【注釈】
■5章について
 今回の物語部分(5章2~9節前半)は、おそらく実際に起こった出来事を伝える原初の伝承から出ています。この物語には、共観福音書のマルコ2章1~12節=マタイ9章1~8節=ルカ5章17節以下と類似している部分があります。しかし、ヨハネ福音書の舞台は、ガリラヤではなくエルサレムであり、語られている状況から見ても、ヨハネ福音書の記事が共観福音書の伝承をそのまま踏まえているとは考えられません〔ブラウン『ヨハネ福音書』(1)〕。ヨハネ福音書の構成に用いられた「しるし物語集」の資料にも、すでに安息日問題が含まれていましたが、ヨハネ福音書は、安息日問題を独特の仕方で浮かび上がらせます。共観福音書では、安息日が、癒しの出来事の初めの部分に出てきますが、ヨハネ福音書では、出来事の後に回されていて、ヨハネ福音書独自の解釈が加えられています。
 先ず、ベトザタの池での癒しの出来事が、イエスの「しるし」として語られます。これに続いて、「ユダヤ人」と癒された人との出会いが起こり、そこから、イエスと「ユダヤ人」との対決へ発展します。続いて、イエスによる長い独白(モノローグ)が語られます。しるしの出来事、その出来事を巡る人々の反応、続くイエスの言葉というヨハネ福音書の語りの特徴が、今回の5章から始まるのです。
■資料について
 5章9節の「ところでその日は安息日であった」はヨハネの挿入です。ただし、5章2~9節前半までは、この福音書の資料である「しるし物語集」に含まれていたと考えられます〔Fortna. The Fourth Gospel and its Predecessor.115〕。この部分の語法がセム語的で、語られている状況が正確であることから、ここは原初の伝承から出ていると見なされています〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。
 ヨハネは、同じ「しるし物語集」からとったカナのしるしや役人の息子の癒しをイエスがメシアであることの「しるし」としていますが、今回は、そのような見方が直接述べられてはいません。その代わり、癒しが安息日と結びつけられています。16節と18節は、ほんらい資料にあったもので、その間に17節を挿入したと思われますが〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕、これは、イエスとファリサイ派との対決を意図した構成です。おそらく、ヨハネ共同体の当時の状況、ユダヤ教ファリサイ派とヨハネ共同体との間の論争が反映しているのでしょう。イエスが安息日に癒しを行なったことは、どの福音書にも証言がありますが、その取りあげ方は、ヨハネ福音書独自です。
■「水」の表象
 2章でのカナの婚宴の「水」に始まり、3章のニコデモとの対話では「水と霊」がでてきました。4章では「活きた水」が語られ、5章ではベトザタの水が癒しの場になります。さらに8章では「生きた水」、9章ではシロアムの池が盲人の目を開くのに用いられます。これに13章の最後の晩餐での「洗足の水」と19章34節のイエスの「血と水」を加えることもできましょう。このようにヨハネ福音書では、一貫して「水」の表象が現われます。テルトリアヌス(2~3世紀)やクリュソストモス(4世紀)などの教父たちは、今回の話からも「ユダヤ教の水からキリストの救いへ」というモチーフを読み取りましたが、ヨハネ福音書の「水」は、このように象徴的な意義を帯びていて、そのように解釈されてきました。
■錯簡について
 錯簡問題は、すでに指摘しましたから、詳細を繰り返すことを控えますが、今回とりあげる5章がその部分に当たります。現行の順序だと、4章の終わりでイエスはガリラヤに居て、5章で突然エルサレムに現れ、6章で再び舞台がガリラヤに移り、7章ではエルサレムへ上京することになります。しかし、5章と6章を入れ替えると、このような地理的な移動の不自然さがなくなります。実際5章と6章を入れ替えている注解書が幾つかあります〔バーナード『ヨハネ福音書』(1)〕〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕〔スローヤン『ヨハネによる福音書』〕。
