21章 「世」を救う神の愛
3章16〜21節
■3章
16「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
17神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。
18御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。
19光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。
20悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。
21しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」
【講話】
【注釈】
■神からの語りかけ
わたしたちは、前回、ヨハネ福音書の語りが、人をして「新たに生まれさせる」働きをすることを知りました。今回は、神の「ことば」について、少し違った面から語っています。神が人間に向かって語るその「ことば」をわたしたちがどのように受け入れたり拒んだりするのか、これについて語るからです。
ヨハネ福音書の語り方を批判的に論評する聖書学者たちもいますが、この福音書の「語りかけ」に身を投じた優れた注解者たちもいます。例えば、C・H・ドッドは、その『第四福音書の解釈』を通じて、この福音書の語りが、「すでに現在において」終末をもたらすことを聴き取りました。カール・バルトは、その『ヨハネによる福音書』を通じて、この福音書が証しする御霊の語りから、人間的な感覚や体験を超絶した神からの恩寵の言葉を聴き取りました。ルードルフ・ブルトマンは、その『ヨハネによる福音書』を通じて、この福音書のイエスの言葉を受肉したロゴスとして受けとめ、これを解明し、これを受け入れる実存的な決断こそ、人間に求められていると信じて、語りかけに身を投じました。さらに、レイモンド・ブラウンというカトリックの神学者は、『ヨハネ福音書講解』(上・下2巻)を通じて、教会の霊的な伝統に基づいて一言一句をもおろそかにせず、ナザレのイエス様に迫ろうとしました(詳しくは、ヨハネ福音書補遺編の「ヨハネ福音書の二元性」を参照してください)。筆者(私市)は、これらの人たちに学びつつ、ヨハネ福音書の語りかけを「三位一体の神からの語りかけ」として聴き取らせていただいています。わたしには、ヨハネ福音書の霊性を知的に理解したり解明したりすることは、人の能力を超えているように思われます。
イエス様は、ニコデモとの対話で、「神の国を観る」ことと「御霊の声を聴く」ことについて語られました。「観る」も「聴く」も、自力で努力することではなく、イエス様の御霊にあって「見えてくるもの」、「聞こえてくるもの」です。それは、聞くというより聞こえる事態であり、神の御子の御霊を自分で「知ろうとする」よりも、自分が神に「知られている」ことを悟るのです。こうなると、祈りも自分の業でなく、イエス様の御霊にあって祈らされることだと気がつきます。祈るうちに、次第に心の曇りが吹き払われて、霊風無心の境地へ導かれるからです。
■霊性五則
こういう霊性の特徴を、あえてその弱点をも含めてあげるとすれば、以下の五つになりましょう。
(1)「られる」世界は、自分の知的判断や論理にとらわれませんから、人が、それぞれ自分とは違った霊性を有していても、それもまた神からの働きかけに対するその人なりの応答の仕方であることを悟り、寛容な広い世界が啓けます。
(2)「られる」世界では、いくつもの聖書解釈を重層的にとらえることができます。聖書の証言に働く作者の意図、作者の手を離れて生み出す意義、聖書全体のつながりの中から見える意味、読者(自分)の視点などなど、これらを重ね合わせることができます。このように、 聖書の諸文書を、それらが成立した時代の違いや歴史的な場の違いを超えて、ちょうど絵画を見るように、同一平面に配置して、その全体像を観ることを「共時的な」"synchronic"読み方と言います。
(3)神から語りかけ「られる」世界は、様々な見方や考え方を包含しますから、旧約からイエス様へ、イエス様から新約へと、聖書の証言を時間の軸を通じて読み取ることも必要です。この意味で、ヨハネ福音書の語りかけを聞くと同時に、共観福音書のイエス伝承と、パウロ書簡のキリスト論とを併せながら、諸文書の成立を時間の軸に沿って見通すことを忘れてはならないでしょう。このように、諸文書を、ちょうど音楽を聴くように、時の流れに沿って聴き取る視野を「通時的な」"diachronic"読み方と言います。
(4)このような霊性から生じる解釈は、多面的でありながら、とかく散漫になりやすく、あいまいに陥りがちです。だから、わたしたちは、あのナザレのイエス様にかつて働いておられた霊性こそが窮極の原点であり、そこから出てそこへ帰着することが、何よりも肝要だと心得なければなりません。
(5)「られる」霊性にある人は、様々な教えの風にもてあそばれることがないように、使徒信条、ニカイア信条など、正統キリスト教の信条を受け入れる必要があります。だから、わたしたちコイノニア会の霊性は、根源的において、カトリックや東方正教の信仰と霊的に一致するものです。
■「独り子」とは?
