26章 役人の息子を癒す
               4章43〜54節
■4章
43二日後、イエスはそこを出発して、ガリラヤへ行かれた。
44イエスは自ら、「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」とはっきり言われたことがある。
45 ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。彼らも祭りに行ったので、そのときエルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたからである。
46イエスは、再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、前にイエスが水をぶどう酒に変えられた所である。さて、カファルナウムに王の役人がいて、その息子が病気であった。
47この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼んだ。息子が死にかかっていたからである。
48イエスは役人に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われた。
49役人は、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と言った。
50イエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。
51ところが、下って行く途中、僕たちが迎えに来て、その子が生きていることを告げた。
52そこで、息子の病気が良くなった時刻を尋ねると、僕たちは、「きのうの午後一時に熱が下がりました」と言った。
53それは、イエスが「あなたの息子は生きる」と言われたのと同じ時刻であることを、この父親は知った。そして、彼もその家族もこぞって信じた。54これは、イエスがユダヤからガリラヤに来てなされた、二回目のしるしである。
                      【講話】
                 
 【注釈】
■しるしと不思議
 役人の息子が癒されるこの物語は、マタイ福音書とルカ福音書にでてくる百人隊長の僕の癒しと同類の出来事からの伝承だと思われます。共観福音書では、異邦人である百人隊長が、イエス様に直接あるいは間接に癒しを頼むのですが、ユダヤ人と異邦人との交わりの厳しさを知っている隊長は、イエス様が自分の家に入らなくていいように配慮して、「(イエス様の)御言葉だけをください」と言います。イエス様は、御言葉への隊長の信仰に感心して、彼をほめています。そこでは、ユダヤ人と異邦人との溝をも超えて働く神の御言葉と、これを信じる純粋な信仰が語られています。
 ヨハネ福音書では、登場するのは百人隊長ではなく、ガリラヤの領主ヘロデの家に仕える役人です。この役人は、ユダヤ人なのか異邦人なのか判然としません。当時のカファルナウムには様々な人が住んでいたからです。その上、役人とイエス様の間の溝は、宗教や人種の違いではなく「しるしと不思議」を見て信じるのか、見ないで信じるのかという点にあります。ですから、この物語では、「あなたがたは、しるしや不思議を見なければ、決して信じない」という御言葉が重要な意味を帯びてきます。
 ここでイエス様は、「しるしと不思議」に対する信仰を否定しているようにも受け取れます。事実、ヨハネ福音書は「しるし信仰」に否定的だと解釈する注解があります。しかし、この福音書は、注意深く読まないと、表面的な意味だけにとらわれて、その奥に潜む真意を見逃してしまう危険があります。ヨハネ福音書は、「しるし物語集」と呼ばれる一連の物語を基に構成されています。このことは、この福音書が「しるしや不思議」を貶(おとし)めているのではないことを示すものです。だからイエス様は、ここで「しるしと不思議」を否定してはいないことにも注意する必要があります。
 物語の始めに、「そこは、前にイエスが水をぶどう酒に変えられた所である」とあり、終わりは「イエスがユダヤからガリラヤに来てなされた二回目のしるしである」で結ばれていますから、ヨハネ福音書は、ここでの癒しを先のカナのしるしと結びつけています。二つのしるし物語は構成も類似しています。だから、この物語がしるしに対するイエス様の否定的な態度を表わすと受け取ることはできません。ヨハネ福音書では、「人々がイエスの行われたしるしを見てイエスを信じた」が繰り返されています(2章23節/3章2節/6章2節など)。ただし、どの場合でも「しるしを見て信じる」のは「人々」であり「群衆」です。唯一、個人として登場するニコデモの場合には(3章)、「しるし」を見てイエス様のもとに来た彼の信仰が「水と霊によって生まれ変わる」よう求められるのです。
