27章 ベトザタの池
5章1〜18節
■5章
1その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。
2エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。
3この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。
5さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。
6イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。
7病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」
8イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」
9すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。
10そこで、ユダヤ人たちは病気をいやしていただいた人に言った。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」
11しかし、その人は、「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と答えた。
12彼らは、「お前に『床を担いで歩きなさい』と言ったのはだれだ」と尋ねた。
13しかし、病気をいやしていただいた人は、それがだれであるか知らなかった。イエスは、群衆がそこにいる間に、立ち去られたからである。
14その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って言われた。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」
15この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。
16そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。
17イエスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」
18このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。
■池の水と御言葉
エルサレム神殿の丘の北のほうにベトザタと呼ばれる貯水池があって、そこには病を癒すと言われる池がありました。天使が時折降ってきて、その池で水を浴びると水が動く、その直後に、水に天使の力がまだ残っている間に、そこに入る者は、どんな病気でも癒される。こういう言い伝えがあって、人々の信仰を集めていたのです。水は、特にパレスチナでは、文字どおりに命を支えるものですが、池が神殿と結びつけられているところに、この「水」が宗教的な意味を帯びていたのを知ることができます。この物語では、ニコデモやサマリアの女とイエス様との対話ほどには「水」が象徴的・霊的な意味を帯びていないように見えます。しかし、大勢の人たちが、神殿に近い池の回廊で水が動くのをじっと待っている有様は、この池の水が、当時のユダヤの神殿宗教を象徴するように見えます。
カナの婚宴にでてくる水瓶の水のように、今回の水も神殿宗教を表しているようです。神殿は、これに詣(もう)でる者に命を与えて「くれるはず」です。けれども、待てど暮らせど命は来ないのです。様々な祭儀が行なわれ、教えや戒律が課せられていますが、宗教は制度化し、信仰も形骸化して、人々の心と体に直に触れる神の御霊の働きが絶えていたのです。3章5節でイエス様は、「水」と「霊」とを比較対照しておられます。今回も、ベトザタの池の水とイエス様がお与えになる御言葉とが対照されています。
イエス様は、大勢の病人の中から、ただ一人に向かって、「治りたいか」とお尋ねになります。けれども病人の答えは的外れです。彼は自分の体や心に直に働く神が存在することを聞いたことも教えられたこともなかったからです。この人が過去に「罪を犯した」ことが、後で暗示されますが、38年間、罪とその結果から逃れられなかったこの人に、神から遣わされた方が、個人的に語りかけてくださるとは想像もしなかったでしょう。イエス様は、その想像もできないことをその人にしてくださった。イエス様は、その人のもろさ弱さにかかわりなく、「床を取り上げて、歩きなさい」とお命じになる。すると彼は、自分の足で立って歩き出すのです。生きる力が湧いて来るのです。「治る」「癒す」という言葉が繰り返されるのに注意してください。「いのち」を与えるお方が発する「創造する」御言葉の働きです。
ここでは、癒される人にイエス様に対する信仰が求められてはいません。あのサマリアの女の場合と同じように、イエス様のほうから語りかけます。わたしたちは、ともすれば「自分は駄目だ。なにもできない」と考えますが、そうではないのです。イエス様がお出でくださるところ、そこから力と命が湧くのです。
■霊盲の宗教
今回は、先の3章で扱われた「水と霊との対照」だけでなく、その上に、さらに暗い影が差し始めます。長い間の罪性が赦されて癒されたその人に、ここで、おかしなことが起こります。「安息日」という名の宗教制度が、命を与える祝福を逆に「死を与える」呪いへ変えようと働くのです。ヨハネ福音書は、イエス様の癒しの出来事を安息日と結びつけることで、人を生かす力と人を殺そうとする力、御霊の光と霊盲の闇を対照させるのです。
イエス様の御言葉どおりに、足に力が与えられ、彼が床を担いで歩き始めると、その行為は安息日に許されていないと「ユダヤ人」の指導者から咎められます。他の日であればみんなの祝福を受ける出来事が、安息日だという理由で、祝福も与えられず、神を賛美することさえできないという「おかしな」ことが起こったのです。
社会の仕組みや法律が現実に合わないと、おかしなことが起こりますが、宗教も例外でありません。宗教が、人間の命や自由を妨げる最悪の力に転じる。こういうことがあるのです。過去において、同じキリスト教徒同士でさえ、宗派の異なる人たちを迫害し、女性や子供までも殺害した例があります。現在でもまだ、人間をその生まれで差別することを公認する宗教があります。平和を生みだし、人と人が愛し合うことを教えるはずの宗教が、逆に争いと憎しみを生み出す土壌となり、そこから差別や戦争が生じる。こういう事例が現在でも起こっています。
特に現在のアジアには、違う文化、異なる人種、異なる体制の国家、様々な宗教が混在しています。だから、これからのアジアでは、宗教が、人を生かさず人を殺し、平和をもたらさず争いを生じさせ、愛と理解を育む代わりに憎しみと対立を煽(あお)る事態が生じないように、わたしたちは厳しく警戒しなければなりません。
「ユダヤ人」がイエス様を殺害しようとする直接の動機は、イエス様が、安息日に「床をあげて歩くよう」命じたからです。一見些細(ささい)なことでも、大きな爆発を誘発するマッチになります〔バルト『ヨハネ福音書』〕。この「ユダヤ人」たちは聖書を知っています。しかし、彼らには、神が創造する業が目に入らない。彼らは、神の御言葉を聞いてはいます。しかし、現実に起こる「神の出来事」を通じて神の語りかけを聴く、ということをしないのです。こうして、命を与える神のみ業が、安息日に固執する人の手によって、「死に値する罪」に転じます。イザヤは、こういう宗教的指導者たちを「災いだ、悪を善と言い、善を悪と言う者は。彼らは闇を光とし、光を闇とし、苦いものを甘いとし、甘いものを苦いとする」(イザヤ書5章20節)と批判しています。
■イエス様と出会うこと
癒された人のほうはどうなったでしょうか? 彼は、始めのうち、いったい誰が自分を治してくれたのかさえ分かりませんでした(13節)。自分に何が起こったのかも、誰がこれをもたらしてくれたのかもはっきりしないのです。しかし、イエス様は、癒された人をそのままにしておかれなかった。「再び彼と出会われ」たので、彼は、自分を治してくださった方をはっきり知ることができました。
イエス様は、彼にこう言われます。「もう罪を犯さないように、そうでないと、もっと悪いことが起こるかも知れない。」もしも人が、自分に命を啓示してくださる方に反抗し、自分に与えられた神からの命を軽蔑し、なおも罪の内に留まり続けるなら、その行為は、その人への裁きとなります。人は、自分にどんな大きなことが起こったのかを見誤る危険があります。うっかりすると、あれは自分の心理状態にすぎなかった、などと思い違いをします。もしもあなたが、イエス様と出会う体験をしたなら、自分に何が生じたのかを確認するために必ず祈ってください。神様が自分個人に語ってくださった体験を大切にしない人は、人生で最も大きな誤りを犯す人です!
