【注釈】
■5章19~30節について
 19節から30節までは、これに先立つ18節の安息日問題に続いていますが、ここに安息日問題はでてきません。今回の部分は、17節の父と子の一体関係とつながっています。ただし、ヨハネは、安息日問題を打ち切っているわけではありません。「人の子は安息日の主である」(マタイ12章8節)とある共観福音書の伝承をさらに進めて、「人の子として御子は、父から裁きのいっさいの権能を与えられている」(27節)と明言しているからです。
 今回の部分は、全体がイエスの言葉として引用されていますが(この引用は47節まで続く)、イエスの言葉伝承に直接結びつくと思われるのは19節、24節、30節で、その他の部分は、ヨハネ共同体の中で受け継がれた始祖の言葉か、あるいはこの福音書の編集者によると考えられます。ただしこの場合、25節が示唆するように、復活以後の御霊のイエスによって共同体に語られた言葉もまた、「イエスの言葉」として伝承されていることを考慮しなければなりません。
 ブラウンは、この箇所を19節から25節までと、26節から30節までの二つに分けて、内容を以下のように対応させています。「父と子が命を与える権能を共有する」(21=26節)/「父と子が裁きを行なう権能を共有する」(22=27節)/「聴く者が驚く」(20=28節)/「死者が子の声を聴く時が来る」(25=28節)/「子は父の業を見聞きするのでなければ、自分からは何もできない」(19=30節)〔ブラウン『ヨハネ福音書』(1)〕。
 このように並行する思考に基づく語り方は、ヨハネ福音書の随所に表われますが、これら並行あるいは対応する部分は、全く同じではありません。前者には「父と子」がでてきますが、後者には「人の子」がでてきます。前者では生から死への霊的な移行が「今の時に」生じますが、後者では「墓からのよみがえり」ですから最後の審判が語られます。終末に関する対比とその違いから見て、26~30節のほうが共観福音書と共通するところが多いのに対して、19~25節のほうは、比較的後期に、終末の遅延に対応してヨハネ共同体の中で発展したものではないかと推定されています〔ブラウン前掲書〕。しかし、その思考と語りの共通性から観て、どちらも同一人によると見なすこともできますから、並行する複数の伝承と、それらを組み合わせる編集の複雑な過程がうかがわれます。
 24~25節では、死者の命への移行が現在のこととして語られているのに、28~29節では、それが未来の出来事であるという印象を与えます。だから、今回の部分全体は、終末時の出来事だとする解釈と〔バルト『ヨハネ福音書』〕、これを終末を含みつつも、現在のことと見る解釈とがあります〔スローヤン『ヨハネ福音書』〕。全体として、終末の時を含みつつも、すでに現在の出来事として起こりつつあると見るほうが、ヨハネ福音書の解釈としては正しいでしょう〔間垣洋助『ヨハネ福音書のキリスト論』〕。
 19節と30節は、対応して説話全体の枠を構成しています。このことから、本来は、この二つの節がつながっていて、これら節の間に、24~25節と27~29節に見られる二つの伝承を挿入したのではないかという推定もあります。この場合、「未来の終末」を強調する27節以下を本来のテキストとし、「実現した終末」を語る24~25節を後の挿入と考える説と(キリストの再臨が遅延したために後から加えられたと見る)、逆に、「未来の終末」を後の編集と見る説とがあります。後の説は、ヨハネ福音書が、主流派の教会の終末観を採り入れて再編集されたと見ているのです。わたしは、全体の構成を以下のように交差法的に見ています。
 〔A〕19節(30節と対応して全体の枠を形成)。
 〔B〕20~21節(復活に関する権能が子に委ねられていること)。
 〔C〕22~23節(24節へ至るための伏線)。
 〔D〕24~25節(全体の中心となる主題が提示される)。
 〔C’〕26~27節(前述のイエスの言葉をさらに敷延する)。
 〔B’〕28~29節(人の子の権能と死者の復活)。
 〔A’〕30節(19節と対応する結び)。
 今回の箇所は、イエスの父なる神と子の関係を語っていて、この福音書のキリスト論の中核となる部分です。父と子のつながりは、ヨハネの福音書全体にわたって語られていますが、その核心は、「わたしと父とは一つである」(10章30節)にあるからです。子は、命を与える権能を委ねられているだけでなく、裁きについても、その権能を委ねられています。ただしその裁きが、命の授与と不可分に結びついていて、いわゆる「救済的審判」となっていることに注意しなければなりません。
■5章
[19]この節は受肉のイエス・キリストを理解する鍵となる箇所です。以下に直訳をあげます。
 アーメン、アーメン、わたしはあなたがたに言う。
 子は自分から何一つ行なうことができない
 父が行なっているのを観るのでなければ。
 なぜなら父が行なうそのことを
 子も同じに行なうからである。
