【注釈】
■3章16~21節について
3章21節の終わりでイエスの言葉(「 」)が閉じられる訳と〔新共同訳〕〔NRSV〕〔REB〕、同15節の終わりで閉じられる訳とがあります〔岩波訳〕。後の場合、16節以降は、イエスの言葉ではなく、作者ヨハネの言葉になります。原典ではこの区別がはっきりしません。ヨハネ福音書では、イエスの言葉がそのまま作者自身の言葉へ移行する傾向があるからです。16節の冒頭に「というのは」とありますが(新共同訳では抜けています)、これはヨハネが、自分の解説を付加するときに用いる言い方なので、15節で閉じるのは、ここまでをイエスの言葉と見なすからです。16~21節は、11~15節とは異なる資料から出ているという見方もあります〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。ただし、資料によるにせよ、編集によるにせよ、16~21節は「福音の中心的な使信(ケーリュグマ)」であることに変わりありません〔スローヤン『ヨハネによる福音書』〕。
今回の部分を、これに先立つ部分と関連づけて観ると、11節から「アーメン、アーメン」で始まるイエスの言葉は、12~15節で「天から降った人の子」という主題を提示します。13節は、先の1章51節の「人の子イエス」を受けていて、続く14節は「モーセが荒れ野で蛇を・・・・・のように、ちょうど<そのように>人の子もまた・・・・・」とあって、これが16節の「なぜなら<そのように>神は世を愛した」へ続きます。イスラエルの民がモーセによる「青銅の蛇」を仰いで罪赦されたように、「人の子イエス」を仰ぐ者はその罪が赦されるのです(14節)。それだけでなく、人の子が、罪の犠牲として「あげられる」ことで、彼を信じる者に「永遠の命」に与る道が啓かれます。15節で、人の子が与える「永遠の命」が初めて開示され、これが16節の「滅びることのない永遠の命」へつながります。16節では、アブラハムによるイサクの「犠牲」がタイプとして示唆されますから(創世記22章参照)、16節は14~15節と密接につながります。このように3章では、「神の国」(3節)が「永遠の命」(15節)へつながり、さらに「独り子を与える神の愛」(16節)へ、そして、その愛がもたらす「裁き」(17節)から「光と闇」の相克へと、主題が密接につながりながら展開していきます。
16節以下は、3章の前半で語られるニコデモとの対話から離れているという印象を受けますが、ニコデモに対するイエスの語りかけは、ここでも見失われていません。今回も、いぜんニコデモの物語の続きであり、ここには、ニコデモがどのようにして救いにいたったかが語られているという見方があります〔バルト『ヨハネ福音書』〕。ニコデモとイエスの対話は、19節~21節の「光と闇」に対応しているとも言われています〔土戸清『ヨハネ福音書研究』「ニコデモ伝承と『人の子』」〕。「人の子イエス」を信じるかどうか、19節~21節では、この主題が、ニコデモだけでなく、すべての読者に問われてくるからです。しかし、16節以下では、ニコデモが光に対してどのような受けとめ方をしたのか不明です。おそらくここでは、ニコデモが、最終的には「光のほうに来た」こと、少なくともその出発点となったことが示唆されているのでしょう。
■ヨハネ福音書の語りの様式
ここでヨハネ福音書独特の「語りの様式」について少し説明します。13節からは「人の子」が出てきて、それまでの1人称と2人称の対話から3人称へ移行します。だから13~15節は、12節までの対話から16節以降のヨハネ福音書の作者の「解釈」へ移行する中間に置かれています。「 」の終わりが、13節、14節〔バレット『ヨハネ福音書』〕、15節、21節のように一定しないのはこのためです。12節から16節への移行は、作者の意図が、イエスの言葉を<伝える>視点から、これを<解釈する>ほうへ移行したことを示します。