■しるしの意義
 ヨハネ福音書で「しるしや不思議(しるし)」と言うのは、超自然の出来事、あるいは人間の力では不可能だと思われる業のことです。現代で言う「奇跡」がこれに近いでしょう。ヨハネ福音書で「しるしと不思議」とあるのはここだけで、その他は皆「しるし」です。自然現象と超自然の奇跡とが判然と区別されていませんから、「しるし」や「不思議」には、現在から見れば自然な出来事もあり、現在でも「奇跡」としか言い様のない出来事も含まれます。
 わたしの手元にある聖霊運動に関する幾冊かの本には、現在の人間の理性ではとても考えられないような出来事や体験談が幾つもでています。わたしたも、かつて神戸で開かれたベニー・ヒンの大集会で、文字どおり何千人という人たちの目の前で、病人が癒されたり耳の聞こえない人が聞こえるようになったり、歩けない人が目の前で歩けるようになったのを見てきました。「不思議」は現代でもイエス様の時代でも起こるのです。
 ヨハネ福音書が、「不思議」よりも「しるし」という言い方をするのは、この福音書の「しるし」に対する考え方の重要な側面を指しています。わたしたちが日常目にする「しるし」、すなわち「合図やシグナル」の場合を考えてみましょう。青信号は「進め」、赤信号は「止まれ」を意味します。しかし、これらの信号はただ「進め」「止まれ」の命令を下しているだけではありません。それは、別のこと、すなわち車が来るか来ないかをも意味するからです。
 海外旅行をした人はご存知の通り、赤信号でも車が来なければさっさと渡ってしまう人がずいぶん多いです。わたしなどは、ニュー・ヨークの混雑の中で、「歩くな」という信号があるのに人々がどんどん渡っていくのを見てびっくりしたのを覚えています。このように、「しるし」は何か別のことを指していることが重要なのです。火事の時に「非常口」と書いてある文字の所にいても助かりません。それが指し示す矢印の方向へ、すなわち書かれた文字のある所とは「別の方向へ」逃げなければなりません。道標は、どちらへ行けば目的地に着けるかを示しているのであって、それが立っている所が目的地ではないのです。だから、わたしたちは、「しるし」を見て、二つのことをしなければなりません。一つは、その「しるし」を信じること、それから「しるし」が指し示す方向へ歩むことです。
■しるしを見る人
 ところが、人が「しるし」に出合うと、この大事なことを忘れてしまうのです。ある人たちは、目の前に生じている出来事を見ようとも信じようともしません。ヨハネ福音書がしるしを「しるし」と呼ぶのは、それが人間の考えの及ばないもの、聖なるもの、神が存在しておられることを示す出来事だからです。イエス様の「しるし」は、イエス様の神が現実に働いておられることを「意味する」(英語では「シグニファイ」で「シグナル・合図・信号」と同根)のです。「しるし」は別のものを指し示すのですから、「しるし」だけでは、指示されていること自体は明確に表われません。「非常口」とある矢印が、非常口そのものを見せてくれないのと同じです。だから「しるし」は、それだけで神が存在しているかどうかを証明してくれません。「しるし」は、神の存在それ自体ではないからです。「しるし」を見ても信じない人がいるのはこのためです。人の目が開かれる「しるし」を目にしながら、これを否定するファリサイ派の人の例(9章)がこれにあたります。
 ところが、「しるし」によって明らかにされるのは、これを見ている一人一人の心のほうです。明らかにされるのは、神の存在ではなく、「しるし」を見ているその人の心の内です。わたしたちが「しるし」に出合うとき、自分でも気がつかなかった思いが表に出ます。ある人は、「しるし」を見て恐れを抱き怖くなります。これはごく自然な反応で、「怖さ」は、神を畏れ敬う心につながります。ところが、恐れて神から逃げ出す人もいます。これは、神を信じない人にも起こりますが、残念ながらクリスチャンにも起こります。聖書を読んでいますから、「しるし」には馴染みのはずなのですが。ルカ5章4節以下に、ペトロが漁をしていると、大量の魚がかかったことに 「しるし」を見て、自分の罪に恐れおののき、イエス様の前にひれ伏したとあります(ルカ5章8節)。神の御臨在を身近に感じて、畏れたのです。
