25章 刈り入れについて
                      4章27〜42節
■4章
27ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。
28女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。
29「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」
30人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。
31その間に、弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と勧めると、
32イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。
33弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。
34イエスは言われた。「わたしの食物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。
35あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、
36刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。
37そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。
38あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」
39さて、その町の多くのサマリア人は、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。40そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。41そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。
42彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」
                 【講話】
                 
【注釈】
■御霊にある生き甲斐
 前回は、イエス様からの永遠の命が、湧き出る泉のように、わたしたち一人一人の心に宿ることについてでした。今回は、これを受けて、そのような神からの命が、わたしたちにもたらす生き甲斐を知りたいと思います。イエス様の十字架と御復活の物語を知り、イエス様の贖いの血による罪の赦しを受け入れ、いわゆるキリスト教の基本的な「教え」を信じて、洗礼を受けて教会員になり、信仰生活を続ける。こういう「クリスチャン」と呼ばれる人たちが現在この国に、少なくとも50万人ほど(?)います。
 けれども、せっかくクリスチャンになりながら、いつの間にか教会から離れたり、あるいは教会生活を送りながらも、いつまで経っても心の内に聖霊による喜びや救いの平安を抱くことができないでいる人がいるようです。教会員がゴールではなく、洗礼が到達点でないのは、結婚式が結婚生活のゴールでも成就でもないのと同じです。わたしたちが主を信じるように召されたのは、霊的に成長するためです。霊的に成長するためには祈りが欠かせません。前回は、イエス様の語りかけのもとに自分を置いて、イエス様にいっさいをお委ねして歩むことを学びました。イエス様に全託することを知るとは、イエス様に全託する「喜び」を知ることです。サマリアの女の体験を例に採れば、自分自身の内面がイエス様の御霊のお働きに曝(さら)されることによって、己の過去とその罪性が明るみに出されるだけでなく、自分自身を深く知るイエス様の御霊に導かれるままに、イエス様を深く愛するようになるのです。
 イエス様を愛することで、イエス様の御心を祈り求め、御心を祈り求めることで、その御心を行なうよう導かれるのです。これこそ、神がイエス様を通じてあなたに求めておられることです。御心を知り、これを求め始めると、あなたに不思議な「喜び」と「平安」が訪れます。イエス様にある愛と喜びと平安の三つは、パウロが「御霊の実」と呼ぶもので、クリスチャンにとって最も大事な特性です(ガラテヤ5章22節)。これこそが、永遠に到達する命の水であり(14節)、このような御霊の働きこそ、永遠の命にいたる「実」(36節)を結ばせます。この喜びを味わうことが、イエス様の言われる「霊の食べ物」です(32節)。神のみ心を行なうことは、人間の最高の喜びであり、同時に、そこに最大の自由があること、これによってあなたの知識、能力、環境の一切が活かされること、これを知る時、あなたは人生の目的を知り、自分がなんのために「生かされている」のかを悟るのです。
 残念ながら、クリスチャンと呼ばれる人でも、ここまでいたらない状態で信仰生活を送っている場合が多いようです。パウロに言わせると、そういう人たちは、成人の「固い食べ物」を食べることができない人たちです(第一コリント3章1〜3節)。牧師さんやそのほかの人の助けに支えられていても、自分でイエス様に祈り求めて、自分だけに用意されたおいしい食べ物を受け取っていない人です。
■イエス様から聴く
 サマリアの女は、イエス様から自分の過去を言い当てられて、イエス様が自分の一切をご存じであると直感しました。彼女は、この「救い主」の語りかけに、思い切って身を委ねたのです。信仰は、たとえ人を通じて伝えられたものでも、あなたの内で真の信仰へ成長するためには、「人」となられた「あの方」から、直接<あなたへの>御言葉を聴かなければなりません。たとえ人の言葉を経由している場合でも、あなたが<直接に>ナザレのイエス様から聴くまで突き進むのです。そうすれば、サマリアの女のように、主様は「あなたのこと」を何もかもご存じなのだと分かります。大切なのはゲリジムでもシオンでもなく、「イエス様に属する」ことです。もしもあなたが、イエス様の御心を求めて、その御心に応じて歩むならば、必ずあなた自身が「永遠の命の実」を刈り取る人になります。主様があなたと共に歩み、あなたのする業を祝福されます。わたしたちは、主イエス様から遣わされて初めて<福音を伝える>ことができるようになるからです。
 「福音する」とは、御復活のナザレのイエス様を伝えることです。これは、この「わたし」が「永遠の命の実を集める」という途方もない仕事をすることだと気づいてください。「宣教する」とは、それ以上でも以下でもありません。それは、わたしたちが自己努力で成すべき業ではなく、わたしたちを通してイエス様とその父なる神がなさる御業なのです。だからパウロはこう言うのです。「わたしが植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです」(第一コリント3章6〜9節)。
■イエス様を伝える
 かつては、特定の選ばれた人だけが、「神のみ業」に直接参与できました。しかし、「今は、誰でもが」、この刈る者になることができます。今は、主が様々な人に「わたしがあなたを遣わす」と言われて、この世に送り出してくださるのです。「<来るべき時>はまだ来ていない、こうあなたたちは思うだろう。しかしよく観なさい。それは今日であり、今なのです」(4章35節)。ここでは、いわゆる「伝道」だけが問題になっているのではありません。今の時に、イエス様からの啓示に出合い、これに生きようとするなら、わたしたちの霊性を通じて神が、様々な形で働いてくださるからです。ただし、わたしたちのイエス様にある霊性は、これをことごとく過去の主にある人たちに負っています。彼ら無くして現在の私たちはなく、わたしたち無くして未来の主の僕たちはいません。兄弟たちが生きればわたしも生き、死ねばわたしも死ぬのです。
 サマリアの女から間接的にイエス様の話を聞いた人たちは、今度は自分たちが、<直接イエス様のところへ>出かけていって、イエス様からのお言葉を聴いて確かめました。直接イエス様から御言葉を聴くことで初めて、自分に伝えてくれた人から独立します。だから、宣教する者は、その宣教の後で、今度は、自分が伝えたまさにその者たちの霊性によって「批判される」側に立たされることになります。宣教の内容それ自体は、どこまで行っても<最終的な教義として確定される>ことがありませんから〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。
 イエス様は、人と人を、民族と民族を、宗教と宗教を隔てる壁を克服して歩み続けておられます。イエス様こそ「世の罪を取り除く神の小羊」だからです(1章29節)。人類の終末に顕れる「神の小羊」だけが、人類の宗教的な霊性の最終的な意義を定めるからです(ヨハネ黙示録21章22節/同22章16〜17節)。福音は、人類の歴史の歩みの中で、常に新たに変容しながら、世界に向けて前進します。しかし、福音の要(かなめ)であるナザレのイエス・キリストを通じて働く御霊は変わることがありません。「イエス・キリストは、昨日も今日も永遠に変わることがない」からです(ヘブライ13章8節)。
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