【注釈】
■3章31~36節について
今回の部分を前節に続けて、洗礼者の言葉に含める訳があります〔新共同訳〕〔NRSV欄外の読み〕。また、洗礼者の言葉を30節で終えて、31節からは福音書の記者自身の言葉とする訳もあります〔NRSV〕〔REB〕〔岩波訳〕。あるいは31~36節が内容的に21節に続くほうが適切だとして、これを21節以下に移し替える注釈もあります〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。内容的な継続だけで判断するのなら、むしろ12節に続けるほうがより適切でしょう〔シュナッケンブルク『ヨハネ福音書』(1)〕。12節に続けるのであれば、今回の箇所は、3章10節に始まるニコデモに対するイエスの答えに含まれることになります。
以上で分かるように、本文を現在の構成のままで読むなら、ここは洗礼者の言葉にもなり、見方を変えれば福音書の記者の言葉にもなり、3章の流れから見てイエスの言葉として読んでもおかしくありません。3章のイエスとニコデモの対話には、イエスの言葉とも福音書の記者の言葉とも受け取れる語りが続きます(16節以降)。同様に、イエスの洗礼活動に対する洗礼者の弟子たちの批判があり、続く洗礼者の言葉があり、これに、洗礼者の言葉とも記者の言葉とも、あるいはイエスの言葉ともつかない今回の語りが続きます。ヨハネ福音書では、誰かとイエスの対話からイエスだけの語りに変わったり、物語からイエスの言葉や福音書の記者の言葉へ移行するのです。だから今回の部分は<間違って>配置されているのではなく、意図的に現在の形に編集されていると見るべきです。
わたしたちは序の言葉のロゴス賛歌の中に、散文スタイルで、洗礼者の到来が、光であるロゴスの証人として登場するのを見ました。続いてカナの婚宴では、洗礼者の洗礼を象徴する水から、イエスの交わりにある喜びのぶどう酒へ変化する神の奇跡が語られ、続いてエルサレム神殿の浄化が、洗礼者がその流れを汲むクムラン宗団とエッセネ派の反エルサレムの視点から語られました。3章では、洗礼者と対比されるニコデモが登場し、水と御霊にあって新たに/上から生まれることが、どのように起こるのかが語られました。続いて洗礼者の水の洗礼とイエスの洗礼の関係が問われました。それから、花婿イエスと共にいる洗礼者が、その友であると証しされます。今回は、このイエスと洗礼者の対比を受け継ぎ、これをニコデモとイエスの対話と重ね合わせて、全体をまとめて締めくくるように構成されているのです〔ドッド『第四福音書の解釈』〕〔バレット『ヨハネ福音書』〕〔ブラウン『ヨハネ福音書』(1)〕〔McHugh.
John 1-4. ICC. 253〕。
4章ではサマリア人との交流があり、5章からはユダヤ人との対立が顕著になります。ヨハネ福音書の編集者は、序文から3章の終わりまでを洗礼者と関連させ、4章以降では、イエスの物語が、イスラエルの神とその民の歴史と深く結びつくことを聞き手と読者に確認させるのです。
ブルトマンは、今回の箇所が3章11~21節と同じ資料から出ていると洞察しています。ヨハネ福音書の記者は、ヨハネ共同体の始祖である「主の愛弟子」の伝承を編集しています。その際に、始祖がアラム語で語るのかギリシア語かをも含めて、どこまで自分の手で書き著わしたのか? これを見極めるのは困難です。信友の水垣渉氏は、ヨハネ福音書の文体に独特の「カイ」(そして)の繰り返しが見られると指摘しています。この「カイ」(そして/それから/それで)の繰り返しと、ヨハネ福音書独特のリズムのある語り口は、一人の始祖の口頭伝承を示唆するものです。おそらく、始祖の伝えた伝承は幾度も類似の内容が繰り返されて語られ、それらが弟子たちによって筆記されたのでしょう。福音書記者は、この口伝伝承をできるだけ活用しようとした結果、類似する内容が繰り返される形を採る構成になったのでしょう(例えば14~16章のように)。この場合、師弟間の霊的な同一性から見て、イエスの語りと、その御霊にある始祖の語りと、記者/編者の語りとが、必ずしも厳密に区別されるわけではありません。こう考えると、ヨハネ福音書は、これを現在の姿で解読するのが最もふさわしいと思われます。
■3章
[31]【上から来られる方】これはイエスを指します。31節を洗礼者の言葉とするなら、1章27節/同31節にもつながります。「来る方」は現在分詞で、「すでに来た方」「今来ておられる方」「これから来る方」のどれをも指す過去・現在・未来を含む無時間的な用法です〔マキュウ『ヨハネ福音書』〕〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。
【すべてのものの上】「すべてのもの」(男性とも中性ともとれる)は人間をも含む被造物全体のことです(ローマ9章5節)。だから1章15節で洗礼者が証ししたように、神と一つであるロゴスを指します(エフェソ4章5~6節参照)。しかもこれは、3章5~6節で語られた「水と霊」にもつながりますから、この方こそ水だけでなく御霊にあって洗礼(バプテスマ)する方です〔ブラウン『ヨハネ福音書』(1)〕。「すべてのものの上」とは、神と御子が万象を支配しておられることを指すだけでなく、これによって生じる事態が、人間の思惟や知性を超えるところから来ているという意味です〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。
