24章 サマリアの女
4章1〜26節
■4章
1さて、イエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、洗礼を授けておられるということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると、
2 ―洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである―
3ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。
4しかし、サマリアを通らねばならなかった。
5それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。
6そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。
7サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。
8弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。
9すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。
10イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるかを知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」
11女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。
12あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」
13イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。
14しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
15女は言った。「主よ、渇くことのないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」
16イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、
17女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。
18あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」
19女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。
20わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」
21イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。
22あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。
23しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。
24神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」
25女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」
26イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」
【講話】
【注釈】
■探し求めること
イエス・キリストを信じて歩む信仰者たちの姿を観ていると、いろいろなタイプの人たちがいるのに気づかされます。現在この国には、カトリック系、プロテスタント系、ハリスト系東方教会の三つを併せると、ありとあらゆる種類の「キリスト教」が共存していますが、それぞれの「キリスト教」は、まるでホテルのようで、部屋同士の互いの交流があまりないようです。こういう多数のキリスト教の間をうろうろしながら、いろいろな部屋に顔を出してのぞいて回る人たちがいます。
今回の「水を飲む」譬えを用いるなら、こういう人は、自動販売機の缶ジュースを飲むように、自分の好きな時に、いろいろあるものの中から、その時々に飲みたいものを買って飲んでいるようです。言うまでもなく、どの缶を飲んでもまたすぐ喉が渇きます。人々の口に合うように工夫した飲物が多いのでどれもおいしいのですが、こういう飲み方は体に良いとは言えません。新しいものや宣伝の上手なものに惹(ひ)かれて飲んでいると、ついには体を壊してしまう危険さえあります。いろいろなキリスト教の大集会に出ては有名な先生の集会を梯子する人も、注意しないとこれに類することになります。
次のタイプは、どこか一箇所の水を飲むように心がける人です。家庭の水道からか、井戸からか、決まった場所の水を飲む人です。この人は落ち着いた人ですが、いくら飲んでもまた渇きますから毎週自分の通う教会や集会へ出てそこで水を飲まなければなりません。現在日本のキリスト教信仰者のほとんどの人がこのタイプに属する人たちでしょう。
ところが、少数ながら上の二つとは異なるタイプの人がいます。どの集会どの教会にも所属しないで自分一人で聖書を学んでいる「オタク」タイプの信仰者です。実はこのタイプが最近は増えています。現在は、インターネットや本を通じていろいろなキリスト教にいくらでも接触できますから、これが一番便利で、ある意味で「気楽」です。しかしこのタイプの人は、いくら自分で勉強しても、知識は増えますが、それで喉の渇きが治まるかと言えば決してそうではありません。いくら勉強してあれこれ本を囓(かじ)っても、求めるものは一向に手に入らないから、いつまで経っても喉の渇きをなくすことができません。