 この順序だと、イエスはパンの奇跡の後でガリラヤから過越祭でエルサレムへ上京して(5章1節)、足なえの人に癒しを行ない、それからいったんガリラヤへ戻り、仮庵の祭りで再び上京することになります。しかも、カナの奇跡、役人の息子の癒し、パンの奇跡、湖での奇跡の四つがガリラヤで行われ、これに対してユダヤでは、足なえの癒し、盲人の癒し、ラザロの奇跡の三つが行われことになりますから、ガリラヤとユダヤを舞台にして、七つのしるし/奇跡が前半と後半とに配置されてきます。
 以上のような理由で、5章と6章について、現在では錯簡を認める学者が少なくありません。しかし、これに対する異論もあります。共観福音書では受難の直前に置かれている神殿の浄めが、ヨハネ福音書ではイエスの伝道の始めに移されていることからも分かるように、この福音書では、イエスの物語が意図的に再構成されていますから、地理的な移動のなめらかさが必ずしも編集者の真意だとは限らないのです。むしろ、舞台をユダヤとガリラヤと交互に設定することで、両者を対比させようという意図があると見るここもできます。この福音書は幾つかの編集段階を経ていますから、より合理的な配列が、仮にそれが「本来の」順序であったとしても、編集者の「真意ではない」ことがありえます。
■5章
[1]【ユダヤ人の祭り】6章4節の過越祭および7章2節の仮庵祭のように、ヨハネ福音書では、「祭り」がイエスの歩みの重要な「目印」になっています。ところが1節の「祭り」は、無冠詞でなんの祭りかが特定されていません。このためでしょうか、「除酵祭」(過越の祭りのこと)、あるいは「仮庵の祭り」という異読があります。これらの異読は明らかにこの祭りを特定するための後からの入れ替えです。ただし、6章と5章が入れ替わるなら、祭りは6章4節の過越祭だと分かりますから、1節での「祭り」を特定する必要がなくなります〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。
[2]【羊の門】原文に「門」はありませんので「羊の池の近くに」という読み方もできます。しかし、ここは通常、「門」を補って「羊の門の近くに」と解釈されています。第二神殿が建てられ(前520~515年)、これに伴って城壁が築かれた時(前445年)には、その城壁は、現在の岩のモスクがある神殿の丘を囲み、キドロンの谷に沿って細長く南へ延びて、旧ダビデの町を含み、シロアムの池にいたる瓢箪型の城壁でした。「羊の門」は、その城壁の真北に設けられた門で、そこは神殿に献げられる犠牲の羊が通る門でした(ネヘミヤ記3章1節/同32節参照)。ただしその頃は羊の門の北側にまだ「池」はなかったようです〔The Illustrated Atlas of Jerusalem. 36〕。
 その後、神殿の西南に広がるエルサレムを囲む城壁が築かれましたが、神殿の北側の城壁は、ネヘミヤの時代から変わらなかったようです。ただし、ローマの将軍ポンペイウスがエルサレムを攻略した頃(前63年)には、門の北側に、大きな「羊の池」がありました〔前掲書〕。その頃には、神殿を囲む城壁の門が、東と北と西に一つずつ、南側に二つあったようです〔前掲書〕。
 イエスの時代には、ヘロデの神殿がほぼできあがっていました。神殿の丘を南北の長方形に囲む城壁があり、神殿の城壁の北西の角からまっすぐ西へ(あるいは角から北へ弧を描くように延びて?)、「第二城壁」ができていました。神殿の北側にはローマ軍が駐屯するアントニアの砦が築かれていたので、羊の門は地図で確認できません〔前掲書〕。イエスの頃か、あるいはそれ以前には、オリーヴ山で犠牲の動物を買い求めて、これを神殿の北の城壁から神殿の北側の庭に引いて来て、そこから、聖所の北側の入り口を通って祭壇へ連れてきたと推定されます。そうだとすれば、城壁と北側の砦との狭間に、昔の「羊の門」があったと思われます。したがって、ベトザタの貯水場は城壁の北にあり、城壁の外になります。
