【注釈】
■6章22~40節について
 6章では、最初に五千人へのパンの奇跡(しるし)が語られ(1~21節)、次に湖上での奇跡(しるし)があり(22~25節)、続いてイエスが群衆と語り(26~40節)、ユダヤ人たちと語り(41~59節)、最後に弟子たちと語ります(60~71節)。しかし、6章30節以下の人たちは、彼らの問いかけから判断すると、すでに自分たちで「しるし」を体験している25~27節の群衆とは違っているという印象を受けます。おそらく、彼らは、カファルナウムで集まってきた人たちでしょう。
 6章の聖餐に関する箇所については、51節の後半から、その前の27~51節前半とは異なる視点が導入されていると言われています。6章の叙述には、現代のわたしたちから見ると、つながり方に分かりにくいところがあります。このため、本来内容的に一貫していた資料が、この部分では分断されていると見なされました〔ブルトマン『ヨハネの福音書』。
 ここで資料の編集が行なわれているのは確かですが、現代的な論理から見た解釈だけでは、ヨハネ福音書の作者/編集者の真意を読み誤るおそれがあります。具体的な例は、それぞれの箇所で説明しますが、ヨハネ福音書は、ここで「ミドラシュ」と呼ばれるユダヤの伝統的な手法に従って、聖書本文に幾つもの解釈を継ぎ足すことで、次第にその解釈を拡大しながら、「神の言葉」を読み解く方法を採っています。この方法は、論旨の一貫した現代の叙述方式ではなく、思考を並列させる「並行法」を用います。
 加えて、今回の聖餐の箇所について、聖餐の祭儀を霊的な視点から批判的に見る立場と、パンとぶどう酒をイエスの肉と血に結びつける具体的かつ即物的(?)なサクラメント(典礼)観からと、両方の見解があります。どちらか一方の視点からだけで割り切ると、ヨハネ福音書の真意を読み誤ることになりましょう〔キーナー『ヨハネ福音書注解』(1)〕。
 22~40節だけに限ると、この部分は、湖上の奇跡(22~25節)と、パンを食べた群衆への語りかけ(26~27節)と、カファルナウムで集まってきた人たち(彼らはパンの奇跡を直接体験した人たちから区別されます)への語りかけ(28~40節)との三つに分けることができます。一貫しているのは、モーセが荒れ野で民に与えたマナと、イエスが与える「命のパン」との対比です(31節)。神は、モーセによってイスラエルの民を荒れ野へ導き出し、そこで奇跡的な仕方で「神から降るマナ」を民に与えました(出エジプト記16章)〔新共同訳の小見出し〕。彼らを養い導くのは、民自身の力ではなく、主なる神の天から降る恵みによることを悟らせるためです。
 同じように、ヨハネ福音書では、先ず五千人へのパンの奇跡が「しるし」として与えられ、これに湖上でのイエスの顕現の奇跡が続くことで、紅海を渡ったモーセにまさるイエスと、モーセを通して与えられた「天からのマナ」にまさる「命のパン」が、イエスを通して人々に与えられるのです。
■6章
[22]22~25節は、湖上の顕現と26節以下とを結ぶために挿入された編集でしょう〔Fortna. The Fourth Gospel and its Predecessor.84〕。しかし、ヨハネ福音書は、パンの奇跡の場所を特定するのを避けていますから(ルカ9章10節/マルコ6章45節と同53節と比較)、今回のつなぎ部分も紛らわしいところがあります。問題は「その翌日」(22節)と、22節および25節の二つの「湖の向こう岸」と、これと関連する「群衆」です。
 「その翌日」が、直前の水上歩行の奇跡の翌日を指すとすれば、イエスと弟子たちがすでに立ち去った「翌日」に、群衆が、「一艘しかなかった」はずの小舟を見るのは不可能です。だから、このことに「気づいていた」群衆とは、供食の場に「残されていた」のではなく、弟子たちと同じに、すでに「向こう岸」のカファルナウムに来ている人たちなのかもしれません〔ブルトマン前掲書〕。しかし、「その翌日」を「パンを食べた場所」と関連させて、「パンの奇跡の翌日」のことだとすれば、「湖の向こう岸に残っていた群衆」とは、まだベトサイダに「残っていた群衆」"the crowd that had stayed on the other side"(英訳は過去完了)のことになりますから、「湖の向こう岸」は、パンの奇跡の場所近くになります。22節は、「パンを食べた場所に近い所、湖の向こう岸にいた群衆は、奇跡の翌日になって、弟子たちが一艘(そう)しかなかった小舟で、すでに立ち去ったことを発見した」という意味になります。「あくる日、なお湖の向こう岸、すなわち東の岸にのこっていた群衆は、<きのうの夕方>そこに一艘のほか小舟がなく~」〔塚本訳〕。
[23]~[24]【小舟】「小舟」(「プロイアリオン」の複数形)には、通常の「船」(「プロイオン」の複数形)という異読がありますから、ここでの「小舟」は「船」と同じ意味でしょう〔バレット『ヨハネ福音書』〕。漁に出る通常の船であれば、10~12人ほどで一杯になります。どういうわけでティベリアス(1節参照)から複数の船が来たのかが語られていませんが、群衆の中のある人々は、イエスもなんらかの仕方で弟子たちと共にカファルナウムへ向かったと見てとって、「折良く来合わせた」船に乗って、イエスの後を追ったのです。
