【注釈】
■湖でのしるし
 今回の物語は、マルコ6章45節~52節とマタイ14章22節~27節に並行記事があります。三つの福音書では、この物語が五千人への供食に続いていますから、これら二つの奇跡は、福音書編集以前にすでに結びついていたと考えられます。三福音書で使われている言葉も共通するところが多いと指摘されています。ただし、内容的に考察すると、ヨハネ福音書の語り方が最も単純で、マルコ福音書では、弟子たちが幽霊を見ておびえたり、イエスが風を鎮めたのを見て弟子たちが驚いたとあります。マタイ福音書ではさらに、ペトロが水の上を歩こうとしたとあります。ヨハネ福音書のほうが、もとの形をとどめていると言えるのかもしれません。
 マタイ=マルコ福音書では、弟子たちが困難に直面した様子、イエスがそれをご覧になって風を鎮めたこと、弟子たちの驚きや不信仰など、奇跡とこれに対する弟子たちの驚きが強調されていて、しかも出来事全体が、イエスの視点から描かれています。これに対して、ヨハネ福音書では、奇跡や不思議を強調するよりも、イエスの臨在それ自体への畏敬が弟子たちの視点から語られていて、その中心に、「わたしである」が置かれています。水上歩行のすぐ前で、人々がイエスをとらえて世俗の王にしようとしたとあることから、ヨハネ福音書は、人々のこのような誤解に対して、イエスが、地上の王を超える存在であることの「しるし」として、この物語を描いているのでしょう。
 マタイ福音書では、ペトロの水上歩行が、イエスの顕現に対するペトロの応答として語られます。ヨハネ福音書では、弟子たちからのこのような応答は語られず、むしろ<恐れを鎮める>イエスの現臨が語られています。マタイ福音書のペトロの応答に当たるのは、ヨハネ福音書では、ペトロが、復活のイエスに接して水に入ってイエスの所へ行く場面です(21章7節)。ヨハネ福音書では、この水上歩行の後で、イエスと民衆の間に交わされる「荒れ野のマンナ」をめぐる説話が来ます。このつながりは、モーセが民を率いて紅海を渡ったこと、これに続く荒れ野でのマンナの出来事をここでのイエスに重ねているのでしょう。後代のユダヤ教では、過越の食事の際に、紅海の水を分けて通ったことと、荒れ野でのマンナの賜物が結びついて語られましたから、今回の二つの奇跡の結びつきと共通するところがあります〔ブラウン『ヨハネ福音書』(1)〕。水上歩行の物語は、これだけで独立しているように見えますが、このように見てくると、その前後と密接に関連しているのが分かります。
 パンのしるしが聖餐と関連することから、嵐の闇の湖でのイエスの顕現は、死からの復活のしるしだという解釈があります。この解釈をそのまま受け入れることはできませんが、ここのしるしは、詩編77篇20節や詩編107篇23~30節と関係していると見ることができます〔バレット『ヨハネ福音書』〕。
■6章
[16]【夕方になった】マルコ福音書では、供食が終わった時に、すでに「時がだいぶ経っています」(マルコ6章35節)から、「夕方には」船が湖の真ん中に出ています(同6章47節)。ヨハネ福音書では、供食の後で夕方に、弟子たちが湖畔へ(原語は「海へ」)下りていますから、暗くなるのは船出した後のことです(17節)。
【弟子たちは】マルコ6章ではイエスが群衆を解散させる一方で、弟子たちに命じて、先に船でベトサイダへ向かわせます。ヨハネ福音書では、イエスは群衆を避けて山に退き、弟子たちだけが船出しますが、その理由は書かれていません。
[17]【カファルナウム】この地名は、すでに2章12節/4章46節にでてきました。共観福音書では、ここがイエスたちのガリラヤ伝道の拠点となった場所ですが、ヨハネ福音書でもこのことが示唆されています。イエスが、パンのしるしについて人々に解き明かすのはこの場所です(6章59節)。
