28章 御子の権能
                                 5章19節〜30節
■5章
19そこで、イエスは彼らに言われた。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。
20父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。
21すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。
22また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。
23すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。
24はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。
25はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。
26父は、御自分の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。
27また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。
28驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、
29善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。                           30わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」
                                 【講話】

                      
【注釈】
■父を啓示する御子
 5章17節でイエス様は「父が働くように子もまた働く」と言われました。ユダヤ人の指導者たちはこれを聞いて、「自分を神と等しい者にしている」と怒ってイエス様を殺そうと決意します。なぜ「神と等しい」ことがそんなに激しい怒りをかったのでしょうか。日本では偉い人が死んでカミになることがごく自然に行なわれています。現在でも、教祖と呼ばれる人をいわゆる「生きガミ様」として崇める宗教団体が少なくありません。実は、イエス様の時代でも、この点で日本と多少似ているところがあったのです。ギリシア・ローマのヘレニズム世界では、皇帝がカミになるのは当然であったし、人々を「神の子たち」と呼ぶことさえありました(使徒言行録17章28〜29節参照)。パウロが病人を癒したときに、人々は、彼を「ヘルメス」と呼んで、献げ物を捧げにやってきたとあります(使徒言行録14章11〜13節)。特に、王をカミとして崇めることは、古代では当然のことでした。
 ところが、ユダヤ人の間では事情が違っていました。彼らにとって(この点では現在のクリスチャンも同じ)、自分を神と等しくすることは、神と「競い合う」ことを意味するからです。エデンの園で、アダムとエヴァは、「神になろう」として知恵の木の実を食べたのです。ユダヤ教では、サタン(悪魔)もかつては天使であったのが、神と「競う」ことによって天から落され堕落天使となり、人間を誘惑する蛇に転じたと伝えられていました。このように、「自分を神とする」ことは、人間にとって最も恐ろしい罪だと見なされたのです。人間の心の奥には「自我」という恐ろしい高ぶりの蛇が「わたし」という木にまつわりついている。これが人間の「原罪」と言われるものです。
 この意味で、ユダヤ人のほうが、ヘレニズムの人たちよりも正しく人間と神との間の距離を知っていました。ところがヨハネ福音書は、ヘレニズムの人たちもユダヤ人も想像しなかった事態を人々に告げ知らせるのです。ユダヤ人が遠い存在として畏れていた神ご自身が、<人となって>この世に来られたという知らせです。ただし、イエス様が神の御子であるとは、これを批判するユダヤ人が考えたように「神と競い合う」ことではありません。逆にイエス様は、「アーメン、アーメン、子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない」(5章19節)と言われるのです。「わたしは自分では何もできない」(同30節)と繰り返すことで、この御言葉は、今回の段落の始めと終わりを囲んでいます。
 しかし、ユダヤ教では、神と人間との間に厳しい区別を設けていましたから、神を「自分の父」と呼ぶことが、ユダヤ人指導層の反感と敵意を招くことになります。イエス様の存命中と同じこの批判が、以後のヨハネ共同体にも向けられます。おそらく現代でも事情は変わらないでしょう。イエス様が十字架につけられた根本原因は、「自分を神の子だと自称した」(19章7節)からだとあります。父なる神がイエス様をお遣わしになった。イエス様のこの発言が十字架刑への引き金になります。
