【注釈】
■6章の構成と形式
〔対話形式〕
 6章が、並行法とミドラシュの手法で叙述されていることはすでに指摘しました。41節からは、ガリラヤの群衆一般と、「ユダヤ人」とが分けられて、対話の相手が、群衆からユダヤ人に移ります。これによって、イエスとその批判者との緊張が深められてきます。
 6章全体の叙述を改めて検討すると、始めに五千人へのパンの奇跡が来て、水上歩行がこれに続きます。継いで25~70節では、物語形式から、イエスとその相手との対話形式に移行します。この部分は、25~27節/28~29節/30~33節/34~40節/41~51節/52~58節/60~65節/66~70節と、八つの対話で構成されています。これらの対話は、類似の用語で結ばれ並行しながら内容的につながっています。般若心経や浄土真宗の賛仏偈など、日本の仏典でも並行法が見られますが、宗教的な聖典の並行法は、現代の散文のように、論理的な思考を叙述するためのものではありません。「見つける」(25節)から「捜す」(26節)へ、「父である神」(27節)から「神の業」(28節)へ、「信じる」(29節)から「あなたを信じる」(30節)へ、「天からのパン」(31節)から「天からのパン」(32節)へと、ちょうど尻取りのように前の言葉を取り上げながら、対話が展開していきます。近年、ヨハネ福音書の対話形式が、ヘレニズム世界の、例えばプラトンの対話形式などと比較されるようになりました。
〔文献批評の視点から〕
 ヨハネ福音書の本文を文献批評によって分析し、これを現代の知的な考察に沿うように再構成したのがブルトマンです。彼は数多い文献批評家を代表する人で、ヨハネ福音書全体を彼独自の分析によって再構成しました。その再構成を見ると、前後のつながりが一貫していて分かりやすく、彼はこれに基づいて、鋭く深い知的な考察を加えています。彼の解釈の一端は注釈で度々引用してきた通りです。今回も彼は、41~51節と52~58節とを資料分析の視点から区別して、そこに歴史的な批評を加えています〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。
 ブルトマンの視点から見れば、ヨハネ福音書の叙述は、前後のつながりが不自然で、時には「拙劣な」〔前掲書〕編集も見受けられることになります。しかし、これを裏返しに見るなら、ヨハネ福音書の編集者は、自分の編集が「拙劣」だとは思わなかったことになりましょう。なぜでしょうか? 編集者は、ブルトマンの思考に沿う編集とは異なるなにか<別の編集原理>に準拠しているからです。この点が、ブルトマン以後に問われて、1940年代から現在(2013年)までの間に、今回の部分の解釈が大きく変わることになりました。特に52~58節の聖餐(サクラメント)に関する解釈にその変化を見ることができます。
〔ミドラシュの解釈法〕
 「ミドラシュ」は「探求」を意味しますが、これは捕囚期以後から紀元後200年頃まで、ユダヤ教で行なわれた聖書解釈の方法です。したがって、イエス自身もこの解釈法を知っており、1世紀末までに書かれ四福音書にもこの手法が反映しています〔ブラウン『ヨハネ福音書』(1)〕〔キーナー『ヨハネ福音書注解』(1)〕。イエスの頃には、聖書解釈に基づく説話は、この手法に沿っていて、そこに幾つかの特徴を見ることができます。
(1)先ず聖書(モーセ五書から)の引用が来ます。
(2)次に、その聖句の解釈が語られますが、説話は、通常同じ聖句に基づく解釈で終わります。と言っても、始めの解釈そのままではなく、それまでの説話の内容を締めくくる形で終わることになります。
(3)説話の中では、副題として、モーセ五書以外の預言書などからの引用が入ります。これは、説話をさらに発展させるためです。
(4)ミドラシュは、「わたしは~である」の形式をとりながら、律法と知恵がひとつにされた神顕現を表わそうとする手法です。
 6章にも、このようなミドラシュの説話形式を見ることができます。先ず、6章4節の「過越祭」は出エジプトを受けています。それからパンの奇跡が語られ、これが、31節以下の「荒れ野のマナ」(出エジプト記16章)への伏線になります。次いで水上歩行(出エジプト記の紅海の奇跡を思わせる)が来ます。30節で出エジプト記からの引用が来ます。31~35節で、引用の「モーセのパン」について、イエス独自の解釈が語られます。次に38~40節で、引用の「天から降る」ことについてのイエスの解釈が来ます。45節では、イザヤ書54章13節からの引用が入り込み、これについての説話が、それまでのパンの解釈をさらに発展させます。49節からは、出エジプト記の引用部分のパンを「食べる」ことについて語られます。「食べる」ことが、51~58節で、イエスの与えるパンが、彼の「肉」にほかならないことが告げられ、さらにイエスの「血を飲む」ことへつながります。
 このように見ると、6章の叙述は、ミドラシュ的に一貫していて、そこに、後からの「不自然な挿入」も「拙劣な」編集の跡も見ることができません。49~51節は、最初の「荒れ野のマンナ」に戻ることで、それまでの説話をまとめて締めくくっています。51~58節が後からの挿入であることは否定できませんが、たとえ追加だとしても、この編集は、それまでのミドラシュ的な解釈を損なうものでないのが分かります。