【すでに暗く】マルコ6章48節では「第四の刻」ですから、午前3~6時の間です。ヨハネ福音書では、「イエスはまだ来ていなかった」とあるのが注目されます。ここで弟子たちは、初めて、自分たちだけで行動しています。「今やイエスを待たなければならず、弟子たちはイエス無しで自分たちだけで道を探して進まなければならない」のです〔バルト『ヨハネ福音書』〕。
[18]【強い風が】原典では「その上強い風が」。マルコ福音書では、風が逆風で弟子たちが漕ぎ悩んでいて(同6章48節)、そこへイエスが顕れて波を鎮めます。ヨハネ福音書でも同様に「海が荒れて」います。ガリラヤ湖では天候が急に変わることが多く、特に風が北あるいは南から吹く場合には、比較的小さな湖なので、波が荒くなり、湖を東西へ横切る船は、いわゆる「横波」を受けて危険な状態になります。
[19]【二十五ないし三十スダディオン】約4.5~5キロです。ガリラヤ湖の最大幅は約9.5キロですから、弟子たちは湖のちょうど真ん中にいたことになり、マルコ福音書の「船は湖の真ん中に」とあるのと一致します。
【近づいて来られる】マルコ福音書では、イエスが「湖の上を歩いている」のが見えて、イエスは彼らの側を通り過ぎようとします。彼らは幽霊を見ていると思い怯えて叫び声を上げます。ヨハネ福音書は、そのような具体的な状況を省いています。その代わり、イエスが「湖の上を歩いて」彼らのほうへ<近づいて来る>のを見て、弟子たちは<恐れた>のです。弟子たちもまた群衆と同様に、ここでは信仰と不信仰との狭間に置かれているのでしょう〔バルト前掲書〕。「近づいて来られるのを見て」は現在形ですから、「ところが、イエスが船のすぐ近くに<現われている>ではないか」とでも訳すべきでしょうか。弟子たちは、嵐への悩みよりも、イエス顕現の出来事のほうに恐れを覚えた様子がうかがわれます。
[20]マルコ福音書では、イエスが弟子たちの船に乗り込むと嵐が静まったとあります。ヨハネ福音書では、イエスが弟子たちの船に乗ったことが書かれていません。ただ「わたしである。恐れるな」と語りかけるのです。
【わたしだ】原語は「わたしである」(エゴー・エイミ)。ヨハネ福音書では「エゴー・エイミ」という言い方は、イエス〔と父の神の〕臨在を顕す定型句として用いられています。ところが、ここでは、この句が、ヨハネ福音書以前の伝承そのままの形として保持されていると見られています。このために英訳では?"It is I."〔NRSV〕とあって、作者が、意図的に、もとの形をそのまま用いていることを示そうとしています〔バレット『ヨハネ福音書』〕。新共同訳の「わたしだ」も英訳と同じ意図から出た訳でしょう。しかし、ここでもやはり、イエスの臨在を示す意味がこの句の背後にこめられていると見てもいいでしょう。新改訳英語聖書[NRSV]では、このことを示すために、"I am."という別訳を欄外に出しています。
[21]【船に迎え入れようと】「迎え入れようと思っているうちに」"They wanted to take him into the boat"〔NRSV〕.弟子たちが、イエスを船に入れようと思ったその時には、すでに船が目的地に着いていたという意味です。もっとも、この言い方は、「〔イエスが〕船に乗ると」の意味をも含んでいるとブラウンは指摘していますが。字義どおりにとれば、ここで、水上歩行の奇跡に加えて、さらにもう一つの奇跡を語っていることになります。「弟子たちがイエスを迎え入れる前に、船は行こうとしていた地に着いた。このことが、教会が持っており、そこから生き、それに向かう希望の約束(終末と再臨)なのである」〔バルト『ヨハネ福音書』〕。
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