【主が感謝して】この句が欠けている異読があります。この句では、「イエス」でなく「主」とあり、「パン」が11節と異なり単数ですから、明らかに聖餐を表わす言い方になっています。内容的に見ても、この句がなくても意味が通ります。共観福音書の供食の記事に比べて、ヨハネ福音書では、教会の聖餐を表わす語句が欠けているので、これを補う意図で後から挿入されたと考えられます。ただし、23節全体は、ごく初期から本文にあったと思われますから〔新約原典テキスト批評〕、この句の挿入は、ヨハネ福音書の編集者自身の手によるのかもしれません。ただし、4節に「過越祭」とあることから見て、ここのパンは、聖餐ではなく過越の「パン」を指すという説もあります〔ブラウン『ヨハネ福音書』(1)〕。
[25]ここの「湖の向こう岸で」は、22節の「(パンの奇跡の場所に近い)向こう岸」とは異なって、すでに湖を横切った後の場所、すなわちカファルナウムのことです〔ブラウン『ヨハネ福音書』(1)〕。ただし、<もしも>供食の場所が、(ガリラヤ湖の東岸ではなく)ティベリアス近くだったとすれば(6章1節注釈参照)、「横切った」のは、ティベリアからカファルナウムまでの海路になりましょう。群衆の中の人々がイエスを追って来たのは、続くイエスの言葉から判断すると、「パンを食べて満腹した」からですが、それだけでなく、彼らの手によってイエスをユダヤの(?)「王」に祭り上げようとしたことがあります(15節)。イエスから与えられた「しるし」を彼らが誤った受け取り方をしている理由が「このこと」にもあります。
[26]~[27]
イエスは答えて言われた。
「アーメン、アーメン、あなたがたに言う。
あなたがたがわたしを捜し求めるのは、
しるしを見たからではなく、
パンを食べて満腹したからである。
朽ちる食べ物のためでなく、
いつまでも残り永遠の命にいたる
食べ物のために働きなさい。
これこそ、人の子があなたがたに与えるものである。
この人の子を父なる神が認証されたからである。」
【満腹したから】ここで出逢った人たちは、先の14節で、イエスを王にしようとわざわざ「捜し求めて」きた人たちです。彼らが熱心なのは、イエスが彼らに「パンを与えた」からです。当時のローマ皇帝は、剣闘士たちの試合などを見るために闘技場へ集まったローマの市民たちに、パンを無料で配って彼らの歓心をかっていました。人々にとって、有名人や賢者の話を聞くのは、一種の娯楽のためであって、これによって自分たちの生き方を変えるためではありませんでした。おそらく今回の人たちも、イエスの語ることをそのような姿勢で聞きながら、イエスにこのような「王」を求めていたのでしょう。イエスが、かつてのダビデ王のような政治権力を握るならば、自分たちも、イエスから食べ物の分け前に与ることができると期待したのです。
 地上の王権は一時的ですから、王が配るパンも一時的であり、そのパンを食べて保たれる命もまた一時的です。ここから「パン/食べ物」を鍵語とする長い説話が、聞き手からの問いを挿(はさ)みながら続きます。それが「聖餐」へつながり(52~56節)、さらに「永遠の命の言葉」(68節)へと深められます。なお、「満腹させる」(コルタゾー)の受動態アオリスト形「満腹させられた」はマルコ6章42節/同8章8節と同じです。これは偶然でなく、マルコ福音書とヨハネ福音書との関係を示唆するものでしょう〔バレット『ヨハネ福音書』〕。
【しるしを見た】イエスは、先のカナでは、まだ癒やしを体験していない人が「しるし」を求めることに批判的でした(4章48節)。しかし、ここでは、パンの奇跡をすでに体験した人たちに、「しるし(複数)を見る/観る」ように求めています。彼らはいったい、自分たちの体験から「何を見た/観ていない」のでしょう? 彼らは、身体的な「満腹感」を得ただけで、それ以上のこと、「しるし」が彼らに<指し示している>もっと大きなことを観ようとせず、求めようともしないのです。しるし体験を通して、神が彼らに伝えようとしている「神の言葉」そのものを聴こうとしないのです。ヨハネ福音書によれば、「しるし」は決して否定されるべきものではなく、これによって真理を知り、真の信仰にいたる大事な手がかりです。同時に「しるし」は、これに接する人たちの内面を露わにして、これを正しく受けとめない人が裁かれる結果にもなります。
【永遠の命にいたる食べ物】27節は、「この水を飲む者は誰でもまた渇く。しかしわたしが与える水を飲む者は、その人のうちで泉となり、永遠の命の水が湧き出る」(4章13~14節)と対応しています。ここでパンは「食べ物」(単数)と言い換えられています。「水」と「パン/食べ物」は、古今東西、人間の命を養う最も大事なものですから、人間を永遠に生かす「朽ちない命」を与えるものの比喩として用いられてきました。ここの比喩が指し示す霊的な意味は、体を養う「水とパン」が、<神からのものである>ことを実感して初めて悟ることができます。身体的な実体験は大事にしなければなりませんが、「体」が知る水とパンそれ自体は、一時的なものに終わります。「物」を通して語りかける神からの霊験こそ、イエスが伝えようとしている「パン」であり「食べ物」です。これは、「(彼らが)まだ知らない」食べ物です(4章32節)。
