【注釈】
■イエスと弟子たちの問答
60~71節は弟子たちとイエスの問答です。ここは「躓き」と「棄教か留まるか」という二つの問答で構成されていて、最期に「裏切り」への予告が来ます。今回でガリラヤ伝道が終わり、7章から舞台がユダヤへ移りますから、構成的に見ると、今回の箇所は、エルサレムでの伝道を締めくくる12章37~50節と対応しています〔バレット『ヨハネ福音書』〕。
60~65節の棄教に関する問答では、63節の「肉と霊」が鍵になります。63節を直前の聖餐の言葉(52~58節)と結ぶなら、ここでは聖餐の霊的な理解が求められていると解釈できます。しかし、この問答を34~51節に結びつける見方もあります。本来の資料では、50節から直接60節へつながっていたと見るからです。こういう見方は、弟子たちの不満が、「肉を食べる」ことにあるのではなく、イエスが「天から降った」と言い、また「天へ上がる」と答えるところにあると見るのです。もしもそうだとすれば、ここでの問題は、3章のニコデモとの対話「人の子が天から降り天に上がる」(3章13節)ことに対応します〔ブラウン『ヨハネ福音書』(1)〕。
42節と52節のユダヤ人の拒否と、60節での弟子たちの「つぶやき」に続いて、66~68節で弟子たちの多くが棄教します。59節にイエスがカファルナウムの会堂で語られたとあるので、60~65節をマタイ11章23~24節のカファルナウムへの叱責と対応させ、66~70節をマタイ11章25~27節のイエスを受け入れる幼子への賛美に対応させる説があります。マタイ福音書でもヨハネ福音書でも、不信仰から「離れ去る」者と、「信じ続ける」者が対照されているからでしょう(ルカ10章13~16節と同21~24節の対照も参照)。また、68節のペトロの告白は、フィリポ・カイサリアでのペトロの告白(マルコ8章29節)に対応することが指摘されています〔ブラウン前掲書〕。このように見れば、6章の最後にでて来る「ユダの裏切り」(71節)も、聖餐(52~58節)が行なわれる最後の晩餐での裏切りを予告するのでしょうか。
■6章
[60]【弟子たちの多く】この弟子たちは、66節から判断すると、十二弟子からはっきり区別されています。すでに群衆が躓き、ユダヤ人が反発し、今回は、これまで従ってきた弟子たちが離れ去ります。しかし、ここで問われているのは、「弟子の仕分け」というよりも、信仰と不信仰を分けるものは何か?という問題のほうに向けられています。問題の本質は、終始ずれることがなく、出発点は、五千人への供食の「しるし」からです。だから、霊能に基づく「しるし」は、信仰へいたる「しるし」ともなり(2章11節)、今回のように、分裂にいたる「しるし」ともなるのです。
【これを聞いて】「これを」という訳は、イエスの言葉を指しますが、「彼に(聞いて)」のように、イエス自身を指すとも解釈できます。語法的にはどちらの理解も可能です〔バレット『ヨハネ福音書』〕。「聞いて言った・・・・・聞いていられない」では、初めの「聞く」は「耳にする」ことで、終わりの「聴く」はヘブライ語の「聞き従う」の意味です(「聞け!イスラエルよ」申命記6章4節)。
【ひどい話】原語は「物質的に粗い/荒々しい/きつい言葉(単数)」の意味ですから、「理解できない/分からない」と言うよりも「聞くに堪えない」ことです。だからイエスは、「「わたしの言葉が)躓かせるのか?」(61節)と言ったのです。「ひどい言葉」とは、直前の聖餐説話(52~58節)につながるのではなく、32~51節のパンの説話につながるという解釈もありますが、イエスの肉と血の聖餐説話への拒否だと受け取るほうがより適切でしょう。すでに見たように、聖餐説話は、それまでのイエスの言葉全体のまとめで終わっています。しかも、「肉を食べ血を飲む」聖餐の説話は、パンの説話よりも、なおいっそう躓きの可能性を秘めているはずです。さらに言えば、イエスの語った特定の言葉(「天から降ったパン」)だけが「ひどい言葉」ではなく、これまでの言葉全体が受け容れがたいのです〔スローヤン『ヨハネ福音書』〕。
[61]【気づいて】原文は「そこで見てとって/見抜いて」ですから、単に「気がつく」ことではなく、霊的に洞察することです(2章25節参照)。
【つまずく】原語「スカンダリゾー」(躓かせる)は共観福音書でしばしば用いられていますが、ヨハネ福音書では、ここと(現在形)16章1節(アオリスト形受動態)にでてくるだけです。弟子たちを躓かせたイエスの言葉とは、次の二つ、イエスが「天から降った」ことと(33節/41節/50節/58節)、さらに、「イエスの肉を食べる者」は永遠に生きることです(51節/53節/56~57節)〔バーナード『ヨハネ福音書』(1)〕。ただし、それだけではないことが、次の62節で分かります。
[62]不信の弟子たちへのイエスの答えは、先ず、「あなたがたがこのことでつぶやく/躓くのか?」で始まり、続いて、彼らが「人の子を観る」ことと、その人の子が「天へ上がる」こと、しかも「前に/初めからいた所(天)へ」戻ることです。62節は、全体が「もしもあなたたちが観るならば・・・・・」という条件節になっていて、帰結が省かれています。その帰結を補うとすれば、(1)あなたたちの躓きはさらに大きくなるだろう、(2)あなたたちの躓きは取り除かれるだろう、のように肯定と否定の両方が考えられます。「躓き」とは、「天から降ったパン」のことでしょうか?「肉を食べる」聖餐の譬えでしょうか?その両方でしょうか?