 ところが、イエス様は、敵対する人たちの目の前で、十字架から復活された。自分たちが迫害したその者が、実は、神の義を証しする「神の僕」であった。神は、ご自分の僕に「復活の栄光」を与えることで、このことを敵対者たちの目の前で証しされました。これこそ、第二イザヤ以来、メシア到来の際に、「主の僕」に起こると預言されていたことなのです。
■父と子の交わり
 イエス様は、「子は自分からは何事もできない」と言われます。なぜ「できない」のでしょうか? 子は、父のなさることを「観なければならない」からです。ヘブライ語で「子」とは、父の生き方をそのまま「見習う者」のことです。聖書が言う「アブラハムの子」もこの意味です。イエス様は、現に生きて働く父のなさることを見習うのです。イエス様にそれができるのは、父が子を「愛する」からです。父のなさることを観るためには、父と子が愛し合う交わりがなければなりません。これによって、父は子に、ご自分を顕すことができるからです。父なる神と御子の霊的な交わりこそ、この秘密を解く鍵です。
 人間を神格化してカミと崇めるヘレニズムの人たちにも、神を人間から隔絶した存在と考えるユダヤの人たちにも、イエス様にある父子のこのような交わりの関係が見えません。父のなさることを観たければ、父の愛を受け入れ父を愛するよりほかに道がありません。「自分からは何もできない」と言われるイエス様は、父子一体の関係にあって初めて、「子は父がなさることはなんでも、そのとおりにする」と言い切ることができたのです。心から父のみ心を求めて、示された通りに従うことができたのです。それは、神に敵対するサタンとは、まさに正反対の道です。
 イエス様はさらに、「これよりももっと大きな業を父は子に示される」と言われます(5章20節)。それはユダヤ人が「驚く」ようなことです。なんとそれは、イエス様と父なる神の関係が、御子を通じて、わたしたち人間にも及ぶこと、その結果、わたしたちにも、イエス様の御復活の命が与えられることです! わたしたちもまた、父なる神との「愛の交わり」に入ることができる。こうヨハネ福音書はわたしたちに証しするのです。
 人間がそのままでカミになると考えていたヘレニズムの人たち、逆に人間は神と直接に交わることなど決してありえないと考えていたユダヤ人たち、どちらにとっても、これは不思議な関係でした。イエス様の御言葉を受け入れる者は、イエス様が言われたとおり「自分からは何もしない」で、ただあるがままの姿で、霊風無心の境地へ導かれると、そこに顕れるのは、「イエス様の父なる神」です。
■父からの賜
 イエス様が神を父と呼ぶのは、イエス様が人間として立派な方で、その行ないにおいても、愛の業においても、神の子と呼ばれるのにふさわしいからだ。わたしたちはこのように考えます。ところが、ヨハネ福音書は、<初めに>父の神がイエス様をこの世へお遣わしになったからこそ、イエス様の出来事が起こったと証しするのです。
 イエス様が、十字架を忍ぶことによって、人類に対する愛を証しされたこと、これが「贖い主」と呼ばれる根拠ではなく、<イエス様の父なる神>が、イエス様をこの世に遣わして、人類の罪の贖いを十字架において成就された。これがヨハネ福音書のメッセージです。今回の箇所で、イエス様が、「父がわたしをお遣わしになった」と言われているのはこの意味です。「父が示してくださらなければ、自分からは何一つ行わない」と言われているのもこの意味です。贖いのみ業があったから復活が起こったのではありません。そうではなくて、父なる神が、御子をこの世にお遣わしになって、十字架の贖いとこれに続く復活、そして聖霊の降臨をわたしたちにお与えになった(21節の「父が与える」の意味)、こうヨハネ福音書はわたしたちに証しするのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(3章16節)と。
■御霊の命
 わたしたちが、イエス様の愛を受けて、父なる神との交わりに入ると、その人に「命が与えられ」ます(5章21節)。その命は、イエス様と父を結びつける霊的な交わりから来ます。だから、イエス様と父を結ぶ聖霊こそ、ヨハネ福音書が伝えようとしている「御霊の命」です。父とイエス様との愛の交わりこそ、「コイノニア」(まじわり)であり、わたしたちも、このイエス様を通じて、父との愛の交わりに導き入れられるとヨハネ福音書は語るのです。
 わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、
 あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。
 わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。