どのタイプの人でも、キリスト教になにかを「探し求めている」ことに変わりありません。それなりに一生懸命やっていますから、それが悪いとは言いません。しかし、せっかくイエス・キリストに興味を抱き、聖書を読もうという気持ちになっているのですから、そういうやり方をもう一歩進めて、ぜひ<自分の内に井戸を掘る>人になってほしいと思うのです。これが、今回サマリアの女の物語でわたしたちが学びたいことです。
サマリアの女は、社会的に見て孤独な人だと思いますが、自分だけの水を飲もうとやってきます。ところがそこで、イエス様と出会うことになります。大事なことは、この場合、彼女のほうからではなく、<イエス様のほうから>語りかけてきたことです。上に述べた人たちのほとんどは<自分が探し求めている>と思っている人たちです。このサマリアの女と同じように、まさかイエス様のほうから、自分に語りかけてくださるとは考えもしない人たちです。
実はここに大事なことが隠されています。それは、自分ではけっこう一生懸命「探し求めている」つもりでも、いざほんとうに<イエス様がその人に声をかけると>、彼/彼女は尻込みするのです。自分では神を求めているつもりでも、神様がほんとうに語りかけると<何を言われ何をされるか分からない>と避けて逃げるのです。
アーサー王伝説にガラハドという騎士がいて、彼は聖杯を「探し求めて」諸国を旅して歩き回ります。ところがある時、彼の目の前に、聖杯を手にした貴婦人とこれに従う人たちの行列が現われます。彼はあっけにとられて、<黙ってそのまま見て>います。彼がなんにも言わず、なんにもしないうちに、その行列は目の前を通り過ぎて行きます。その去り際(ぎわ)に、貴婦人は、とても悲しそうな顔をしてガラハドをじっと見つめたのです。せっかく長年探し求めていたものが今自分の目の前にあるのに、彼はその一番大事な時に与えられた機会を逃してしまったのです。彼は今自分に与えられている体験に応えることも問いかけることもせず<ただ黙って見過ごした>からです。自分からそれにかかわろうとしなかったのです。彼はかかわることを怖れたのです。
サマリアの女は、そうでありませんでした。彼女はプライドや思惑(おもわく)などにとらわれず、素直に率直に自分の疑問をイエス様に告げました。何のことだかさっぱり分からなくても、イエス様からの語りかけに<とにかく応答した>のです。そこからイエス様と彼女との関わりが始まりました。その結果、初めはイエス様のほうから彼女に水を求めていたのが、いつの間にか、彼女のほうからイエス様に生きるための水を求めることになります。彼女が差し出した一杯の水が、イエス様から与えられる永遠の水に変わったのです!だから信仰者に求められるのは、自分の分別を働かせて「利口」になることではありません。それは、かえって信仰の妨げになります。真(まこと)の信仰者に求められるのは純真な心、単純にイエス様に向かう純真さです。信じない人に神は<語ることさえできない>のです。
■湧き上がる霊性
すべては<イエス様のほうからの語りかけ>で始まりました。だからこれは彼女のほうから出たのではなく、神様のほうから来たのです。わたしたちの場合で言えば、長年クリスチャンをやっているからできたのではなく、経験や知識や経歴とはかかわりなく、なぜか分からないけれども、イエス様のほうから来たのです。
ヨハネ福音書では、最初の弟子たちでも、ニコデモでも、サマリアの女でも、それぞれの理由でイエス様のところへ来ます。しかし、イエス様を信じるように導かれる<その前に>、イエス様のほうからその人に語りかけるのです。語りかけの内容は謎めいていたり、不思議な出来事であったり、よく分からないのですが、イエス様はその人に<何か語りかける>のです。イエス様は、ご自分のところへ来る人には、黙っていないで必ず語りかけてくださる、これがヨハネ福音書の伝える大事なことです。ヨハネ福音書は、イエス様がわたしたちに今<語りかけてくださる>と語りかけているのです。
イエス様の語りかけを聴こうと祈りつつ、黙って耳を澄ませると、あるいは静まって聖書の御言葉を読むと、イエス様の御霊があなたに語ります。イエス様は復活されて、今もわたしたちと共に居て、働いてくださるからです。どんなささいな体験でもいいのです。<自分から>何かをやろうなどと考えないことです。頑張る必要も熱心に努力する必要もありません。サマリアの女のように、ただそのままイエス様に向き合えばいいのです。そうすれば、自分の思いこみや知識や経験をはるかに超える何か驚くべきものの御臨在を覚えることができます。
ナザレのイエス様の御名にあって祈る時、その呼び求めに応じて働いてくださるのが御霊ですから、その御霊の導きに身を委ねてください。そうすれば、イエス様の御人格を映し出す御霊が働きます。自分の想い、自分の知識、自分の理知をも主に委ねて、御霊のイエス様に導かれるまま祈る時、異言が生じたり、エクスタシーに入ることがあります。不思議なことに、その場合でも、そこから抜け出そうとすればいつでも抜け出すことができます。御霊に導かれる受動の中には、その人の能動的な意志も包含されているからでしょう。イエス様を通じて父なる神へ委ねると、そこから初めてこんこんと命の泉が体の奥から湧き上がってきます。我知らず人知れず湧き上がってきます。これが永遠の命へ<いたる>水です。創造の神のお働きにあって、わたしたちを通じて働き<創り出される>命です。
