6章1〜15節
■6章
1その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。
2大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。
3イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。
4ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。
5イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、
6こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。
7フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。
8弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。
9「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」
10イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。
11さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。
12人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。
13集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の篭がいっぱいになった。
14そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。
15イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。
【講話】
【注釈】
■ヨハネ福音書の語りの特徴
ヨハネ福音書の6章で語られているパンと魚の奇跡は、共観福音書にもでてきます。けれども、共観福音書とヨハネ福音書とでは奇跡の語り方が異なります。この物語で一番大事だと思われる箇所は、イエス様がパンと魚をお取りになって、これを多くの人のために分けて増やす場面です。これは、イエス様が、十字架の上でご自分の血を流して、わたしたちのために贖いの業を成し遂げ、その御名による聖霊がわたしたちに授与されることを象徴するからです。だから、イエス様がパンと魚をお取りになる仕草は、教会の聖餐で、司祭や牧師が、パンをとり神に感謝して、パンを砕いて分ける仕草のモデルとされています。共観福音書でこの部分は、「イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡して配らせ、二匹の魚も皆に分配された」(マルコ6章41節)とあって、これが教会で執り行なわれる聖餐式のモデルであることがはっきり分かるように描かれています。
ところが、ヨハネ福音書のこの箇所には、「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた」(11節)とあるだけで、イエス様がパンを与える前に、目を天に上げてパンを裂かれたことは語られていません。ヨハネ福音書のパンの奇跡も、イエス様の贖いの十字架と復活と聖霊の賜を象徴していることに変わりありませんが、ヨハネ福音書の省筆は、聖餐の祭儀よりも、むしろその内実に重きがおかれているのです。イエス様が、パンを直接人々に分け与えるのもヨハネ福音書の特徴です。イエス様の十字架と復活から降る御霊の御臨在が、直接一人一人に与えられる業として語られているのです。ヨハネ福音書は、共観福音書と異なって、ここでも奇跡を「しるし」として象徴的に扱うのです。御霊の降りが、人間の側からの努力によってではなく、天から降る賜であり、しかもそれを、イエス様のご臨在そのものを表わす「霊的な」出来事として伝えようとするのです。
■パンを食べて満腹する人
イエス様のパンの御業を「食べてお腹を満たす」ためとしか思わない人、自分たちの生活に役立てることしか考えない人たちには、せっかく与えられても、そのしるし体験のほんとうの意味が「見えて」きません。パンが、イエス・キリストご自身を指す「しるし」だと悟ることがでないからです。だから彼らは、イエス様を政治的に利用して、自分たちの利益を図ろうとします。イエス様を「王」に立てようとする彼らの試みは、結果として、人々になに一つもたらしません。