 わたしたちがこれらのことを書くのは、
 わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。
                   (第一ヨハネ1章3〜4節)
 聖霊は、父の神と御子を一つに結ぶ生命です。しかし、この生命の御霊は、宇宙創造の初めにあたり、創造の根源的な神秘から発出するものです。聖霊は、わたしたち一人一人の内にも働き、新しい命をわたしたちの内に創造する根源の力です。神と人間との質的な差をあまりに強調すると、御霊の働きが人間の体験ともなりえることを否定するおそれがあります。わたしたちは、経験できない神を信じることはできません。キリストの御霊はまた父の御霊でもあり、イエス・キリストの父の御霊は「ヤハウェの御霊」です〔J・モルトマン組織神学論叢(4)『いのちの御霊』蓮見和男/沖野政弘訳(新教出版社)〕。
 イエス様の創造の命に与る者は、宇宙を創り出しておられる方の命に与る者であり、その人の内には「永遠の命」が宿るとイエス様は言われます。たとえわたしたちの肉体が滅んでも、わたしたちの内に宿るイエス様の御霊にある命は滅びることがありません。この命は、<現在すでに>わたしたちの内に働きかけてくださっています。しかし、御霊の働きは、まだ完成していません。わたしたちがこの世に生きている間、その働きが止むことはありません。一人一人だけでなく、イエス様を信じるエクレシア(教会)全体としても、御霊の働きはまだ成就しておらず、終末の完成に向かっているからです。ヨハネ福音書は、この事態を「その時が来れば」(28節)と、「今来ている」(25節)とで言い表しています。「今」と「その時」との間にあるわたしたちは、イエス様の御霊のみ声に聞き従うなら、「死から命へ移される者」になるのです。
■裁きと救い
 イエス様は、「自分からはなに一つできない。父の言われるとおりにする」(5章19節)と言われます。父が、御子をこの世にお遣わしになったからです。イエス様を<このようなお方>として受け入れる人は、イエス様を神の御子として「敬う」人です(23節)。イエス様と父との交わりに与るために、わたしたちは、<自我に死ぬ>ように導かれます。イエス・キリストの愛を受け入れるところに、不思議な事態が起こります。イエス様に従うことによって、わたしたちは新しい命を内に宿すようになり、父なる神と共に生きる不思議な悦びが訪れます。「自我に死ぬ」わたしたちが、逆に「生かされる」から不思議です。だから、ただあるがままでいいのです。イエス様と共に生きるとき、わたしたちは、だれにも「裁かれない」からです。人も裁かないし己も裁かない。サタンがなんと言おうと恐れません。新しい命に活かされる新しい次元の生活が啓(ひら)け始めるのです。
 ヨハネ福音書によれば、この事態はわたしたちが死んでから起こるのではありません。「今この時」にも起こるのです。5章24〜25節でイエス様が言われているのは、このことです。命の光が差し込むと、わたしたちは、主のみ心を求めるようになります。すると、自分の内に、今まで見えてこなかったいろいろな醜い面が見えてきます。そういう自分をなんとかして主のみ心にかなう者にしてほしい、こう祈り願わずにおれなくなります。「裁き」は、このようにわたしたちの内に進行します。なんという悦びの「裁き」でしょう。人からの裁きを経験した者なら、イエス様の裁きがどんなに「軽い」かがよく分かります。
■父の御心に従う御子
 イエス様の命に歩む者は、イエス様と共に「死んで復活する」。これは、未来のことでありながら「今」ここでスタートする事態だと、ヨハネ福音書ははっきりと告げています。未来に成就することが<今ここから始まる>のですが、この世を去って墓に入った後でも、わたしたちは主イエス様と共に復活します。
 さらに今回の箇所は、終末において、「全人類の死者の復活」が起こり、全人類が、御子の声を聞いて墓から出てきて、善を行った者は命にあずかり、悪を犯した者は裁きに遭う(28節〜29節)と告げています。ただし、この世でイエス様を全く知らずに死んだ人たちも、イエス様を信じなかった人たち同様に断罪されると即断するのは、正しくないでしょう。そもそも「善人」と言い「悪人」と言うのは、どういう人のことなのか? この判定(裁き)それ自体が、御子に委ねられているからです。しかも、御子自身さえ、最終的な判定は「父の御心に従う」と繰り返し告げておられます。憐れみに富む御子が、終末において、一人一人を、どのような基準でどのように裁定されるのか、これはわたしたち人間の予想を超える事態です。だから、最終的にどうなるのかは、今のわたしたちには分かりません。ただ一つ、人はそれぞれ、御子によって、自分の生き方にふさわしい「正しい裁き」を受けること、これだけが確かなのです(5章30節)。
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