【はっきり言っておく】原文は「アーメン、アーメン、あなたがたに言う」です。「アーメン」を繰り返すこの定型句は、ヨハネ福音書に25回でてきます。「アーメン」を一度用いる形式は共観福音書にもあり、これはパレスチナ最古の教会へさかのぼると考えられます。「アーメン、アーメン」の形はおそらくヨハネ共同体の中で生まれたのでしょう。この形式はユダヤ人キリスト教徒の聖霊によるカリスマ運動の中で用いられたと思われます(パウロ書簡にはこのような言い方はでてきません)。「あなたがたに言う」という形式はさらに古く、前2世紀のハシディームやエッセネ派の黙示形式にまでさかのぼり、これもやはり預言的・カリスマ的な霊感に由来すると思われます。ヨハネ福音書の場合、「アーメン、アーメン」で始まる節は独立した節としてでてきますが、前後の文から独立しながらも内容的に密接に関連し合ってもいます。復活したナザレのイエスの臨在を顕すためです。
【あなたがたに言う】この文脈では、「あなたがた」は18節の「ユダヤ人」を指すことになります。ユダヤ人にとって、人間が「神と等しくなる」ことは神と<競い合う>ことであり、反逆の天使ルシフェル(明の明星)の堕落(イザヤ14章12~15節)に匹敵する許し難い行為だと見なされていました〔ドッド『第四福音書の解釈』〕。イエスが神を「父」と呼ぶのは、そのような競合関係からではなく、その正反対の事態から出ています。ここでイエスは、<この食い違い>をはっきりさせるために「自分からはなにもできない」と言いきったのです。
【自分から】子が「自分から」行なうのではないこと(5章19節/8章28節)、語るのではないこと(7章17節/8章28節/12章49節/14章10節/特に16章14節のパラクレートスにも注意)、意図するのではないこと(5章30節/6章38節)が、ヨハネ福音書では一貫して語られています。
【行なうことができない】上記の並行法による訳で分かるように、19節には、「行なう」(ギリシア語「ポイオー」)が4回繰り返されています。「子が行なう」ことが<できない>とあるのは、「子」が「父」に従属していることを指すと思われるかもしれません。しかし、すでに3章のニコデモとの対話で見たとおり、今回も、イエス自らが、聴いている者(読者を含む)に、「今語りかけている」と読む/聴くことが求められています。だから、「自分から行なうことができない」は、父と御子との霊的な交わりの状態を表わすものですが、同時に、これを聴いている者もまた、<そのような>霊的な交わりに導き入れられる事態を指しています。
 イエスの語りかけが、単に思弁的な存在論や宇宙観ではなく、これを聴き取るその者に生起する具体的な霊的状況を表わしていることを見逃してはなりません。「行なう」の繰り返しは、まさにこのこと、イエスの言葉を聴く者/読む者にも、同様に父と子の交わりへ<引き入れられる>という働きかけが生起することを指すのです(第一ヨハネ1章3~4節を参照)。したがって19節は、御子イエスが父に従属することではなく、むしろ御子が、聴く者に<神である父を顕す>こと、イエスがキリスト(救い主)として、父を啓示することが語られているのです。
【父のなさることを】父と子が一体であるという考え方は、ユダヤ教の伝承にもあり、この言い方は、特に徒弟制度のもとで職人を育成する場合に、親方のすることをなんでも「見習う」必要があることを指していました。古代のパレスチナでは、家業が父から子へ受け継がれる場合が多かったから、このような言い方は「父と子」の関係を表す諺となっていたのです。この譬えを借りるなら、父のもとへ「弟子入りした」子は、何事も父に見習うだけでなく、父もまたその知る限りの<すべての業>を子に行なって見せるのです。ここでは、イエスが、神を自分の父と呼ぶことで、自分と父がひとつであることを明言していて、このことが「ユダヤ人」の敵意をかうことになります(18節)。しかし、イエスは、ただ「父の行なうことを観て行なう」のです。ここには、御子イエスの謙虚な想いと気高い発言が同居しています。彼の意図はただ父への従順です。もしも彼が「己の栄光を求める」なら、その発言に伴う栄光は直ちに消え失せます。彼の発言は、彼の謙虚さから出ているもので、人間的かつ悪魔的な不遜と傲慢からではないのです〔バレット『ヨハネ福音書』〕。ただし、ここで語られる「従順」は、人間的な計らいから出た「自己保身のための服従」ではありません。なぜなら、子は父の霊性を<共有する>からです。子は<己が無なる>ことを通じて父を人類に啓示するのです。
【子も同じに】このことを父なる神への単なる「真似/模倣」だと理解するのは適切でありません。神の行為を模倣するのは神と競い合おうとする天使でも人間でもできるからです。だから、ここで「同じに」とあるのは、父なる神が、御子を愛して、ご自分の業を「行なわせる」ことであり、ヨハネ福音書は、このことを御子が地上にあって「父の栄光を顕す」(13章31~32節)と呼んでいます。父と御子との霊性の一致がここで言われているのです(10章30節)。
[20]【愛する】原語は友情を表わす「フィロー」ですが、ヨハネ福音書では、この語が聖愛を意味する「アガポー」と同じ意味で用いられます(「アガポー」が用いられている3章35節と比較)。
