6章60〜71節
■6章
60ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」
61イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。
62それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば・・・・・。
63命を与えるのは”霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。
64しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。
65そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」
66このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。
67そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。
68シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。
69あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」
70すると、イエスは言われた。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」
71イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。
■霊的な聖餐理解
6章に入ってから、パンのしるしに始まって、群衆とイエス様との対話、続いてユダヤ人とイエス様とのやりとりがあり、今回は、弟子たちとイエス様との厳しい問答が来て6章全体が終わります。今回の60節以降、特に63節は、その前の聖餐に関する部分(51〜58節)とどのように結びつくのか? これが学者の間で議論されています。63節は、身体で味わうパンとぶどう酒の聖餐の意義を否定しているようにも受け取れるからです。多くの学者は、ここを49節〜51節での「モーセのパン」と「イエスの天からのパン」との対比へつなぐのが自然だと見ています。ヨハネ福音書は、聖餐のパンと関連させて、肉体で味わうパンよりも霊的なパンを強調していると考えるのです。
それならなぜ、編集者は52節〜58節を挟むのでしょう?ヨハネ共同体の編集者は、共観福音書系の教会の聖餐に対する考え方に配慮して、わざわざ、聖餐が象徴するイエスの肉と血を強調する内容を挿入したのでしょうか? こういう見方をする説もあります。
60節では、弟子の「多くが」、「こんな言葉は聞くに堪えない」と言って躓きます。「こんな言葉」とは、51節までの「天から降ったパン」のことだけを指すのでしょうか? それよりも、むしろ、「わたしの肉を食べなさい」「わたしの血を飲みなさい」(53〜56節)と言われたイエス様の御言葉のほうに躓いた。このように受け取るほうが自然だとわたしには思われます。これを「辞義通り」に取れば、こちらのほうが「聞くに堪えない」言葉だからです。
ただし、彼らの躓きは、単にイエス様の御言葉を辞義どおりに受け取ったことから来る誤解からだけではないでしょう。それよりも、イエス様が、人間によってどこまでも<食べ尽くされ飲み尽くされる>べき存在として神から与えられていること、ナザレのイエス様という一人の人間の有り様を<そのようなもの>として信受し、これを「いただく」こと、こういう信仰のあり方それ自体に対する反発こそ、彼らの躓きの本質なのです。神殿もなく、立派な祭儀もなく、在るのはただ主イエス様の御霊のみです。これこそが命のパンであり、このパンを食べ、イエス様の贖いの血を飲み続けること、人間に要求されているのはこれだけです。このように自由で融通無碍(ゆうずうむげ)な信仰の在りように対して、伝統的な制度と壮麗な祭儀に取り囲まれた「宗教」に慣れ親しんだ人たちの誰が堪えられるでしょう。
「肉はなんの益にもならない。」イエス様の人格的な霊性を信受して、御復活のイエス様との霊的な交わりへ入る体験、この意識が薄いままに、ただ習慣的に聖餐に与る人たちに対するヨハネ福音書の批判と落胆が、この御言葉にこめられています。
では、63節は教会の聖餐を否定しているのでしょうか?この節は、17世紀の宗教改革に始まって、過去4世紀の間、聖餐の重要性を否定する「反典礼主義」のお気に入りのテキストでした〔スローヤン『ヨハネによる福音書』〕。しかし、6章全体から見れば、こういう否定的な解釈もまた、63節の真意を正しくとらえているとは言えません。たとえ典礼主義への批判がこめられていても、それにもかかわらず、聖餐の典礼/礼典に与る行為が大事な意義を帯びていることに変わりありません。6章は、現在のエクレシア(教会)が、聖餐を「心から信じて」行なうことの重要性を強く印象づけてくれます。聖餐の祭儀は、イエス様の人格的な霊性に与る信仰を象徴するものとして、重要な意義を持つからです。現在、カトリック、プロテスタントを問わず、実に多様な聖餐の守り方が行なわれています。そういう多様性において、今回のヨハネ福音書の聖餐説話は、聖餐の持つ核心的な重要性を改めて深く洞察させるのです。