62節は、人の子が「上がる」ことですから、「人の子の降下と昇天」について語られているのは確かです(3章13節参照)。すでに見てきたように、先在の「人の子」が、「前に/初めにいた所」から地上へ降下して(1章14節)、十字架の受難を経て復活し、「前に/初めにいた所」へ上がる/昇る(13章1節/同3節/16章28節/17章11節)というのが、ヨハネ福音書の人の子による救いの図式です〔ブラウン前掲書〕〔バレット『ヨハネ福音書』〕〔キーナー『ヨハネ福音書』(1)〕。
62節の条件に対する帰結は、人の子が「降った」ことで躓くのなら父のもとへ「上ったら」どうなるのか? 人の子の受肉に躓くのなら、復活したらどうなるのか?と相手に問い返すことで、目の前にいる人の子に対する彼らの不信仰を責めています〔キーナー前掲書〕。ただし、その彼らが人の子が上がるのを<観る>とあるから、これの帰結は単純でありません(この点で8章28節を参照)。不信仰な弟子たちもまた、十字架を通じて人の子が「上がる」という真理を「観る」ことになるのです! その結果、彼らは、なおいっそう躓くのでしょうか? それとも、人の子イエスが、「天から降った命のパン」であったことを悟るのでしょうか?人の子の受難と昇天は、この両方の可能性を秘めています。ヨハネ福音書が、イエスの問いかけの帰結部分を語らずに残してあるのは、この両方の可能性を示唆するためだと受け取ることができます〔バレット前掲書〕。
はたして、ここで、かつての敵対者たちは、神から遣わされた受難の僕が、その殉教を経て栄光を授かるという神の御業に接して、自分たちの非を暴かれ驚いて、遣わされた「受難の僕」の無実が証しされるのを「観る」のでしょうか。これこそが、ヘブライの受難の僕伝承にほんらい具わる特徴です(イザヤ書53章4~5節)。
[63]
御霊こそ命を造り出すものである。
肉はなんの働きもしない。
このわたしがあなたがたに語った事は
霊であり命である。
60~63節は、弟子たちの<躓き>に関わることで、64~71節は、その結果生じる<分離>に関係します〔ブルトマン前掲書〕。63節は、61節の「躓き」と62節の問いかけを受けて、躓きの原因をさらに鋭く提示します。原文で「霊/御霊」に始まるこの節は、前節の「人の子がもといたところへ上がるのなら・・・・・」と密接に結びつきます。62節では、人の子の降下と受難と昇天が啓示され(3章13節の注釈を参照)、63節では、さらに、これに伴う御霊の降臨が視野に入ってきます。人の子の降下と受難と昇天から御霊の降臨へ、このつながりをはずすなら、63節を正しく理解することができません。なぜなら、ここでは、地上の人の子イエスが「命を造り出す御霊/聖霊を宿す者」であることが啓示されているからです(1章32節)。「このこと」が確認されて初めて、先の「わたしの肉」も「わたしの血」にもその真の意義が与えられ、また、躓きをも同時にもたらされるのが分かります。今彼らの目の前にいる人の子イエスは、いわゆる「偉大で最高に英雄的な人物」ではなく、人々に躓きをもたらす「父から遣わされた受難の僕」であることが証しされているのです〔バレット前掲書〕。この点をはずすなら、「肉はなんの役にも立たない」の真意をとらえそこないます。
60節以降は、内容的に35~50節につながるから、「肉は何の役にも立たない」の「肉」も、先に54節で言われた「肉」とは内容的に異なるという見方があります〔ブラウン前掲書〕。確かに、63節の「肉」は<直接に>聖餐のパンを指すものではありません。しかし、63節の躓きを直前の聖餐の説話と関連させて「肉は何の役にも立たない」を読むならば、聖餐の「肉(パン)を食べる」という身体的な行為それ自体だけでは、躓きを取り除くのに「何の役にも立たない」という解釈が生じます。同時に、いわゆる歴史的な意味での「人間イエス」の生き方は、「肉」(人間)からの視点だけでは、イエスに宿る人格的霊性を洞察する上で「何の役にも立たない」ことも見えてくるのです〔バレット前掲書〕。