 ここでイエスは「いつまでも<残る>食べ物」と言っています。「残る」は、先の12節で、イエスが弟子たちに「なくならないように」「余った/残った」パン屑を集めるように指示していることとも関連します。それが、単なる「パン屑」ではなく、神が彼らに与えた物であり、たとえ小さなかけらでも、一つ一つが<イエス自身を>指し示しているからです。この意味での「パン屑」は<残る>ものであり、それゆえに無駄にできないのです〔Fortna. The Fourth Gospel and its Predecessor.38〕。
【働きなさい】「食べ物のために働きなさい」とあって、パン/食べ物が、これを得るために「働く」ことと結びついています(創世記3章17節/同19節参照)。「働く」の原語「エルガゾマイ」には、「(食べた物を)消化する」という意味もありますから〔ブラウン『ヨハネ福音書』(1)〕、ここは「永遠の命にいたるために<食べる業>をしなさい」〔岩波訳(注)〕の意味にもなります。「働き/業/仕事」は、例えばパウロ書簡などでは、「律法の業」として「御霊にある信仰」と対立する意味を帯びる場合があります(ガラテヤ3章2節)。しかし、ヨハネ福音書では、「信仰」と「業」の間に、そのような緊張関係が見られません。むしろ、今回の箇所には、出エジプト記18章20節の「(主のおきてに従って歩む)彼らが行なうべき業」(七十人訳)が反映しているという指摘があります〔Keener. The Gospel of John. (1) 677.(Note)140.〕。
 ここでは、「働く」ことが、「イエスの父が与える」ことと結びついています。「働く業」が「父によって<与えられる>」ためには、父なる神に全託することが求められます。与えられたしるしを正しく「観る」こと、観て、父が与えてくださった方イエスを「信じる」こと、信じることで従う/歩むこと、これが、ここで言う「働く」ことです。「与えられて働く」というこの受動的能動の姿勢にあって初めて、「信じる」と「働く」と「観る」が一つになります。これが、神の創造の業に参与することにほかなりません。「永遠の命にいたる食べ物」をイエスは「命のパン」と言い換えます(35節)。「命のパン」とは「命を造り出す力」を秘めた霊的な働きのことです〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。「永遠の食物が存在している。イエスは、人々にこの食物を<つくり出す>ように呼びかけている。・・・・・イエスを信じることにおいて人間は、永遠の命に<時間的に>あずかっているのである」〔バルト『ヨハネ福音書』〕。ここで語られていることは51節以下につながります。なお「これこそ」とあるのは、「食べ物」とも「永遠の命」とも受け取ることができます。
【認証された】先の3章33節では、この語は、御子を受け入れた者が、御子の語ることが真実であることをその父からの御霊の働きによって「確認する/承認する」ことを意味しました。しかし今回の場合は、御子が神から遣わされた者であることを父なる神が「認証した」とありますから、何らかの具体的な出来事を指します。おそらく、1章32~33節で、父が聖霊を遣わして、御子の上に留まらせた出来事でしょう。だから、今回の「認証する」は、父なる神が御子を聖霊によってご自分のものとして「聖別する」という解釈もあります〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。聖霊の働きによるこの「認証」は、御子を信じた者が御子に属するものとして将来必ず救われることをその人に「証しし確信させて」くださることをも指します(第二コリント1章22節/エフェソ1章13節)。
【人の子】「人の子」は、すでに1章51節と3章13節にでてきましたので、当該箇所を参照してください。27節でも「人の子」は、父から遣わされ、父の全権を委任されている「永遠の命を与える食べ物」としての「人の子」です。この「人の子」像は、6章全体を通じて、「天から降る」者であり(33節)、その「血と肉を与える」者です(53節)。また、共観福音書の「人の子」と同様に、「天へ挙げられる」者です(62節)。ただし、共観福音書と異なるのは、これによって人の子が、「初めから存在していた父の御もとへ戻る」ことです〔補遺編の「人の子」をも参照〕。
[28]~[29]ブルトマンは、27節に34~35節を続けています。これだと、「これこそ人の子があなたがたに与える食べ物である」というイエスの言葉に対して、彼らが「主よ、そのパンをわたしたちにください」という求めとうまくつながります。原文では、40節まで「(彼らは)言った」と3人称複数の動詞が用いられているだけで、その間に主語は明示されていません。だから、本文の通りだと、「人々」「彼ら」と訳されている主語は、24節でイエスを追って来た群衆のことになります。そうだとすれば、「彼ら」は、すでにパンのしるしを体験しているのに、さらに30節で再び「しるし」を見せてほしいと願うことになります。これを本文が損なわれたために生じた不自然だと見るのか、あるいは、30節でしるしを求めているのは、カファルナウムでイエスに出逢った別の群衆だと解釈するのか、あるいは、主語がはっきりしないのは、意図的な編集なのか、見方が分かれるところです。筆者(私市)は、現行のままでも、後述するように、それなりに奥行きのあるつながりが見えてくると思います。
