33章 パンのしるしとユダヤ人
6章41〜59節
 ■6章
41ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、42こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」
43イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。
44わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。
45預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。
46父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。
47はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。
48わたしは命のパンである。
49あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。
50しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べるものは死なない。
51わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
52それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。
53イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。
54わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。
55わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。
56わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。
57生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。
58これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」
59これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである。
                     【講話】
                 
【注釈】
■イエス様の「肉」と「血」
 いよいよパンの話も大詰めにきました。これまでイエス様が語られたことをまとめますと、第1に、イエス様のパンは、霊のパンとして天から与えられるもので、このパンを食べる人には永遠の命が与えられる。第2に、このパンは、先祖が与えてくれたパン、食べてもまたお腹がすくし、体だけしか養わないパンに優るまことの食べ物で、人にとって何よりも大切なものを与えてくれることです。
 今回は、54節を中心にお話しします。ここは、今までと違って、「イエス様の肉を食べる」ことと、「イエス様の血を飲むこと」に重点が移ります。イエス様が告げておられる命のパンに与るにはどうしたらよいのか?これが語られます。
 最初に「食べる」がでてきます。これは、「じっくり味わう」「おいしいものをゆっくり噛んで食べる」ことです。おいしいものは、少しずつ噛みしめて味わいます。イエス様の御言葉も、よく分からないところは飛ばしておいて、分かるところ、美味しいところだけをゆっくりと、何度も何度も味わう、これがイエス様の御言葉を食べる秘訣です。
 イエス様は、パンのことを「わたしの肉」と言います。共観福音書では「わたしのからだ」です。人間の肉を食べるのは野蛮人のすることだ、これを聞いた人たちの中にはこう思って、「なんとひどいことを言う人だ」と文句を言ったとあります。しかし、ここで言う「肉」は、「肉体を具えた人間」のことです。食べたものがわたしたちの肉体の一部になるように、イエス様の御言葉を聞いて「じっくり味わう」と、イエス様の御言葉が、イエス様ご自身となって、自分の体内に溶け込んでくださる。御言葉を食べ続けるほどに、イエス様との交わりが深まるのです。
 「肉」には「からだ」にはない意味もあって、わたしたちが、心の弱い罪深い存在で、悪に支配されやすいことをも指します。「体の丈夫な人に医者は要らない。要るのは病気の人だ」とイエス様は言われました。イエス様は、弱い人のためにご自分の「肉」をお与えくださる。たとえて言えば、心臓の悪い人が健康な心臓を移植してもらうように、罪に強いイエス様の「肉」を「わたしたちの肉」としていただくのです。
 イエス様はまた、「わたしの血を飲む」とも言います。血は命そのものですから、イエス様の「血を飲む」とは、イエス様の体を流れる見えない命の働きをいただくことです。だから、「イエス様の霊性」とは、イエス様の霊と肉の両方を併せた命のことです。51節に「<わたしが>命のパンを与える」とあるのは「ご自分を与える」という意味です。ご自分を与えるのですから、イエス様は死ななければなりません。心臓を与えるためには、与える人は必ず死ぬのです。このように、「わたしの血」を飲むは、ご自分が死ぬことを表わします。これによって、わたしたちが「イエス様の命」をいただくためです。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、(だれであれ)永遠の命を(今の時にすでに)宿している」のです。