「対話」とその対話の「解説」のこの関係は、例えばプラトンの『饗宴』で、ソクラテスと弟子たちとの話し合いで、ソクラテスが、自分が出会ったディオティーマという女性との対話へ移行するのと共通するとも言われています。ソクラテスと彼女との対話から、「エロース」の真実が明かされるのです。ヨハネ福音書にも、こういうヘレニズム文学の影響があると指摘されますが、ヨハネ福音書の語りの特徴は、むしろ旧約聖書の語りの伝統から出ていると見るほうが適切でしょう。創世記6章5節から始まるノアの洪水物語には、J資料に基づくヤハウィストとP資料に基づく祭司文書編集者たちの叙述が二重に組み合わされています。ヤハウィストのほうは出来事を歴史的に語る傾向があり、祭司文書編集者たちのほうは、その出来事を解釈する傾向があります(創世記9章1~17節)。
旧約聖書の語りの伝統には、歴史的叙事物語、預言の様式、知恵文学、黙示文学など様々な様式がありますが、ヨハネ福音書には、資料に基づく物語様式だけでなく、これを解釈する知恵文学(箴言/ヨブ記/知恵の書など)の伝統が流れていると言われます(「わたしは~である」のように)。これに加えて、ヨハネ共同体の始祖である「主の愛する弟子」の証言(口伝あるいは文書?)に基づいているという事情も重なります。彼は、復活したイエスのパラクレートスにあって「イエスと共に歩む」霊的な体験から証言していて、これを始祖の弟子が、さながらイエス自身に接するように書き記していることも、ヨハネ福音書に、このような複雑な語りのスタイルを与えているのでしょう。
■3章
できるだけ原文の順序に従って、直訳体で私訳をあげておきます。
神は、この世を愛されるあまり
その独り子を賜わった。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、
永遠の命を得るためである。
神が御子を世に遣わされたのは、
世を裁くためではない。
御子によって世が救われるためである。
御子を信じる者は裁かれない。
信じない者は既に裁かれている。
神の独り子の名を信じようとしないからである。
裁きとはすなわちこれである。
光が世に来た。それなのに
人々は光よりも闇のほうを好んだ。
その行いが悪かったからである。
悪を行う者は皆、光を憎む。
だから光のほうに来ようとしない、
その行いが曝かれるのを恐れるから。
しかし、真理を行う者は光のほうに来る。
その行いが明らかになるために
神にあってなされた働きであると。
(3章16~21節)
[16]16節は、ほとんどそのまま第一ヨハネ4章9節で繰り返されています。この節が、ヨハネ共同体のメッセージの核だからでしょう。だから16節前半を「ヨハネ福音書の要約」と呼ぶ注釈があります〔バーナード『ヨハネ福音書』(1)〕。節全体は「なぜならこれほどまでに・・・・・すべて信じる者が・・・・・ために」というヨハネ福音書独特の構文になっていて、「なぜなら/というのは」で15節までとつながっています。すでに11節から「わたしたち」で始まりますから、これはニコデモひとりに語っているのではありません。また「信じる者はすべて」(15節)とありますから、ユダヤ人だけに語られているのではなく、「世の人たち」全体が、人の子が語りかける対象になっています。
【独り子を与える】「独り子」の原語は「モノゲネース」で、語源的に見れば「唯一+生まれた」です。ギリシア語では兄弟姉妹のいない「一人っ子」のことですが、旧約では「かけがえのない愛し子」の意味です。だから福音書では、「わたし(神)の愛する子」(マルコ1章11節その他)に相当します。この用語は、すでに1章18節に、「独り子なる神」としてでてきますから「御子」と呼ばれています(3章17節)。ただし、1章18節と異なり、3章16節では「父」が表われず「独り子」だけです。独り子を世に「与えた/贈与した」とあるのはアオリスト形の動詞で、人間の歴史において一度限りの出来事として語られています。
【与える】ヨハネ福音書では、この動詞が50回近くでてきます〔新共同訳〕。
〔1〕父である神は、御子に「すべてを」与える(3章35節/10章29節/13章3節など)、「神の霊を」与える(3章34節)、「裁く権能を」(5章27節/17章2節など)、「人間を」(6章37節/17章9節など)、「語るべき言葉を」(12章49節)、「行なうべき業を」(17章4節)、「栄光を」与える(17章5節/同24節)などです。