■霊的な言葉
「霊水」「霊風」「霊光」のような「霊的な」語りとは、言い替えると「象徴」を用いて語ること、より正確には、「隠喩/暗喩」(メタファー)で語ることです。暗喩的な言語は、物質的な内容を表すと<同時に>、これを通じて、辞義とは別の内容を伝えようとする言語です。こういう言語では、「ことば」と、それが指示する「内容」とが、不可分につながりながら、しかも、語られる「コンテキスト」(前後の文脈)に応じて、「ことば」が指示する内実が移動します。ヨハネ共同体が、外見的な典礼主義に批判的であり、その霊的な内実を重視しているのは疑うことができません。これは、この共同体の本質的な傾向だからです。したがって、63節に「パンとぶどう酒」の物質的な聖餐に安住している信者に対する批判がこめられていると見るのは正しいのです。
ただし、そういう霊的で内面的な意義を強調することが、同時に、物としての聖餐を軽んじたり否定したりする傾向につながると速断すると、共同体の信仰を大きく見誤ることになります。ヨハネ福音書では、霊的な内実が物質的な表象を通じて見事に表現されているからです。この共同体が、これだけ霊的内実を強調しながら、しかもなお、「聖餐共同体」ではなかったかと言われるのはこのゆえです。ヨハネ福音書が証しするイエス様の「命の御霊」(63節の意味)とは、まさにそのような御霊の働きを証言しています。だから、63節が、神の御霊と肉体との分離を強調しているという解釈は誤りです。むしろ、「私たちの霊・肉ともども、これを活かすのは父の御霊であって、肉の人間の力はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに語ったことは、御霊の世界であり〔それによって肉体も活かされる〕命である」と読むべきです。
■躓きの原因
イエス様の御言葉を耳にして、多くの弟子たちがイエス様から離れ去ります。彼らに何が起こったのでしょうか? もしも聖餐を霊的に解釈して、イエス様の肉と血の説話よりも、わたしの「霊」のほうを受け取り、わたしの精神だけを学びなさいとイエス様が言われたとすれば、弟子たちは「これはひどい言葉だ」などと言わなかったでしょう。だから、彼らがこう言ったのは、イエス様の言葉を理解しなかったからではなく、反対に、イエス様の「肉体的」存在が、そのままで「天から降った」ものだとイエス様が言われた、「そのこと」をはっきり理解したからです。「霊」と「肉」を区別し、二つを分離する人たちには、肉体を具えた存在が、永遠の命と関わりを持つと考えることなど、とうていできません。それゆえイエス様は、もしも自分が「天から降った」ことでそのように躓くのなら、「昇った」ならば、いったいどうやって信じるのか?と言われたのです。
イエス様にとって、天から降ることと肉体をとること、これを通じて、ご自分の「肉」を人々に「与える」こととは、同じだったのです。イエス様の肉の存在、その中にすでに「永遠の命の御霊」が宿っている。このことが、躓いた弟子たちには理解できませんでした。その人間存在をそのまま、「いただきます」と信受する。そうすれば、自分の肉など、もう問題でなくなります。イエス様の言われる「わたしの肉」を食べるならば、「自分の肉」は要らなくなります。ここでは、霊と肉とが対立しているのではありません。霊的な人間存在が、肉的な自分の有り様を包み込み、呑み込んでいるのです。対立は、イエス様に委ねる自分と、自分勝手に生きようとする自分との間で生じているのです。
■ヨハネ福音書の信仰
この福音書は、いろいろな意味で共観福音書とは違った特徴を帯びています。これは、ヨハネ福音書が、いわゆる「主流」と呼ばれる教会形成の流れから離れたところで書かれたからです。しかも、書かれたのは1世紀の終わり頃、すなわち、教会がそろそろ制度化し始める頃です。
6章41節のユダヤ人について(ここで言う「ユダヤ人」は、ユダヤ人キリスト教徒をも含みます)、彼らは父の選びによらなければイエス様のもとへ引き寄せられないとあります(44節)。さらに、弟子たち向かっても、父による選びが強調されます(65節)。最後には、十二弟子の最小グループへと交わりが絞られます。そこでも、「あなた方はわたしが選んだのではないか」と語られます。さらに、そこからも「離れ去る/裏切る」者が現われます(70節)。このように、ヨハネ福音書には、一貫して、「真の弟子と偽りの弟子」を選(え)り分ける厳しさが潜んでいます。
福音は、この世のすべての人に開かれています。しかし、この世の人たち全体に比べると、現実に御霊のイエス様を受け入れ、これによって歩む人の数はごく少数なのです。ヨハネ福音書は、この「少数の忠実な者たちの交わり」を強く意識しています。これが、イエス様の御霊にある愛の交わりの実態であり、同時に、イエス様と一人一人との交わりでもあります。こういう交わりこそ、真の「コイノニア」です。ヨハネ福音書は、教会の全体的な流れからは距離をおきながら、イエス様の御霊にある深い霊的な交わりを形成する視点で貫かれているのです。
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