【子に示される】父が「示す・顕す」は、前節の子が「観る」ことと対応していますから、子が、父から遣わされている「しるし」となる出来事を行なうことも指しています。ここは、イエスが父の神に等しいと強調しているのではなく、神のほうが、イエスの父として、御子イエスを愛していることを言おうとしています〔バルト『ヨハネ福音書』〕。イエスと父は一体ですが、その一体性は、父子の人格(ペルソナ)的な交わりから生じるものです。ただし、後世の「ペルソナ」観に基づく三位一体論をここに持ち込むべきではないでしょう。また、18節にある「自分を神と等しくする」という「ユダヤ人」の非難を踏まえて、ここではイエスが、父の神に従属していることを強調しているという解釈も適切とは言えません。
【大きな業】これは、21~22節にあるように、イエスが死者を復活させることと、父から裁きの権能を委ねられていることとを指すのでしょう。この「大きな業」が意味することは、24~25節で明言されます。ここに、イエスの死と復活を読み取ることもできましょう〔キーナー『ヨハネ福音書』(1)〕。「(父が)示すであろう」とあるのは、旧約の預言者たちのように、予めそういう事態が来ることを預言しているとも解釈できますが、むしろ、子の地上における歴史的な歩みにおいて、<その時が来れば>、父が子に啓示によって行なわせることを指します。
【驚くことになる】「あなたたち」が強められていますから、聞き手の生存中に、この「大いなること」が起こると告げています。父なる神と一体である御子イエスが、歴史的な人物として、歴史的な出来事を生起させることを指すのです〔バレット『ヨハネ福音書』〕。しかし、「大きな業」を観て「驚く」のは誰でしょうか?子を信じる者たちのことであれば、これは「大きな約束」になります。しかし子を殺そうとしている者たちにとっては「大きな脅威」になります。「受難の僕」が、天において神から栄光を与えられる時、その神の僕を殺した者たちは、「驚き」かつ「恥じる」とあります(知恵の書5章1~8節)。
[21]
なぜなら父が
死者たちを復活させ
命を創り出すと同じく
子もまた
望む者たちに命を創り出す。
 21節では、父と子が並行し対応していて、この節は、今回の全体の鍵となります〔バレット『ヨハネ福音書』〕。ここには、ユダヤ人たちが恐れ非難したように、「唯一神教を脅かす二人の神々」が表われているのでしょうか?この誤解を防ぐのが23節です。
【死者を復活させる】死人を起こし命を与えることは、旧約では神だけができる特権です(列王記下5章7節)。ラビ・ヨハナンの言葉に「神は誰にも代行できない三つの鍵を所有する。雨を降らせる鍵と胎を開く鍵と(創世記30章22節)死者の復活の鍵である(エゼキエル37章13節)」とあります。このように、ユダヤ教では、メシアと言えども「死者を復活させる」権能は与えられていません。さらに、復活が「地上において」行なわれるのは、神の手による場合でもごく希で、通常、将来の「来たるべき世/時代(アイオーン)」において生じると信じられていました。
 21節では、おそらく三つの事態が告げられています。終わりの日における死者の復活と(28節)、今の時代においての霊的な死と並行する罪から命への移行(24節/ローマ6章4節)と、復活を象徴するラザロの生き返り(11章43節)、この三つです〔バレット前掲書〕〔キーナー『ヨハネ福音書』(1)〕。
【命を与える】原文は「命を創り出す」で、構文的には、これだけが父と子が並行する業になっています。終末の時には、全人類が、神による裁きのために墓から出てくるというのが、ユダヤ教の「死者の復活」です。ヨハネ福音書では、「命を創り出す」のは父の業です。だから子は、父の「命を創り出す」権能を受け継ぐことになります。ただし、「父のように~、ちょうど同じく子も~」とありますから、「命を創り出す」だけでなく、終末での「死者の復活」における裁きさえも、子の権能に含まれると見るべきでしょう(22節)。
【与えたいと思う者に】直訳すれば、「(子が)意図する者たちに」です。子が「命を創り出す」者たち以外は、旧約聖書と同様に「墓の中で朽ち果てる」か、23節で告げられるように、神の裁きによる罰に出会うことが示唆されています。「望む者に」とあるのは、大勢の中から、ただ一人38年間病にあった人だけを癒やしたイエスの行為をも示唆するのでしょう。子がすべてにおいて父に従うことは、父が<すべてを子に委ねる>ことと表裏一体ですから、子の完全な自由と矛盾しません(10章18節)。
[22]【裁く】ヨハネ福音書によれば、「父の働き」は「命を創り出す」ことと「裁く」ことです。しかし、この二つの神の働きは、すでにユダヤ教でも基本的な信条であり、ユダヤ教では、「裁き」は、終末において人類全体に及ぶ「最後の審判」として理解されていました(ヨブ34章23節/詩編9篇8節/シラ書17章23節など/新約ではローマ2章5~8節/ヘブライ9章27節など)。ただし、黙示思想においては、「人の子」もまた、その来臨に際して、神と共に裁きの座に就くと考えられていました(ダニエル7章13~14節と同22節)〔『第一エノク書』69章27節参照〕。今回の22節では、ユダヤ教から見れば、重大な転換が生じることになります。父が全ての裁きを子に委ねるからです(マタイ28章18節参照)。しかも、「裁き」と「命を創り出す」の二つが、御子の手に委ねられることによって、両方が不可避的に同時に進行するのです(3章35~36節参照)。「裁く」とある動詞は、現在形と未来形のどちらにもとることができますが、内容から判断して、ここは現在形でしょう〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。