【神の業を行なう】27節の「<神が>認証された」を受けて、「<神の>業」(複数)がでてきます。「ではいったい、わたしたちはどうすればいいのでしょうか、神がわたしたちに求めている業を行ないたいのですが?」のように訳すと、これは「わたしたちは救われるために何をすればいいのでしょうか?」(使徒言行録16章30節)というフィリピの看守の問いに近くなります。これに対するパウロの答えが「主イエスを信じなさい」ですから、これも「神がお遣わしになった者を信じなさい」(29節)というイエスの答えに近くなります。事実、28~29節はパウロの信仰に近いと指摘されています(ローマ3章27~28節参照)〔バーナード『ヨハネ福音書』(1)〕〔バレット『ヨハネ福音書』〕〔キーナー『ヨハネ福音書注解』(1)〕。
 ただし、ヨハネ福音書の「神の行ないを行なう」(直訳)"if our work is to be the work of God"〔REB〕 は、パウロの言う人間的な誇りから来る「律法の行ない/業」のように否定的な意味ではありません。しかし、「<神の行ない>を行なう」という訳からは、「神が<人間に求める>行ない」とは、まさに人間の行ないの<放棄>にほかならないこと、人間が神の求めを成就できるのは、人間が何かを行なおうとすることではなく、神が遣わす者をただ信じる、そのことだけであるという真意が見えてきます〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。ヨハネ福音書には「信じる」という動詞がしばしば表われますが、パウロと異なり「信仰」という名詞は一度もでてきません。27節~30節では、「人の子」(27節)から「イエスの父なる神」(同)へ、その「神」(28節)から「神が遣わす者」(29節)へ、そこから「あなた(イエス)を信じる」(30節)のように、「人の子」→「父なる神」→「遣わされたイエス」→「イエスを信じる」というつながりが見えてきます。このつながり方は、ヨハネ福音書が伝えようとする霊的な有り様を知る上で大事です。
【遣わされた者を信じる】ここの「信じる」 "believe in Him" は、深く信仰するという強い言い方です。では<どのようなレベル>の信じ方なのか?ここの「神の業」は単数ですから、先の節で人々が考えている複数の「もろもろの神の業」が、イエスの答えでは「信じる」というただ一つの<業>に凝縮されてきます。神が遣わした地上の「人の子」の行なう「しるし」を体験することから、イエスこそ、神が遣わした「人の子」であると悟り、そうすることで、面前にいる「わたし(イエス)」に入信すること、これが人々の問いに対するイエスの答えです。
[30]29節のイエスの答えに対して、30~31節の人々の反応は、もしも彼らが、すでにパンのしるしを体験していたとすれば、絶望的なほどの霊盲と無知ぶりを示しています。ただし「ここでの群衆と先の奇跡を体験した群衆とが同一かどうか問題です」〔ブラウン『ヨハネ福音書』(1)〕。
 30節では、26~29節のイエスと人々との対話を受けて、「しるし」「見て信じる」「業をする/働く」が再び取りあげられます。ただし今度は、「<あなたは>何の業を?」とあって、彼らの関心は面前のイエスに集中します。自分たちが目で「見て信じる」ために<あなたは>何をしてくれるのかと求めるのです。ヨハネ福音書のもとの「しるし資料」では、奇跡それ自体がメシアであることの「しるし」でした。だから、奇跡(しるし)は無条件で人々の信仰を集めることができました〔Fortna. The Fourth  Gospel and its Predecessor.241〕。
 30節でも、人々は、ほんらいの奇跡/しるし資料が有していたまさにその意味で、彼らがイエスを信じるためのしるしを求めています。ところが、29節でイエスが言う「神の業を信じる」は、ここ30節で、それまでの「しるし」とは異なる新たな意味が与えられていることに注意してください。これに似た問いかけが、神殿の浄めでもユダヤ人からイエスに発せられました(2章18節)。そこでもイエスは、直接彼らのしるしの求めに応じませんでした。今回も同様に、イエスは、彼らの「しるし要請」を批判するのです。それは人々が、<自分たちが>信じるための「手がかりとなる業」をイエスが与えるはずだと思い込んでいるからです。しかもその業は、<自分たちで判断する>ための根拠となるものでなければなりません。なぜなら、彼らが求めるのは、<自分たちの判断に合致する>しるしだからです。しかも、彼らは、それがほんものかどうかを自分で判断する術(すべ)を知っている。こう思い込んでいるのです〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。イエスを信じるために、イエスが自分たちの基準に合致するしるしの業を見せなければならない。これが彼らの要求です。
 ここでは、イエスが与える「しるし」をめぐって、ヨハネ福音書独特の仕方で、人々の霊的な理解のレベルが区別されているのを読みとることができます。人は、たとえしるしを体験しても、身体的で一時的な体験にとらわれている限り、幾度でもこれを求めるからです。これに続く一連の対話から見えてくるのは、人がしるしをどう判断するかではなく、逆に、しるしに対するその人の判断と決定が、<その人自身の有り様を決定する>重要な鍵となってくることです。今見聞きしているイエスとその業をどう判断するのか、これによって、<その人自身に生起する霊的な事態が>決定されるのです。イエスが「しるしを正しく観る」よう語るのはこの理由からです。しるしを見ても、これを与えたイエス自身を観ることをせず、したがって<イエスを求める>こともしない人たちがいます。彼らは、「しるし」を正しく見ていません。イエスが啓示しているものが「永遠の命」だとは全く気づかないのです。
