【注釈】
■4章
[27]【驚いた】ユダヤ教のラビの言葉に「男性はたとえ自分の妻とでも、通りで女性と語り合ってはならない」とあるほどですから、ユダヤ人でないサマリアの女との対話は、弟子たちにとって驚き以上のショックだったでしょう。「それにもかかわらず」弟子たちはあえて尋ねることをしなかったのです。
【何かご用ですか】原文は「何を尋ねているのですか?」あるいは「彼女と何を語っているのですか?」ですが、ここは直接話法〔新共同訳〕〔フランシスコ会訳聖書〕にも間接話法〔岩波訳〕にも訳すことができます。内容的に判断するなら、原文直訳ではなく「なんの用ですか?」あるいは「<なぜ>彼女と話しているのですか?」の意味に採るほうがいいでしょう。"What do you want?" "Why are you speaking with her?"〔NRSV〕イエスが第三者と話している際に、弟子たちがその内容それ自体を尋ねることはないと思われますので、「なぜ?」のほうが適切です。ただし「何を求めておられるのか」「この女と何を語り合っておられるのか」〔岩波訳〕。霊的な啓示は、人種や性別とはかかわりなく、その人「個人」に啓示されることをヨハネ福音書はここで伝えているのです〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。
[28]~[29]【水がめをそこに置いたまま】女が水がめを置いていったのは、「生きた水」に対して「無用の水(がめ)」だからでしょうか〔ブラウン前掲書〕。自分が何のためにそこへ来たかのかを忘れてしまったからでしょうか〔シュルツ『ヨハネによる福音書』〕。それとも彼女が再び戻ってくることを読者に予想させるためでしょうか〔マキュウ『ヨハネ福音書』〕。ここから、イエスと弟子たちとの会話に入り、話題がイエスの食べ物と刈り入れのことに移ります。ここは39~42節で起こることの前触れです。
【もしかしたら】この原語には強めと否定の両方の用法があります。ここでは強めで「この人はあのメシア(原語はキリスト)ではないでしょうか」です。「言った」は原文では現在形です。
[30]【やって来た】「続々と」来たことですから、継続を表わします。「<そこで>人々は」という異読もあります。
[31]~[32]31~38節には、「間に」「刈り入れ」「刈る者」「報酬」「蒔く者」「食べ物」「苦労」など、ヨハネ福音書の他の箇所では用いられない言葉がでてきます。ヨハネ福音書の作者でも編集者でもない者がこの部分を挿入したのか、それとも伝承された資料がそのまま用いられているのか判断できません。この見方に対して、文体や言い回しがヨハネ的な特徴を帯びているとも指摘されています〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。この部分で弟子たちは、ニコデモや女のように、地上的な「食物」と「天上の食物」とを混同していますが、これもヨハネ福音書の手法です〔ブラウン『ヨハネ福音書』(1)〕。だからここは、伝承に基づきつつ、編集者が手を加えていると見るのが適切です。
【勧めた】原語は「懇願した」に近い意味です。弟子たちは師(イエス)が飢え疲れていることを心配しているのです。
【知らない食べ物】ここは「食べ物」(原語「ブローシス」)ですが、34節では「食事」(原語「ブローマ」)です。イエスが霊的な「食べ物」のことを指しているのに、弟子たちはそれが理解できないので、イエスは、改めて34節で、「自分が生きるための支えとなる」ものとして「食事」と言い換えたのです〔マキュウ『ヨハネ福音書』〕(この言い換えはギリシア語でしか通じません)。イエスが言う「食べ物」は、肉体の生存のためではなく、霊的に生きることを支えるものです。この答えの背景には、主のお言葉を「食べ物」と見る申命記8章3節(=マタイ4章4節)があるのでしょう。なお、神からの「知恵」を食べ物に譬える点ではシラ書24章19~21節を参照。
[33]~[34]「神の意志は(人の)食物である」は、初期ユダヤ教で常に言われていたことですが、ヨハネ福音書では、「食べ物」が「イエスの父の御心」と結びついています。またヨハネ福音書で「遣わす」は、「父と子」を結ぶ用語ですが、ここでは、この語が次の「イエスと弟子たち」につながってきます。このように見ると「自分を遣わした方の御心」と「その業を最後まで成就する/成し遂げる」は、ヨハネ福音書独特の表現だと言えましょう(5章30節/7章17節/9章31~33節をも参照)。