【すべての裁き】「すべて」が、「すべての人に対する裁き」を意味するのなら、終末における全人類への裁きもまた、「子の手に委ねられている」ことになります。ただし、イエスの「命を創り出す」働きが、現在すでに行なわれていることを考えると、裁きもまた、すでに始まっていると見なすことができます。したがって、25節の「死んだ者」は、墓の中にいる者だけでなく、現在生存しながらも、罪によって霊的に死んでいる者をも指すことになります。
[23]
すべての人が子を敬うためである
彼らが父を敬うのと同じく。
子を敬わない者は
子を遣わした父をも敬わない。
【子をも敬う】「敬う」は、ここでは「礼拝する」に近い意味です。ユダヤ教の信条によれば、およそ神以外のものをこの意味で「敬う」ことは許されませんでした。しかし、23節では、父と同様に子もまた「敬う」ことが求められているのです(8章42節)。なぜなら、父が子を「遣わした」のは、子を通じて父を観る/知ることで、すべての人が、子を「敬う」ようになるためだからです。同じ事態が、肯定と否定の両面から並行して語られていることに注意してください。
[24]
アーメン、アーメン、わたしはあなたがたに言う。
わたしの言葉を聴くことで
 わたしを遣わした方を信じる者は
永遠の命を持っていて
 裁かれることがないばかりか
 すでに死から命へ移っている。
【わたしを遣わした方】この24節は、21~22節での終末的な復活と裁きをさらに進めています。命に与る者は、「わたしの言葉を聴いてわたしを遣わした方を信じる」者です。「イエスの言葉を聴いて遣わした方を信じること」は、全体が一つの冠詞で結ばれていて一体です。この24節では、永遠の命を受けるとは、「イエスを信じる」ことよりも、むしろイエスと父の交わりを信じることです。このことが、「わたしを遣わした方」として示されているのです〔バレット『ヨハネ福音書』〕。
【裁かれない】今回の箇所で、イエス・キリストと共にある者は、「今の時に」あっても「裁かれない」とあります。イエス・キリストと共にある者が<すでに裁きを免れている>ことは、ヨハネ福音書よりもほぼ40年前に、すでにパウロによって語られています(ローマ8章1~2節)。なお、先の3章18節では、「裁かれる」ことと「裁かれない」こととが、現在に関連して語られていますが、そこでは、「裁かれる」ことが<現在すでに起こっている>のに対して、「裁かれない」が将来のことになっています。だから、「裁かれる/ない」が、今回の箇所とは逆になっています。イエスの言葉を聴いてこれを拒む者は「終末での裁き」に出逢います(12章48節)。したがって、現在すでに生じている「今の裁き」も、最終的には父による「終末での裁き」に委ねられていることになります。なお共観福音書では、イエスの言葉を「聴いて行なう者」と「聞いても行なわない者」が、それぞれの現在の実際の行ないによって区別され対照されています(マタイ7章24~27節=ルカ6章47~49節)。
 このように、人の「復活」が、「命への復活」と「裁きへの復活」のふたとおりあることは5章29節にもでています。また、「命」と「裁き」の現在性と将来性の区別は、5章25節の「今がその時である」と、同28節の「時が来ると」で明確にされます。ちなみに、「すでに復活が起こった」と主張することは誤りだと第二テモテ2章18節にありますが、今回の24節をこれと同一視することはできません。「24節は最終的な復活を排除していない」〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕と指摘されています。
【死から命へ】ヨハネ系文書では、「永遠の命」が「愛する」こととひとつです(第一ヨハネ4章9節)。だから「死から命へ移っている」とは、「兄弟を愛する」ことと結びつきます(第一ヨハネ3章14節)。「死から命への移行」は、イエスの十字架の出来事と深く結びついていて、この移行は、イエスの「受難の栄光」を通じて成し遂げられます。ただし、「神の僕」の受難と栄光は、すでにイエス以前においても語られていて、「神に従う人/義人の魂」が、試練の後に主なる神とともに永遠に生きることが知恵の書3章1~9節で語られています。
【永遠の命】この言葉はヨハネ福音書の中心的なメッセージで、すでに3章16節に出てきました。さらに、イエスが語る言葉が「霊であり命である」と6章63節にあり、イエスこそ「永遠の命の言葉」を持つ方であると同68節にでてきます。「永遠の命」とは、イエスが「父から遣わされた方であると「信じる」ことであり、信じて「イエス・キリストを知る」ことです(17章3節)。?
