23章 上から来る者
                        3章31〜36節
■3章
31「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。
32この方は、見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない。
33その証しを受け入れる者は、神が真実であることを確認したことになる。
34神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が”霊”を限りなくお与えになるからである。
35御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた。
36御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。」
                        【講話】
               【注釈】
■だれが語るのか?
 今回の箇所は、いったいだれが語っているのでしょう? そのすぐ前から続くのなら、洗礼者が語っていることになります。けれどもここは、先の3章11節とほぼ同じことを語っていますから、イエス様のお言葉として読んでもおかしくありません。多くの訳では、今回の箇所をヨハネ福音書の記者の言葉だと見ています。福音書の「記者」(実際に書いた人)と言いましたが、この福音書は「主が愛した弟子」の証言に基づいて書かれていると考えられます(21章24節)。だとすれば、その愛弟子が直接書いたのかといえば、そうでもありません。愛弟子が書いたとすればアラム語(かギリシア語?)でしょうが、この愛弟子はヨハネ福音書を生みだしたヨハネ共同体の始祖ですから、師の語る言葉をその弟子たちが書き留めたと見ることができます。始祖の証言に基づいて、弟子(たち)がこれをギリシア語で編集したのでしょう。「編集」と言っても現在の編集ではなく、実際はその弟子が自分のスタイルで書いています。
 ところがヨハネ共同体では、師と弟子が深い霊的な一致を保っていますから、弟子の言葉と師の言葉はそれほど違わないのです。弟子は師の言葉を語り、師はその師であるイエス様の言葉を語り、しかもそのイエス様は、洗礼者が「世の罪を取り除く神の小羊」だと証ししたお方です。だから、洗礼者ヨハネと始祖ヨハネと長老ヨハネ、この三ヨハネが、イエス様と言わばひとつになって語っているのが今回の箇所です。
 現在トルコにあるエフェソの遺跡の東の丘の上に、聖ヨハネ教会堂の跡が遺されています。そこはおそらく、エフェソに移住した頃のヨハネ共同体が人里離れたその場所で礼拝を行なった所だと思われますが、そこに今に遺る「ヨハネの墓」があります。地面の上に四角の白い大きな石が敷かれていて、その下にヨハネの遺体が眠っているのですが、そこにはなんと五人の「弟子たち(ヨハネたち?)」が共に埋葬されているそうです。
 旧約のモーセが語り、その言葉を預言者たちが語り、その言葉を申命記の記者たちが語る。その神の御言葉を洗礼者が語り、イエス様が語り、その弟子であるヨハネ共同体の始祖が語り、彼の弟子が語る。聖霊のお働きとはこういうものです。違った時々に、違った人々によって語られますが、そこには驚くほどの一貫性が潜んでいます。神の御霊にある霊性一貫です。こういう霊的な一貫性は、文献学や歴史学で外から学問的に立証することができません。しかし、水が器から器へ移し替えられるように、聖なる御言葉を通して、神の御霊が働き続けて現在にいたっているのです。
■神の語りかけ
 3章32節に「この方が、見たこと、聞いたことを証しするけれども、だれもその証しを受け入れない」とあります。ところが「その証しを受け入れる者は」と続くのです。「だれも受け入れない」のなら「受け入れる者」はいないはずですから、これは矛盾した言い方です。ヨハネ福音書は論理的におかしい。こう思う人もいるでしょう。実はこの矛盾が大切なのです。イエス様を受け入れる人などありえない。こう言い切っておいて、それなのに現に受け入れる人が現われてくる。この不思議。この理解しがたい現実こそ、ここでヨハネ福音書の記者が言いたいことです。
 わたし自身も含めて読者の中には、イエス様への信仰が与えられているのは自分にもそれなりの理由がある、自分が納得して理解したからイエス様を信じることができている、このように考える人がいると思います。ところがヨハネ福音書がここで言っていることは、それとは違うようです。実はわたしたちは、我知らず、人知らず、イエス様を拒んでいる。決して「受け入れる」ことなどしていない。逆にイエス様を批判し、これを自己流に曲解して、自分の脳裏とその思いに合わせてイエス様を歪めている。このようにヨハネ福音書は言うのです。
 そもそも、イエス様は「見たこと、聞いたこと」と言われますが、<何を>見たのか、聞いたのか。このことについては一言も触れておられないのです。ただ、「見たこと、聞いたこと」とだけ言われています。だから、これを聞いた人は、いったいイエス様の言われていることはなんなのか? これがさっぱり分からない。「この男、いったい何を言おうとしているのか?」パウロはこのように言われましたが、パウロは、イエス様と同じことをしているからそのように言われるのです。
 だから、イエス様の言われること、イエス様のお言葉は、そもそもこれをわたしたちが納得して理解しようとしてもできることではない。だから、相手の言うことを聞いてから、相手を自分なりに判断して、その人を自分なりの仕方で受け入れる、ということがここでは通用しないのです! これこそ、ニコデモがイエス様に出会った時に起こったことです。
 わたしたちは、宇宙を眺め、空の星を見ても、なるほど分かった理解したと思う人はいません。「きらきら星よ、あなたはいったいなんですか?」これがわたしたちの抱く疑問であり想いです。それはわたしたちが、何か分からない不思議な世界を見ていることを知っているからです。ヨハネ福音書のイエス様に出会う時にも、これと全く同じことがわたしたちに起こります。「世の初めからおられた神御自身のみ言(ことば)が、この地上に来られて、わたしたちの間に宿られた。わたしたちは<その栄光を>観た」とヨハネ福音書は証しします。
