32章 パンのしるしと群衆
6章22〜40節
■6章
22その翌日、湖の向こう岸に残っていた群衆は、そこには小舟が一そうしかなかったこと、また、イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り込まれず、弟子たちだけが出かけたことに気づいた。
23ところが、ほかの小舟が数そうティベリアスから、主が感謝の祈りを唱えられた後に人々がパンを食べた場所へ近づいて来た。
24群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。
25そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った。
26イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。
27朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」
28そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、
29イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」
30そこで彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。
31わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」
32すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。
33神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」
34そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、
35イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来るものは決して飢えることがなく、わたしを信じるものは決して渇くことがない。
36しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。
37父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。
38わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。
39わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。
40わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、 わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」
■朽ちる物から朽ちない者へ
今回の箇所で、人々は、荒れ野でパンを食べてから、イエス様を王様にしようと後を追いかけてきます。けれどもイエス様は、御利益だけを求めるこの人たちに警告して言われます。「あなたがたがわたしを求めるのは、しるしを見たからではない。パンを食べて満腹したからだ。」一時的な必要が満たされると、神の御業もイエス様の恵みも忘れてしまうのを「満腹する」と言います。パンには与(あずか)るけれども、命に与ろうとはしないのです。体を支えるパンは、体を生かすほんとうの生命力の「しるし」なのです。
人は誰でも若い時には、結果を出し、業績をあげて人に認められようと思うものです。自信もつくし、生きがいも覚えますから。けれども、どんなに業績をあげても、人にほめられても、自分がやったことも所詮は「過ぎ去る」一時のことだと分かってきます。競い合って他の人に勝っても、勝って寂しく、負けて悔しく、残るのは空しさです。結果が認められるのは喜びですが、その結果にいたるまでの<日々の働き>のほうに、ほんとうの生きがいが潜んでいます。日々の仕事の営みそれ自体の内に、神の輝きを見出す。こういう「生きがいのパン」を日々食べることが、イエス様がここで言われる「神の業」です。
「その日その時の働き」に意義を見いだす生き方は、人目に立とうとする者にはできません。日々の仕事に満足を覚えるのは、自分の業、自分の有り様が、何か大きな力による不思議な<めぐり合わせ>でそうなっている。こういうことを実感できる時です。自分の仕事が、「自分の」働きではなく、何ものかに<させてもらっている>と気づくところに生じる不思議な輝きです。そういう自分を謙虚に受け入れ、自分に与えられているものが「有り難い」と思える時に、人は生きる喜びを覚えます。「サクセス」(結果/成功)を求めて仕事をするのが世の常なら、真実はその逆で、結果は過ぎ去るけれども、日々の働きにこめられた生きがいと喜びのほうは、結果に関わりなく、「いつまでも残る」から不思議です。