【ベトザタ】ヨハネ福音書が「ヘブライ語で」と言うのは、旧約聖書のヘブライ語のことではなく、イエスの時代に用いられていたアラム語のことでしょう。ここを「ベテスダ」と読む異読があります。エルサレムの東の丘は「ベト・エッアタイン」と呼ばれていました。「ベト・エツアダ」は、ギリシア語で「ベテスダ」となります。これには、「ベート・ヘセダー(憐れみの家)」の意味があるので、この読みが採られたという見方もあります。クムラン文書の「神殿の書」には「ベテシャダタイームの池」とあり、これは「ベテスダ」に近いでしょう〔新約原典テキスト批評〕。これに対して「ベトザタ」は、「ベト・エッダタ」のアラム語の複数形から来ています。これは、エルサレム神殿の北部の地名だったようです。したがって「ベテスダ」〔フランシスコ会訳聖書〕と「ベトザタ」〔新共同訳〕の両方の読みが可能です。
 ここに出てくる池は、一定の周期で水が湧き出る(熱湯を噴き出す)間欠泉で、南北53~67メートルの幅と、東西96メートルの長さがあり、中央には、南北に幅6・5メートルの立派な回廊があり、全体が東西に仕切られて二つに分かれていました。したがって回廊は、全部で五つありました。イエスの頃の貯水の深さは15メートルほどでしょうか。前2世紀頃に、ここにギリシアの医療の神アスクレピオスが祀られていた形跡があり、3節にあるように、言わば癒しのための「水の聖地/神殿」だったのでしょう。現在(2008年頃)、まだ全体の4分の1ほどしか発掘されていません。イエスの時代以後に、ビザンティン時代と十字軍時代の壁がさらに高く加わっていますが、それでもずいぶん深い貯水場であったことが分かります。
[4]「彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。」この4節は、200年頃にテルトリアヌスによってすでに知られていましたが、初期シリア訳にもコプト訳にもなく、ラテン語訳にもありません。ただしコデックス写本は、先の写本で除外されていたこの節を入れています。ここにでている「ときどき」「(水に)降りる」「待つ」「(病気に)かかる」「病気」 などの原語は、ヨハネ文書の他の箇所には現れません。もともとこの節は「注」として欄外に書き込まれていたのでしょう。現在ほとんどの訳は本文に入れていません。
[5]【三十八年】申命記2章14節には、エジプトを出たイスラエルの民のほとんどが、38年間の荒れ野の旅で亡くなったとありますから、このことに関連づけて、ここを解釈する説もあります。しかし、ヨハネは、単に長い期間を表す意味で用いたのでしょう。イエスが、どうしてその人が長い間患っていたことを知ったのか? なぜイエスのほうから彼に問いかけたのか? イエスの語りかけにその人はどのように感じたのか? これらについては、いっさい触れられていません。ヨハネ福音書は、これらのことを、読者自身の洞察に委ねるのです。
[6]【良くなりたいか】先の役人の息子の癒しの場合と違って、ここでは、癒された人の信仰は前提とされていません。したがって、「しるしを見る」ことも問題にされません。長い間患っていた者に対するイエスの憐れみと、イエスの言葉の力を示すためでしょう。6節~15節までの間に「治る/治す」(6節/9節/13節)、「癒す」(10節/11節)が繰り返されるのに注意してください。命を与える力はイエスから来るのですが〔バルト『ヨハネ福音書』〕、一方で、イエスの問いへのその人の答えは、曖昧で絶望的です。
[7]【水が動くとき】天使が水を浴びるために池に降ると、その後でも病気を癒す力がまだ水に残っていると信じられていたのでしょう。