〔永遠の命について〕
 
旧約聖書で「永遠の命」は、ダニエル書12章2節に出てきます。七十人訳は、これを「ゾーエー・アイオーニオス」というギリシア語に訳していて、新約聖書は、このギリシア語を受け継いでいます。なお、ユダヤ教の『第一エノク書』(『エチオピア語エノク書』)の「たとえの書」(前40~後50年)40章では、「諸霊の主」のみ前に、救われた何十万もの者たちがいて、主のみ前に、4人の天使(ミカエル/ラファエル/ガブリエル/ペヌエル)が立っています。4番目の「ペヌエル」(神の顔)は、「永遠の命を継ぐ者たちの悔い改めと望みを司る」天使と呼ばれています〔村岡崇光訳『エチオピア語エノク書』教文館『聖書外典偽典』(4)旧約偽典(Ⅱ)〕。またクムランの『ダマスコ文書』には、「神の戒めを守る者」(同3章12節)が、「聖なる安息日と栄光の定めの祭りと神の義と真理の道を行うならば」(同3章14節)、そのような者たちは「永遠の命を得る」(同3章20節)とあります。
 パウロ書簡には、「永遠の命」(ゾーエー・アイオーニオス)が四箇所ほどでてきて(ローマ2章7節/5章21節/6章22~23節/ガラテヤ6章8節)、人の「肉」と「罪」と「死」に対照されています。パウロの「永遠の命」は、「キリストの御霊」と結びついて、この命は終末において授与されますが、今の地上でもキリストを信じる者の「からだ」に、御霊となって働きかけ、「肉を殺して霊に歩む」よう勧められています。だから、すでにこの地上で命の働きが始まっていて、それが終末において成就されることになります。
 共観福音書の永遠の命は、マルコ10章17節以下の「金持ちとイエスの出会い」(およびマタイ福音書と、ルカ福音書のこれの並行箇所)に出てきますが、このほかに、マタイ25章46節にでてくるだけです。イエスは、これをただ「命」と呼んでいます(マタイ7章14節など)。
 これに対して、ヨハネ福音書では、イエスを信じる/知ることで与えられる「永遠の命」(17章3節)が、福音書だけでも17回でてきます。ヨハネ福音書の「永遠の命」もイエス・キリストにおいてすでに起こった過去の出来事に基づいていますから、基本的にパウロ(と共観福音書)のそれを受け継いでいます。しかし、ヨハネ福音書では、今回の24~25節が証ししているように、パウロ書簡では明確でなかった点、すなわちイエスにある永遠の命が、<現在すでに信じる者に与えられている>ことを明確にしています。この意味で、今回の箇所は、永遠の命を知る上できわめて重要です。
 5章24節で表わされている事態は、「イエスの御言葉を聴く」こと、すなわち「今この時」を通してわたしたちに語りかけてくるイエスの御言葉を霊的に受けとめるところに生じる事態です。だからこれは、多分に<霊的な出来事>です。イエスのみ声を「聴く」ことによって初めて、わたしたちは、イエスの御臨在に触れ、イエスの御霊の世界を知る/知らされることになります。わたしたちが、復活のナザレのイエスの臨在に触れて、「イエスと共に」歩む営みにおいて、わたしたちの知的な理解をはるかに超える霊的な世界が啓かれるのです。このような事態は、復活して、今わたしたちと共に臨在するナザレのイエスとの全人格的な<霊的な交わり>としてしか顕れない事態で、これは、パウロが第一コリント13章12節で、「鏡におぼろに映ったもの」と言うとおり、あるいは、第二コリント3章17~18節で語っているとおりです。わたしには、それ以上の「知的な自己理解」は不可能としか思えません。
[25]
アーメン、アーメン、わたしはあなたがたに言う。
 時が来る。しかも今である。
 死んだ者たちが神の子の声を聞く時が。
 これに聴いた者たちは生きるであろう。
【時が来る】「時」の内容を「死んだ者たちが神の子の声を聴く」ことだけに限定する解釈が多いようです〔新共同訳〕〔フランシスコ会訳聖書〕〔NRSV〕〔REB〕。しかし、その内容を節の終わりの「聞いた者たちが生きる(未来形)」までを含める訳もあります〔岩波訳〕。前者に限定する解釈は、「神の子の声を聞く"hear"(未来形)」者たちと、その声を「聴く"listen"(アオリスト分詞)」ことで「生きる」者たちとを区別します〔ブラウン『ヨハネ福音書』(1)〕〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。「(時が)今来ている」と「その時がくる」という、現在と終末のこの「時の二重性」は、ここではきわめて重要です〔ドッド『第四福音書の解釈』〕。このように、ヨハネ福音書の終末観には、現在の内にすでに終末が入り込んでいることに注意しなければなりません(4章23節)。