〔2〕御子が人間(弟子たちを含む)に「与える」のは、「永遠の命の水」(4章14節)、「永遠の命の食べ物」(6章27節/同51節/10章28節では「永遠の命そのもの」)、「模範」(13章15節)、「戒め/掟」(13章34節)、「平安」(14章27節)、「神の言葉」(17章8節)、「栄光」(17章22節)などです。
これらを見ると、父からの御子への愛が、御子から人への愛と重なっているのが分かります。とりわけ、ここ3章16節にあるように、神が「独り子を世に与える」は特別で、ここには御子の犠牲を伴う「神の愛」が明確に示されています。
旧約聖書では、「与える」が最も頻繁に表われるのが申命記です〔キーナー『ヨハネ福音書』(1)〕。そこでは神がイスラエルに「土地/国土」を与えると語られます。申命記で、この「与える」は、神がイスラエルに与えた「(モーセ)律法」と深く結びついています。イスラエルの民には律法と共に国土を与えるとありますが、ヨハネ福音書を含む新約では、神が「与える」のは、民族を超えて人類に「御子イエス・キリスト」を通して「永遠の命」を与えるのです(第一ヨハネ2章2節をも参照)。
【世を愛する】イエスの語りかけは、まずニコデモに始まり、イスラエルの民へ、そしてすべての人(世)へ広がります。ヨハネ福音書では、ほとんどの場合、神の愛は、弟子たち(とヨハネ共同体)に向けられると言われます(14章21節参照)。ほとんど唯一の例外がこの16節です。「世」は神とその御子に敵対する性質を帯びていますから(15章19~20節)、16節に「世を愛する」とあるのは、マタイ5章45節にでてくる神の慈しみに近いと言えます〔ブラウン『ヨハネ福音書』(1)〕。御子と父の愛は、共観福音書では間接的に表わされますが、ヨハネ福音書では、はっきり証しされます。ヨハネ共同体のこういう「愛」の働きは、聖霊の働きとこれに伴う高度なキリスト観から生じたと思われます。
【独り子を信じる】ここでは、人間の側から観る独り子のことです。すでに14節にでてきたように、天から地上に降った「人の子」は、十字架の受難によって「あげられ」ますから、ここ16節は、受難と昇天がひとつになった人の子を指しています。「独り子を信じる」とは、地上に下った卑賤の人の子こそが受難を経て高挙(昇天)された「独り子」であると信じることであり、これが「永遠の命」に与る道です。
【滅びる】「滅びる/失われる」は新約聖書で広く用いられている用語で、通常「救われる」と対照されます。しかし、ここでは「永遠の命」と対照されます(10章28節参照)。「滅びることがない」ですから、未来性を帯びています。このことから、「永遠の命」を「得る」(接続法3人称単数現在形)とあるのも、今すでにその命に与っているという現在性を含みながらも、それが未来へ向かうことをも意味すると見るべきでしょう。
【永遠の命】これについては15節の「永遠の命」を参照してください。知恵の書(6章18~20節)では、神の「知恵」を愛してこれを心に宿す者は「滅びない」と約束されています。
[17]この節全体の構文は「決して世を裁くためではない」と「世が救われるため」を強調しています。
【御子】冠詞付きの「御子」(ホ・ヒュイオス)"the Son"が、「人の子」や「神の子」ではなく、単独ででるのは、ここが初めてです。「御子/子」はヨハネ福音書全体で11回ほどでてきて(3章17節/同35節/同36節/5章19節/同20節/同23節/6章40節/8章36節/14章13節/17章1節)、明確にあるいは暗黙に、父なる神の働きと御子イエスの深い交わりを指しています。この17節でも同様ですから、「世を裁く」ことも「世を救う」ことも、これを定めるのは父であって、御子ではないことが示唆されています。
