【注釈】
■4章43~54節
 今回の4章43~45節と2章23~25節とを読み比べると、「しるし(や不思議)」を見た人に対するイエスの姿勢が、やや違った描かれ方をしていることに気がつきます。ニコデモとの対話では「しるし」に基づく信仰それ自体は否定されていません。しかし、今回の場合は「しるし」を求める信仰に対して、やや否定的な姿勢を読み取ることができましょう。この違いは、作者/編集者が、ユダヤ(エルサレム)とガリラヤという場の違いを念頭においているからだという見方もありますが、よく読んでみると、両者の違いはそれほど判然としていません。これに関連して「預言者は自分の故郷で敬われない」というイエスの言葉も注目されるのですが、これについては44節の注釈を参照してください。
〔第二のしるし〕
 カナでの婚礼のしるしと今回のカナのしるしとは、その長さや語数にいたるまでが一致するほど類似しています。二つのしるしの間には、イエスに対する懇願、これに対するイエスの拒否、懇願する者の期待に応える願いの成就、結果として周囲の人たちが信仰に入るなどの共通点があげられます。もとの「しるし物語集」では2章12節から直接4章46節へつながっていたと思われますから、今回のしるしは、元来カナでの婚礼の場面(第一のしるし)の後に置かれていて、イエスがカナで行なった「第二のしるし」となっていたのでしょう。ヨハネ福音書の編集者は、この二つの間に2章13節~4章45節を挿入することで、イエスがガリラヤからユダヤへ上がり、そこからサマリアを通り、再びガリラヤへ戻り、最初のしるしの場へ戻ったところで第二のしるしが起こるように設定したのです。この編集には、サマリアの存在を重視することと、「しるしと不思議」に対するユダヤとガリラヤの違いを示す意図もこめられているのでしょう。
〔文献的な視点〕
 文献的な視点から今回の箇所を見ると、4章46節以下の並行記事がマタイ8章5~13節とルカ7章1~10節にあります。マタイ福音書とルカ福音書のこの部分は、イエス様語録(Q)に基づいていますが〔ヘルメネイアQ〕、ヨハネ福音書では、語録と共通するのはここだけです。このため、今回の記事も、遠隔の癒しとしては共観福音書と共通するものの、ほんらいは別個の出来事だという見方もあります〔キーナー『ヨハネ福音書』(1)〕。共観福音書では、イエスの言葉それ自体への信仰が語られているのに、ヨハネ福音書では、癒しの信仰の重点が「しるし」との関係に移されています。だから、共観福音書と共通する伝承から出ているとしても、ここにヨハネの編集が加えられています。ヨハネ共同体がイエス様語録(Q)を知っていたかどうかは確認できませんが、ヨハネ福音書のほうは、語録にもマルコ福音書にも直接頼らずに「しるし物語集」を用いていると見るほうが正しいでしょう。「最初のしるし」とあり「二回目のしるし」とある分類はこの物語集に基づくものです。これら二つの「カナのしるし」は対応していて、その間の宮浄め、ニコデモとの対話、洗礼者の言葉、サマリアの女の出来事を囲んでいます。これらはひとまとまりになって、イエスが「今の時に臨在する方」でありながら「肉体と成ったロゴス」であることを証ししています。この段階では、5章以下で語られるイエスとユダヤ人たちとの厳しい対立を見ることはできません〔バルト『ヨハネ福音書』〕。
 イエス様語録では、依頼人がカファルナウムのローマ軍の百人隊長であることが語られ、その彼が、神の言葉の権威に服従する素朴な信仰が賞賛されています。マタイ福音書では「僕が中風で」とあるように、病気が特定されていますが、この異邦人の隊長に対するイエスの態度は明らかでありません。イエスは、「わたしが行っていやしてあげよう」と答えていますが〔新共同訳〕、ここを疑問文として「わたしに来て治せというのか?」という反対の意味に読むこともできます。疑問文だと、ユダヤ人と異邦人との溝がいっそう強調されることになり、それだけ百人隊長の信仰が賞賛に値するものになります。