【死んだ者たち】この「死んだ者たち」は、28節の「墓の中にいる者たち」から区別されて、現在この世にあって闇の内を歩んでいる者たちを指します(エフェソ2章1節/同5章14節)〔バレット『ヨハネ福音書』〕〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。これに対して、現在この世でキリストの言葉を聞き入れることで与えられる「永遠の命」は、肉体の死後も、その命の働きによって復活にいたるのです〔ドッド前掲書〕〔ブラウン前掲書〕。38年間病んでいた人を立ち上がらせたその同じ命が、死後も続く永遠性を有することが示唆されています〔バルト『ヨハネ福音書』〕。
[26]
なぜなら父がご自分の内に命を持つのと同じく
子にもまたご自分の内に命を持つことを授けられた。
 26節は25節を受けていますが、その内容と形式の両面で、21節と対応します。21節で父子が共有するのは、「死者を復活させる命」ですが、今回の節では「ご自分の内に命を持つ」ことです。神が命をご自分の内に持つことは、詩編にも「命の泉はあなたにある」(詩編36篇10節)とあります。これは永続的に「創造する命」のことです。したがって、26節で父子が共有するのも「創造し続ける命」です(1章2~3節)〔ブラウン前掲書〕〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。ここで父と子が共有する「ご自分の内にある命」は、子を信じる者にも、「自分の内なる命」として与えられるもので(1章4節/6章53節)、このことが、続く27節の子による「裁き」の権能へつながります。
[27]27節前半は、ヨハネの編集句であり、後半から29節までをヨハネ以後の教会による追加と見る説が有力です。しかし、この部分は、共観福音書よりもユダヤ教の「人の子」伝承に近いので、これをヨハネ福音書以前の資料にさかのぼらせる見方もあります〔間垣『ヨハネ福音書のキリスト論』〕。
【裁きを行う】「裁き」は、ほんらい王の仕事ですが、ユダヤ教では、終末に到来するメシアとしての「人の子」が、全世界を裁く権能を有すると考えられていました。今回の節では、イエスが、この「人の子」の権威によって全世界を裁くと語っています。ただし、ヨハネ福音書の言う「裁き」は、ユダヤ教や共観福音書の場合とやや異なって、人類全般を指すだけでなく、むしろ個々の人間を念頭においていることに注意しなければなりません〔シュルツ『ヨハネ福音書』NTD〕。
権能】原語「エクスーシア」は、「権能/権限/全権」の意味です(1章12節/10章18節/17章2節)。この語は、ヨハネ福音書だけでなく、四福音書に共通します。グノーシス思想の「エクスーシア」は、霊力的な思念の意味を帯びていますが、新約聖書ではやや違って、一般の「権威/権能」の意味が強いと言えます〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。
【人の子】ここには冠詞がありませんが、この言葉は、ダニエル7章13節にさかのぼります。ただし、この用語は、原始教会ですでに今回の場合と同じ意味で定着していましたから、ヨハネ福音書の用語を直接ダニエル書と結びつける必要はないでしょう(マルコ13章26~27節参照)。
[28]
このことで驚いてはならない。
 時が迫っている
 墓にいる者すべてがその声を聞いて出てくる時が。
善を実行した者たちは命の復活にいたり
 悪を行なった者たちは裁きの復活にいたる。
 24~25節では、「現在すでに生じつつある」死から命への移行が語られています。これに対して、28~29節は、「未来に生じる」復活と裁きが語られています。前者では、子の声を「聴く者」だけが命に移るのに、後者では、「すべての死者の復活」となっています。このため、28~29節は、共観福音書系の教会の終末観に適合させるために、ヨハネ福音書の最終の編集者が挿入したという見方があります。さらに、27節の「彼に裁きを行なう権能を与えた。<人の>子だからである」とある「人の」も共観福音書と合致させるための編集者の挿入だと見なします〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。