[31]この節が、<彼らの言う>メシアのしるしを判断する基準です。この節には、出エジプト記16章4節/詩編78篇24~25節(七十人訳)/知恵の書16章20節などが重ね合わされて採り入れられています。なお、新共同訳とフランシスコ会訳では、出エジプト記でヘブライ語に従って「マナ」とありながら、ヨハネ福音書ではギリシア語の発音に準じて「マンナ」と訳されています(聖書協会共同訳は「マナ」)。
 あるユダヤのラビと弟子との問答に「初めの贖い主(モーセ)は何をしたか?」「マナをもたらしました。」「最後の贖い主は何をするか?」「マナをもたらします」というのがあります。初期ユダヤ教では、再びマナを降らせることが、終末におけるメシアに要求される「しるし」でした。「マナ」は、モーセが与えた律法(トーラー)の象徴でもあったのです。ただし、ラビの伝承では、「律法のマナ」は肉体を養うパンと同じで、それは「永遠の食べ物」ではありません。
 31節からモーセとイエス・キリストとの対比が始まります。モーセを来たるべきメシア(キリスト)の予型(タイプ)と見なし、その対型/本体(アンティタイプ)がイエス・キリストであるという「タイポロジー」関係が、31節以降の背景にあります。モーセとイエスのこのタイポロジー関係は、ヨハネ福音書で一貫しています(1章17節/同45節/3章14節/5章45~47節/7章19~23節)。
[32]~[33]
すると、イエスは彼らに言われた。
「アーメン、アーメン、あなたがたに言う。
 モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではない。
 わたしの父が天からのまことのパンをあなたがたに与える。
 神のパンは、天から降って来るもので、
 世に命を与えるからである。」
 31~34節の「パン」についての対話は、4章11~15節の「水」についての対話と並行し、今回は、「永遠になくならない命のパン」についてです。ギリシアでは、「アンブロシア」(「不滅」を意味する神々の食べ物)と「ネクタル」(神々の飲物)がありました。日本でも「御神酒」(おみき)と「鏡餅」(かがみもち)が神饌(しんせん)として神々に供えられてきました。
 ヨハネ福音書は、「水」と「パン」についての対話で、ユダヤ教のミドラシュで用いられる様式によっています。「ミドラシュ」(「探求」の意味)とは、捕囚以後にユダヤ教で用いられた伝統的な聖書(律法)解釈の方法のことです〔ブラウン『ヨハネ福音書』(1)〕〔キーナー『ヨハネ福音書注解』(1)〕。
 31節で人々は、イエスに、「わたしたちの先祖は荒れ野で(モーセが)天から降らせたマンナを食べました」と「しるし」を求めます(出エジプト記16章4節)。ラビたちのミドラシュ的な解釈には、「あなたがたはマナをこの世/時代では見いだせないが、来たるべき時代/世では見いだすだろう」とあり、また「聖書に『天から食べ物を降らせた』とあるように、贖い主はマナを降らせるだろう」とあり、さらに「マナは、来たるべき世で義人のために備えられていて、信じる者はこれに与る」ともありました〔ブラウン前掲書〕。これらは、必ずしもイエスと同時代のラビの解釈例ではありませんが、イエスの頃にも、このような解釈が行なわれていたと見ていいでしょう。
 これに対して、イエスは、これもミドラシュ的な解釈法に従って、人々が提示した出エジプト記の聖句を「新しく解釈し直す」のです。私訳の3行目では、「モーセ」が冒頭に来て強調されます。イエスは、ここで、聖書の言葉を「(パンを与えたのは)<モーセである>と読まないで、<わたしの父から>のように読みなさい(解釈しなさい)」と提示しています。マナが「天から降った」ことは聖書に明言されていますから、イエスは、そのことを否定するのではありません。「モーセ」を「わたしの父」と対比するのです。「かつてモーセが先祖に<与えた>」とある過去形が、「今あなたがたに<与える>」と現在形に移行していることに注意してください。イエスを通して語っている「イエスの父」こそ、マナを天から降らせることができた方であり、この方こそ、今もなお、人々にパンを与えることができると言うのです。この手法は、聖書の言葉を「再解釈する」ことで、現在は、イエスを通して語られる言葉と同じであると悟らせるためです。
 33節後半では、「神のパン」がでてきます。「モーセ」が与えたマナから、「イエスの父」が与えるマナへ、さらに、そのイエスの父から、現在与えている「<神の>パン」へと、解釈を拡大発展させることで、過去の出来事から今の時に生起する出来事へと内容を移行させるのです。これによって、かつての先祖から、現在イエスの言葉を聞いている人たちへと、神の語りかけが向け変えられていることを気づかせるのです。「天から<降ってきているもの>」とあるのは、過去ではなく現在形ですが、それだけでなく、「もの」が「天から降る物(パン)」から「天から降る者(御子イエス)」へ移行します。その「パン」とは、天から降って<今彼らに語っている>方であることを伝えるためです。"For the bread of God is he who comes down from heaven"〔NRSV:注記〕。「これは<まさに降って来るお方><まさに与えるお方>と訳さなければならないのではないか」〔バルト『ヨハネ福音書』〕。