〔過越の説話の背景〕
 今回の箇所について、もう一つ興味深いことが指摘されています〔ブラウン『ヨハネ福音書』(1)〕。それは6章の出来事が、過越祭に近い頃だとあることです(4節)。イエスの頃のユダヤ教では、過越祭を挿む前後6週間に会堂で朗読すべき聖書朗読の日課表が指定されていました。日課表は3年単位で一巡するように定められていました。
第1年目:創世記1~8章。過越日に最も近い安息日には創世記2~3章。
第2年目:出エジプト記11~16章。過越日の4週後に同16章。
第3年目:民数記6~14章。過越日から2度目の安息日に民数記11章。
 これによれば、6章で引用されているのは第2年目の日課表の出エジプト記16章(荒れ野のマナ)にあたります。しかし注意して読むと、民数記11章(民のマナへの不満とうずらの肉)と創世記3章(楽園追放)など、それ以外の年の日課表も含まれているのに気がつきます。
 特に、創世記3章とヨハネ6章とのつながりが注目されます。知恵の樹の実を食べると「死ぬ」という神の警告(創世記3章3節)と「永遠に生きる食べ物」(6章50節)、人が命の樹からも食べて永遠に生きることへの神の警戒(創世記3章22節)と、世の人が永遠に生きるためにイエスが与えるパン(6章51節)、楽園から二人を追い出す神の命令(創世記3章22節)と、決して「追い出すことをしない」というイエスの約束(6章37節)などです。ただし、6章と日課表をあまり厳密に対応させようとするのは危険です。ヨハネ福音書の叙述は、ミドラシュの解釈法及び過越祭の聖書日課表を<反映させている>と言うほうが適切でしょう。6章と過越祭との関連は、次に述べる6章でのサクラメントの解釈においても大きな意味を帯びてきます。
〔51~58節の文献批評的な解釈〕
 51(b)~58節は、聖餐(サクラメント)と関連づけて解釈されています。文献批評的に見ると、51節(b)の「肉」の意味と63節の「肉」は、その意味がやや異なっています。52節の「議論する」も、43節の「不平を言う」とは違った動詞です。ブルトマンは、この部分にその前後と異なる資料が入り込んでいると見て、ここは、前後のユダヤ人たちあるいは弟子たちとイエスの対話から「浮き上がっている」と見ています。彼によれば、本来は、51節(a)から直接59節へ続いていたことになり、したがって、51(b)~58節は、ヨハネ福音書を共観福音書系の教会の信仰と一致させるために、後の編集者によって加えられたことになります〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。さらにここで語られている聖餐理解は、北シリアのアンテオキア教会の主教イグナティウスのそれと類似していて、聖餐それ自体が「不死の命の薬」として理解されていると指摘しています〔前掲書〕。したがって、ここには、シリア的・イグナティウス的な型の聖餐説話が挿入されていると見るのです〔シュルツ『ヨハネによる福音書』NTD新約聖書註解〕。
 しかし、ブルトマンたちのこの見解は、以後必ずしもそのまま受け入れられませんでした。51~58節が、教会の聖餐に関わるのはその通りです。しかし、それが、イグナティウスの唱える「不死の薬」として扱われているというブルトマンの解釈は大いに疑問です。この部分は、内容的に見れば、直前の35~50節よりも、むしろ25~34節に近いことが指摘されています(「パンを与える」「人の子」など)〔ブラウン『ヨハネ福音書』(1)〕。その上、「文体的に」比較するなら、35~50節と51~58節は区別できません〔キーナー『ヨハネ福音書注解』(1)〕。後者にも、「アーメン、アーメン」「永遠の命」「食べさせる」「とどまる」など、ヨハネ福音書特有の表現が用いられているからです。51~58節は、「真正の」ヨハネ福音書の文体であることが広く認められています。だから、この部分がたとえ追加の編集であったとしても、ごく初期の段階で行なわれたと見るべきであり、しかも、この部分の聖餐理解は、その前のパン問答から分離されるべきではなく、逆に50節までに潜在しているパンの聖餐的な意義が、この部分で明確に<引き出されている>と見るべきです〔ブラウン前掲書〕。
 現在では、ブルトマンに始まる文献批評的な解釈は、そのまま受け入れられていません。彼は、ヨハネ福音書を文献的に批評することを通じて、ヨハネ共同体がこれを著わした時点での歴史的な状況を明らかにし、その歴史的な視座から6章を解釈しようとしました。彼の方法は、現代のわたしたちに受け入れやすい知的な洞察を与えてくれますが、この解釈法は、ヨハネ福音書の本文が、いったいどのような手法で書かれているのか?という本文それ自体に潜む「叙述の形式」を必ずしも適切に評価しなかったのです。このことは、次の聖餐理解の問題にも関係してきます。
■6章と聖餐
〔肉を食べ血を飲む〕
 51節以下で語られる主題は、すでに31節の「モーセは天からのパンを彼らに与えて食べさせた」に提示されています。さらに、32~50節では、「天からのパン」とはなにかが説明され、これを受けて、51節以下は、ミドラシュの手法で、31節の「食べる/食べさせる」を発展的に解釈しています。ここは実質的に見れば、ヨハネ福音書の聖餐の制定に相当すると言えます。
