31章 湖上の顕現
             
 6章16〜21節
■6章
16夕方になったので、弟子たちは湖畔へ下りて行った。
17そして、舟に乗り、湖の向こう岸のカファルナウムに行こうとした。既に暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところには来ておられなかった。
18強い風が吹いて、湖は荒れ始めた。
19二十五ないし三十スタディオンばかり漕ぎ出したころ、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、彼らは恐れた。
20イエスは言われた。「わたしだ。恐れることはない。」
21そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた。
              【講話】
             
注釈】
■水の上を歩くな
 わたしたちは、前回、イエス様と弟子たちと群衆とが、イエス様のお与えになるパンの奇跡によってひとつの交わりに入り、神からの祝福に与る場面を見ました。ところが今回は、イエス様ひとりが陸に残り、弟子たちは、自分たちだけで暗くなった湖に出ていき、群衆は、イエス様と弟子たちの両方を見失うのです。ここで、ひとつにされた交わりがバラバラになります。スローヤンという神学者は、この場の背景を「ヨハネ的暗黒」と呼んでいますが、そんな気もします。
 今年(1995年)の7月半ばに、10日間ほど、イギリスのヨークという古い町へ行って来ました。そこの大学で開催された国際ミルトン学会に出席するためです。世界中から集まった200名ばかりのミルトン学者が熱心な討論を行ないました。この大会を運営した責任者は、ヨーク大学のパーリィ教授で、大変なご苦労であったろうと思います。大会の終わりに開かれた晩餐会で、パーリィ教授は、挨拶に立ってこう言ったのです。「私がこの大会を引き受けることになったときに、あるミルトン学会の委員から、『水の上を歩くなよ』と言われました。」すると聴衆の間からどっと笑いが起こりました。もちろんこの笑いは、教授のユーモアが通じたからです。
 その教授は、国際学会という大変な仕事を引き受けましたが、何事も熱心にかつ真面目に行なうタイプの人だったのでしょう。このことを知っている友人が、なにがなんでもやらなければ、という義務感に駆られて、教授が、自分の力以上のことをしようと頑張ってはいけない。できる範囲でやればいいんだよ。こういう意味をこめて、「水の上を歩くなよ」と言ったのだと思います。このことから分かるように、「水の上を歩く」という聖書の言葉は、現在では、何か厳しい状況に直面したときに、自己の力以上の力を発揮しようと、がむしゃらに頑張ることを意味するようです。こういう解釈が、聖書本来の意味にかなうのかどうかは別ですが、ペトロが、嵐の中でイエス様の姿を認めて、何とかイエス様のもとに行きたいという意気込みと義務感に駆られて、水の上を歩き始めたと解釈することは、見当はずれでないでしょう。
■暗闇で待つこと
 ヨハネ福音書では、ペトロの水上歩行は語られませんが、弟子たちが置かれている厳しい状況は、マタイ福音書と同じです。弟子たちは、夕暮れ時になったのに、「イエス様なしで」出立しなければなりませんでした。その上、彼らを嵐が襲った。これは、イエス様を信じ、イエス様に祈り求めている人が、「イエス様なしの状態」で、自分の人生の厳しい問題に直面することを意味します。クリスチャンにとって、きわめて暗い場面です。こういう状態を想像することは、はっきり言っていやですが、聖書は、わたしたち個人の場合でも、国や民族を巻き込む危機的な時代でも、こういう「暗い時」が訪れると語っています。
 現在、わたしたちは平和に生きています。しかし、この平和がいつまで続くのか、何か大きな異変がこの国を襲うのではないか、これは予断できません。ただし、個人の場合でも国民全体の場合でも、思いがけない危機的な状況に置かれたときに、わたしたちはどうすればよいのか。これを心得ておくことが、危機に対する大事な心構えです。実は、マタイ福音書の描く状況よりもヨハネ福音書のほうが、より深刻で厳しいとわたしは思っています。なぜなら、マタイ福音書には、ペトロがイエス様に向かって大胆に歩み出す場面があるからです。人間が危機的な状態に陥った場合に、何もしないよりも「何かする」ほうが気が楽です。「じっとしておれない」状況こそが危機だと思うのです。だから、ペトロのように、多少無鉄砲でも、思い切ったことをするほうが危機の際には気持ちが救われます。
 ペトロの場合とは動機も事情も違いますが、経済や政治の変動に伴う社会不安が起きる場合には、人々はじっとしておれなくなります。その結果、不安の理由を外国のせいにして、愛国心や国家の危機を声高に叫ぶ人たちが出ます。しかし、危機意識にあおられてするこれらの言動は、往々にして誤った判断や性急な結論を産み出すもとになります。こういう時に最も大切なのは、「何もしないでじっと待つ」ことですが、これがなかなか難しい。はっきり言って、信仰のない人には無理です。実はこれこそが、ヨハネ福音書が、今回わたしたちに教えていることなのです。