 ユダヤ教では、モーセを通じて与えられたマナは、「モーセ律法」をも意味しましたから、「マナ」は体と心を養う「食べ物」でした。しかし、マナが<永遠に残る>食べ物でないことは、出エジプト記の記事からも分かります。これに対して、「今与えられているパン」は、いつまでもなくならない「まことの」パンであること、だから、ここで聴いている人たちは、先祖からの<一時的なモーセ律法>から<永遠に失われない命を与える御子イエス>へと、いつの間にか「移されている」(5章24節参照)のです。「律法」にまさる「命」へ、モーセよりさらに優れた方へと、タイポロジー的な転移がこのようにして生じるのです(1章17節)。
[34]~[35]
そこで、彼に言った、
「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください。」
イエスは彼らに言った。
「わたしが命のパンである。
わたしのもとに来る者はだれでも
決して飢えることがない。
わたしを深く信じる者はだれでも
いつまでも決して渇くことがない。」
 34~35節は、4章13~14節のサマリアの女との対話と同じです。ただし、相手の質問とイエスの答えの順が逆になっています。34節の人々の質問が、33節のイエスの言葉、「天から降る命のパン」から出ているからです。サマリアの女も今回の人たちも、イエスを「主よ」と呼び変えていますから、自分の前にいるのが預言者であることに気づいています。
いつもわたしたちに】「今この時から以後いつまでも」の意味です。彼らは、33節で語られたイエスの言葉が「何を/誰を」指すのか分かっていません。だから「パン」と「イエス自身」とを切り離して見ています。与える者ではなく、与えられる物のほうを考えているからです。彼らが考えている「神の業」とは、自分たちが何かを「する」ことで、神が「物」をくださることです。言うまでもなく、このような「物もらい信仰」は、ユダヤでもヘレニズム世界でも、アジアでも日本でも変わりません。
【命のパン】「命のパン」は、命を「造り出す」ものです。「命の水」が「人に命を与える」ことを指すのと同じです〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。このパンのたとえは、「モーセが与えたマナ」から出て、新しく解釈し直されているのをすでに見ました。しかし「マナ」から「パン」への移行は、さらに、ミドラシュ的に拡大されて、イスラエルの知恵思想をも受け継ぐのです。知恵(ソフィア)は、律法と結びついて、これを求める者に対して、母のように、新妻のように、「英知(ソフィア)のパンを食べ物として彼に与え、知恵の水を飲み物として、彼に与える」(シラ書15章3節)からです。ここでも、イエスの言う「パン」は、さらに新たな展開を見せます。なぜなら、旧約では、「わたし(知恵)を食べる人は<さらに飢えを感じ>、わたしを飲む人は<さらに渇きを覚える>」とあるからです(同24章21節)。しかし、とイエスは言います。「<わたしが>与えるパンと水」は、「今からいつまでもなくならない。」イエスの言葉(ロゴス)は、モーセ律法よりも、イスラエルの伝統的な知恵(ソフィア)よりも、さらにまさるのです。「ソフィア」(知恵)は女性名詞で、「ロゴス」(言葉)は男性名詞です。女性名詞から男性名詞への移行は、女性より男性が優るという意味ではありません。ヘレニズム世界にも共通する伝統的な「ソフィア」が、「ナザレのイエス」と同一視されることで、「ロゴス」へ変化したと見るほうが適切です(この過程にはフィロンの思想が影響しているのかもしれません)。このようにして、「マナ」が、モーセ律法とイスラエルの知恵を受け継ぎながら、「さらに優る」イエスの言葉へ移し替えられてくるのです。
【わたしは~である】「エゴー・エイミ」"I am" はすでにでてきましたが、ここでは、これに「命のパン」"the bread of life" が続きます。このように、イエスの「エゴー・エイミ」が暗喩"metaphor"を伴って表われる例は、ここから始まって、全部で七つあります。「世の光」(8章12節)/「門」(10章7と9節)/「善い羊飼い」(10章11と14節)/「よみがえり/復活」(11章25節)/「ぶどうの木」(15章1と5節)です。これらは、イエスの臨在を顕す「エゴー・エイミ」が、それだけでは、内容を決定することができない不思議な意義を秘めていることを意味します。したがって、「エゴー・エイミ」が、「わたしたちに対して働きかける」時に、それが現実にどのように働くのかを表現するための比喩です。「エゴー・エイミ」が比喩的な叙述を伴うのは、イエスの存在それ自体を顕すためというよりも、イエスが、わたしたちに<啓示される>際に起こる霊的な出来事を言い表わすものです〔ブルトマン前掲書〕。