人類の歴史には、古代から現代にいたるまで、多くの賢者と呼ばれる人たちが出て、その時代の人たちに向かって語りました。中でも、釈迦、孔子、ソクラテスは、イエス様以前の東西の宗教と哲学の祖と呼ばれています。彼らが語った言葉もまた、広義の意味で言えば、「神からの言葉」です。世界に様々な言語があるように、神が人間にお語りになる言葉も語り方も実に様々で、それらは時代によっても、場所によっても異なります。
では、「神の独り子」と呼ばれるイエス様は、どのような意味で「唯一独特」の「神のことば」なのでしょうか。すでに指摘したように、ヨハネ福音書では、イエス様の業も言葉も、その存在全体が、神の「ことば」と呼ばれます。パレスチナにユダヤ人として生まれたイエス様は、一つの歴史的な出来事です。釈迦の達した悟り、孔子の教え、ソクラテスの哲学、これに匹敵するのは、イエス様<の>何かではなく、イエス様が世に現われた出来事全体が、神が語りかける「ことば」になるのです。
3章16節で、ヨハネ福音書は、神がご自分の独り子をこの世に「お与え」になったと証ししています。神は、この世にいるわたしたち人間の苦しみを、高い所から見ている方ではない。人間一人一人の苦しみを、深い痛みをもって感じ取っておられます。このために神は、この世の苦しみを救おうと、「神ご自身の御子を与える」決心をされた。「この愛」を顕すために、神は、イエス様をこの世にお遣わしになるという「出来事」を通じて、人類にお語りになった。ヨハネ福音書は、こう告げるのです。イエス様が人間として地上に来られたこと、わたしたちの罪の贖いのためにその血を流すことでご自分を捧げられたこと、そして御霊となってわたしたちの内に宿ってくださること、これら一連のイエス様の出来事が、神御自身の決断から生じた出来事であること、これが、イエス様が神の「ことば」として「唯一独特」であると呼ばれる所以(ゆえん)です。
■裁きと愛
もしわたしたちが、神が遣わされた御子イエス様を通じて、神の愛とみ言を受け入れるなら、たとえどのように悲惨な人生、罪深い過去を背負っている人でも、その人は必ず救われます。しかし、イエス様のみ言が、御霊となってわたしたちに宿り、神の愛として働くためには、わたしたちが、イエス様を受け入れて聞き従う必要があります。ただし、御霊は、わたしたちの人格的な自由を侵(おか)すことを決してしません。神のみ言(ことば)としてのイエス様を拒むのも受け入れるのも、その選択と決断はわたしたち人間の側にあるからです。だから、わたしたちは、イエス様のみ言と御霊の働きを拒むことが「できます」。拒むならば、御霊はわたしたちの内に働くことが「できません」。
この結果、み言がその内に働く人と、働かない人とに分かれることになります。神のみ言は、わたしたちを救うために働くのですが、結果として、そのみ言を拒否する人、これを受け入れようとしない人を生じさせるのです。この意味で、み言は、わたしたちを「分ける/判断する」、すなわち「裁く」のです。
この世にある人は、イエス・キリストに顕される神の愛に接し、これを受け入れる道がだれにも開かれています。しかし、その決断を保留したり異議を唱えたりすることで、「信じない」こともできます。イエス様の御霊は、人間の自由を奪うことを<しない>からです。その決断は、イエス様の側から発するのではなく、人間の側からです。
こうなると、「信じない」者には、「信じる道」と「信じない道」の二つが用意されることになります。ただし、選択を保留して立ち止まっている者、あるいは選択それ自体を拒否している者にも「この選択」は常に開かれています。このように、神の愛は、「この世」の人たちに向かって<常に>開かれています。
一方で、「信じる者」は、すでに選択を終えて、立ち止まることなく「歩き続ける」者です。彼には、歩く以外の選択は、もはや存在しません。だから、「信じない者」が「信じる者」を批判するのは、道を選ばないで立っている者が、すでに選んで歩いている者を批判することを意味します。選択の余地のある人たち(信じない者)が、あたかも信じる者にもその選択の余地があるかのように批判するのは、「信じる者」の行為を理解しないからです。行為とは、奇跡と同じで、一つの<しるし>です。人は、議論し合うことによって互いの意見を交換することができます。しかし、「行為と議論する」ことはできません。行為に向けられるあらゆる議論は、そのまま、発言者に返るからです。
愛の行為を批判する者は、その批判それ自体によって裁かれます。12章4〜6節のユダの批判がこれです。彼が相手を批判するとき、その批判は、相手のことではなく、彼自身を語り、したがってその批判は、<自分自身への>批判です。だから、人がたとえ神の愛の業を彼なりに判断して裁いても、それは、神が彼を裁いたのではなく、人のほうが、自分の意志で、裁きを自己に招いているのです。