【地から出る者】「上から来る方」がイエスであれば、「地から出る者」は洗礼者だけでなく「地の塵から」造られた人間一般をも指すのでしょう(創世記2章7節/第一コリント15章47節)〔マキュウ前掲書〕。「上から」と「地から」の「から」は、起源とその性質を指しますが、必ずしも「地」そものを罪深い悪の存在として、「天」に対して否定的にとらえているのではありません。神が創造した宇宙とそこに働く神の計画は、人間にはとらえることができないという意味です。続編のラテン語エズラ記4章1~10節で、天使ウリエルが、エズラ記の作者「私」に教えを与えます。ウリエルは、「火の重さ」「吹く風」「星の運行」など、「あなた」には身近なことさえ理解できないのに、また「あなたは自分にかかわりのあることさえ知ることができない」のに、どうして至高者の道を理解できようかと告げ、さらに「陸が森に与えられ、海がその浪に与えられているように、地上に住む者は地上のことだけしか理解できないのだし、天上に住む者だけが、諸天の高みの上のことを理解できる」と教えています。
[32]31節の最後の部分で「すべてのものの上におられる」が繰り返されています。この部分が抜けている異読があり、この場合、31節の「天から来られる方は」は32節につながって「天から来られる方は、見たこと、聞いたことを証しされるが」という読み方になります。抜けているのは繰り返しを省いたためなのか?繰り返されている部分が筆写の際に謝って書き入れられたのか?どちらとも決めかねます〔新約原典テキスト批評〕。
【証しする】32節は3章11~12節を受けています。主語は「わたしたち」ではなく「上から来られた方」(単数)です。ここは福音書記者が、先の11節のイエスの言葉を繰り返しているのでしょう。「見た」は完了形で、現在でもそれが続いていることを表わし、「聞いた」はアオリスト形で、イエスが父から「聞く」場合にしばしば用いられます(8章26節/同40節/15章15節)。「証しする」は現在形で、現在も地上に来ている方が証ししていることです。しかも現状では、「その証し」(繰り返しで強められています)を受け入れる者がいないのです。3章11節の場合と同様に、ここでも「見たこと」「聞いたこと」の内容それ自体は語られません。だから「証しする方」が、今この時に証ししており、天から来た方が今語っている、ただ<そのこと>だけを語るのです。これを「受け入れる」とは、語られた内容ではなく、語っている方自身を受け入れることです。神の聖霊によって生まれるという事態は、このような状況で生起します。だから、32節が34節を生じさせるのです。
[33]【確認する】原語は文書を承認するときに押す証印のことで、ヘブライ語の語法です。王侯たちは、自分が出す命令や文書に自分の指輪の紋章を刻印して封をしました。これが、その命令なり取引を現実に執行する者への「確証」となります。「証印」は6章27節/第一ヨハネ5章9~11節にもでてきます。おそらく、これはパウロ書簡の「聖霊の証印」を受け継いでいるのでしょう(第二コリント1章22節)。ユダヤ教では人への慈悲深い行ないが「主の印章」と言われました(シラ書17章22節)。原文の真意は「御子の証しを受け入れる者(単数)がいるというそのことこそ、神が真実に存在していると聖霊が確証している」です。すなわち「ここでは、理解しがたいことが起こったことを告げている。彼の証しを受け入れる者がだれもいないその中にあって、受け入れる者がいることである。だから信じる者とは奇跡的な現実存在であり、神の啓示の封印/確証であり、これを裏書きする者」です〔バルト『ヨハネ福音書』〕。このようなことが生起するためには、そこに長い祈りがなければなりません。だから次のように洞察されるのです。
「この福音書の著者は、この世に生を受けたイエスが、普通の人間ではなく神に源を有する人間であるという彼(記者)の言葉を述べたのちに、ここで神の知恵の証しとなる言葉をイエスの唇に載せようとしている。それは、手をさしのべる神の愛について長い間たゆまず黙想した祈り深い人だけが、(すなわち)聖書的な霊感を受けた人だけが、成し遂げることができたことであろう。(福音書の記者)ヨハネは、イエスの発言をある特定の仕方で長い間熟考した宗団(ヨハネ共同体)の中で彼の人生を生きた。ヨハネ門下の一団(ヨハネ共同体)は、このような解釈の手法に熟達している」〔スローヤン『ヨハネによる福音書』〕。
[34]【神が遣わした方】これはイエスのことですが、洗礼者のことを含んでいてもおかしくありません(1章6節参照)。
