の子の救済の時間的な構成を混乱させます。だから、この読み方に対しては反論があります。13節は、「イエスは先ず父から託された使信を携えて下ってきたその後で上昇した」〔ブルトマン『ヨハネ福音書』〕と言いたいのです。テキストの本文によれば、<上がる>は<降る>に先立つのではなくて、その逆です。問われているのは、天上から証言をもたらす者はだれか?ではなく、天上に入る者はだれか?なのです(エフェソ4章9~10節)」〔ブルトマン前掲書〕。
この見解は多くの人に支持されています〔バレット『ヨハネ福音書』など〕。もしも「天にいる」を加える異読を採用するなら、「地上にいる間の人の子イエス」は、同時に、常に天上の「人の子キリスト」と同一の視点から書かれていると見ることになりましょう〔A.M. Hunter.
The Gospel According to John.The Cambridge Bible Commentary.Cambridge University Press (1965).38〕。
この異読については、すでにヨハネ福音書成立の初期の頃から問題にされていたようで、「天にいる方」「天にいた方」「天からの方」(英訳では "who is from heaven" )など多様な異読があります〔バレット『ヨハネ福音書』〕。このために、これを加筆だと見る説と、逆に困難な言い方のほうこそほんらいの読みだとする説があり、〔NRSV〕はこの読みを欄外にあげ、[REB]はこの異読を本文に組み込んでいます "the Son of Man who is in heaven"。結論として、おそらくこの異読は、すでに復活しているイエス・キリストから見るという視点から、後の教会によって加えられたものか、あるいは欄外にコメントとして書き込まれたものが本文に入り込んだのでしょう〔新約原典テキスト批評〕。
ヨハネ福音書では、物語の部分とそれを発展させて解釈する部分との切れ目が見えない場合があります。今回の13~15節は、それ以前のイエスとニコデモの対話と、次に来るヨハネ福音書の作者による解釈との狭間にあたりますから、ここで、このような「いとも困難な言い方」〔前掲書〕が生じるのは偶然でないでしょう(イエスの言葉がどこで終わるのか、諸訳の「 」の違いに注意)。
先在のロゴスが天から降り、人の子イエスとして地上で神の啓示を人々に与え、十字架と復活と昇天の栄光を受けてから天に戻り、イエスの御名による聖霊が地上のエクレシアのメンバーに降るというのが福音の基本構造です。この点では、ヨハネ福音書もパウロ書簡(例えばフィリピ人への手紙)も主流(パウロ系?)のキリスト教(例えばエフェソ人への手紙)も一致しています。これは福音理解の根底に関わる大事なことです。
[14]【蛇を上げたように】14節は民数記21章4~9節の記事を踏まえています。イスラエルの民が「神とモーセに逆らった」時に、主ヤーウェは「炎の蛇」を送って民を罰しました。そこでモーセが主に願い「青銅の蛇」をつくって「旗竿の先に掲げた」ところ、人々は「その青銅の蛇を仰ぐと命を得た」とあります。ヘブライ語の原文では「旗印(はたじるし)の上に掲げよ」とあるのを七十人訳は「モーセは青銅の蛇を作り、それをしるし(旗)の上に置いた(あげた)」と訳しています。知恵の書(16章7節)でも、この蛇について、「そのしるしを仰ぎ見た者は、目に映ったしるしによってではなく、万物の救い主であるあなたによって救われた」とありますから、この解釈は七十人訳を下敷きにしています。
ヨハネ福音書でも「モーセがあげたのと<同じように>」とありますから、これは青銅の蛇を救いの「しるし」と見ています。ただしヨハネ福音書では、イエスが「青銅の蛇」と同じような「しるし」であることよりも、知恵の書にある「救い主」として、人を罪から救う方であることを伝えようとしているのです。だからモーセとイエスを対立させるよりも、人の子イエスこそモーセに優るメシアであることをタイポロジー関係において言おうとしています。
「蛇」そのものについて言えば、古代エジプトでは、死者の国に「火を吐く蛇」がいると言われ、その一方で、蛇は「太陽神ラーの目」とされ悪魔払いのしるしとして王の額に付けるしるしに用いられました。創世記3章で、蛇は「神の呪い」を受けたものとされ、それが民数記では神の罰を下す「炎の蛇」にされています。申命記8章15節にも荒れ野で「火の蛇」が民を悩ませたとあります。イザヤ書14章29節では「炎のように飛びまわる(毒)蛇」とあり、これは「セラフィームの蛇」とも訳すことができますから、神の罰を下す「み使い」を指しているのでしょう。ところが列王記下18章4節には、「モーセのつくった青銅の蛇」が「ネフシュタン」として崇拝されていたとあります。民数記で青銅の蛇を「仰いだ」者は癒されたとあるのも、このように「崇拝する」ことを指すのでしょう。古来蛇には病気癒しの力があるとされていましたから、おそらくこの目的で崇拝されたものと思われます。ヒゼキヤ王は、これを偶像として取り除いたのです(民数記の青銅の蛇の物語はこのヒゼキヤの頃かその後に編集されたという説があります)。