【世を裁く】「裁く」(ギリシア語「クリノー」)は、内容的に見るとヘブライ語「ミシュパート」(判断する/判定する/有罪か無罪かを判決する/罪に定める/断罪する)の意味に近く、したがってここの「裁く」には、「判断する/判定する」"judge"〔REB〕の意味と、「罪に定める/断罪する」"condemn"〔NRSV〕のふたとおりの解釈があります。どちらにせよ最終的な「断罪」は終末において行なわれますから、その時までは<最終的な>断罪は留めおかれることになります。
ヨハネ福音書では「救い」と「永遠の命」は現在すでに「与えられている」ことが強調されますから、これに対応して「裁き」もすでに終わっているかのように受け取る傾向があります。しかし、この17節は、神が「世を救う」ことを最終の目的としていると明言していますから、最終の「裁き」は父に委ねられていることが分かります。もしも終末が<すでに来てしまっている>とすれば、悪を行なう罪人たちはすでに滅び去って、この世に存在しないはずです。だから、ヨハネ福音書においても、神と御子に対する迫害や敵意がまだ存在しているこの世は、終末に向かってはいるけれども、終末が<まだ来ていない>ことが明らかです。
【世が救われるため】ここは受動態ですが、「救う」の主語は「父なる神」です。「世」にはユダヤ人も異邦人も含まれますから、ここでヨハネ福音書が言おうとしていることは、パウロが、ユダヤ人と異邦人との区別なく「神によって義とされる」(ローマ4章9~12節:割礼を受ける<前の>アブラムは異邦人です)ことについて述べていることに対応すると言えます。なお、ヨハネ福音書では、共観福音書やパウロ書簡に比べると、「救い」「救い主」という言い方が少ないと指摘されています。この用語が、ユダヤ教徒や知的な傾向を帯びた異邦人世界で、多様な意味に用いられているためにまぎらわしいからでしょう〔マキュウ『ヨハネ福音書』〕。
[18]御子を信じる者は裁かれない。/信じない者は既に裁かれている。この並行は、マルコ16章16節とも共通しますから、マルコ福音書の反映でしょうか。ただしマルコ福音書では「洗礼」が語られますが、ヨハネ福音書では、すぐ前のニコデモとの対話で「御霊の働き」が語られます。また、マルコ福音書ではこの言葉がイエスの復活後に語られますが、ヨハネ福音書ではイエスとニコデモの対話に続いて語られます。
【裁かれない】「裁かれない」には、はっきりした否定(ウー)が用いられていますが、次の「信じない者」の否定は「メー」でやや弱く、信じるか信じないかの二つの可能性を示唆しています。
【既に裁かれている】ここで「信じていない(者)」とある動詞は完了形ですから、その人の意志に基づく永続的な拒否を指します。ただし、その人間の<現在の>意志が、そのまま続くとは限りませんから、その人が終末においてどのような判定を受けるか?彼への神の意志を決定するものではありません。神は、ご自分の裁きへの自由な権能を人に奪われることがありません〔シュナッケンブルク『ヨハネ福音書』(1)〕。
この18節には、ヨハネ福音書の「実現した終末」が表われていると言われています。この節と12章46~48節を比較すると、12章のほうが「最終の終末的裁き」を強く感じさせます(特に48節)。ヨハネ福音書は、「終末」を現在の生活と同一視することで終末概念を日常生活の中に解消しているという見方もありますが、これは正しい見解ではありません。「終末」を現在において実現させるという終末の<現在への働きかけ>は、現在はそのままですでに終末状態だと見なして、現状の中に終末を解消してしまうことではないからです。なお5章30節/8章15~16節/9章39節/12章47~49節を参照。
【神の独り子の名】1章18節では「モノゲネースの神」だけが<父を顕す/啓示する>とあり、3章16節では「モノゲネースの子」を<世に与えた>とありました。ところがここでは「モノゲネースの神の子」とあって、先の二つの用法が一つにされて、父なる神自身の愛と、その神が世に向かって顕した御子による愛の両方が含まれます。
[19]【光が世に来た】1章9~10節を参照。「光」は「人を照らす光」(1章4節)ですから、人を導く「命の光」であり、これは、人間がこの世に生まれた目的を示すものです。ここでは光がこの世に「入り込んで来た」とあって、続く「闇」も「裁き」も「悪」も「真理」も、すべてはこの出来事から始まることが示されます。