 共観福音書では、聖餐の制定のイエスの言葉は、「これ(パン)はわたしのからだ(ソーマ)」「これはわたしの契約の血、多くの人のために流す」(マルコ14章24節参照)です。ヨハネ6章51節のほうは、「わたしが与えるパンはわたし自身の肉(サルクス)である、世の命のための」とあり、54節では「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は永遠の命を持つ」とあります。これで分かるように、共観福音書とヨハネ福音書の違いは、「からだ」(ソーマ)と「肉」(サルクス)にありますが、イエスが実際に語ったアラム語は「肉/からだ」両方の意味を含みます。
 ところで、「人肉を食べる/食らう」ことは、旧約時代のユダヤ人の伝統では、敵が、その相手に対して抱く激しい憎悪の表現ですから、悪魔の業だと見なされたほどです。「血を飲む」こともユダヤ人の最も忌み嫌う野蛮な行為だと見なされてきました(創世記9章4節/レビ記3章17節など)。パレスチナに限らず、イエスの頃のヘレニズム世界でも、人肉を食べる行為は最も野蛮な慣習と見なされましたから、すでにヨハネ共同体の頃から、キリスト教徒の行なう聖餐(主の晩餐)が、あらぬ誤解を招くことになり、これが、2世紀には、キリスト教徒迫害の理由の一つにされたほどです〔キーナー前掲書〕。
 ここで注目すべきは、詩編27篇2節に、「わたしをさいなむ者が迫り<わたしの肉を食いつくそう>とするが、わたしを苦しめるその敵こそ、かえってよろめき倒れる」とあることです。ここでは、無実な者が、その敵によって迫害され苦しめられる様が描かれていて、ヤハウェが、罪のない者を苦しめた敵対者に復讐する際には、「その剣は肉を食らって飽き、血を滴らす」(エレミヤ書46章10節)のです。だから、「肉を食らい血を飲む」ことは、「無実な者への迫害者の暴虐」を意味していて、同時に、その暴虐に対する主からの復讐を指していることが分かります。
〔聖餐の制定〕
 わたしたちは、ここで、イエスの最後の晩餐での聖餐制定を改めて考察する必要がありそうです。イエスが、「これはわたしの肉/からだ」「これはわたしの血」と弟子たちに告げて、パンとぶどう酒を与えたのは、通常、過越の小羊の肉と血に関連づけて解釈されています。しかし、弟子たちの側にすれば、それどころでなく、むしろ、最も恐ろしい敵に殺される「イエスの死」を告げる言葉だと受け取られたことでしょう。聖餐は、「多くの人のための主イエスの死」を告げ知らせるものだからです(第一コリント11章26節)。だから弟子たちは、先ず「このことを」悟り、その上で、イエスの肉と血が、犠牲として献げられる過越の小羊の「肉と血」を象徴していることを洞察したのでしょう。
 この考察からすれば、ヨハネ福音書の今回の「肉を食べる」が、共観福音書の聖餐制定の記事に比べて、敵対者によるイエスの死をいっそう明確に告知していることが見えてきます。これは、共観福音書で語られるフィリポ・カイサリアでのイエスの受難予告にほかなりません。6章4節の過越祭に始まり、モーセを通して与えられたマナから、過越の小羊として屠られるイエスの「肉と血」にいたる一連の過程が、このようにして明らかにされます。ヨハネ福音書が語る敵対者によるイエスの死は、おそらく、その背後に、ヨハネ共同体が直面していたパレスチナあるいは小アジアでのユダヤ人からの敵視があったことも推定できます。
〔イエスの言葉にさかのぼるか?〕
 イエスの「肉と血」が、イエスの間近な死だけでなく、「犠牲の小羊の肉と血」を象徴することが、弟子たちにどこまで理解されたでしょうか? ユダヤ教の過越祭のぶどう酒が「イエスの血」であること、これを弟子たちは、はたして<最後の晩餐の時点で>受け入れることができたでしょうか? このことは、イエス復活以後になって初めて、弟子たちに啓示されたというのが現在の一般的な見方です。しかし、<もしも>弟子たちが、最後の晩餐の時点で、共観福音書の晩餐の記事が証しするように、「イエスの血を飲む」ことが御国の契約であるとすでに理解できたとすれば、生前のイエスが、<最後の晩餐までの間に>、何らかの形で、自分の受難の意義を弟子たちに伝えていたと考えるほかありません。
 ヨハネ福音書では、イエスの伝道が三つの過越祭にわたりますが、その中で、今回の6章だけは、過越祭にエルサレムへは上らず、ガリラヤで過ごしたことになります。だとすれば、6章59節が証しするように、その過越祭の折に、イエスがガリラヤの会堂で、犠牲の小羊の<肉を食べ血を飲む>ことについて語ったとも想定できましょう。ミドラシュの解釈法と過越祭の聖書日課表との関連から判断すると、今回の6章35~50節には、イエスが、カファルナウムの会堂で、過越祭に実際に語った説話の内容に起源する可能性があります〔ブラウン前掲書〕。
■6章
[41]【ユダヤ人たち】ここの「ユダヤ人」は、次の節から見ると、明らかにガリラヤの人たちです。彼らは、ガリラヤの会堂の指導者たちですから、エルサレムから派遣された「ユダヤ人」ではありません。もっとも、小アジアのエフェソから見れば、ガリラヤのユダヤも含めてパレスチナに住む人たち全体が「ユダヤ人」に入ることになります。