イエス様がくださったパンは、これを文字通りに肉体を養うための糧としてしか受け入れないなら、「あなたがたが私を追い求めるのは、パンを食べて満足したからである」というイエス様の批判を招きます。神様から何かをして「いただく」のはいいのですが、「いただきもの」と神様とを切り離して、もらうものだけもらえばよいという態度では、せっかく恵みを与えられながら、イエス様ご自身を、すなわちイエス様の<御霊をいただく>という「もっと大きな頂き物」を逃してしまいます。イエス様からのパンを感謝していただき、「主を食べ続け食べ尽くす」(56節)までイエス様と共に生きることを目指さない限り、この過ちから免れることができません。
■ただの「しるし」ではない
今度は正反対に、ここでのパンを霊的な意味だけに限定して、肉体の糧としてのパンの意義を「しるし」から取り除いてしまおうとする解釈もあります。これでは、イエス様が与えてくださったパンのしるしの大事な側面を見落とす危険があります。大事なのは、「実際に私たちが食べるパン」が、霊的なパンのしるしだというそのことだからです。
イエス様は、ご自分を指して、「いのちのパン」(48節)とも、「天から降ってきた生きたパン」(51節)とも、「まことの食べ物」(55節)とも言っておられます。ここでの「まことの」の反対を「偽もの」だと考えると見誤るおそれがあります。本物のパンか偽物のパンか? ではなく、「一時的な」ものか「永遠的な」ものかと考えてください。イエス様がサマリアの女に「この水を飲む者は<また>喉が渇く。しかし私が与える水を飲む者は、<いつまでも>渇かない」と言われたことを想い出してください。「まこと」とは、一時的なものではなく、「いつまでもなくならない」もののことです。
でも、永遠のパンは、どこにあるのか? これは、サマリアの女がイエス様に尋ねた質問です。わたしたちは、ここで「永遠」を考える哲学者になる必要はありません。実を言うと、永遠「だけ」を考えている人には、ここでイエス様の言われる「まことの」食べ物は見えてきません。まして、未来を思い煩っている人に、「永遠」は顕れません。日ごとに食べるほんもののパン、これを心から感謝しておいしく食べる人だけに、そのパンが指し示す霊的な意味が顕れるのです。日々食べる肉体を養うパンそのものに、イエス様の御臨在の賜物を「観る」ことができる人、こういう人には、食べることが目的ではなく、なんのために食べるのかが顕れます。「まことのパン」の意味が見えるのです。ほんもののパンは、道しるべです。道標となるパンは、架空のたとえではいけません。実際に食べておいしい「ほんものの」パンでなければなりません。
■生活の中のパン
聖書が言う「永遠」は、いわゆる「あの世」のことではありません。少なくとも、死んでから行くところだと考えるのは誤りです。外国旅行に出かけなくても、地図を眺めながら、ここへ行ったら楽しいだろう、あそこへ行ったら面白いだろう、と想像しながら地図を見て楽しむ人がいます。この状態は、いわば、この世にいながら、あの世を思い浮かべている人にたとえることができます。永遠の世界をそんなふうに「思い描く」人が大勢います。もしその人が、「実際に旅行してみよう」と思い立ったらどうでしょう?彼/彼女は、まず行き先を決めなければなりません。目的地に向かって実際に旅行を始めるためには、まず駅へ行かなければならない。切符を買わなければならない。小さなひとつひとつの行動を実際に行なっていかなければ、目的地に到達することは決してできません。
この場合、今自分が行なっているひとつひとつの行動が、どんな意味を持つのかは、自分がどこへ行くのかが分かっていて、初めて意味を持ちます。京都から東京へ行く人は、鹿児島行きの汽車には乗りません。福岡に行く人は、東京行きの汽車には乗りません。自分が今行なうことは「目的地から逆に見るときに」初めて決まるからです。まだ行っていない最終の目的地、そこから見て初めて、現在の自分の行為が、どういう意味を帯びているのかが分かるのです。自分が、最終的にはどこへ到達するのかを知っている人だけが、「今現在」自分のしていることのほんとうの意味を把握できます。わたしたちの行き着く目的地は、聖書が伝えてくれる神の国です。それは「終末」に完成した形で顕れると聖書が語っています。だから「終末」とは、わたしたちが行き着く最終目的地です。
ところが、外国旅行をした人は経験があると思いますが、英語でうまく切符が買えるだろうか? 列車がちゃんと来るだろうか? 食事はどこにしようか? 何を食べようか? 何を飲もうか? いろいろ心配が出てきます。「トラベル」は「トラブル」と言いますから。こういう心配ばかりする人は、外国旅行に向いていません。未来を思い煩う人、将来を気にかけて心配ばかりする人、こういう人は、目的地、すなわち終末を目指してこれにたどり着くことができないのです。目的地に着く人とは、<今のときに>何をするかを知って、喜んでそれをやる人、未来を心配しないで現在を生きる人、そういう人です。だから「未来」を思い煩うことと「終末」を生きることとは正反対です。このように、終末のヴィジョンを求めるのは、<今の時>を見いだしてこれに生きるためです。「現在の意味」は「終末」に隠されているのです。