【その行ないが悪い】イエスの御霊は人の悪を明らかにしますから、そこには人が己の悪を悟るという「裁き」を伴います。御霊の光は照らし出すことによって、その人の悪を暴露し取り除くのです(7章7節/第一ヨハネ1章9節/同3章12節を参照)。「行ない/業」の原語「エルガ」は複数です。しかし、ここで言う「行ない/業」は、光に出逢うことで初めて明るみに出される「業」のことですから、そのほんとうの正体は、本人も含めて人の目には「隠されている」ことになります。
【光よりも闇を】「光が世に来た」は1章9~10節を参照。単に世を「訪れた」ことではなく、この世に宿り留まったことです。以下に出てくる「光」「闇」「悪を行なう」「真理を行なう」などは、クムラン文書の用語と酷似していると指摘されています(クムラン宗団の『宗規要覧』4章20節以下では、これらの用語が「水と霊」による「きよめ」と関係づけられています)。しかし「光と闇」の対応/対照は人類に普遍的な宗教的な概念ですから、特定のパレスチナの宗団の思想だけに限定することができません。
【もう裁きになっている】ここで語られる「裁き」は、人間の側がその決断によって下す選択、すなわち、神からの啓示の光を「拒否する」選択によって生じる事態のことです。その人が光に対してとる姿勢こそが、善にせよ悪にせよその人への神からの「判断」となり「裁き」になります。
[20]【悪を行なう(者)】この言い方はユダヤ的で、パウロ書簡にもでてきますから(ローマ9章11節/第二コリント5章10節)、20節は、パウロの「霊と肉」の相克に近づいていると言えます。「行なう」とあるのは一回限りのことでなく、その人の性癖として持続的に実践することです。 なお、ここでの「悪」(原語「ファウラ」は複数)は、19節の「悪」(原語「ポネーラ」は複数)と違う用語なので、19節の「邪悪」"evil"に対して20節は「卑俗な過ち/間違い」"wrong"〔REB〕の意味に理解することもできます。
【光を憎む】「悪を行なう(者)」とは、光に来ない人のことでもなければ、光を見ない人のことでもありません。光に来て、これを見ても、光を「憎む」人のことなのです(9章41節/15章18~19節参照)〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。
【明るみに出される】原語は「曝される」「暴露される」「責められる」の意味です(16章8節/特にエフェソ5章11~13節を参照)。ここは、黙示文学、特にクムラン宗団の二元論に近いと言われています。しかし、「光と闇」の対立は、黙示思想やクムラン宗団に限らず、広くヘレニズム世界でも、さらには東洋にも見られる思想です。
[21]【真理を行なう】パウロ書簡では「悪を行なう」の反対は「善を行なう」で(ローマ2章9~10節)、これはヘレニズム世界の倫理観にかなっています。しかし、ヨハネ福音書では、「悪を行なう」の反対は「真理を行なう」です。これもヘレニズム世界の哲学で理解できることですが、ここで言う「真理」は、14~16節で語られている神の子(人の子)が与える啓示のことです。ここは、「真理を行なってから」神とその御子のもとへ来ることではなく、「行なう」その前に「真理」を「受け入れ」、そうすることで真理であるイエスを「知る」ことがなければなりません。なぜなら、「真理」とはイエス・キリストそれ自体に他ならないからです(14章6節)。
【明らかになる】原語は受動態で「明るみに出される/明らかになる」こと。原語は異なりますが、これは20節の「明るみに出される/暴露される」と内容的にちょうど対照的です。20~21節は、ヘレニズム世界だけでなく、洋の東西を問わず、今も昔も人間一般にあてはまる普遍の真理です。だから人の子イエスは、過去と現在を問わず、「神の知恵」の宿りであり、神の知恵の啓示でもあります(18章37節)。なお詩編43篇3~4節/ヨハネ4章23~24節をも参照してください。
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