【限りなく】原文は「秤を用いずに」の意味ですから、反対は「秤で量りながら(与える)」ことです。原文では、「(霊を)与える」の主語は、「神」とも「神が遣わした方」とも解釈できます。「神」を主語と解する説が多いのですが、この34節は、6章63節のイエスの言葉「わたしがあなたがたに話したのは霊であり命である」と並行するという指摘があります〔ブラウン『ヨハネ福音書』(1)〕。水だけでなく霊によって「新たに生まれる」(3章5~6節)ことを指していますから、ここは「イエスの言葉と神の言葉との同一性を確証している」〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕と見るべきでしょう。神が御霊を限りなく与えるとは、神が、御子の御霊を通して人々に限りなく語ってくださることです。「限りなく」語ってくださるそのことが恩寵であり、わたしたちが神の御言葉である御霊のお働きに安心して信頼し、これにすべてを委ねきることができる根拠なのです。
[35]【父】「父」がでてくるのは、1章14節「父の独り子」と、同18節「父のふところ」に次いで3度目です。父なる神は3章16節では「この世を愛し」、今回は「御子を愛する」です。3度目の「愛する」が34節の「御霊を限りなく賜わる」ことを受けて、これが「世を愛する」(3章16節)ことと「すべてを御子に与える」ことにつながります。おそらく35~36節は、洗礼者の言葉でもなく、イエスの言葉でもありません。ここは始祖が伝えた伝承によるのか、あるいは福音書記者が自分の言葉で3章全体を締めくくっているのです。
【御子を愛する】3章16節では「世を愛した」(アオリスト形)でしたが、今回は現在形です。父のふところにいる独り子の永遠の愛から、「世を愛した」という歴史における霊的な「出来事」が、御子を通じて生起したのです〔バルト『ヨハネ福音書』〕。この「愛」が続く「委ねた/与えた」の根拠になります。
【ゆだねた】原語は「与えた」(完了形)です。「御子の手に与えた」とあることから「委ねた」と訳されています。ヨハネ福音書は父の御子への愛とその結果について一貫して語っています。父が御子に「与えた」のは、今回の「すべてのこと/万物」であり(コロサイ1章15~20節参照)、「裁き」であり(5章22節/同27節)、永遠の命であり(5章26節/10章17節)、御子のもとへ来るすべての人であり(6章37節)、すべての人を支配する権能であり(17章2節)、語るべき言葉であり(17章8節)、父の御名であり(17章11~12節)、そして栄光です(17章22節)。共観福音書でこれに匹敵する箇所はマタイ11章27節=ルカ10章22節でしょう。
[36]【信じる人】「信じる者」が、その行為への報酬として永遠の命を得るのではありません。また「従わない者」が、その行為への罰として命を見ることができないのでもありません。「信じる」ことそれ自体が命に与ることであり、「従わない」ことが、すなわち命を見失っていることなのです〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。「信じる/信じない」と「従う/従わない」が対になってでてくるのは、ヨハネ福音書ではここだけですが、「信じる/信仰」も「従う/従順」も、どちらもパウロ系書簡でしばしば用いられています(ローマ1章5節参照)。
【従わない】この言葉は、ヨハネ福音書では希ですが、パウロ系書簡で「従わない」は、これの名詞「不従順」とともにイエスを拒否することを意味する専用語です(ローマ5章19節/同11章30~32節/エフェソ2章2節)。
【命にあずかる】原文は「命を観る(3人称単数未来形)」です。3章3節に「神の国を観る」とありますから、結びのこの「観る/観ない」も御霊によって「新たに生まれる」ことにかかわっています。なお「信じる(者)」「従わない(者)」「(怒りが)とどまる」は、すべて現在形ですから、人の霊的な有り様を指すのであって、一時的な行為のことではありません。
【神の怒り】ヨハネ福音書が言う「裁き」は、かつてのクムランやエッセネ派のように、人を神に属する正しい人とそうでない人とに分けて、自分たち以外の人はことごとく「裁かれ」て滅びるというユダヤ黙示思想から来る独善的な「裁き」ではありません。また、共観福音書にしばしば見られるような、イエスを信じない者は、イエスの神によって怒りを招くというのでもありません。ヨハネ福音書では、人間が<自分の目で>イエスを判断し、<己を中心にして>神を判断すること、そのこと自体のうちに神の怒りと裁きが含まれていると考えるのです。「神の怒り」は、ヨハネ福音書ではここだけですが、この言葉は、共観福音書で洗礼者が悔い改めを迫る時に用いている言葉です(マタイ3章7~8節=ルカ3章7~8節)。今回の結びは、そのまま洗礼者の言葉として語られてはいませんが、洗礼者宗団からイエスのもとへ(そしてヨハネ共同体へ)参入した者たちにとって、かつて洗礼者が説いていた「神の怒り」と「悔い改め」が、イエスの御霊にある新たな意味を帯びて受けとめられたことでしょう。また、「神の怒り」は、紀元70年のエルサレム神殿の崩壊とユダヤの滅亡を体験した人たちには、御子イエスにある全く新しい未来への希望でもあり警告としても響いていたと考えられます〔マキュウ『ヨハネ福音書』〕。
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