【つぶやく】原語は「押し殺した声でつぶやく/ひそひそ話をする」ですが、七十人訳では、このギリシア語が、恩知らずの反抗あるいは神に対する不平や疑いを意味します(出エジプト16章2節/同7節/第一コリント10章10節)。彼らは、32~33節のイエスの言葉だけでなく、むしろ、イエス自身について不信感を抱いたのです。
[42]【これはヨセフの息子】「これは」には、やや軽蔑の意味がこめられています。これに似た「つまずき」は、マルコ6章3節=マタイ13章55節=ルカ4章22節にでています。マタイ=マルコ福音書には、「大工の息子」と母マリアと兄弟たちとあり、ルカ福音書では、「ヨセフの息子」です。だから、ヨハネ福音書はルカ福音書に近いでしょう。しかし「母」もでてきますから、共観福音書と共通する初期の伝承を受け継いでいると考えられます。なお「母」が抜けている異読がありますが、これはルカ福音書の「ヨセフの息子」に合わせるために後から省かれたのかもしれません。ユダヤ人の反論は、「わたしは天から降ったパンである」に向けられています。ユダヤ人にとって、これがつまずきの原因なのです。神の啓示が、この世の歴史において、素性の知れない一人の人物を通じて顕れること、これがつまずきの根本原因です。
 なお「ヨセフの息子」とあるのは、ヨハネ福音書の作者が、処女降誕伝承を知らなかったからではなく(1章13節を参照)、逆に知っていて、降誕伝承を否定する「ユダヤ人」への皮肉をこめて、意図的に彼らの口から「ヨセフの息子」を語らせることで、「天から降る方」と対照させているという見方があります(7章42節をも参照)〔バレット『ヨハネ福音書』〕。処女降誕伝承は、共観福音書以前からマタイ福音書とルカ福音書に別個に伝承されていたと考えられますから、ヨハネ共同体にも知られていたでしょう〔キーナー前掲書〕。
【どうして今】「今」(ヌーン)を「それでは」(ウーン)と読んで、「それならどうして?」という異読があります。「ウーン」はヨハネ福音書にしばしば用いられますから、ここでもつながりをなめらかにするために置き換えられたのでしょう〔新約原典テキスト批評〕。
[43]~[44]【引き寄せる】ラビの文献では、この言い方は、人を「律法へ導く」こと、とりわけ異邦人をユダヤ教へ改宗させることによって、神からの啓示を分かち合うことを指します。44節は、「律法」でなく「イエスのもとへ来る」ことです。しかもそれは、「父が引き寄せる」ことを通じてのみ生じるのです(6章65節)。イエスが「永遠の命を与えるパン」であることは、人が己の思考や判断で到達できる領域のことではなく、御子イエスが「上げられる」ことを通じて初めて可能になるからです(12章32節)。
 「引き寄せる」は、一般に「引かれてくる」側からの抵抗を意味します。だから、イエスの言葉を<聞きに来て>「イエスを信じた」のは、決して自分の意志だけではなかったはずです。自分の意志とは違う「ほかの」原因もわたしたちをイエスのもとへ導いたのです。その原因がなんであれ、わたしたちの気持ちに「逆らいつつ」も、わたしたちを連れてきたのが「イエス様の父」の御心です。
【終わりの日に】5章28~29節の注釈を参照。6章40節と同じ言い方がここでも繰り返されています。40節では、イエスを信じることによって「今の時に」与えられる永遠の命と、終末での復活とが同時に語られています(5章24節を参照)。
[45]~[46]すでに43~44節で、「つぶやく」ことから「父が引き寄せる」ことへ移り、続いて「わたしのもとへ来る」とあり、「終わりの日の復活」が語られました。
【預言者の書に】45節では、ミドラシュの手法にならって、預言者たちからの引用が入り込みます。これによって、主題がいっそう拡大し新たな展開を見せることになります。「預言者の書」は複数ですが、これは過越祭などの説話で慣用的に「預言者の諸書」として引用されていたからです。引用はイザヤ54章13節からですが、辞義通りではなく、ヘブライ語原典とも七十人訳とも正確に同じではありません。イザヤ書54章は、第四の「僕の歌」に続いて、主に贖われたイスラエルの聖なる都(エルサレム)が、新たに啓示される箇所です。ここは、ヨハネ黙示録21章9節以下で、終末に顕現する「聖なる都」にも通じています。45節からは、メシア到来の新たな段階に入ることになります。
【神に教えられる】ヘブライ語原典は「あなたの息子たちは皆ヤハウェに教えられる」で、七十人訳は「そしてわたしはあなたの息子たちすべてが神に教えられるようにする」です。ただし、説話では、聖書がしばしば自由に引用されています。「神に教えられる」はエレミヤ書31章31~34節をも反映していて、「来たるべき時」に、主は「わたしの律法を彼ら(イスラエル)の胸に授け、その心に刻む」ことで、主を知ることを「教える」とあります。これは、出エジプトの時の契約よりもさらにまさった新たな契約です。この箇所も、過越祭の朗読に関連します。