 ルカ福音書では、百人隊長はユダヤ教の神を敬う「信心深い異邦人」ですから(ルカ7章4~5節)、ユダヤ人の長老たちの願いをイエスが聞き入れて、イエスのほうから進んで、「隊長に重んじられている部下」を癒すために出かけようとします。ルカ福音書は、ユダヤ人と異邦人との間に溝を感じさせません。
 ヨハネ福音書では、舞台がカファルナウムではなくカナです。登場するのは「王の役人」ですから、異邦人ではなくユダヤ人だと見ることもできます〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。役人の願いに対するイエスの態度がやや否定的ですから、この意味で、ヨハネ福音書の立場はマタイ福音書に近いと言えます。ただし、ここでのイエスの否定的とも見える態度は、異邦人とユダヤ人との違いに基づくものではなく、「しるしや不思議」に対する人々の信仰のあり方に向けられている点に注意してください。
 マタイ福音書では「僕が中風で」とありますが、ヨハネ福音書では「王の役人の息子が熱病」だとあります。また病人が「死にかけている」点では、ヨハネ福音書はルカ福音書に近いと言えます。今回、ヨハネ福音書では珍しく、語録と共観福音書の両方と重なりますから、ほんらいの伝承と、これに対するヨハネによる編集の跡をたどったフォートナの推定を以下にあげておきます。
〔ヨハネによる編集〕(太字部分)
46イエスは、【再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、前にイエスが水をぶどう酒に変えられた所である。】さて、カファルナウムに王の役人がいて、その息子が病気であった。47この人は、【イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞き、】イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て【息子をいやしてくださるように頼んだ。息子が死にかかっていたからである。48イエスは役人に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われた。49役人は、】「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と言った。50イエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」【その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。】51ところが、下って行く途中、僕たちが迎えに来て、その子が生きていることを告げた。52そこで、息子の病気が良くなった時刻を尋ねると、僕たちは、「きのうの午後一時に熱が下がりました」と言った。53【それは、イエスが「あなたの息子は生きる」と言われたのと同じ時刻であることを、この父親は知った。】そして、彼もその家族もこぞって信じた。54これは、イエスが【ユダヤからガリラヤに来て】なされた、二回目のしるしである。
〔Fortna. The Fourth Gospel and its Predecessor.61〕
■4章
[43]~[45]43~45節は、その前のサマリアの出来事と、その後のカファルナウムでの癒しとをつなぐためのヨハネの編集です。4章3節にも同じように、イエスが「ユダヤを去って再びガリラヤへ」とあります。ここでは、44節に問題があります〔フランシスコ会訳聖書4章注8〕。44節の原文は「ところで、イエス自身が『預言者は、自分の故郷では尊敬されない』と証言していたことがある」です。「ところで」(原語「ガル」)は「なぜなら」とも理解できますが、これでは次の45節と内容がつながりません。「言われていた」は過去完了形ですから、44節を挿入と見て、これを括弧でくくり、(実は/ところでイエス自身が・・・・・と言われたことがある)と理解して45節へつなぐと分かりやすいでしょう〔NRSV〕。