 イエス様が、死んでいなくなれば、わたしたちの内に宿ることができません。それができるのは、イエス様が復活されて、今も活きておられるからです。イエス様は、受難の十字架と、そこからの復活によって、「死」と「命」の両方を握られた。わたしたちは「死を克服する」ことができません。ところが、復活されたイエス様は、この世の死も命も超えたところにおられます。「この」イエス様と共にいる。それだけで十分なのです。
 復活したイエス様は、御霊として御臨在くださいます。14章以下で「パラクレートス」と呼ばれるのが、こういうイエス様のことです。「わたしが与える肉は、全世界の人が命を得るため」(51節)だとありますから、わたしたちには、例外なく、イエス様の命に与る道が開かれています。だから、イエス様の御霊のお働きを通じて、イエス様との「交わり」に入ることができるのです(「交わり」はギリシア語で「コイノーニア」)。「イエス様の肉をいただく」ことを通じて、わたしたちにイエス様の命が宿ると、その命は永遠に失われません。だから、「終わりの日に(わたしたちを)復活させる」とあるのです。
■御言葉を食べる
  人々は、イエス様が「天から降ってきた」と言われたことに躓きを覚えます。この辺から、イエス様を信じる者と信じない者との間に亀裂が生じます。イエス様が「神から遣わされている」ことは、人目に必ずしも明かでないからです。ガリラヤの人たちは、長い間イエス様を見てきました。ある人たちは、幼い頃からのイエス様を知っています。けれども、彼らの目の前にいる人は、今まで見知っていたイエス様とは違うのです。イエス様を通じて、その背後から、人の力を超える働きかけが起こるからです。
 イエス様は、「<わたしの父が>わたしを遣わした」と言われます。父がイエス様を<お遣わし>になったのは、「全世界のわたしたち」のためだとありますから、イエス様は、今もわたしたちに語っておられます。イエス様の御言葉に触れると、その人は神に触れます。神がその人に触れるならば、触れられた人は注意してください。今まで見知っていたはずの人とは違う方が、イエス様を通じて語っておられからです。
 聞いている人たちの中には、「彼は、ヨセフの息子だ」と言い、自分はその父母を知っているから、当然、「イエスのことは何もかも知っている」と思う者もいます。彼らは、そのイエスが「どうして、こんなことを言うのか」と不満と疑問を抱くのです(42節)。
 人が人に対して犯す最大の誤りは、自分はその人を「知っている」と思い込むことです。人を「裁く・判断する」行為ほど、裁く本人がそれとは気づかず、思い上がった「高ぶりの罪」を犯す場合はありません。イエス様は、彼らに「つぶやき合うのは止めなさい」と言われます。人が人を判断する場合、判断される側の人を超える存在の働きを「知る」ことが、どれほど難しいか、このことをイエス様は教えてくれます。
■ヨハネ福音書の聖餐
 古代から、飢饉や災害などに見舞われた場合に、共同体が執り行なう宗教的な祭儀には、必ず何らかの犠牲の供え物が必要でした。この供え物を表象するのが、今回の「パンとぶどう酒」です。神は、その御子であるイエス様をその「受肉」を通じて人間世界に遣わしてくださいました。ところが、この受肉の「肉」は、自らを犠牲として捧げるイエス様の「肉」だけでなく、その肉によって、罪赦されて贖われる人間の側の「肉」とも重ね合わされます。わたしたちがいただくイエス様の肉が、同時に、「弱さと罪性を宿す」わたしたち自身の「肉」にも働くからです。そうでなければ、わたしたちが「神の業」を行なうことができません。この意味で、聖餐のパンとぶどう酒は、キリストの「栄光の体」を象徴するだけでなく、その象徴性には、罪と死の中にいる「わたしたちの存在」も潜在するのです。53節の「人の子の肉」は、同時に、63節の無力な「わたしたちの肉」をも包含するのが分かります。
 だから、イエス様の肉と血を象徴するパンとぶどう酒は、<同時に>、これをいただくわたしたち人間の「肉と血」をも併せて象徴するのです。イエス様の御霊の御臨在によってわたしたちの不信仰が呑み込まれ、イエス様の肉の犠牲がもたらす赦しの恩寵によってわたしたちの罪性が照破され、御臨在の働きかけを受けて、わたしたちの無力な「肉」が活かされて働く。こういう受動的能動の働きかけがあって初めて、十全な贖いの祭儀が成し遂げられるのです。イエス様の「肉」とわたしたちの「肉」、この二つの相互作用によって聖餐の秘義が成り立つのです。
 ところが、まさにこの二重性の内に、聖餐の祭儀性に潜む罠が潜んでいます。イエス様の肉と血をいただく聖餐の聖性を宿す「肉」と、わたしたち人間の体という罪性を宿す「肉」と、聖餐は、この相反する二重性を具えています。イエス様の血と肉が、わたしたちを罪と死から救うことができるのは、聖餐の祭儀が、このように、「犠牲」と「贖い」の二重性を具えているからにほかなりません。実はここに、聖餐に潜む「罠」があります。人間の罪を赦して救う「イエス様の犠牲」の裏には、人間が己の罪性を容認する「人間臭い祭儀」へ転落する要因も潜んでいるからです。わたしたちはここに、「神(霊)の祭儀」から「人(肉)の祭儀」へ転じる危険性を見ることになります。
 ヨハネ福音書には、最後の晩餐において、共観福音書の聖餐制定にあたる場面が出てきません。その代わり、今回の6章に、イエス様の肉と血が、聖餐の表象として表われるのです。このような聖餐の扱いは、既成の正統派のキリスト教会に向けて、聖餐に潜む落とし穴への警告ではないでしょうか。なぜヨハネ福音書は、13章で、共観福音書にある聖餐を除去して、代わりに洗足の儀式を入れたのでしょうか? そこに、このような警告を読み取ることができるように思われます。
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