【わたしのもとへ来る】イザヤ書やエレミヤ書の預言通りに「神に教えられた者」は、だれでもイエスのもとへ導かれます。「学んだ者は皆」とあるのは、神に教えられ、その教えに導かれてイエスのもとへ来る道は、イスラエルの民に限らず、<すべての人に>開かれているからです。彼らは、神に引き寄せられる者であり、その人は「自分の判断を放棄して、父に聞き学ぶ者」〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕です。この箇所に「父」が三度繰り返されますが、「父なる神」とは「イエスの父」のことだと悟ることです。
【父を見た者】46節は1章18節を受けています。「神に教えられる」は、いわゆる「カミがかり」的な体験や霊験を指すとも受け取ることができますが、そうではなく、そのような神秘体験をも含めて、<イエスのもとへ導かれる>ことを指しています。「神の下から降った者」はイエスだけであり、したがって彼だけが「父を観た」のです。神に教えられてイエスのもとに来る→イエスを通して神を観る→神を観るためには父に引き寄せられなければならない。この過程は循環的です。それは人間的な意欲ではなく、イエスによって、と言うよりは、神によって始まるからです(1章13節)〔バレット『ヨハネ福音書』〕。しかも、「学んだものは全員」とあるから、人は「イエスに出会う」ことを通じて、だれでも「父に会う」ことができるのです。
[47]~[51]
47アーメン、アーメン、わたしはあなたがたに言う。
信じる者は永遠の命を持つ。
48わたしは命のパンである。
49あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが死んだ。
50しかし、これは天から降って来たパンである。
これを食べる者はだれも死なない。
51わたしは、天から降って来た生きたパンである。
このパンを食べるなら、その人は永遠に生きる。
わたしが与えるパンは、
世を生かすためのわたしの肉である。
 
 26~27節で、イエスは、「いつまでもなくならない永遠の命にいたる食べ物を求める」ように語りました。32~33節では、モーセが与えたパンではなく、イエスが与えるパンこそまことであり、世に命を与えるとありました。35節では、「わたしが命のパンである」と告げて、初めて「パン」の譬えから、「イエス自身を求め信じる」ことへ聴く者の注意を向けました。イエスこそ、「天から降った方」であり、この「御子を信じることこそ父の御心」だからです。そして今、47~51節で、これまで語られてきたことすべてが、まとめて繰り返されます。その締めくくりに、イエスが与えるのは「世を活かすためのイエスの肉」であることが明言されます。ここは単なる繰り返しではありません。まとめて繰り返すことによって、そこから新しい主題が導入されるのです。この主題が58節まで続きます〔バレット『ヨハネ福音書』〕。
[47]【永遠の命を持つ】この部分は5章24節の注釈を参照してください。「パンを食べている間に、自分の<死滅性>にもかかわらず、不死を受け取るというのが本意ではない。死と不死の対立の彼岸にある積極的かつ肯定的なもの、神が<生と死の主>としてそれらの優越性の内におられるそのことが、私たちの命の源である。<死>も<永遠>も、このイエスと共にあるうちにどうでも良くなる。主が、この両方の主であること、それで十分なのである」〔バルト『ヨハネ福音書』〕。
[49]【あなたたちの先祖】イエスは、同じユダヤ人たちに「あなたたちの」と呼びかけています。「あなたたちの」先祖と呼ぶことによって、自分の父が、どの民族にも制限されない方であることを言い表わすのです。ここには、1世紀末のヨハネ共同体と当時のユダヤ教ファリサイ派との厳しい対立が背景にあると思われます(8章17節/同37節を参照)。ユダヤ教とキリスト教との分離がすでに始まっていたことを示すのでしょう。
[50]【だれも死なない】49節の「先祖が死んだ」は身体的な死であり、50節の「死なない」は霊的な死に関連していることに注意してください。
【天から降ったパン】「これは主が、食べるためにあなたたちに与えたパン」(出エジプト16章15節の七十人訳)と同じ言い方を用いながら、これを言い換えています。ユダヤ教では、この「パン」が、「神の知恵」あるいは「律法」を意味すると解釈されました。なお50節の「(このパンを)食べる」は、51節でも繰り返されて、52節以下を導入する大事な役割をしています。
[51]【生きたパン】35節/48節で「命のパン」"the bread of life"とあるのが、ここでは定冠詞二つを伴って「生きているパン」"the bread the living"です。今回を含めて3箇所とも、パンを「イエス自身」と関連づけている点で変わりませんが、今回の場合は、「今現に働いて命を授けている」事態を強く意識させます。「生きている水」"living water" (4章10節/7章38節)、あるいは「命の水」"the water of life" (ヨハネ黙示録21章6節)と比較してください。ただし、イエスは「生きている水」を「与える」とは言いますが、「わたしは生きた水である」とは言いません。