【自分の故郷】ここで言う「イエスの故郷」とは、ガリラヤのナザレのことでしょう(1章46節)。だから「尊敬されない」とあるのはマルコ6章1~4節/マタイ13章53~58節/ルカ4章16~30節にでているナザレでの出来事を示唆します。ただし「自分の故郷」を「自分の祖国」だと解釈して、これがユダヤを指しているという見方もあります〔Fortna. The Fourth Gospel and its Predecessor.263〕〔キーナー『ヨハネ福音書』(1)〕。この解釈だと、前後のつながりに何ら矛盾がないことになります(4章1~3節参照)。原文の「自分自身の父の所」を「自分が生まれたベツレヘム」、すなわちユダヤととるのか、それとも自分の出身地であるガリラヤのナザレだと解するのか、どちらも可能ですが、「ナザレ」だとすると、問題は、「尊敬されない」とあるのにすぐ後にガリラヤの人たちがイエスを「歓迎した」とあることです。44節は、45節の出来事と同時に語られた言葉ではなく、「実はイエスは『預言者は自分の故郷(ガリラヤのナザレ)では敬われない』と以前から言っていた。ところが(意外にも)ガリラヤの人たちはイエスを歓迎したが、それは、イエスがエルサレムで行ったしるしのことを知っていたからである」のように言い換えると、イエスの言葉とガリラヤの人たちの歓迎ぶりが、48節の「しるし信仰」への批判/忠告へ続く伏線となっているのが見えてきます。英訳では(for Jesus himself had testified that...)〔NRSV〕と、この言葉を( )に入れて、時制を過去完了に訳しています。
 今回の出来事全体は、48節の「あなたがたはしるしや不思議を見なければ決して信じない」が、全体の中心になっています。この言葉に照らして、ここ44~45節を見るなら、ガリラヤの人たちが「エルサレムで行われたしるし」を見てイエスを歓迎したのは、必ずしもイエスへの深い信頼から出たものではないことが分かります(2章23~25節参照)。したがって、「故郷」とは、ナザレを指すと解釈しても45節と内容的に矛盾することにはなりません。むしろ、ガリラヤでの人々の歓迎ぶりが、48節でイエスが役人に「しるし」について批判的な態度を示す伏線になっていると見ることができます。ユダヤでもガリラヤのナザレでも、「しるし」に基づく信仰だけでは、人々の躓きを防ぐことができないからです(6章30~42節参照)〔ブラウン『ヨハネ福音書』(1)〕〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。だから「故郷」を「ユダヤ」と解さなくても44節と45節とのつながりに矛盾はありません。なお「歓迎する」はヨハネ福音書ではここだけで、イエスを信じる場合は通常「受け入れる」です(1章12節/5章43節など)。
 「預言者は自分の故郷では歓迎されない」は、ルカ福音書では、イエスのナザレ訪問の際に語られています(ルカ4章24節)。ナザレでのこの出来事は、ルカ福音書ではイエスのガリラヤ伝道の初め頃ですが、マルコ=マタイ福音書ではガリラヤ伝道の後半になります(マルコ6章1節以下)。ルカ福音書の百人隊長の僕の癒しはルカ7章です。今回のヨハネ福音書のカナの癒しは、ルカ福音書でのイエスの二度目のガリラヤ帰還の時にあたるのでしょう。ルカ福音書でイエスは、ナザレで拒否されてからカファルナウムへ向かいます(ルカ4章31節)〔ブラウン『ヨハネ福音書』(1)〕。
[46]~[47]【王の役人】原文は「王の家の者」です。これは、当時ガリラヤの領主であったヘロデ・アンティパス1世の親族の者か、あるいは王家に仕える役人を指しています。「王家の役人」は、共観福音書の「百人隊長」のような異邦人を指す言葉ではありませんから、ユダヤ人だと見ることができます。新約では、「王」(バシレウス)が、ヘロデの家系の領主に用いられているのに対して、ローマの「皇帝」には「カイサル」が用いられています〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。アグリッパ1世の息子アグリッパ2世の代になると、彼の宮廷のユダヤ人たちは、ユダヤ教徒とは言えないという苦情がでるほどでしたから、このヘロデ家の役人も、ガリラヤのユダヤ人から見れば、ヘレニズム化した異邦人に近いユダヤ人だと思われていたのでしょう〔キーナー『ヨハネ福音書』(1)〕。なおカファルナウムからカナまでの道は52節を参照してください。