 ただし、現在生じている「命の授与」と「裁き」は、内容的に見て将来起こるであろう「命」あるいは「裁き」への復活と矛盾するものではありません〔バルト『ヨハネ福音書』〕。逆に、現在から将来にいたる「命の授与と裁き」こそが、四福音書に共通する真理であり、これこそが、本来の正しい終末観であると言えましょう。また、<全人類>を裁くのは「人の子」だから、28~29節に合わせるために27節の「子」を「人の子」へ変更したとする見方も、ヨハネ福音書では、「人の子」による「現在での人間への裁き」が、将来の「全面的な裁き」をもたらす大事な過程であることを考え併せると、そのような推論は的確とは言えません。イエスが人間性を持つ「人の子」であることは、すでに幾度かでてきました(1章51節/3章13~15節)〔バレット『ヨハネ福音書』〕。ヨハネ福音書の成立は、作者とも言うべき始祖による口頭を含む証言と、外部からの文書資料と、さらに編集者(たち)の補筆によると推定されます。だから、28~29節が最終編集者による付加部分であるという見方は、おそらく正しいでしょうが、そのことをもって、この部分が、先立つ24~25節とは内容的に食い違っているとか矛盾すると見なすのは、この福音書の霊性を正しくとらえていない言うべきです〔バレット前掲書〕。
【驚いてはならない】原文は「このことに驚いてはならない」です。クリュソストモスは「このこと」を、この節の前に述べられたことと関連づけました。このように「このこと」を27節までに語られたこととする解釈もあります〔ブルトマン前掲書〕。28節が、前後の内容を考えて語られているのは言うまでもありませんが、ここは、これから述べる28~29節を指すととるほうが定説のようです〔バレット前掲書〕。だから「なぜなら」と続くのです(ローマ2章6~8節参照)。この句を「驚くことはないだろうね?」と疑問文に読む異読もあります。イエスはここで、特に11章のラザロの生き返り(「復活」のしるし)を念頭に置いているのでしょうか?
【時が来る】原文の「来る」は現在形です。ここで言う「時」とは、すべての死人が御子の呼びかけに応じて死人から復活する<最後の審判の時>を意味しますが、同時に、そのような裁きが、イエスが語ることによってすでに今始まっていることをも含みます(12章48節)〔バルト『ヨハネ福音書』〕。「時が迫っている」〔フランシスコ会訳聖書〕。
[29]ここで語られていることは、ダニエル12章2節へさかのぼりますが、内容的にパウロ書簡とも共観福音書とも共通します。
【墓の中にいる者たち】25節で語られている「霊的に死んだ者たち」のことではなく、ここでは、身体的にすでに死者となっている人たちのことです。「善を実行した人」と「悪を行なった(犯した)人」とは、終わりの日に区別されますが、29節の善悪両方の人たちは、24~25節でイエスの命に与る者たちからは区別されているのでしょう(第一テサロニケ4章13~18節参照)。あるいは、これら善悪両方の人たちは、生前にイエスの声を聴く機会が与えられなかった一般の人たちを指すのでしょうか〔バレット『ヨハネ福音書』〕。彼らもまた、その行ないに応じて正しく裁かれるからです(ローマ2章9~16節)。「裁き」には、ヘブライ語「ミシュパット」の「判断」「思慮」「裁定」「断罪」など広い意味が考えられますが、ここでは「悪を犯した者」が終末に受ける裁きについて言われていますから、「裁定」あるいは「断罪」に近い意味でしょう。
[30]
わたしは自分からは何一つ行なうことができない。
 ただ聴いたとおりに裁く。
だからわたしの裁きは正当である。
 わたしの意志を求めているのではなく
 わたしを遣わした方の意志だからである。
 この節は19節と対応しますが、原文では、「わたし」「自分」が5回繰り返されていて、今聞き手に語っているのが人間ナザレのイエスであることを明らかにしています〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。ここでも父を離れたイエスの完全な無力性が最初に強調されます。
【聞くままに裁く】父は子にすべての裁きを委ねているにもかかわらず(5章27節)、ここでイエスが語る言葉と、これによって結果する「裁き」は、人間的な任意の判定でも裁定でもなく、父によって「決定される」という意味です。イエスの言葉がもたらす「決定/裁定」は、その時々の歴史的な状況によって生じるよりも、逆に歴史的なその場の状況を<終末化>して「新たに」意義づけるのです〔ブルトマン前掲書〕。だから、この場合「(父が)裁く」とあるのは、「思慮判断」から「裁定と断罪」までの広い内容が含まれていると言えましょう。