【世を生かすための】原文は「世の命のために」で、この言い方は、新約聖書でここだけです。イエス自身が「世を生かすための」犠牲の献げ物であることを指すのでしょう(3章16節)。ヨハネ福音書の「世」は、人間世界を指しますが、とりわけ、イエスに敵対する「ユダヤ人」の指導層を指す場合があります(15章18~19節/16章20節/同33節)。ここは、3章16節と同様に、イエスに敵対する「世」に対する愛を表わすものでしょう。「わたしが与える」には、「自分の死において与える」ことと、「命のパンとして与える」ことの二重の意味がこめられています。イエスは、単に世の罪を背負うだけでなく、罪を取り除く者(1章29節)として「自分の肉を与える」のです〔バルト『ヨハネ福音書』〕。
【わたしの肉】「肉と血/血肉」はほんらい人間的な有り様を表わす言葉です(「肉と血=人間に相談しなかった」ガラテヤ1章16節)。「肉」はパウロ書簡にもこの意味でしばしば用いられていますが、パウロは「罪の肉」(ローマ8章3節)という言い方をしますから、この点で、ヨハネ福音書の用法とやや違っています。ただし「霊」と「肉」という分け方はどちらにも共通します(ヨハネ6章63節/ローマ8章5節)。
 先に指摘したように、この段落の「肉と血」は、聖餐のサクラメントとして、これを実際に食べる人によみがえりを保証する「不死の薬」であるという解釈があります〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。「しかし、彼(ヨハネ福音書の作者)であれ、51~58節の編集者であれ、パンとぶどう酒が不死を授与する半ば魔術的な薬だと理解するのは根本的な誤りです。ヨハネ福音書の作者が、最後の晩餐から離れた箇所に聖餐を表わす箇所を置いているのは、まさにその正反対であることを示すものです」〔バレット『ヨハネ福音書』〕。マルコ14章22節の「これはわたしの体」は、後の教会の聖餐用語であって、この51節の「わたしの肉」という言い方のほうが、最後の晩餐でイエスが語った実際の言葉に近く〔バレット前掲書〕、「わたしの肉を世の命のために与える」は、直接的には、イエスが受けるであろう「暴力的な死」を示唆するものです〔キーナー『ヨハネ福音書注解』(1)〕。
[52]【議論し始めた】原語は「激しく論争する」こと。ヨハネ福音書において、「論争」は、真理を明らかにする働きをしますが、ここでは、53節以下のイエスの言葉を引き出す役割をしています。モーセとイエスを比較する論争から察するに、ヨハネ共同体は、ユダヤ教ファリサイ派からの厳しい批判にさらされています。また、この共同体は、その終末観において、ペトロ系のキリスト教会とも異なる立場を保持していました。ここでの「ユダヤ人」の「議論」は、イエスに対して否定的な意味を帯びていますが、「論議」それ自体はヨハネ福音書に一貫していて、自分たちの信仰を周囲の諸宗派に対して守ろうとするヨハネ共同体の姿勢もそこに読み取ることができます。
【どうして】「どのようにして食べさせることができるのか?」は、軽蔑を含む言い方です。「ユダヤ人」は、イエスが言う「肉を食べる」という言葉の意味を理解することが全くできません。「肉」には「受肉」(1章14節)の意味もこめられているからでしょう。「どうして」は、3章9節のニコデモの問いかけを思い出させます。そこでは、「新たに生まれる」ことが語られ、ここでは「イエスの命に与る交わり」が語られます。
【自分の肉を食べさせる】「自分の」が抜けている異読があります。また「食べさせる」を「与える」としている異読があります。
 
53イエスは彼らに言われた。
「アーメン、アーメン、わたしはあなたたちたに言う。
人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、
あなたたちの内に命はない。
54わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を持ち、
わたしはその人を終わりの日に復活させる。
55わたしの肉はまことの食べ物、
わたしの血はまことの飲み物だからである。
56わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、
わたしの内におり、
    わたしもまた、いつもその人の内にいる。
   57生ける父がわたしを遣わし、
わたしもまた父によって生きるように、
わたしを食べる者もまた
わたしによって生きる。
58これは天から降って来たパンである。
先祖が食べても死んだものではない。
このパンを食べる者は永遠に生きる。」
 
[53]53節は、直前の51節(ユダヤ人の質問)を受けて、ユダヤ人の問いかけに答える形をとっています。ただし、51節では肯定文で語っていますが、53節では問いかけに対して「~しないならば~しない」と否定文で答えています。今回の段落で「人の子」と3人称がでてくるのはここだけです。ヨハネ福音書の「人の子」は地上のイエスを表わしますから、「人の子の肉とその血」は、はっきり「一人の生身の人間」を指します。しかも、その「血肉」は、ヘブライ語の意味するとおり、「その人の全存在」のことです。それは、まぎれもなく「一人の人間」ですが、同時に「天から降った」(51節)人であり、預言者によって証しされていた人であり(45節)、彼を信じる者には天の父から永遠の命が授与される、そのような「受肉した」(1章14節)人の子です。