 ヨハネ福音書の語りには、弟子たちの積極的な行為が何一つ描かれていません。彼らは、イエス様のいない状態で、ただ嵐にもまれ続けているだけです。「何もしないでただ嵐にもまれ続ける」この状態にじっと耐えること、こちらのほうが、マタイ福音書の場面よりも一層深刻で難しい。しかし、これが、ヨハネ福音書の描く弟子たちに求められているのです。
 弟子たちのこの有り様は、危機に際して無為無策でいる姿と紙一重に見えます。しかし、危機に際してなにもできずにぼんやりしていることと、じっと耐えて待つこととの間には、大変な違いがあります。神が働かれるのを待つ行為、実はそれ自体が、神から出る御霊のお働きであって、これこそが、信仰の最も本質的な姿だと言ったら、皆さんは、どう思うでしょうか。「じっと立って待つ人たち、彼らもまた主に仕える者たちである。」 "They also serve who only stand and wait."これは、両眼を失明したイギリスの詩人ジョン・ミルトンが歌ったソネットの一行です。
ヨハネ福音書が描く弟子たちは、嵐の中で、まさにこのことを余儀なくされています。こういう状況の中で生じる信仰を詩編の作者は「ただ主に拠り頼む」という一句で言い表しています(詩編31篇)。何が起こるかは分からないが、一切を主に委ねて、ただじっと静かに待つ。ここに信仰の極意が隠されている。こう言っても言い過ぎではありません。神は、ほんとうにわたしたちを助けに来てくださるのか? この疑問が、神は、はたして存在するのか? という疑問と重なってわたしたちを襲うのはこういう時です。
■出会いと恐れ
 何を期待すべきかそれさえも分からない。こういう状況の中で、主がわたしたちに応えてくださるときには、たとえ心の底で何らかの応えを「予期していた」としても、それは驚き以外の何ものでもありません。異言を待ち望んで祈った経験のある方はお分かりかと思いますが、自分が祈り求めているはずの異言が、実際に自分に臨むと、わたしたちは「恐れ」に襲われるのです。この時の気持ちは、イエス様が水の上を歩いて自分たちのほうに近づいてくるのを見た時の弟子たちの気持ちに重ねることができます。だから、主のお姿を見ることが、弟子たちの安心を誘ったのではありません。逆に彼らは、イエス様を見て恐れたのです。嵐も怖かったけれども、イエス様の姿のほうがもっと怖かった。まるでヨハネ福音書は、こう言いたいかのようです。それほどこの出来事は、弟子たちを驚かせたのでしょう。イエス様のほうからわたしたちに近づいて来られる。このような働きかけと迫りに直面したときに、わたしたちはいったいどうすればよいのでしょうか。その御臨在の恐れをそのまま「受け入れる」ことができるでしょうか。ちょうどここで弟子たちがしたようにです。これが、「じっと待っていた者」に与えられる勇気です。そこには、自分たちが見ているものが、ほんとうにイエス様なのかどうか、これさえもはっきりしないという状況が重なっています。
 ではいったい、このような「恐れを伴うイエス様との出会い」には、どのような意味がこめられているのでしょう。自分はイエス様を見知っているから、イエス様のことはよく理解している。弟子たちは、こう思い込んでいたのではないでしょうか。ところが、今ここで弟子たちは、自分たちが今まで見たこともないイエス様に出会ったのです!おそらく、それは、今までの自分たちのイエス様像が覆されるほどの衝撃だったと思います。水上歩行のイエス様は、復活顕現のイエス様であると言われます。弟子たちは、復活のイエス様に出会って、地上で見知っていたイエス様からは経験したことのない衝撃を受けたのです。パウロとイエス様との出会いに象徴されるように、イエス様と人間との出会いは、多かれ少なかれ、このような衝撃を伴います。大事なことは、ここで、その衝撃から逃げないことです。弟子たちがしたように、またパウロがしたように、イエス様との出会いの衝撃を「受け入れる」ことです。思い切って、その出会いに身を委ねることです。ちょうど、天使から処女懐胎を告げられたマリアさんが、あえてその不可解に自分の身を委ねたように。そこから、新しいイエス様がその人に啓示されるからです。
 このような人には、「わたしである」と、イエス様のご臨在のお言葉が響いてくるのです。その時、不安と恐れが安心と歓びに変わるのです。イエス様のお言葉が響いて、御霊のご臨在を感じると、弟子たちの心を平安が支配します。水上歩行での「奇跡」は、こういう「危機の中の平安」のほうにある、こうヨハネ福音書はわたしたちに伝えているようです。弟子たちはここで、今まで知らなかった新しいイエス様を体験しました。しかし、このような体験に至るためには、暗い嵐の海をさまよい、これにじっと耐えるという過程がどうしても必要だったのです。暗闇は怖い。しかも、この暗闇は、新しいイエス様が顕現してくださるための準備段階でもあったことが、後から示されるのです。イエス様が共にいてくださるなら、それだけで、船が目的地に無事に着くことがすでに保証されています。こうして、弟子たちは、「知らないうちに」新しい目的地に到達していることに気づいたのです。暗黒の海でイエス様に出会ったのも奇跡なら、今自分が到達したこの地点も、それに劣らない奇跡です。ヨハネが、この物語を「到着の奇跡」で締めくくっているのは(21節後半)、こういう意味をこめているのでしょう。
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