【息子】原語は「ヒュイオス」(息子)ですが、49節だけは「わたしのパイス(子供)」が使われています。ルカ7章7節でも「わたしのパイス(僕)」です。「パイス」には子供/僕の両方の意味がありますからほんらいのイエス様語録の「パイス」が、ヨハネ福音書では「息子(ヒュイオス)」と解釈され、ルカ福音書では「僕」と解釈されたのでしょう。
[48]【しるしや不思議】原語は「セーメイア」(しるし)と「テラタ」(不思議)で、どちらも複数形です。「不思議」は単独で用いられることがなく、「しるし」と共に出てくる場合が多いようです。ヨハネ福音書では、「しるし」が17回もでてきますが「不思議」はここだけです。ヨハネ福音書は、「(人間の目に見える)神の不思議」を「しるし」と呼んで、これに依存する信仰の危うさを指摘していると言われていますが、ここでも「しるし」信仰それ自体が否定されているのではありません。今回の役人がはたして「しるし」を求めているのかどうかは、続くイエスの彼に対する言葉と関係してきます。イエスはここで「しるし」に頼る信仰を否定しているという解釈もありますが、必ずしもそうではありません。48節でイエスは、父親のしるし信仰を肯定も否定もしていません〔McHugh. John 1-4. 318〕。むしろここでは「しるし」を見ることによってしか、神が遣わしたイエスの「栄光を観る」ことができないのかどうか?この点が試されているのです。ここの癒しが、カナのしるしと結びつくのはこのためです(4章54節)。なお「決して」は、七十人訳で度々用いられ強い否定を意味しますから、ここでの「しるしと不思議」を出エジプト記7章3~4節と対照させることができましょう。そこでは、エジプト王ファラオは、モーセを通して行なわれる「しるしと不思議」を見ても信じようとしないからです〔ブラウン『ヨハネ福音書』(1)〕。
 上記の本文編集を見ると分かりますが、47節の後半と48節は、元の資料への編集者による挿入部になります。共観福音書の百人隊長は「初めから」イエスの言葉だけを信じて来ています。だから「しるし」を必要としません(マタイ8章8節)。ところがヨハネ福音書では、48節のイエスの言葉の前に父親の願いが来ていて、続いて48節のイエスの言葉が置かれていますから、続く49節の父の願いと併せると、父親は二度同じような願いをしているように見えます。しかも49節の父親の答えが、48節のイエスの言葉とうまくつながらないという批判もあります〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。したがって48節は、文献批評の視点から見るならば「はなはだ不適切な挿入」だということにもなりましょう〔ブルトマン前掲書〕。しかし、このような批評は、48節を挿入したヨハネの意図を正しく読み取っていないことから来ると思われます。なぜなら、48節を中心に置くことによって、その前後の父親の願いの<意味が変わってくる>からです。48節から判断すると、父親がわざわざカファルナウムからやってきたのは、イエスが「しるし」を行なっていることを聞いて、自分もそのようなしるしを見て、信仰を強めてから息子の癒しを願いたいと思って来ていることになります。ところが、イエスから、思いがけず己の「しるし」信仰を指摘され、彼はここで初めて、<直接にイエス自身に出会う>ことで、イエスの行うしるしを見なくてもイエスを信頼するにいたったのです。49節の父親の言葉は、48節の挿入によって、<このような父親の姿勢の変化>を表わす働きを持つようになります。この場合、父親の願いは、48節のイエスの言葉を中心に<ABA’>という交差法を採ります。この手法は、ヘブライの伝統的な手法として(特にマタイ福音書では)しばしば用いられます。