[8]【起き上がりなさい】「起き上がりあなたの床を担いで」はマルコ2章11節とほぼ同じですから、ヨハネ福音書とマルコ福音書との関係が示唆されています。ただし、マルコ福音書では罪の赦しが強調されているのに対して、ここでは、安息日に癒しが行なわれたことが注目されています。その人の答えから判断して、ここでイエスは、その人の「意志の力」に関わりなく語っています。注意しなければならないのは、マルコ2章10~11節のように、「周囲の人々」への証しと患者を連れてきた人々の信仰のゆえの癒しではないことです。
[9]9節は、この物語全体の大事な転換点です(9章14節を参照)。原話は9節前半で終わり、後半の「その日は安息日であった」から、ヨハネの編集が始まります。この付加部分はイエスとファリサイ派との対決を導入するためでしょう〔岩波訳(注)〕。
[10]【ユダヤ人たち】イエスも癒された者も「ユダヤ人」ですから、ここで言う「ユダヤ人たち」は、人種的な呼称ではなく、特にユダヤの指導層を指しています。この意味での「ユダヤ人」がヨハネ福音書ではしばしばでてきます(11章54節/19章7節など)。
【許されていない】「許されていない」は、ファリサイ派の律法解釈で律法に違反する場合の用語です。安息日に公的な場所から何かを持ち帰ることは、それが意図的に行なわれた場合、死刑に値します〔バーナード『ヨハネ福音書』(1)〕。他の日であれば、癒されたことで神を賛美することができたのですが、安息日ではそうでないのです。イエスの癒しは、意図的にこの日を選んで行なわれたのでしょう。この点でマルコ3章1~6節と共通します。
[11]~[12]調べにあたったユダヤ人たちは、癒しのしるしにはいっさい目を留めず、ひたすら律法に照らして、安息日に違反して「床を担いだ」ことだけを採りあげています。しかも、共観福音書とは異なって、癒しを受けた当人に対して取り調べを行なっています。ヨハネ共同体と、同時代のファリサイ派との対立関係を反映しているのでしょう。癒された当人は、自分はただイエスの命令に従っただけだと弁解しています。
[13]【立ち去る】原語は「そっと身を隠すように出ていく」ことで、この語はここだけです(6章15節では「その場を離れる」)。イエスが群衆を避けるために「立ち去った」のでしょうか? あるいは群衆にまぎれて「出ていった」のでしょうか? おそらくその両方でしょう。癒しの場から「立ち去る」のは共観福音書でも同様で、マルコ福音書でもイエスは、癒しを人に知らせないように命じています(マルコ1章44~45節/なおルカ5章15~16節も参照)。
[14]【神殿で】その人は神殿に感謝の捧げ物を捧げに行ったのかもしれません。同時に、人の集まる神殿に行けばイエスに会えると思ったのでしょう。イエスもその人を捜していたと思われます。
【もっと悪いこと】病気をその人の罪と結びつけるのは、当時の習慣です(マルコ2章5節/同9節/ただしこの点では9章3節を参照)。しかし、ここで言う「もっと悪いこと」は、身体的な病気ではなく、せっかく与えられた<命の霊>から離れることを指すのかもしれません〔スローヤン『ヨハネ福音書』〕。あるいは自分に与えられた神からの啓示を軽んじることによって、神から裁きを招くことを指すのかもしれません。「<もっと悪いこと>、それは、自分の命を開示してくださる啓示に反抗して、現実に自分に起こっている神の啓示を軽蔑する人、すなわち、罪の中に留まっている人の状態とその頑迷であり、同時に彼に対する裁きである」〔バルト『ヨハネ福音書』〕。バルトは、ここで「悪いこと」とは「光を理解せず」闇に留まる「ユダヤ人」のことをも指していると見ています。
[15]この節は、癒された人が、イエスのことを当局に「言いつける」目的で報告に行ったという意味ではなく、続くイエスとユダヤ人との論争を導入するための編集です。
[16]【このようなこと】「このようなことを行なっていた」と不定過去形なのは、イエスが安息日を破ったのはこの場合だけでないことを示すものです。したがって、「ユダヤ人」が「イエスを迫害し始めた」のは、これが初めてではないという意味です。なお、16節と18節の「このために」で始まる構文は並行していて、その中心に17節が置かれています。内容的にこれら三つの節は並行法の形を採っています。
 