こういう不思議な「働き方」を日々与えてくださる神、そのお方をイエス様は「わたしの父」と呼ぶのです(32節)。こういう生き方を悟らせるために、「わたしの父」は、イエス様をわたしたちに「遣わして」くださったのです(29節)。だから、わたしたちのほうからイエス様に「働きかけて」、何かを「させようとする」のではなく、イエス様のほうから、わたしたちに働きかけてくださるのだと悟ることが、「イエス様の与えるパンを食べる」ことです。祈る心と感謝する気持ちが湧くのはこういう時です。なんにも要らない。ただイエス様とご一緒に日々を歩む。この歩みが、「なくならない食べ物」になるのです。与えられた物よりも、与えられる「わたしの父」の働きかけに身を委ねる時に初めて、わたしたちは、イエス様とその父の御臨在に触れます。一日一日の営みの奥に、永遠の霊性が宿る生き方があることを悟るのです。このパンを味わったら、その味は決して忘れることができません。
■先祖の神からイエス様の父へ
ここで、「神のみ業を行なう」ことを少し違った面から見たいと思います。イエス様の御言葉を聞いていた人たちは、その意味がよく飲み込めませんでした。そこで「神がお遣わしになった方を信じることが神のみ業だよ」と言われた時、人々は、自分たちの先祖モーセを持ち出したのです。先祖は、モーセによってパンを与えられた。だからモーセこそ、神から遣わされた人だと彼らは言います。モーセは神御自身でないけれども、「神の人」と呼ばれ崇められていたからです。
だから、「あなた(イエス様)のほう」は、どんなことを見せてくれるのか。モーセと「あなた」と、どちらが偉いのか? 人々は、イエス様にこう問いかけます。これは、サマリアの女が、イエス様に尋ねたのと同じです(4章12節)。ただし、サマリアの女は、イエス様とは違う先祖の人であった。それなのに、素直にイエス様を救い主として受け入れました。だから、イエス様は、自分の父と彼女の先祖との違いを彼女に説き聞かせることができたのです(4章22〜26節)。しかし今回は、イエス様と同じユダヤ人の聞き手であるのに、逆にそのためでしょうか、人々は、自分たちの「先祖」のモーセにこだわるのです。
イエス様は、彼らに、モーセが与えたのは「天からのパン」ではないと言われます。あなたたちは、先祖がパンを食べたのはモーセのおかげだ。その先祖の神のおかげで、自分たちはパンを食べていけると思っているかもしれない。「しかし」、とイエス様は言われます、「あなたたちの先祖が食べたのは、そして、今あなたたちが食べているのは、<わたしの父が>お与えになるパンである」と。
聖書的に見ると、イエス様はここで、モーセに従う民に与えられた「食べ物」(出エジプト記16章)の記事から、同じように「食べ物」について語る人類の堕罪の物語(創世記3章1〜20節)へと、聖書の出来事を移行させます。言い換えると、律法の仲保者であるモーセから、「わたしの父」である「創造の神」へ立ち帰るのです。
もう一つは、すでに指摘した「神のみ業を行なう」ことです。それは、神が、わたしたち一人一人に行なわせようとしておられる「自分の業」のこと、<自分にしか>できない「いつまでも残る」業のことです。これを求めなさいとイエス様は言われる。それは、<わたしの父の神だけが>お与えになる賜だからです。イエス様の父は、わたしたちの肉体を養うだけでなく、わたしたちに「永遠いたる霊性」を授与してくださる。これが、先祖からのパンを食べても得られないもの、イエス様がお与えになる生きるパンです。あなたたちは、今生活できるのは先祖の神のおかげだと思っている。しかし、ほんものは「いつまでもなくならない」。それは「わたしの父から来るのだよ」とイエス様は言われるのです。「まこと」とは、「いつまでもなくならない」ことだからです。
神がお与えになるのは「物」ではなく「者」のほうです。父なる神は、天から降ってこられた「お方」をわたしたちにくださった。イエス様というすばらしいお方を、そっくりそのままわたしたちにくださった。修道院にいる人や牧師さんのような特別な人だけではなく、ふつうの生活をしている人にです。「この世に命を与える」(33節)とはこの意味です。これが、イエス様の御霊のお働きです。このイエス様を与えてくださるように祈り求めなさい。こうイエス様は言われるのです。
■イエス様へ「来る」こと