 この人の子の「肉」に過越の犠牲の小羊を結びつけ、その「血」に出エジプト記24章8節のこれも過越の小羊の「契約の血」を結びつけて、これら二つを最後の晩餐でのパンとぶどう酒と関連づけて解釈しています。だから、「肉」も「血」も<直接的には>人の子イエスの「死」と、このために捧げられる彼の「命」そのものである「血」のことです。その肉を食べ、その血を飲むという生々しい表現によって、十字架を通じて献げられた人の子を信じる者だけが(3章14~15節)、人の子を生かした「命」に与ることができるのです。
 しかし、ここで強調されているのは、ユダヤ人の目の前にいる「人の子」であり、ヨハネ福音書では、この人の子が、わざわざ最後の晩餐の時からはずされて、今回のガリラヤでのパンの奇跡に続いています。だから、「肉と血」を<直接に>教会で行なわれていた聖餐と結びつけるのは適切でないでしょう〔キーナー『ヨハネ福音書注解』(1)〕。古代の教父たちもこの点では一致していて、この箇所全体を教会の聖餐よりもイエス・キリストとの霊的な交わりに重きをおいて解釈しました〔キーナー前掲書〕。おそらく、ここのイエスの「血肉」には、「キリスト」はほんらい人間ではなく、霊的な存在がイエスの姿をまとって地上に顕現しただけで、十字架にかけられたのは人間イエスのほうであって、本来のキリストはそれ以前に天に戻っているとする仮現説に向けられた反論があるのでしょう。
[54]54節は、52~58節の核となるところです。51節で肯定的に語られ、53節で「人の子」と3人称の否定形で語られたことが、54節で再び肯定に戻り、しかも「わたしの」を繰り返すことで、これまでの「天から降ったパン」も「人の子の肉と血」も「わたし自身」のことであることを強調しています。しかも、ここで「食べる」に用いられている原語「トローゴー」は、それまでの「ファゴー」と異なっていて、「噛みしめて味わい食べる」ことを意味し、この語が、これ以後4回繰り返されます。ヨハネは、ユダの裏切りを告げる13章18節で、詩編41篇10節を引用していますが、そこでも七十人訳のギリシア語動詞を「トローゴー」に変えていますから、この54節の「食べる」も最期の晩餐につながる聖餐を意味していることが分かります。だから、ヨハネ福音書が、聖餐を「実際に食べること」に最も近づけるのはこの54節です〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。だからと言って、聖餐を不死の薬であるパンとぶどう酒という呪術的な意味に受け取ることも、逆に、聖餐の物質的な意義を否定していると「霊的に」解釈することも、ここ54節へいたるまでの注意深い叙述の展開を見てきた読者には、そのどちらも適切でないことが分かります。ただ一つ言えることは、「わたし=ナザレのイエス」の「肉を噛みしめ」「血を飲む」という生々し表現で、聖餐が指し示す「イエスの死」を指し示し、そのことが、54節後半と次の節において、イエスを信じるとは「未曾有の親密さで他者の内にいることであり、イエスの命によって生きること」〔スローヤン『ヨハネ福音書』〕を言い表わしていることです。
【終わりの日に復活】すでに指摘したとおり、ヨハネ福音書の終末観は、世界の終わりにイエスの救いが顕現すると言うより、すでに現在において、信じる者一人一人を通して、イエスの御霊にある終末が働いているというものです。だから54節後半で「わたし」の肉と血に与る者は、「だれでも永遠の命を<持っている>」と3人称単数現在形で確認されます(51節の「永遠に生きるであろう」は未来形)。このためか、続く「終わりの日に復活させる」が、この福音書の終末観と「全く異なる」と指摘されていました〔ブルトマン前掲書〕。この疑問に対する答えもさまざまで、ヨハネ共同体が「正統派の」ペトロ系の教会との調和を図るためにこれらを挿入することで修正したという説もあり、反仮現説を意図していると見る説もあります〔ブラウン『ヨハネ福音書』(1)〕。「終わりの日に復活させる」は、すでに6章で3回(どれも未来形)繰り返されてきました(39節/40節/44節)。しかし、5章24~25節以降の叙述を見るなら、「イエスの肉と血に与って生きる」ことが、信じる者に、現在すでに成就しつつあること、同時に、その命が、永続することで終末的な完成にいたることが分かります。この句は、6章ではここが最期ですから、「終わりの日に復活する」ことの意味もここで完結します。
[55]モーセが与えるパンから始まった問答は、イエスが与える「まことの」パンになり、それが「まことの食べ物」になり、それが「人の子イエス」自身の全存在を信じ受け入れることで「天から降る永遠の命」に与ることになる。これを確認するために「まことの聖餐」に与るのです。