 6章全体を通じて、パンは、「神の知恵」「神の言葉」であると解釈されていますが〔ブラウン『ヨハネ福音書』(1)〕、特に51節以下では、「パン」がイエスの肉体を指しています。このために、51節以下も「神の知恵」の継続であると見る説と、そこからは「聖餐」の意味で用いられているとする説とがあります。古代の教父たち、クレメンス、オリゲネス、エウセビオスたちは、全体を聖餐と解釈しました。宗教改革者たちは、このような聖餐説を退けました。20世紀になってからは、ヨハネ共同体が、ペトロ系の教会と「一致を図る」ために、このような聖餐論を挿入した(させられた)という見方も提示されました。このような解釈の論理だけを強調しすぎると、ヨハネ福音書の作者/編者の解釈の仕方と、伝えようとする真意とを読み誤るおそれがあります。この共同体の信仰とその霊性が、比較的小規模ながら、ペトロ系の「正統派」の教会と並んで、当時の教会全体に大きな影響を与えたのは、ヨハネ福音書の伝統的な手法と、これによって生じる霊的な深さと広がりがあったからだと考えられます。
【来る者】人々は、ここで、イエスの「言葉を聞いて」、これに耳を傾けることで、臨在するイエスからの「働きかけ」に応じたでしょうか? イエスが与える「物」のほうではなく、自分自身を与えてくださる「お方」だと気づいて、イエスのもとへ「来た」でしょうか? 「来る」とは、「呼び寄せられる」ことであり、自分たちのほうから「物事」を求めることよりも、「イエスとの交わり」へ導き入れられることです。続く「わたしを深く信じる」"believe in me" は、しるしだけに頼ることをせず、イエスの霊性それ自体を求める信じ方を指します。
[36]~[40]
しかし前にも言ったが、
あなたがたはわたしを見ているのに、
それでも信じない。
父がわたしにお与えになる人は皆、
わたしのもとへ来る。
だからわたしのもとに来る人を、
わたしは決して追い出すことをしない。
なぜなら、わたしが天から降ったのは、
自分の意志を行なうためではなく
わたしを遣わした方の御心のためだからである。
わたしを遣わした方の御心とは、このこと、
わたしに与えられた全員を一人も失うことなく、
終わりの日に復活させることである。
なぜなら、わたしの父の御心はこうである。
子を観て彼を信じる者が皆永遠の命を得ることと、
わたしがその人を終わりの日に復活させることである。
 
 ブルトマンは、その資料分析に基づいて、36~40節を41~46節の後に回して読んでいます。こうすると、35節の「命のパン」が、41節でのユダヤ人たちのつぶやきへとなめらかにつながり、46節の「神のもとから来た者だけが父を見た」とあるのと、36節の「わたしを見ているのに信じない」との関係が理解しやすくなるからでしょう〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。確かに、36節は、直前の35節の「命のパン」とはうまくつながらないように見えます。しかし、注意深く読むなら、36~40節の構成とその前後関係にも、福音書作者/編集者の真意を読み取ることができます。36~40節は、以下のように交差法によって構成されています〔ブラウン『ヨハネ福音書』(1)〕。
〔A〕見るけれども信じない(36節)。
〔B〕父が与えた者を追い出さない(37節)。
〔C〕わたしは天から降った(38節)。
〔B’〕父が与えた者を失わない(39節)。
〔A’〕観て信じる(40節)。
 これで見ると、中心の〔C〕に「わたしは天から降った」が置かれていて、それが、「父の御心」と密接に結びついているのが見えてきます。これもユダヤの伝統的な構成法で、交差法は、マタイ福音書でもしばしば用いられます。この方法によって、33~35節での「パンのしるし」と「命のパン」が、39~40節の「終末での復活」へつながります。続く41節から、ガリラヤの人たちの無知/無明に代わって、今度は、ユダヤ人たちの反対に遭(あ)います。しかし、そのことがさらに、永遠の命と聖餐の神秘へつながることになります。
[36]36節は、35節の「わたしを深く信じる」を受けていて、イエスが「天から降った命のパン」であると悟り、イエスを「深く信じる」よう諭しています。ところが、人々は、イエスが与えようとするものが、かつての「モーセのマナ」ではないこと、それは、イエスの父が、「今この時に」与えてくれるものであることが分からないのです。彼らは、イエスが与えるものが、自分たちが見て理解できる物で、イエス自身とは別の「なにか」だと思い込んでいるからです。
【わたしを見ているのに】「わたしを」が抜けているかなり有力な異読があります。これだと「あなたがたは見ているのに」となりますから、ここでは「パンのしるし」のことになります。しかし、ここでは、「しるし」から「わたし」へ目を向け変えるように言われているのですから、「わたし」がほんらいの読みなのか、後からの挿入なのか、どちらとも決めかねます〔新約原典テキスト批評〕。
[37]【父が与えるすべて】「すべて」は中性で、人間一般を集合的に表わしています。「与える」は、ここでは現在形ですが、39節では完了形です。なお、この節は、10章29節/18章9節をも参照してください。