【成就する】「成就する/成し遂げる」は、ヨハネ福音書ではここが初めてです。この言葉は、イエスの十字架上での最後の言葉「成し遂げられた」(19章30節)に対応してきます。この言い方は、ヨハネ独特の祭儀的な内容を含む用法で、イエスはすでに、「わたしの時」が来る時の「十字架による成就」の中に生きているのです。この目的に向かって歩むことがイエスの「食物」です。「我々は、ここで、ただちに、<来るべき時>、すでにしばしば語られてきたこの世から取り去られ挙げられ栄光が帰せられる時との関連を認めざるをえない。この時に向かう事によって、イエスは今在るところのお方であり、今なしている事をなすのである」(19章30節参照)〔バルト『ヨハネ福音書』〕。
[35]【すでに】「すでに」をその前の「刈り入れを待つ」にかけるか、その後の「刈る人は報いを受ける」にかけるかが問題です。ヨハネ福音書では「すでに」が通常文頭に来ますから(4章51節「すでに彼が下っていると」/7章14節「すでに祭りも半ばになると」/9章22節「すでにユダヤ人たちは決めていた」)、後の36節につなげるほうがいいでしょう。
【四か月も】この言葉が諺なのかどうかが問題にされています。
(1)諺であるとすれば、「種蒔きから刈り入れまで四ヶ月もある」は、伝統的な農耕暦に従って種蒔き時期と刈り入れ時期の間の期間を指していることになります。これは第九の月(キスレウ:現在の11~12月)の半ばまでに種を蒔き終えて、第一の月(ニサン:現在の3~4月)の半ば頃に最初の刈り入れが始まることを指します〔バレット『ヨハネ福音書』〕。
(2)諺でないとすれば、サマリアのシケムあたりでは、5月の半ばに大麦の刈り入れがあり、6月半ばに小麦の刈り入れが行なわれますから、これの四ヶ月前は1月から2月の初め頃にあたります(パレスチナではこの時期が雨期になります)。そうだとすれば、5章1節の「ユダヤ人の祭り」は過越祭にあたることになりましょう〔ブラウン『ヨハネ福音書』(1)〕。
【目を上げて】「目を上げてみなさい」(ヘブライ語「ナーサー・エナイーム」)は特に注意をうながすための言い方です(詩編121篇1節/同123篇1節/イザヤ書51章6節)〔TDOT(10)38〕。イエスは、「わたしはあなたがたに言う」と強い言い方で始めて、さらに「目を上げてみなさい」と伝統的なヘブライ語の言い方で注意をうながし、その上さらに「畑(その地域)を見なさい」と弟子たちに三重に呼びかけています。
[36]36~38節では、イエスと弟子たちのサマリア訪問とその伝道活動が、後の教会、とりわけヨハネ共同体とサマリアとの関わりと重ねられているために様々な解釈を呼んでいます。
【永遠の命に至る実】この句は14節の「永遠の命に至る湧き水」と対応しますから、単にサマリアの人たちがイエスのもとへやって来たことを指すのではなく、イエスを信じたそれぞれの個人が、己の内に聖霊の働きを宿すことを意味します(42節はこの意味)。これは、イエスとサマリア人との歴史的な出会いを指しているだけでなく、イエス復活以後に迫害を受けてエルサレムから散らされたヘレニストのキリスト教徒たち、特に伝道者フィリポがサマリアでイエスを伝えたこと、その結果、人々がイエスを受け入れたために、エルサレムからペトロと使徒ヨハネがサマリアへ遣わされ、サマリア人にも聖霊が授かったこととも重なるのでしょう(使徒言行録8章4~8節)。その結果、ヨハネ共同体にもサマリアから参入する者たちが出てきたと思われます〔新共同訳『新約聖書注解』(Ⅰ)〕。
【蒔く人も刈る人も】サマリアを訪れた時のイエスの言葉だと解釈するなら、大勢のサマリア人たちがイエスを信じ受け入れることが「刈り入れ」になりますから、「刈る人」はイエスを指します。そうだとすれば「蒔く人」とは、イエスの先達を勤めた洗礼者でしょうか〔マキュウ『ヨハネ福音書』〕。あるいは、サマリアの「刈り入れ」を預言したアモス(アモス9章13節)やホセア(ホセア14章5~8節)など北王国イスラエル以来の預言者たちでしょうか〔ブラウン『ヨハネ福音書』(1)〕。あるいは、蒔く者と刈る者が同時になりますから、父なる神とイエスの二人を指すのでしょうか〔バルト『ヨハネ福音書』〕。
 しかし、イエスは、収穫のために(刈り入れの)働き手が与えられるよう祈ることを勧めています(マタイ9章37~38節)。共観福音書では、イエスが弟子たちを宣教に遣わしたことが記録されており(マルコ6章7節/マタイ10章1節/ルカ9章1節)、ヨハネ福音書でも弟子たちが洗礼活動を行なっていたとあります(3章22節/4章1~2節)。だから今回の箇所でも、種を蒔いたのはイエスであり、これを刈り入れるのは弟子たちだと解釈することができます。この解釈だと、次の37~38節とのつながりも理解できます〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。