今度は逆のことを言うようですが、神は、イエス様の御霊によって、わたしたちに一人一人に、その時々に行く先を示してくださいます。御霊の導きに従うなら、やがて自分の本当の目的地がどこにあるのかが見えてきます。主の祈りの中で「<日々の糧を>お与えください」と祈るようイエス様が教えられたのも、「思い煩うな」と教えられたのもこの意味です。一日の苦労はその日だけで十分だから、一日一日感謝して生きなさい、それができれば十分だからです。
6章のパンは、実際には肉体を養うパンのことではなくて、比喩的な意味で「パン」と言われているにすぎない、こう考えてはいけません。イエス様の与えたものが、架空の画に描いた餅であるのなら、人々はイエス様を王にしようと企てたりしなかったはずです。わたしたちが毎日おいしくいただく「ほんものの」パンこそが、神が私たちに与えられた霊的なパンの「しるし」であって、このことを見落とすなら、どこにも「ほんもののしるし」は存在しないのです。
■御言葉を食べる
イエス様のなさったことは、旧約に前例があります。エリシャは、飢饉の時に大麦のパン20個と穀物とで100人を養い、しかも食べきれずに残したとあります(列王記下4章42節以下)。モーセのマナのしるしもそうです。これらの物語は、神がその民を肉体的にも霊的にも支え養うことを証ししています。神の御言葉を霊の食べ物として求める人ならよく知っているように、これは、祈りによって<その時々に>与えられるものです。神の御言葉は「日毎に」与えられます。必要な時が来てはじめて与えられます。日本でも「日切(ひぎ)り地蔵」というのがあって、そのお地蔵さんにお詣りした功徳は、その日一日だけしか聞かれないと言われています。このお地蔵さんには「詣り貯め」ができません。信仰によって祈るとは、その時が来れば神が必ず祈りを聞き届けてくださることを信じるのであって、「時が来る前に」確実な保証が与えられることではないのです。
イエス様のパンの奇跡物語は、「神の言葉を信じる」このような緊張感をはっきり伝えてくれます。イエス様は、フィリポに「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか?」と言われますが、これはフィリポを「試す」ためだとあります。フィリポの何を試そうとされたのでしょうか? これに続いて、イエス様は「ご自分でしようとされていることを知っておられた」とあります。自分がこれからしようと思うことを自分が知っているのはあたりまえであって、考えてみればおかしなことです。岩波訳では「これから自分がすることになること」とあって、少しぎこちないですが、このほうが正しいでしょう。これからご自分がどんなことをするように導かれるのか? このことをイエス様は、信じてはいたけれども、それを自分の意志や力で行なう保証はどこにもなかった。これがここでの意味だと思います。
イエス様は、神の導きは知っておられたけれども、それが何かは、その時が来るまで、必ずしも明らかでなかった。なぜなら、イエス様は、この時点では、大麦のパンのことも魚のこともまだ聞かされていないからです。イエス様にあったのは、神のお導きだけです。ほかには何一つ「知らなかった」。イエス様が神の導きを確実に「知っていた」こと、それは、イエス様が、一切を父の神に委ねて、完全に父と一体になっておられたことです。マナもパンも「日毎に」その時になって与えられます。だからわたしたちも、未来を思い煩わないで、一切をイエス様に委ねきって、今のこの時を終末的に生きる。これがパンのしるしの意味です。
わたしたちは、物事に対処するための上からの「知恵」を祈り求めます。パンは主の御言葉、主の御言葉は御霊の知恵です。これを求め、これを食べ、これによって生きなさい。こうイエス様はわたしたちに言われています。わたしたちが日毎に出くわす様々な問題や困難、これを「前もって思い煩うことなく」、時が来れば神の知恵が与えられて解決する。こういう信仰の歩みの中で、わたしたちは「試され」て、「神からの知恵」の源へ近づくことを学ぶのです。神の知恵は主イエス様ご自身です。このことを悟らないと、わたしたちは、つい主の体の「しるし」であるパンを、生活のために役立てることだけを考えてしまいます。
五千人に食べさせる大きな奇跡の割には、ヨハネ福音書の描写は控えめで静かです。十字架の主のみ体のパンは、ご臨在となって、静かに、まるでごく「自然な」出来事であるかのように、人々に与えられているのに注意してください。驚くべき御業は、驚くべき仕方で、すなわちもっとも穏やかで静かな仕方で、日毎の生活の中に降るのです。
■パン屑(くず)を大切に