自分で祈るのではない。何ものかに動かされて祈らされるのです。これがイエス様から「与えられた」祈りであり、そこに働く御霊こそほんものの「真理の御霊」です。「ほんもの」であり「真理」であるとは、その祈りがイエス様の御霊の御臨在につながる永遠性を有するだけでなく、「今の時」において<現実に>働くことを意味します。イエス様の祈りは、わたしたちのやるような「願望」ではありません。現実に働き、真実を創り出し、出来事を生じさせるのです。
■露(あら)わにされる霊性
サマリアの女がイエス様との交わりに入るにつれて、自分の過去が暴かれます。隠れていた自分の内面の姿が露(あら)わにされます。だから彼女は、自分の知られたくない姿を見せつけられて動揺し、不安を覚えたでしょう。しかし、御霊にあって与えられるこの不安こそ、イエス様のもとへ来て「永遠の命の泉」を見いだすためにどうしても必要な体験です。イエス様の御霊は、どんな立派な人でも、例外なく「この不安」へ導き入れます。その不安が、永遠の霊性という人間の生き方の窮極に到達するために必要だからです。5人の夫に象徴されるそれまでの彼女の迷誤の足取りが、このようにしてあからさまになり、露(あら)わにされることで取り除かれます。こういう場合には、思い切って棄てるのです。そこに啓(ひら)けるのが御復活のイエス様です。自分と共におられるイエス様です。
神を知るとは、己を根底において支えてくださるお方がおられると知ることです。信仰とは、己を創造された神に信託する心です。疑い怖れ迷い、自分に潜む邪念や、祈りを邪魔する思念、それらをも乗り越えて、なお深いところで自分を支えてくださるのがイエス様の御霊のお働きです。そこから悦びが湧き愛が生じ平安が訪れます。これが、イエス様の言われる「永遠の命にいたる泉」です。
■コイノニアの霊性
イエス様は、サマリア人のしかも女性と同じ容器から飲むことを申し出ました。これはユダヤ人の男性なら決してしないことです。彼女が「(異端の)サマリア人の女性が汲む水を飲むのですか」と不思議に思って問い返すのも当然です。彼女は、とにかくイエス様の求めに応じて、サマリアの女なら通常できないはずのことをあえて行なった。この異常な「交わり(コイノニア)」はいったいどこまで発展するのでしょう。
今度はイエス様のほうから、一度飲んだら二度と汲みに来なくてもいい「水」があると彼女に告げて、そのような「命の水」をあげようと語りかけます。何のことか分かりませんから、そんな水をどこから汲むのかと、おそらく彼女は冗談半分に聞き返したのでしょう。そこで、イエス様は初めて、「永遠の命が湧く泉」のことをこのサマリア人にお告げになります。
イエス様は、これを譬えでお語りになります。譬えで語るのは<霊的な>事柄だからです。譬えは分かる人には分かりますが、分からない人には謎です。それでも彼女は、この不思議な人と対話を続けているうちに、自分の過去を言い当てられるという「しるし」が与えられて初めて、相手がユダヤの預言者だと気づいたのです。
ただし、預言の超能力の「しるし」を通して神様を信じるだけでは、ほんとうの「霊と真理の礼拝」にはなりません。さらにイエス様への祈りを深めることによって初めて、「わたしはいる」というイエス様の御霊の現臨を知るからです。「わたしはいる」のギリシア語は「エゴー・エイミ」です。イエス様は「今あなたに語りかけているのは<わたしはいる>だよ」と言われた(26節)。コイノニアとは、今ここに御臨在するイエス様の御霊との交わりのことで、「エゴー・エイミ」の霊性です。時間と共に動く霊性ですから、これは時を流れる「生きた水」の霊性です。
■根源の霊性
ヨハネ福音書で、イエス様は「わたしの父」を16回も繰り返しておられます(共観福音書ではマタイ福音書で3回、ルカ福音書で2回)〔新共同訳〕。サマリア人の遠い先祖(父)と対比される「イエス様の父」とは、ユダヤ人の先祖のことではなく、さらに遠くさらに大きい人類の創り主である「父」のことです。だから、イエス様が「父」と言われるのは、人類をこの世に生みだした創造の父のことを指しておられます。イエス様の「わたしの父」とは、「自分だけの父」のことではありません。そのような限定された「父」ではなく、人類の発祥にさかのぼる<根源的な父>のことです(エフェソ3章14〜19節を参照)。
イエス様が「永遠の命が湧く泉」と言われるのは、このように人類の霊性の流れの根源である<父の御霊>から泉が流れ出ていることを指します。だから、この泉からの水の流れは、国や民族や性別はもとより、もろもろの宗教をも含む人類のいっさいの営みを貫流する霊性の根源から出ている霊泉のことです。イエス様が、この山(サマリアのゲリジム山)でもエルサレムでもない場所で「<父を>礼拝する」と言われるのはこの意味です。こういう霊性は、これからも永遠に続くであろう宇宙の働きそのものに宿る<命>です。
だから、イエス様の父の御霊に動かされて礼拝する者こそ「まことの礼拝者」であり、このような礼拝こそ「御霊と真理にある」礼拝です。それは、エルサレムの神殿礼拝もゲリジムの神殿礼拝も、古今東西の人類の宗教史を形成するもろもろの礼拝も、これらすべてを否定も肯定もしません。なぜなら、イエス様の父の御霊は、これらすべての根源を成しており、それ故にこれらのすべてを超えているからです。
イエス様の「父」は、ユダヤ人の「父」であり、サマリア人の「父」ですから、ゲリジム山からエルサレムへ向かう必要はありません。イエス様の与える水は「二つの山を超えている」のです〔バルト『ヨハネ福音書』〕。それはあらゆる祭儀的な礼拝が指し示そうとする意義それ自体であり、それゆえに、あらゆる祭儀を超える<霊的な>礼拝なのです。その霊性は、よどむことなく常に流れる「生きた水」であり、人類の過去から現在を通り未来へ向かう流れです。最後には、神の小羊の御栄光にあって、神殿さえも消えて無くなる(ヨハネ黙示録21章22節)時が来るのです。
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