癒された人は、指導層の「ユダヤ人」に、イエス様のことを報告しました。これは悪意から出た行為ではないでしょう。指導者から必ず報告するように命じられていたからです。この時から、「ユダヤ人」の指導層は、イエス様と対立関係に入ります。もしもあなたが、イエス様の御霊に与って、その結果、誰かの批判を受けたならば、それはあなたに対する批判ではなく、イエス様に対する批判であることを知ってください。批判した相手はそう思わないでしょうが、事実はそうです。
■働く創造の神
一個人に生じた出来事が、その人の予想もしなかった事態へ展開し始めます。5章10節で、人を救うはずの宗教が、実際は「死の宗教」だったことが露わにされます。宗教体験は個人的です。個人的な出来事は他にも色々ありますが、宗教的な出来事が他の出来事と異なるのは、それが、個人のレベルに留まらないで「共同体的な」様相を帯びることです。宗教体験は個人の内面で起きることです。ところがその体験が、あなた個人だけのものではないことが次第に明らかになります。宗教は、とりわけ御言葉から来る啓示は、本質において「共同体的」に働くのです。
イエス様は「死の力に」挑戦しておられますが、その挑戦は、ほんらいイエス様ご自身から出たものではありません。それは、イエス様の父、すなわち神ご自身のお働きです(17節)。イエス様は言われます。神は<常に創造する>方だと。だから神は安息日でも働かれる。片時もそのみ業を止めることがない。万物を造り万象を支配しておられるのは神であり、その御業が、わたしたちに命と成って働くのだと。
しかし、「ユダヤ人」にはこれが理解できません。創世記2章に「神は七日目に休んだ」とあるのだから、これに従って、安息日の戒律を遵守しなければ、その者を異端として殺すことになります。宗教的な教条主義の怖さが、ここではっきり現れてきます。
イエス様は、人間の教義や信念が作りだすそのような「宗教」にとらわれません。父なる神が今現実に働いておられる。その御業にひたすら従うからです。「わたしの」父が行なうその通りに、わたしも行なう。こう言われるのです。大事なのは、人を活かす命の御霊のお働きです。ある霊性が善いか悪いかは、その霊の結ぶ実を見て判断するしかありません。イエス様の御言葉を通じて病人が安息日に癒された。神が創造のみ手をもって癒しを行われた。それなのに、人がなぜこれを裁くのか。こうイエス様は言われるのです。
けれども、イエス様のこの御言葉は、「ユダヤ人」には、「自分を神と同じにしている」ように見えます(18節)。「闇は光を理解しなかった」(1章5節)のです。権力者たちには、イエス様が、神を「自分の」父と呼ぶことが耐えられないようです。だから、せっかく神から与えられた命をも彼らは殺そうと図るのです。己の正しさを証明するために、人間の命を平然と奪う人たち、これが、「宗教する人間」に潜む悪魔的な恐ろしさです。こういう宗教的権威は、腐敗した悪魔的な政治権力に近いと言えます。
ただし、ここでイエス様は、モーセの戒めを破棄しようとしているのではありません。モーセの与えた宗教的な律法の正しさは、人間に与えられる神の法の根源です。人間に与えられている限りは、いかなる律法にも、いかなる宗教にも、いかなる霊的な働きにも、必ず限界があります。イエス様は、モーセ律法の根源的な正しさと同時に、モーセ律法の限界をも心得ておられた。その上で、父からの御霊の霊法に従って行動されるのです。「人の子は安息日の主」(マルコ2章28節)だからです。
だから、イエス様は、宗教的な戒めを破棄するのではありません。父と共に働くことで、戒めを創造的に成就するのです。神は、「出来事を通じて」語られますから、わたしたちは、自分の身の回りに生じる出来事を祈りの中で霊的に洞察し、祈りの中で聖書を読むことを忘れてはなりません。霊的な視野を持つ人は、己の思惑にとらわれず、出来事を神の御手にある「おはからい」として見るのです。
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