ラテン語の「サピオー」には、「知る/洞察する」ことと「食べる/味わう」ことの両方が含まれています。「知る」とは「食べる」ことです。とにかくイエス様の所へ来ることです。来て自分の目と耳でイエス様を体験し、味わうのです。イエス様のもとへ来る者をイエス様は「決して拒まない」、「追い出さない」からです(37節)。「今のこの時」に拒まないだけでなく、最終の終末まで拒まないで、必ず救うと言われるのです。こういう言葉は、聞こうとしても人間からは聞くことができません。
復活されたイエス様の御臨在に触れて、イエス様との御霊の交わりに入ることは、自分もその復活に与ることです。その人を必ず「復活させる」と、この6章で4回も繰り返されています。「わたしに与えられた人を一人も失わない」(39節)とあるこの箇所は、単数で語られていますから、「一人一人どんな人でも」の意味です。人は誰でも、<自分一人で>イエス様から永遠の霊性を授かることができるのです。主イエス様が、すでによみがえって生きておられることが分かれば、ああ自分もそうなるのだと分かるのです。
世の中にはいろいろな「永遠」があります。会社は永遠である。国家は永遠である。民族は永遠である。家は永遠である。お金は永遠だと考える人もいます。そのほかにもまだあるかも知れません。とにかく人間は、永遠がないと生きていけません。しかし、こういう永遠は、どれも「ほんとうの」永遠ではない。それなら、イエス様の永遠も偽ではないか。こう思う人がいるかも知れません。フランスの物理学者で修道士でもあったパスカルは、そうは考えませんでした。「偽札が横行しているのなら、どこかに本物がある証拠だ。」こうパスカルは考えたのです。
人は、その歩みの中で、いろいろな選択を迫られます。そんなときに、イエス様を信じる人は、自分の内に「イエス様の永遠」が宿っていることを忘れません。物事を判断し、決めていくときに、どんな場合でも、この根本をわきまえていれば、偽の永遠に騙されること、人間としてなにが一番大事かを取り違えることがありません。
■これからの日本人
「先祖の神」について、少し加えておきます。日本人に限らず、アメリカ人も中国人もヨーロッパ人も、自分たちの「先祖の神」を誇りに思っています。近頃(2013年8月)、憲法を変えて、日本の国の形を変えようとする動きが出ています。平和憲法から戦争憲法へ、核放棄から核武装へ、民主主義から国家主義へ、個人の人権尊重から国家の秩序維持へ、この国がこのように一直線に変わるとは思いませんが、今後の日本の歩みが今大きく変わろうとしているのは確かです。
ある人々は、「天皇制を批判する者は日本人でないから、この国から出ていってもらう」と言います。現在アジアの国々から日本に出稼ぎにきている人たちを全部追い返して、江戸時代みたいに国を閉ざして彼らを入れないようにせよ、こう主張する知識人もいます。彼らは、この国の自然も、豊かさも、経済的な繁栄も、全部、ほかの国の人たちとは関係がないのだと、「自分の国の先祖の神」がくれたものだと思っているのです。自分の国の先祖がくれたものなら、よその国の人に分けてやる必要がない。周りの国々がどんなに困っていても、助けてくれと言ってきても、自分たちの損になることをすれば「先祖の神」に申し訳がない、こう思うのです。
イエス様は「そうではない」と言われます。あなたたちの先祖の神がパンを与えたのではない。「わたしの父が」与えたのだと。わたしたちの国が美しい自然に恵まれているのも、経済的に繁栄しているのも、決して「先祖の神」のおかげなどではない。戦後の日本人が、平和を守り、努力して働いたから、一生懸命働く者に、神は、どこの国のどの民族だろうと偏り見ることなく報いてくださるのです。アメリカ人だから、日本人だからと特別扱いは決してされません。「すべて悪を行なう者は、ユダヤ人(唯一の神を信じる人たち)はもとより、ギリシア人(唯一の神を信じていない人たち)にも、苦しみと悩みが下り、すべて善を行なうものには、栄光と誉れと平和が与えられる」(ローマ2章9〜10節)のです。父なる神は、それぞれの民族をそれぞれの土地に置かれて、神をほめたたえるようにしてくださったからです(使徒言行録17章26〜28節)。
古来、海の民は、世界の諸民族とうまく付き合うことで栄えてきました。日本は島国で、日本人は海洋民族ですから、21世紀の日本人は、世界中の人々と仲良くつきあっていかなければなりません。このために、日本をお造りになった神も、アメリカをお造りになった神も、中国をお造りになった神も、皆同じ「父」であることを知る必要があります。これを知って初めて、日本人が、世界の国々に向かって「神のみ業」を行なうことができます。イエス様の「わたしの父」に導かれることがいかに大事か、これからの日本を導き救うただ一つの道が、ここにあります。
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