 ただしこの場合、種蒔きも刈り入れも終末的な出来事であると理解しなければなりません。イエスの到来は、終末的な出来事であり、したがって、イエス以後の教会でのその時々の「現在」とも重なり合うことになります。通常「種蒔き」と「刈り入れ」との間には期間が置かれますが、今の弟子たちには、そのような待ち時間は要らないのです。種蒔きと刈り入れが同時に進行するとは、<現在こそ>が種蒔きでありかつ刈り入れであるという意味です。だから、これは終末的な時期が<すでに始まっている>ことを指しています。このことは、次の37~38節の「蒔く者と刈る者が別の人」と矛盾しません。蒔いたのはイエスであり、刈り取るのは弟子たちだというのが、ここでの意味でしょう。「イエスの働きと弟子たちの働き、つまり種蒔きと収穫は同時に行なわれる。それは、一方では<史的イエス>の働きは決して回顧的に、それ自体で完結したもの、それ自体で意味を持つものとして見られてはならないことを意味する。この(イエスの)働きは、それが終わり、その終わりが始めになるとき、初めてその意味に到達する」〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。
【ともに喜ぶ】古代のヘブライでは、「蒔く者」が、必ずしもその収穫に与るとは限らず、蒔いた者の労苦が敵に奪われたり、他人の収穫にされる悲劇がしばしば起こったのです(レビ記26章16節/申命記20章6節/同28章33~34節)。だから、「蒔く者」が収穫を見ないということは、旧約ではしばしば神の罰とされました。しかしメシアが到来する終末の時には、刈る者と蒔く者が共に喜ぶのです。しかもその終末的な出来事が、現に今そこにあるイエスの存在/臨在によって起こるのです。
[37]~[38]36節に「蒔く者と刈る者が共に喜ぶ」とあり、37節で「このことにおいて」「蒔く者と刈る者が別々である」ことが「真実の言葉となる」とありますが、このつながり方は分かりにくいです。イエス自身が地上において蒔く者として働き、弟子たちが、復活したイエスと共にその実を刈り取るように招かれると理解すれば、蒔くイエスと刈る弟子たちが「時を別にしながらも」共によころぶことだと理解できます。しかし、ここで言う「蒔く時」と「刈る時」は、イエス以前の旧約の預言者たちや殉教者たちが蒔いた時が、イエスによって刈る時が到来したことによって、かつての預言者たちの喜びが成就するという解釈も可能でしょう(8章56節参照)。「時」は、常に父なる神の時であり、イエスはその父の御心を行ないます。わたしたちも、ただ<今この時に>父とその御子イエスと共々に働くことができるだけです。かつての預言者たちの時と、イエスの時と、イエス以後の弟子たちの時が、共に一つになって喜びが成就するのが終末です。だから、その刈り入れは、長らくユダヤ人から差別されてきたサマリアでの刈り入れの時でもあるのです〔バルト『ヨハネ福音書』〕。
[39]【イエスを信じた】原文は、「大勢がイエスを信じるにいたった」で、多少の変形を伴いながらヨハネ福音書の八箇所にでてくる最初の例です(2章11節/4章39節/7章31節/8章30節/10章42節/11章45節/12章11節/同42節)。ここでサマリアの女に戻り、彼女の証しを通じて、サマリアの人たちがイエスを信じるようになります。「イエスを信じるに<いたった>」は、すでに見たとおり、「永遠の命に<いたる>泉」(14節)と「永遠の命に<いたる>実」(36節)が成就したことを示唆します。しかもこのことが、「しるし」を見てもまだ信仰にいたらなかったユダヤの指導者ニコデモと比較対照されているのは明らかです。エルサレムでもゲリジムでもないところの収穫が、思いがけなく?<ユダヤ人の周辺/外側の人たち>において始まったのです。
[40]~[41]【二日間】ヘブライ語の言い方からすれば、これは単に「短い間」を意味します。しかし『十二使徒の教訓』(ディダケー)11章5節に、巡回する伝道者は二日までは同一の場所に留まることが許されるが、三日留まるならその者は偽善者であると戒めています。この文書はヨハネ福音書以後のものですが(100~150年)、今回の「二日間」は、ヨハネ福音書の頃に、すでにこのような戒めが行なわれていたことを反映しているのかもしれません。
[42]【話してくれた】ここでの「話す」(ラロー)は、ほんらいのギリシア語では「おしゃべりする/無駄話をする」ことですが、ここでは女の「話し」について用いられています。「無駄話」の意味ではなく、イエスについての<人間による証言>のことです。だから、聞き手の側からすれば<間接的な証言>です。しかし<信じるにいたった>人たちは、そのような間接的な「話し」から、さらに直接に「イエスの言葉(ロゴス)を聴く」ことで初めて、「ほんとうの救い主」に出会うことになります〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。