 しかしヨハネ福音書は、ここでイエス様について、何かわたしたちに納得できることを語っているのではありません。そうではなく、イエス様が神のみ言として、今わたしたちに<語っておられる>そのことを語っているのです。わたしたちは、その<神からの語りかけ>をただ黙って聴くのです。あるがままそのままで、御言葉の語りかけに聴き入る。これが「受け入れる」ことです。これは頭で理解できない不思議です。今まで体験したことのない霊的な出来事です。バルト流に言えば、「奇跡」です。これがニコデモにも生じた。彼は長年聖書を学んで、イスラエルの教師と云われるまでになった。だから彼は、自分なりの理解の仕方で、イエス様に話しかけた、「あなたは神から来た方に違いない。なぜなら、あなたのなさっていることは神がご一緒でなければできないことだから」と。ニコデモは、自分だけは<このこと>を知っている。こう思い込んでいたのです。
 現在でもニコデモのようなクリスチャンに出会います。イエス様の十字架、イエス様の御復活、イエス様の御霊の御臨在。こんな不思議で不可解なことが「受け入れられる」と思うほうがおかしいので、「だれも受け入れない」のは当たり前なのです。それなのに、どうして自分は受け入れて信じているのだろう?こう思う人は、ヨハネ福音書の言葉に気がついた人です。ここでヨハネ福音書が伝えようとしていることに触れたのです。自分に「語っておられるイエス様」に気がつくと、祈りが湧き、賛美が生まれ、なんだか不思議な御霊のお働きを感じることができるのです。御霊にある沈黙、異言、預言、エクスタシー、これが生じるのです。
 先の項でお話ししたように、わたしたちの神は旧約聖書の時代をも含めて、一貫して人類に語ってくださっています。その語りかけは、今後も変わることなく続けられるでしょう。何ものもこれを妨げることはできません。言うまでもありませんが、このような語りかけは、キリスト教の教派や宗団の区別などとは、全く無関係です。
■御霊のお働き
 3章31節に「上から来られる方はすべてのものの上にある」とあって、ここでは、神が遣わされたイエス様がお与えになる御霊の事態が、「地から出た者」である人間にはとうてい理解し難い事態であることを強調しています。御霊の事態とはこういうもので、仏教で言う「不可称・不可説・不可思議」(名づけがたく、言い表わしがたく、理解しがたい)です。だからこれを科学的に説明することも、歴史的に確定したり解明することも不可能です。聖書が伝えるイエス・キリストの救いの霊性とは、このようなものです。
 聖霊体験の場合、ひとつ、とても重要な事があります。それは、どんな場合でも、聖霊の原点は<ナザレのイエス様>にあることです。この一事を忘れると聖霊は聖霊でなくなり、訳の分からない「精霊」になってしまう危険があります。だから、3章33節に続いて34節に「神がお遣わしになった方」とあるのです。かつてパレスチナでお語りになり、十字架を通り、御復活されたあのナザレのイエス様です。しかもこれは、共観福音書が証ししている「人の子」イエス様のことです。だから、ヨハネ福音書は「共観福音書の心」だと言われます。旧約と新約と、これに続く現在までのすべての時代を通じて、神はあらゆる人を通じて、あらゆる時代の人たちにお語りになってきました(シラ書24章3〜12節)。しかし、この広大な神の語りかけの中心になる要(かなめ)は、ナザレのイエス様です。この要さえしっかりしていれば、扇子のように、いっぱいに開いても、半分閉じても、全く閉じても、自由自在に開け閉じできます。
 だから何があっても「ナザレのイエス様の御名」によって祈るのです(使徒言行録3章6節)。「神の御名」は、アブラハムが呼び求めた最も大事なものですから(創世記12章8節)。この御名に優るものは天地・宇宙にありません(フィリピ2章9〜11節)。神は、神が遣わされたその方を通してのみ、御霊を通して<限りなく>お語りになるからです。
 人の心は深く、心の闇もまた深いです。だからわたしたちは、間違っても自力で己の心の闇に立ち向かおうなどとうぬぼれてはなりません。「受け入れる」とは、すべてを委ねることです。神はイエス様に「すべてをゆだねた」〔新共同訳〕)とあるのは、この意味です。「委ねられた」イエス様は、ご自分の意志や想いでこれを用いるのではなく、逆に「すべてを父に委ねて」おられた(5章19〜20節)。だからわたしたちも、祈りを通じて、主様に「すべてを委ねる」のです。それができるのは、イエス様を通して働かれる御霊が、わたしたちに<限りなく>語り、限りなく働き続けるからです。「神が御霊をイエス様を通じて限りなくお与えになる」からです。聖霊の働きを受け入れた時に、人はどのようになるか、これを次の証しは如実に示しています。
「聖霊を受けし時の感はこれである。すなわち、こんなよいものは全世界にない。これさえあれば余はなんにもいらない。金はもちろん、位も名誉もなんにもいらない。家庭もいらない(もし神の聖意ならば)。事業もいらない。成功もほしくない(もし神の聖意ならば)。伝道に従事することができなくともよい(もし神の聖意ならば)。なんにもいらない。ただこれ(聖霊)を永久に持っておりたい。これに去られてはたまらない。どうにかしてこれを永久に存しておかなければならない。ああ、平和、平康、安心、聖書に書いてある『人の思いに過ぐる平和』とはこの事であろう。わが過去はすべて忘れられ、わが未来は希望に満々たり、人生の意味はわかり、ことに苦痛問題は美事に解釈され、天は晴れ、地は動かず、木も草も、獣も鳥も、日も月も星も、みなわれに同情を寄するように思われる。これがもし天国でないならば何が天国であるか。天よりくだる新しきエルサレムを、われはこの世において見ることができて、感謝する。」〔『聖書之研究』1906年8月号より『内村鑑三信仰著作全集9』教文館〕。
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