 またある人は、「しるし」を見て、現象だけに心を奪われて、「しるし」が指し示す方向へ歩もうとしません。先ほど、ヨハネ福音書では、「イエス様のしるしを見て信じた」人が「群衆」であり「人々」であると指摘しました。群衆の「しるし」に接する態度は、あまりにも表面的で、その現象だけにとらわれる傾向がありますから、せっかく「しるし」を通じて神の恩恵に与りながら、それ以上先へ進もうとしません。6章にも、せっかく「しるし」を与えられながら、与えられたパンのほうに心を奪われている群衆の姿が描かれています。
 「とにかく病気さえ直してもらえばそれでいい。」こういう態度をイエス様は戒めて、「神がお遣わしになった方(イエス様ご自身のこと)を信じることこそ神の業である」と人々に戒めておられます。「しるし」を正しくとらえて、イエス様とのより深い交わりに入ることこそ、「しるし」が与えられる目的だからです。「あなたがたは、しるしと不思議を見なければ信じない」と言われたのもこの意味です。「しるし」からまことの信仰へ向かうようにと、神は、異言などの様々な賜物をもって導いてくださるのです。「あなたがたはしるしと不思議を見なければ信じない」は、イエス様の嘆きであり、同時にイエス様の憐れみです。
 「不思議としるし」は、わたしには「不思議なしるし」と聞こえます。イエス様の「しるし」(セーメイア)と「御業(みわざ)」(エルガ)と「御言葉」(レーマタ/ロゴイ)は〔ギリシア語は複数形〕、同じようにイエス様御自身から出て、御復活のナザレのイエス様の御霊の御臨在を証しするものです。イエス様がわたしたちにお与えになるのは「不思議なセーメイオン」であり、イエス様がわたしたちに行なわれるのは「不思議なエルゴン」であり、イエス様がわたしたちにお語りになるのは「不思議なレーマ/ロゴス」です〔ギリシア語は単数形〕。しかも、これら「不思議なしるしと御業と御言葉」は、旧約聖書の神が、イエス様を通してわたしたちに啓示してくだっている事態だというのがヨハネ福音書の証しです。だからイエス様は、モーセ以上の方であり(5章46節)、アブラハム以上の方なのです(8章58節)。
■霊的な論理
 役人は47節と49節で、二度イエス様に願い出ています。だから、48節のイエス様の御言葉を中心にすると、A・B・A'という交差法の構成になります。Bのイエス様の御言葉を境(さかい)にして、役人の願いの姿勢が、同じ様に見えて、変化するのです。役人は最初、ニコデモがしるしを見てイエス様のもとへやって来た時と同じ姿勢でイエス様を訪れます。ところが、イエス様の御言葉を境に、サマリアの人たちに起こったのと同じことが彼にも生じます。「今わたしたちが信じるのは、人からの証しを聞いたからではなく、直にイエス様に接することで、このお方こそほんとうに世の救い主だと分かった」のです。
 この姿勢の変化を示すのが、ここの交差法の意図です。「彼と彼の家族も信じた」とある結びの言葉は、ブルトマンが指摘するように、元の資料伝承にあったものですが、役人の言うここの「信じる」には、交差法によって、彼の信仰の変移を示す霊的な深みが与えられていることに注意してください。ここに、ヨハネ福音書の編集者が、もとの「しるし物語」を扱う際の手法を見ることができます。ここでは、「しるし」が、単なる外から見える「しるし」ではなく、霊的な象徴性を帯びてくるのです。
 並行法や交差法は、このように、単なる視覚的な出来事のつながりを超える意義を与えます。1+2=3/3=1+2。この二つを並べると一見同じことを繰り返しているように見えます。しかし二つの数式の並行は、一つだけでは見えないことを見せてくれます。それは3という一つの数字が、実は1と2、あるいはそれ以上のものに分かれること、逆に、1と2の複数の数字が3という一つの数字にまとまることが見えてきます。「分かれること」と「集まること」が、論理的に同じだという不思議が見えくるのです。多即一=一即多が成り立つのです。太陽の光は一つであってもそこに無数の色が含まれていること、逆に無数の色に染まる自然界が実は一つ光で照らされていること、こういう不思議に通じます。並行法や交差法は、論理で解明できない消息を伝えることができるのです。だから、仏典でもこの手法が用いられていて、『般若心経』では、「色即是空/空即是色」のように、並行法で不思議な世界の消息を伝えています。文献批評は学問的な論理によって聖書本文の成立過程を解明してくれますが、そのような文献批評の論理だけで聖書本文それ自体を読み解こうとすると、聖書が読者に啓示しようとする霊的な意義を見落とす恐れが生じるのです。
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