【正しい】原文は「正しく<ある>/正当<である>」ですから、その裁きそれ自体が、その場で神の義を成就していることを表わします(8章16節参照)。また8章13~16節から判断すると、ここで「正しい」というのは、父のもとから降った御子として、その語ることが真実で偽りがないことをも意味します。「父への従属性こそ御子の優越性の秘義である」から、「不信仰は、それが<御子に対する>不信仰である時に、裁きにわたされるという状況が生じる」〔バルト『ヨハネ福音書』〕のです。
【わたしを遣わした方の意志】具体的には、御子イエスを信じる者すべてを終わりの日に命へと復活させることです(6章38~39節)。この句をゲツセマネでのイエスの祈りと関連づけようとする解釈もあります(マルコ14章36節=マタイ26章39節=ルカ22章42節)〔ブラウン『ヨハネ福音書』(1)〕。
〔人類の救いと裁き〕
 19節から30節までの全体を一つのまとまりとして読むと、次のようになりましょう。
(1)始め(19節)と結び(30節)に、御子は、自分から何一つ行わず、ただ父の御心に委ねてその意思に従うことが語られます。
(2)この父の御心に囲まれて、その中心に、人に命を与える救いも人に滅びをもたらす裁きも、一切の権能が、御子に与えられていることが明言されます(21~22節)。
(3)その上で、御子に委ねられた権能の内容が語られますが、それは「驚き」として二つに分かれて(20節と28節)、次のように告げられます。
(4)父は全人類を死者から復活させ、御子の意思によって永遠の命を与えることができます(21節)。
(5)命の授与は、御子イエスの声を聴くことによってであり、命を与えるこの業が、今存命中の人間において、すでに行われていることが告げられます(24~25節)。
(6)その上で、「人の子」である御子イエスは、今度は終末において、墓から復活させられた全人類に裁きを行い、善を行った者たちに永遠の命が与えられ、悪を犯した者たちは滅びに定められます(28~29節)。
(7)以上のことから判断すると、今回の箇所には、人の子の声を聞いて御子を信じた人だけでなく、人の子イエスを信じなかった人も、人の子イエスを知らなかった人も、また存命中の人も、すでに墓にいる人も含めて、全人類への救いと裁きが語られています。
 このような箇所は、共観福音書にはありません。すでに指摘したように、パウロの最初期の書簡である第一テサロニケ4章13~18節には、主イエスの再臨にあたって、まず墓にいる信者たちがよみがえり、続いて、まだ地上にいる信者たち(パウロ自身もこれに入ると思われます)が、イエスと共に天にあげられるとあります。ヘブライ9章26~28節には、終末には、全人類がよみがえらされて神の裁きを受けること、イエス・キリストは全人類の罪を贖うために来られたことが記されています。ヨハネ黙示録には、最終の滅びにいたる者たち(20章11~15節)と最終の救いに与る者たち(21章1~7節/8節は排除される者たち)が記されています。第一テサロニケ人への手紙とヨハネ福音書とヘブライ人への手紙とヨハネ黙示録のこれらの記事は、人類の死からの復活と、神と主イエスによる救いと裁きについて記した数少ない貴重な箇所です。
 したがって、全人類には、(1)すでに生きている間にイエスの声を聞いて命に入った者、(2)イエスの声を拒否するがゆえに「すでに裁かれている者」、(3)イエスを信じて墓に入った者、これ以外に、(4)人の子イエスの声を耳にすることもなく、イエスのことを何一つ知らずに墓に入った膨大な過去の人たち、ごくおおざっぱに考えただけでこれら4種類の人たちがいます。
 (1)~(3)については、第一テサロニケ人への手紙にもヨハネ福音書にもヘブライ人への手紙にも言及されています。しかし、(4)について、この人たちもまた「人の子の声を聞く時(終末)が来る」とあるのは、唯一、今回のヨハネ福音書の箇所だけです。ただし、28節も(4)の人たちに「直接に」言及しているわけではありません。冒頭で指摘したように、御子の声を聞く出来事は、「私(イエス)は、自分からは何一つ行うことがなく、ただ父から聞くままに父の御心を行う」という御子の言葉で囲まれることで限定されています。だから、終末における人類の救いと裁きの究極的な裁定は、「主イエスの父の自由な御心」に委ねられていることになります。ヨハネ福音書の神学は、「キリスト(御子イエス)」論的であり、すべてが御子に集中しているという印象を受けますが、これを深く読むほどに、「父の御心を行う御子」の神学であり、イエスの父の御心に根ざす霊性で貫かれていることが分かります。終末での人類の裁きと救いは、ヨハネ黙示録にも描かれていますが、霊的神学的にこの問題を提示しているという意味で、今回の19~30節はとても重要な箇所です。
                   戻る