 始めはユダヤの男性から突然声をかけられて驚いた彼女でしたが、自分の過去を言い当てられて、その人が、サマリア人である自己の有り様(アイデンティティー)を深く理解していることを知って、このユダヤの預言者こそ、自分たちが待ち望んでいる「タヘブ」(メシア)ではないかと直感し、「この不思議な人」のことを人々に証ししたのでしょう。その証しに誘われてイエスのもとを訪れた人たちもまた、自分たちの過去を知るイエスこそ、待望のタヘブ/メシアだと信じるようになったのです。 過去の経緯(いきさつ)を克服することで、ユダヤとサマリアを隔てていた宗教的な障壁が、このようにして取り除かれたのです。
【自分で聞いて】イエス自身の「働き」から始まった父の業が、イエスを信じた一人の人を通じて、大勢の人たちをイエスへ導く結果をもたらします。彼らは証人を通して間接に聞いたのですが、そのことが、今度は<直接イエスから聴く>(42節)ことへ移行するきっかけになるのです。
【世の救い主】原文は定冠詞を伴う「コスモス」(世/世界)の「ソーテール」(救い主)です。「救い主」は、ヘブライ語で「ヤーシャ」(救う/救助する)の使役態(ヒフィル)分詞形から出た「モ(-)シア」(救う者)です。これの七十人訳が「ソーテール」で、冠詞付きあるいは無冠詞の名詞で、「イスラエルへの(神からの)ソーテール」としてでてきます(士師記3章9節/同15節/イザヤ書45章15節/知恵の書16章7節など)。七十人訳の「ソーテール」は、ほとんどの場合「ヤハウェ」(主)を指していて、人について用いられるのは士師記3章9節/同15節などです。しかし、この場合でも、「主/神」によって立てられた「救助者」としてです。したがって、人間に用いられることは希で、ダビデ的なメシアでさえも「救う(者)」「救いにいたらせる(者)」のように動詞の分詞形で表わされます(イザヤ書49章6節/ゼカリヤ書9章9節「その方は正しく、救いをもたらし」[フランシスコ会訳])。また、ヘレニズム世界では、「ソーテール」は、皇帝や王や優れた哲学者や政治家など、世界に益をもたらした者への賛辞として用いられていました。例えばローマ皇帝ハドリアヌスは「世界の救い主」と称し/称されました。
 新約聖書で「救い主」(ソーテール)は24回ほどです〔新共同訳〕。神を指す場合が8回ほどで(ルカ1章47節/第一テモテ1章1節/同2章3節/同4章10節/テトス1章3節/同2章10節/同3章4節/ユダ25節)、イエス・キリストを指す場合が16回ほどです(ルカ2章11節/使徒言行録5章31節/同13章23節/エフェソ5章23節/フィリピ3章20節/第二ペトロでは、1章1節を始め5回/第二テモテ1章10節/テトス1章4節/同2章13節/同3章6節/ヨハネ4章42節/第一ヨハネ4章14節)〔新共同訳〕。
 「救い」を意味する「ソーテール」の用例は、パウロ書簡にもルカ系の文書にも多いのですが、「救い主」としての用例は、比較的後期の文書に多いようです。だから「ソーテール」(救い主)は、イエス自身が用いた用語でも、その在世中にイエスについて用いられた呼び方でもなく、イエスを「ソーテール」と呼んだのは、旧約の「主なる神」の用法を受け継いだユダヤ人キリスト教徒たちによって最初に用いられたと考えられます〔マキュウ『ヨハネ福音書』〕。フィリピ3章20節では、「天の王国に」あって終末に顕現する復活の「主イエス・キリスト」が「ソーテール」と呼ばれていて、これが新約では最も早い用例でしょう。同様にエフェソ5章23節では、「主イエス・キリスト」がエクレシアの「頭」でありエクレシアの「ソーテール」です。ルカ2章11節では「ダビデの町に生まれた主キリストであるソーテール」とあって、王家の血筋であることが示され、使徒言行録5章31節には復活したイエスを「イスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すための導き手でありソーテールとして神がご自分の右にあげられた」とあります。
 4章42節の「世の救い主」は、全世界を照らし罪を赦し救うイエス・キリスト像を提示しています。教会は、このようなイエスをギリシア語の「イクトゥス」(魚)の表象で伝えました。これは「イエスース・クリストス・テウー(神の)・ヒュイオス(子)・ソーテール(救い主)」の五つの語の頭文字を組み合わせた表象で、後の迫害時代のクリスチャンは自分が信者であることをこのしるしで伝えました。
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