16このために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。
 イエスが、安息日にこのようなことをしていたからである。
17イエスはお答えになった。
  「わたしの父は今もなお働いておられる。
   だから、わたしも働く。」
18このために、ユダヤ人たちは、
  ますますイエスを殺そうとねらうようになった。
 イエスが安息日を破るだけでなく、神を自分の父と呼んで
  自身を神と等しい者としたからである。
 
 16~18節は、5章の始めからの出来事を受けると同時に、19節以下のイエスの言葉へつなぐ橋渡しの役割をしています。したがって、「このようなことを」とあるように、ここで問われているのは、今回の癒しの行為だけでなく、イエスの働きが安息日を破る行為を公然と行なっていることを一般的に指します。この点が、共観福音書、特にマルコ2章5節以下の叙述とヨハネ福音書との異なるところでしょう。
【迫害する】4章1節にもファリサイ派のイエスへの敵意が示唆されていましたが、この16節が「ユダヤ人」によるイエスへの迫害があからさまに語られる最初の例です。これが5章以後12章の終わりまで続きます。
[17]【答えた】この動詞は、通常、能動欠如動詞として受動相で用いられますが、ここでは珍しく中動相です。ヘブライ語の「答える」(アーナー)には「言葉を続けて言う/さらに続けて言う」の意味と、「口を開いて語り始める/発言する」の意味とがあります。四福音書のギリシア語「アポクリノマイ」は、ヘブライ語のこの用法を受け継いでいると思われますが、今回の場合は、後の「発言する/語り始める」の意味で、中動相なのは通常の「答える」よりも、裁判の席などで公式に発言し始める/弁明を始めることを指します(マルコ14章61節/ルカ3章16節/ヨハネ5章17節/同19節/使徒言行録3章12節)〔織田昭『新約聖書ギリシア語小辞典』〕 〔Daniel Wallace.Greek Grammar: Beyond the Basic.421〕。
【今もなお働く】ここでは現在形ですが、この現在形は、イエスの父が<今までも>働き続けてきており、そのことが現在もなお継続中であることを表わします。1世紀のユダヤの思想家フィロンも、イエスの当時のユダヤ教も、七十人訳の解釈に準じて、創世記2章1~2節の「(神は)安息した/休んだ」を「(神はその業を)終わってそれ以上何もしなかった」ことではなく、創造の働きがそれ以後も続いていると解釈しました〔バレット『ヨハネ福音書』〕〔ブラウン『ヨハネ福音書』(1)〕。神は、安息日でもその聖なる業を全地で行なっていると見なされてきたのです(エレミヤ書23章24節を参照)。
【わたしも働く】これは「人の子は安息日の主である」(マルコ2章28節)に相当するヨハネ福音書の言い方です。父の神が、今もなお働き続けているそのように、イエスもまた行なうのです。ヨハネ福音書は、ここで癒しのしるしを神の創造の業と結びつけています。イエスは、父の与える戒めの破壊者ではありません。父が彼と共に働いておられるから、父の戒めを限定する人間的な枠を克服するのです。この17節こそ、19節以下の論争を決定づけるものです。ここでイエスは、「御子の義務と救い主の権利に従って」〔バルト『ヨハネ福音書』〕働くのです。安息日の律法的な戒めは、<人間に与えられている>がゆえに、神の法の根源であると同時に、その律法の限界をも示すものです。イエスは、ここで神の根源の法に従って行動するのです〔バルト前掲書〕。