【来る】「来る」(節前半の「エーコー」は「やって来る/来ている」で未来形。後半の「来る」は「エルコマイ」の現在分詞)は、「信じる」と一つになって繰り返されます。真理を求める者は「光に来ます」(3章26節)。「来る」ことによって与えられるのは、第1に「見る/見える」ことです(1章39節)。第2に「命」です(5章40節)。第3に「拒否されない」ことです(6章35節)。第4として、「来る道」もまたイエス自身にあることです(14章6節)。しかし、父が引き寄せなければ、だれも「来る」ことができないのです(6章44節)。
【追い出さない】これは強い否定ですが、「外に」でいっそう強められていて、マタイ8章12節/同22章13節の「外の暗闇に追い出す」と同じ終末の裁きのことです。37節は、「すべて」とあるように、人類全体を含む普遍性だけでなく、「来る者」(単数)とあるように、個人をも指しており、「父が与える」とあるように、予め救いが定められているという予定論 "predestination" をも示唆するなど、いろいろ議論の多いところです。しかし、全体か個人か、人の意志か神の定めかという二者択一を論議するのは、ここの本文の意図に沿うものではないでしょう。イエスが天から降ったのは、父から遣わされて父の御心を行なうためであること、それが「永遠の命」を人に与えるためであること、これを悟らせるのが作者の真意です。
[38]先の交差法によれば、この38節が、36~40節の中心に来ます。「天から降ってきた」は、33節の「天から降った神のパン」を受けています。今回の段落は、続く41~51節でさらに新たな展開を見せて、「天から降る」が、42節のユダヤ人の不平に始まり、50~51節で「天から降った永遠の命のパン」へと深められます。27節から38節へ、38節から51節へ、同じような旋律が姿を変えて変奏され深められながら、52節以下へ続くのです。
【父の御心を】ここをゲツセマネでのイエスの祈りと関連づける解釈があります(マルコ14章36節/ルカ22章42節)。ただし、共観福音書のゲツセマネにあたるのは、ヨハネ福音書では12章27節です。御子が、その最期に「父の栄光を顕す」その時が、今回の箇所でも示唆されているのでしょうか。
[39]~[40]38節を受けて、「わたしを遣わした方の御心」が繰り返されます。この「遣わした方の御心」とは、「わたしに与えた全員が一人も漏れることなく」、終末の時まで、イエスによって保たれることだと説明されます。先に「追い出す」とあったのが、ここでは「失う」(滅びる)と言い換えられます。その上で、「遣わした方の御心」が、「終わりの日に復活させる」ことだと語られます。「遣わした」とあるのは、父が御子に与えた使命のことです。これが40節で、再び「わたしの父の御心」と言い換えて表われます。「子を観て信じる」は、36節の「見ても信じない」と対応します。39節の「一人も失わない」という否定形が、40節では、「全員が永遠の命を得る」と肯定に言い換えられて繰り返されます。このようにして、27節以降で「マナ」と「パン」の表象を通じて語られてきたことが、終末へ結びつき、その出来事が、「<その人を>終わりの日に復活させる」ことであると繰り返されます。「終わりの日に復活させる」が、6章で4回繰り返されています(39節/40節/44節/54節/さらに11章24節/12章48節を参照)。
 36~40節を5章24~29節と読み比べてください。同じ事が書かれているようですが、よく読むと、5章では「現在すでに命が与えられている」ことが強く印象づけられ、これに対して今回の箇所では、終末の時に生じる復活の出来事のほうに強調が置かれているという印象を受けます。ただし、5章でも同様に、終末での善人と悪人を含む人類全体の裁きへの復活が語られています。
 ブルトマン以来、「終わりの日に復活させる」の繰り返しは、ヨハネ福音書の本来の「今の時に与えられる命」と首尾一貫しないと見なされてきました。また、後の6章51以下の聖餐に関する部分は、ヨハネ福音書の祭儀に対する批判的な姿勢から見て不自然だと言われました。このために、ヨハネ共同体が、ペトロ系の主流の教会の終末的な復活観と一致させるために、後からこれらの部分を挿入して編集し直したという見方がなされたのです。確かに40節では、「子を観て<彼を>信じる」と突然3人称に変わり、また、「わたしを信じる」の「わたし」が抜けている異読もありますから、これを挿入だと見ることができます。
 しかし、読み比べると分かるように、5章でも、将来の終末的な裁きが明示されているし、パンも単なる非物質的な「象徴」ではなく、現実に肉体を養う食べ物として扱われています。だから、「事実、これら(36~40節)の箇所は、ヨハネ自身の真正な思想を形成する部分であり、これ以外の見方で解釈する根拠がない」〔バレット『ヨハネ福音書』〕というのが適切でしょう。イエスの霊性が与える「永遠の命」は、わたしたちの現在の時にすでに働くのか、それとも「終わりの日」に初めて与えられるのか? 「ヨハネ福音書では、現在の所有か、未来の希望か、キリスト教の生命観をめぐるこの二つの相がみごとなバランスを保っています。どちらか一方をより重視している箇所はどこにも見あたりません」〔バレット前掲書〕。なお、ブルトマンによるヨハネ6章27~51節の再構成は、巻末の補遺編「錯簡説によるヨハネ福音書」(上)を参照してください。
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