ところが、たとえわたしたちが、自分の意志で神の愛を拒んでも、神のみ言から発する愛は、その働きを止めるわけではありません。もしその気になるなら、人はいつでも神のもとへ来ることができるからです。だから、いったん神の言葉を拒否したなら、もう二度と神はその人を受け入れないと判断するのは誤りです。神は、わたしたちを裁くために御子を与えてくださったのではない。3章17〜18節でヨハネ福音書が言うのは、この意味です。神の愛は、繰り返し働きかけます。神はいつでもわたしたちを受け入れてくださる。なぜなら神は、その御子を通じて、「この世への」愛を顕されたからです。イエス様を信じるのに、早すぎることも、遅すぎることもないのです。
■光と闇
今述べたことを裏返してみると、神を信じている人たち、神の救いを受け入れている人であっても、もし神のみ言に逆らうならば、「裁き」が起こりえます。だから、「世を裁く」とある「世」とは、神を知らない人、神を信じない人、イエスをキリスト(救い主)として受け入れない人たち<だけ>を指すのではありません。わたしたちが「この世」に居る限り、「この世」の域外に抜け出すことができませんから、「世」はクリスチャン自身の内にも潜んでます。8章で語られる事態が証しするように、キリストを信じている人たちでも、自分自身の傲慢な信念や自己正当化によって、神の裁きを招くことがありえるのです。
み言の光は、神を知らない人にも、神を知っている人にも、全く同じように人の心を光と闇に分けていきます。だから、もし人が光よりも闇を好んで、神のみ言にあえて逆らうならば、その人は、自分自身の選択によって、裁きを招くことになり、しかもその裁きは、わたしたちの側の選びから生じるのです。イエス様のみ言を聞いて、イエス様の御霊に触れるとき、わたしたちは自分の内に潜む闇の部分に気づかされます。そのとき、自分の闇を意図的に選ぶなら、その人に裁きをもたらす罪になります。
ところが、闇の裁きを選んでも、それでもなお、み言は、光となり御霊の風となって、繰り返し働きかけ、わたしたちを神の愛へ、永遠の命へ導こうとするのです。「光は暗闇の中で輝く」(1章5節)からです。
わたしたちが、己の力を超えた御霊の働きかけにありながら、己の選択によって裁かれ、しかも、み言の光、御霊の風の働きをなおも受けるとすれば、わたしたちは、いったい、どういう事態にあるのでしょう?シュナッケンブルクが言うように、ここで、わたしたちは「光に照らされる闇の世」の薄暗がりの中を、ヨハネ福音書と共に手探りで歩むことになります。
そもそも「信じる者は裁かれない」とある「信じる者」とは、信じるか信じないかの二つの可能性から、自らの判断で、信じるほうを選び取ろうと意図する行為のことではありません。救いは、人が抱く信仰心によって獲得された精神状態のことでもありません。そうではなく、「信じる者」には、もはや二つの可能性など存在しないのです。なぜなら、神の御霊にある赦しと救いは、その人の信じない可能性さえも包み込むからです。イエス様の御霊は、その人の不信さえも乗り越えて働くからです。だから御霊の働きは、信じる者の不信に出逢っても、これに左右されることなく、これを逆転させる恩寵となって働きます。これが、3章16節にある「この世に」向かって働きかける神の愛の特性です。ヨハネ福音書の神の愛と救いは、この意味で、ローマ8章31〜35節に通じるものです。「罪が増し加わるところ、そこに恵みもまた溢れる」とパウロが言う時、彼はヨハネ福音書と同じところに立っています〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。ただし、神の愛それ自体が、人の選択によっては裁きとなること、この点でパウロは、ヨハネ福音書ほど透徹していません。
アウグスティヌスは、こういう事態を次のように述べています。
「ここに二つの事態がある。人間であることと、罪人であることである。あなたが人間として聞くこと、それは神が行なわれたことである。あなたが罪人として聞くこと、それは人間自身が行なったことなのだ。あなたは、自ら行なったことを捨てるがよい、神はご自身の業をあなたに与えてくださるだろう。あなたの内にあるあなたの行ないを憎み、あなたの内にある神の業を愛するがよい。・・・・・善き行ないは、悪しき行ないの告白から始まる。・・・・・真理を行なう、とはどういうことだろうか。自らをおだてたり、なだめたり、自らに媚びへつらったりしないこと、悪しき者であるのに『自分は義しい』などと言わないことである。・・・・・あなたが不快に思うあなたの罪は、神があなたを照らすことなしには、あなたがそれを不快に思うことなどナイからである。・・・・・神の赦しを得るために、自らを容赦せず、自らを赦さない。その人は、神の赦しを得るために何を望んだらよいかを自ら認識し、光の方にやってきて、自分の中の何を憎むべきかを自分に示してくれたことを、光に感謝する。」 〔『アウグスティヌス著作集』(23)ヨハネによる福音書講解説教(1)〕。
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