【まことの】「わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物」〔新共同訳〕と訳されていますが、形容詞「まことの」の原語は「アレーセース」です。この意味での「アレーセース」は、旧約のモーセの与えたマナと比較すること、あるいは天からのパンと地上のパンとを比較対照することができます。ここに、天からの真理のパンと、地上の見せかけだけのパンという二元論が入り込む余地があります〔ブルトマン前掲書『ヨハネの福音書』〕。ただし、この意味での「真理の」は、ヨハネ福音書では「アレーシノス」(1章9節「真理の光」)が用いられることが多いようです。このために、ここを副詞の「アレーソース」(ほんとうに/間違いなく)と読む異読があります。「アレセース」が読みとして古いと考えられますが、内容的には「アレーソース」のほうが適切だと言えます〔新約原典テキスト批評〕。54節で語られたことが「ほんとうである」こと、それ以外の解釈がありえないこと、これを55節で改めて確認していると理解して、後者の読みを採る説が多いようです〔ブラウン『ヨハネ福音書』(1)〕〔ブルトマン前掲書〕〔バレット『ヨハネ福音書』〕。
[56]イエスの肉を食べ、血を飲む行為が、聖餐の即物的な「効用」であるという誤解を防ぐために、ここでその意味をはっきりと確認させています。ここでは、「食べることと飲むこと」それ自体に強調点が置かれるのではなくて、聖餐の行為を通じて「イエスの死と復活」に与り、そうすることで「イエスとの親密な交わり」に入ることが求められているのです(15章1~7節)。
 この節には以下のように長い追加を持つ異読(Codex Bezae)があります。
「わたしに父がいるように、わたしもまた父にいる。アーメン、アーメン、わたしはあなたがたに言う。もしあなたがたが人の子のからだを永遠のパンとして受けないならば、あなたたちに彼にある命はない。」
 この部分は、56節に後から加えられた説話から出たものでしょう〔新約原典テキスト批評〕。神(父)とイエスの交わりと、人間とイエスの交わりとは、まったく同じではありません。ここで注意しなければならないのは、イエスは父なる神と同質ですが、人間はイエスと同質ではないことです。だから人とイエスとの「交わり」(communion)は、父とイエスとの同一性(union)とは異なります。人とイエスとの交わりは、「本質が相互に異なったままでの交わり」を意味するからです。
[57]【生きておられる父】「生ける父」"the living Father" は新約聖書中ここだけです。51節に「生きているパン」とあり、それが53節で「人の子の肉」となり、55節で「まことの食べ物」になり、56節では「わたしの内にいる」ことへつながりました。そして今、57節で「生きている父にあるわたし」が出てきます。「生きている父」にある「生きているパン(わたし)」を食べることで、人もまた「父の命に与る」ようになるのです。人は、イエスを通して初めて、父である神の命を生きるようになるというのがヨハネ福音書のメッセージです。これはすでに5章25~26節で言われていることと同じです(第一ヨハネ4章9節)。
 ここでは、神と人間が、イエスを通して成就する「交わり」において、最も親しい関係に入ることが啓示されています。「人は、キリストを信じる時には、同時にキリストにおいて、キリストを通して信じている。キリストは、信仰の対象であるし主体でもある。これが<信仰を食する>ことの結果であり、意味である」〔バルト『ヨハネ福音書』〕。これこそ、ヨハネ福音書が伝えようとしている聖餐の本質的な意味です。
【わたしによって生きる】56節で言われていることが、ここで「父なる神」と結びつけられます。しかし「生ける神」は、すでに旧約聖書で言われていたことです(申命記5章26節/ヨシュア記3章10節/サムエル記上17章26節/列王記下19章4節など)。同様に、イエスの時代のユダヤ教においても、神の言葉(ロゴス)が人間に命を与えるという信仰が存在していました。だから、「人はパンだけで生きるのではなく、主の口からでる言葉で生きる」(申命記8章3節)に基づいて、言(ロゴス)が肉となったイエス・キリストこそ命のパンであるという理解が生じるのです。ヨハネ福音書で語られる「ロゴスの命」は、直接に申命記と結びつくよりも、箴言や知恵の書や『第一エノク書』など、ユダヤの知恵文学や黙示文学を通じています〔『新共同訳:新約聖書注解』(Ⅰ)〕。ただし、ヨハネ福音書で「知恵」(ソフィア)という言葉は用いられていません。
[58]ここで先祖が食べたマナにもう一度戻り、32~51節までのイエスの言葉全体が、圧縮してまとめられています。注意しなければならないのは、モーセ律法とイエスの命とが比較対照されていることです(1章17節)。このモーセとイエスのタイポロジー(予型と対型の関係)は、7章へ続くことになります。
 以上見てきたように、ヨハネ福音書では、聖餐は決して軽く扱われていません。むしろ、ヨハネ共同体の当時の教会の一般的な傾向として、聖餐が、それ自体で不死を授与する効能的な意味を帯びていたことへの反省として、聖餐を最期の晩餐からはずして、この6章に置くことで、これの重要性を改めて認識させ、同時に、聖餐のパンとぶどう酒が現わそうとする意義そのものを霊的に深めて解釈し直そうとしているのです。
[59]【カファルナウムウ会堂】この会堂は、ルカ7章5節によれば、百卒長によって建てられたものですが、イエスが最初の説教をした所です(マルコ1章21節)。先に解説の箇所で述べたように、資料的に見ると、この節は6章24節につながるという見方もあります。なお「安息日に(語った)」と追加のある異読があります。
                   戻る