「貧者の一灯」、「一隅を照らす灯り」という言葉がありますが、わたしたちは、ともすれば小さなことの値打ちを見落としがちになります。アンデレのように、「こんなにたくさんの人にとって、こんなわずかのパンと魚がなんの役に立つでしょうか」と思うのです。現代では、人々は数量と効率のことばかりを考えます。ところが、イエス様は、霊的な視点から物事をご覧になられた。霊的な視点とは、一人の人に起こったことが、実は何千人何万人にこれから起こることの象徴であると、分かることです。こういう見方ができる人は、世の中の小さなことに大きな意味を見いだす人です。物事を霊的に観るとは、「小事を大事に」観ることです。
人々が食べ終わった後で、イエス様は、残ったパンくずを集めなさいと弟子たちに命じておられます。これはとても大事で、大きな神の御業が顕れるところには、必ずそこに無数の「パンくず」が残るからです。現在、聖霊の御業が、世界的な規模で大々的に顕れています。この日本でも、万単位の人たちが集まる大きな聖霊集会が持たれています。それはそれで、すばらしい御霊の御業だと思います。しかし、そういう大きな御霊の働きに伴って、あるいはその裏で、無数の小さなパンのかけらが残されている、あるいは「生まれている」ことを見落としてはいけません。これらの小さなかけらこそ、実は大切な働きをします。これらのかけらは、将来の新しい御霊の働きを促す土台となるからです。大きなイベント集会は「大勢の群衆を」ひきつけて、そこで行なわれるさまざまな奇跡やしるしは、人々を魅了するかもしれません。しかし、みんなの見えるところで行なわれる大きな集会よりも、その集会を通じて働いた御霊が残した目に見えない無数の小さなかけら、わたしたちのこのささやかなコイノニアの集会もそのかけらのひとつにすぎませんが、これこそが、イエス様の目から見ると実に尊いのです。そこから新しい福音を育てる霊性が生まれるからです。かけらを集めると12の籠にいっぱいになるほど多かった。ひょっとすると、五千人が食べたパンの量よりも、それが残したかけらのほうが大きな意味を持っていたかもしれません。
■パンの奇跡の意義
聖書は、歴史でもなく自然科学の書でもありません。聖書は、徹頭徹尾<霊的な>書です。だから、聖書の語ることは霊的な領域に属しています。<霊的>と言えば、事実でないこと、想像の生み出す現実性を帯びていないことを語っていると思われがちですが、<実は>そうでありません。霊的な出来事はわたしたちの肉体と同じく、きわめて具体的で、現実味を帯びています。
五千人のパンの奇跡は、どうにも理解のできない不可思議な奇跡ですから、これは後の教会が聖餐の比喩として創出したという解釈があります。この解釈は一見合理的ですから、これでこの奇跡の説明は済んだと思っている人が大勢います。しかし、この説明は少しおかしいのです。「間違い」とまで言わなくても違っています。どこがおかしいのかと言えば、五千人のパンの奇跡は、そもそも人間には<到底理解>できないことが起こったことを伝えようとしているからです。人間には<理解できない>不可思議な出来事を<理解できるように>説明しても、理解したことにはなりません。ほんらい理解できないことなのに、それがだれにでも理解でき納得できる内容に<すり替えられた>だけだからです。理解できないことは、理解できないこととして観るときに初めてその霊的な意味が見えてきます。不可解で不可思議なこと、理解できない出来事であることが初めて<理解できる>のです。
では、この奇跡はどういう霊的な出来事をわたしたちに伝えようとしているのでしょうか?
(1)まずこの出来事は人間業ではなく、神ご自身の御業であることです。人には絶対にできないことを神はイエス様を通して実現された。このことを伝えています。
(2)次にここで行なわれている神の御業は、「創り出す」こと、創造の御業がイエス様を通じて行なわれていることです。
(3)だから、この出来事は、イエス様ご自身が神であり、神がイエス様と一つになって行なわれている御業であることを伝えています。
(4)その上で、この出来事は、6章全体が証ししているように、イエス様が、わたしたち一人一人に<命のパン>をくださることを告げています。
(5)この命のパンは、<何時までもなくならない>パンとなって、わたしたちの「からだ」に働きかけてくれます。だから、このパンは、わたしたち一人一人にイエス様が下さる「霊の体」であり、わたしたちの肉体に対応する<霊体>のことです。
(6)ここまで来て初めて、このパンが、現在も教会で行なわれている聖餐のパンを意味することが分かります。
(7)だから、わたしたちが頂く聖餐のパンは、イエス様が今もなお生きておられて、わたしたちは、このイエス様からわたしたちの霊体を日々いただくことができること、それによってわたしたちの肉体もまた、その日一日を支えられ護られてこの地上にありながら命のパンに与ることができることを証ししているのです。
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