これらのことから見ると、蛇は「悪」と「癒し」の両方を象徴しています。これは、疫病をもたらす原因となる<その同じもの>を恐れ敬うことによって、その疫病から癒されるという考え方に基づくところから出たものでしょう。疫病・災害をもたらすその同じものが同時にこれらの疫病・災害を癒す力となる例は、サムエル記上6章4節以下にも見られます。この意味で、ヘレニズム時代に、パレスチナを含む広い地域で崇拝された病気癒しのギリシアの神、アスクレピオスが持つヘルメスの杖(頭に蛇が絡みついている)は、民数記の青銅の蛇と同類です(「ヘルメスの杖」は、現在でも「医療の知恵」の象徴として用いられています)。
【上げられる】「人の子」の霊性が、天から地上に降ったロゴスとしての「知恵」の宿りであり、それが十字架の贖いを成就した後に天へ戻ることを指しています(8章28節/12章32~35節参照)。「上げられ<なければならない>」は、共観福音書でも人の子が受難する神の定めとして用いられる言い方ですから(マルコ8章31節/ルカ17章25節)、ヨハネ福音書も共観福音書と同じ伝承を共有しているのが分かります。しかもここで言う「上げられる」は、続く16節でも分かるように、人の子イエスの十字架をも指しています。ヨハネ福音書は、十字架と復活が一体になって人の子の「栄光」が顕れたと理解しているのです。このようにイエスの十字架それ自体に栄光の顕れを観るのがヨハネ福音書の特徴です。
[15]【永遠の命】この言い方は共観福音書でもローマ人への手紙でも、それぞれ3~4回程度ですが、ヨハネ福音書では17回、ヨハネの手紙に6回でてきます〔新共同訳〕。この言い方も旧約時代と旧新約中間期にさかのぼります(ダニエル書12章2節/第二マカバイ記7章36節)。共観福音書とパウロ書簡では、この言い方は主として「未来の命」を指しています(マタイ19章29節/マルコ10章30節/ルカ18章30節)。未来に授与される命という点では、ヨハネ福音書も同様ですが(3章16節/12章25節)、新約聖書では、ヨハネ福音書だけが「現在すでに永遠の命に与っている」ことをはっきりと伝えています(3章36節/4章14節/5章24節/6章47節/11章26節/第一ヨハネ5章13節)。ここで「永遠の命を<持つ>」というのは、時間的な後先のこと、あるいはこの世界を超越した「永遠」を指すのではありません。そうではなく、「人の子によって」とある通り、地上での「人の子イエス」が神から遣わされたことを「知る」ことによって、その人は<すでに人の子の命に与っている>こと、その状態は肉体が滅んでも失われることがないことを指すのです(17章3節/第一ヨハネ5章11~12節)。だから<永遠の命>とは、この地上にありながらも<人の子イエスと共に歩む>その歩みにおいて霊的に実現するのです。イエスと共に歩むことにおいて<その人自身もイエスの命に与る>からです。
ほんらいユダヤ教では「永遠の命」は「この世の命」と対比されていて、「この世」と「来たるべき世」との「二つの時代」に対応していました。ダニエル書12章2節の七十人訳にある「永遠の命」が、聖書では初めてのギリシア語の用例で、これは、ヨハネ福音書のここ15節のギリシア語と一致します。ところがヨハネ福音書では、ユダヤ教の神の命と最初期キリスト教の終末的な生命が結びつくことで、永遠の命は「イエスの御霊にある」命のことになります。だから「永遠の命」は、長さではなく質のことであり、それもイエスの御霊にあって「互いに愛し合う」愛において現われる命のことです(13章34~35節/15章12~14節)。ヨハネ福音書で、この命が<終末的>であるとは、「神にある永遠の今日」の場で働く命だという意味です。「神の今日」とは、その時時での神の働きにほかなりません。これはヨハネ福音書独特の「終末の現在化」とも言われていますが、ここに、ギリシア的な「永遠」とヘブライの終末的な永遠との結合を見る説もあります〔ドッド『第四福音書の解釈』「永遠の命」〕。
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