[18]【殺そうとねらう】今回の箇所をマルコ3章1~6節と比較してください。どちらもイエスが繰り返し安息日を無視して病を癒していたために、イエスを殺そうと狙い始めています。ただし、ヨハネ福音書では、彼らは「ユダヤ人」ですが、マルコ福音書では「ファリサイ派とヘロデ派」です。このことから、ヨハネ福音書が言う「ユダヤ人」の意味が分かります。ヨハネ福音書には、ヨハネ共同体が小アジアのエフェソへ移った後の状態も反映しているのでしょう。当時ローマ帝国から認可されていたユダヤ教と、ユダヤ教から分離したために帝国の認可からはずされるべきキリスト教とがあり、これを区別するように「ユダヤ人」側から申し立てられていたという事情があったようです。これには、キリスト教会がユダヤ教の安息日を軽視して、安息日規定を無視する傾向があったことが関係していると指摘されています〔スローヤン『ヨハネ福音書』〕。
 マルコ福音書でイエスは、安息日でも「人を救うこと」を優先させる人道的な立場から反論しています。これに対してヨハネ福音書では、イエスが「神と共に働いている」ことが、相手への反論の理由です。ただし、マルコ福音書でも、イエスは自分を「安息日の主」としていますから(マルコ2章26~28節参照)、本質的に見れば、共通する理由に基づいています。ヨハネ福音書では、イエスは神を「自分の父」と呼びますが、マルコ福音書でも、神を「アッバ、父よ」(マルコ14章36節)と呼んでいます。これらの行為は「ユダヤ人」から見れば、イエスが自分を「神と等しい者」にしていると見なされたのです。
 前1世紀頃にギリシア語で書かれた知恵の書には、「受難の僕」像として知られている箇所があり(知恵の書2章11~20節)、そこでは、義人に敵対する者たちが、義人のことを非難して、「彼は神を知っていると公言し、主の子/僕だと自ら名乗っている」と言い、「彼はわれわれを偽り者と思う」とあり、また「(彼は)神が自分の父であると誇っている」〔フランシスコ会訳聖書〕とあります。
【神と等しい者】ユダヤ教では、伝統的に天の神と地上の人間を厳しく区別し、「神は天にいまし、あなたは地上にいる」(コヘレト5章1節)とされていました。自分を「神と等しくする者」は、エジプトの暴君ファラオであり(出エジプト記5章2節)、ティルスの君主ヒラムであり(エゼキエル書28章2節)、エルサレム神殿を破壊した新バビロニア帝国のネブカドネツァル王です(ダニエル書3章4~6節)。したがって、自分を「神と等しい」と言う者は、イスラエルの神から切り離された存在であり、イスラエルの神に敵対する者のことです。
 これに対して、パウロ書簡には、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になった」(フィリピ2章6~7節)〔新共同訳〕とあります。「神の身分」は「神の身/姿」〔フランシスコ会訳聖書フィリピ2章6節(注)3〕と訳すこともできます。イエス・キリストが「十字架の死にいたるまでへりくだって神に従う者となった」(同8節)ために、神は「すべての名に勝る名」である「主」(キュリオス)をイエス・キリストに与えたのです(同11節)。ここで言う「主」は、七十人訳では主(アドナイ)ヤハウェにのみ用いられる名です。パウロが言う「神と等しい者」は、「神の栄光の姿のままの状態にあること」であり、イエス・キリストはこのことを求めなかったのです。ヨハネ福音書の「神と等しい」は、このパウロのキリスト観をさらに進めたもので、続く5章19節にあるとおり、「自分が神から離れるなら無に等しい存在である」ことを指しています。したがって、イエスが言う「神と等しい」は、「ユダヤ人」の言う「神とは別個な敵対関係」とは正反対の意味です〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕〔バレット『ヨハネ福音書』〕。ユダヤ人たちは、イエスの言葉を彼らなりに理解/誤解していますが、彼らは、イエスが神から遣わされていることを<理解しない>ために、その真意を<とらえる>(1章5節の意味)ことができないのです。
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