 48節を「あなたがたは、(先に)しるしを見なければわたしを信じることがとうていできないのだろうね?」と疑問文に読む説もあります。これだと続く父親の答えとうまくつながります。「あなたがた」は複数なので、父親だけでなく、しるしを見ようとするほかの人たちも付き添ってきているのが分かります。父親は、イエスの行なうしるし信仰から、イエスの霊性に直に触れることで、イエスその方を信じるにいたったのです。
[49]~[50]共観福音書では、百人隊長の信仰が賞賛されますが、ヨハネ福音書では、遠隔の癒しの業が終始イエスの導きによって起こります。ただし、役人の信仰告白が、イエスの言葉を引き出していることを見逃してはなりません。
【主よ】これは神に対する呼びかけですが、単に「先生」と言う意味でも用いられます。ここを「先生」の意味に解する注解もありますが、48節のイエスの問いかけに対する答えとして、信仰を告白する「主よ!」が来ているのです。これは、イエスに信託する告白だと理解するほうが適切です。結果として、父親の答えは、マタイ8章8節=ルカ7章8節の百人隊長の言葉とは逆に、「我が家へぜひ来てください」となります。彼がユダヤ人であることもこの違いを生じさせているのでしょうか。「彼はイエスの言葉を信じて帰って行った」は、その父親の信仰が、新たな段階の霊性を与えられたことを指します。
【生きる】原語には「病気が治る」と「生きる」の二つの意味があります(列王記上17章23節)。サマリアの女の話で、イエスは「生きた水」について語っています。ここでも「命の言葉」として語っているのです。
[51]【その子】原語「パイス」には、「子供」と「僕」の両方の意味があります。47節と52節には「ヒュイオス」(息子)とあって、ここ51節だけに「パイス」が用いられています。マタイ福音書とルカ福音書のほうでは「僕」となっていますから、51節だけに、原資料の言葉がそのまま残されたのでしょう。
[52]【きのうの午後一時】原語は「第七の刻」ですから、朝の6時から数えています。ここで言う「カナ」が、ナザレから15キロほど北にある「キルベット・カナ」のことだとすれば、カナはガリラヤ湖の北岸にあるカファルナウムから40キロほど離れています。カファルナウムまでは、200メートル以上の高低差のある道をガリラヤ湖のほう(東)へ降らなければなりません。おそらく、湖畔のマグダラ近くへ出てから、岸沿いに北へ向かいガリラヤ湖北端のカファルナウムに出ることになりますから、一日の旅程では不可能です。カナから出発した翌日、役人が丘を降る途中で召使いに出会ったのでしょう。この記事はパレスチナの地理に照らして正確です〔ブラウン『ヨハネ福音書』(1)〕。
[53]【同じ時刻】共観福音書でも、遠隔での癒しの状況が、ここと共通する言い方で表わされています(マタイ8章13節/なおマルコ7章29節をも参照)。
【彼も家族も】ここにでてくる「王家の役人」とその家族は、ルカ8章3節にでている「ヘロデの家令クザとその妻ヨハナ」のことではないか、また「家令クザ」は、使徒言行録13章1節にある「領主ヘロデと一緒に育ったマナエン」と同一人物ではないか、という説があります〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。
【父親は知った】原文では、「父が知った」が文頭に置かれて強調されています。彼は先に「信じた」(50節)とありますが、今ほんとうに「知った」のです。ヨハネ福音書では、「知る」ことと「信じる」ことがつながります。「彼もその家族も」は、使徒言行録にしばしばでてくる言い方です(10章2節/11章14節/16章15節/同31節/同34節/18章8節)。ルカ福音書では、これらが皆異邦人ですから、ヨハネ福音書と異なりますが、ヨハネ福音書とルカ文書との間に何らかのつながりがあることを示唆するものです〔ブラウン『ヨハネ福音書』(1)〕。
[54]【二回目のしるし】1回目のカナのしるしが、1章から続く七日/六日間の最後を締めくくるとすれば、2回目のしるしも、ここで物語が一区切りすることを示しています。ヨハネ福音書は、「しるし資料/物語集」に基づいて構成されていますから、先の「1回目」もここの「2回目」も元の資料の番号が使ってあると言われています。
                     戻る