だから、63節の「肉は何の役にも立たない」は、続く「わたしがあなたがたに語った言/事」(原語「レーマタ」は「言/事」の両義を含む)へと関連づけられなければ、正しく理解することができません。「わたしが語った言葉」とは、聞く者が、その目と耳を自分の「肉」のほうではなく、「イエスの言葉」に向けなければならないからです。ところが、逆説的に聞こえますが、「受肉した言葉(ロゴス)」は、その言/事(レーマタ)を正しく知るために、まさに受肉したその「肉」(人間イエス)に目を向けなければなりません。わたしたちは、「何の役にも立たない」はずのイエスの「肉」に目と耳を向けることで初めて、その肉に宿る「イエスの言葉」を正しく洞察できるからです。だから、ここで言う「肉」は、「イエスの肉」と「わたしたちの肉」と、両義的です。ここにこそ、「肉」が躓きをもたらす原因が潜んでいます。
イエスに目を向け、イエスの言葉を聴く者に「躓きは生じざるをえません」。イエスの「肉」の奥に栄光の御霊が働いていることを聞き手が悟らない限り、肉のイエスはどこまでも肉のままなのです。イエスの言葉を耳にしても、「彼は自分を神と等しくしている」(5章18節)などと思っている間は、イエスは肉のままです。さらに言えば、聞き手が、イエスの言葉に、精神的な意味での「永遠の真理」だとか、「無時間的な理念」を見いだしている限り、躓きはなくならないのです〔ブルトマン前掲書〕。
イエスの御霊の「事/言」とは、わたしたち人間の思弁の産物ではなく、ある具体的な状況の中で生起する出来事のことであり、そういう具体的な出来事を通じて初めて、わたしたちは肉のイエスを通じて、霊のイエスの言葉を信じることができます。だからそれは、根源的に神からの働きかけによって、わたしたちに啓示として<与えられる出来事>であり、その出来事は、イエスを通して神から啓示されることで初めて、それが<霊的な出来事>だと悟ることができるのです。だから、御霊にある事/言は、これを生じさせる「神」と切り離すことができません。だから、ここの「事/言」を6章の説話だけに限定する必要はありません。「わたしが語るレーマタ」は、受肉のイエス・キリストの「語る言葉」だけでなく、その「行なう業」をも含みます。イエスの「こと」を通して「父がその人を引き寄せてくださなければ」(65節)、イエスに宿る栄光の御霊を観ることも悟ることもできないのです〔バレット前掲書〕。
ここまで来て、読者は、「御霊が造り出す事」が「霊であり命である」ことの意味を初めて悟ることができます。63節の「肉」と「霊」は、必ずしも対立関係に置かれているのではありません。むしろ、「死んでいる肉」と「生かされている肉」が対照されている、という見方さえできます。「肉」は、それ自体で「役に立たない」ものです。しかし、肉が「命を造り出す」神の御霊に活かされる時に、その肉は「生きた肉」になることさえありえます〔ハンター『ヨハネによる福音書』〕。神の御子の「み言(ことば)」は、死んでいて霊的に働くことができない「肉」にも命を与えるものです。そこに働くのは、「御霊の命」(「霊であり命である」の意味)です(5章25節/ローマ8章11節/第一コリント15章45節)。
宗教改革時代に、宗教改革者ツウィングリは、彼の象徴主義的な聖餐論の中心として、この63節を掲げました。彼は物質的な聖餐を「肉」だとして、これに「霊」を対立させることで、ルターの聖体的な聖餐観を批判しました。ルターは、これに対抗するために、ここでの「肉」と聖餐との関連を否定しました。しかし、ここで語られているのは、そのような霊肉の対立ではありませんから、霊肉の二元論から聖餐とここでの「肉」の関連を肯定したり否定したりするのは適切でありません。ここでの「肉」は、直接聖餐のパンを指すものでないというのが現在の解釈ですが、たとえそうだとしても、すでに見たように、編集者が、60節以下で、聖餐を念頭において<いない>と考えることはできません〔キーナー前掲書〕。
[64]この節から、弟子たちの間に分離が生じ始めます。「信じている」ことを見るのは比較的容易ですが、「信じていない」ことは、裏切り同様にこれを見抜くのは困難です(13章28節)。64節は、イエスが自分への裏切りを「知らなかった」という誤解を防ぐための編集だという見方もありますが〔ブラウン前掲書〕、イエスの霊的な洞察の深さ/浅さを推し量るのは不適切でしょう。「最初から」とあるのは、イエスの伝道の「初めから」の意味です。これを1章1節の「初めから」の意味にとる説もありますが〔バレット『ヨハネ福音書』〕。なお「あなたたちの中に信じようとしない者たちがいる」が抜けている異読があります。イエスが「信じる者を知っている/見分ける」(10章14~15節)のに対して「信じない者を知る」という言い方が不自然だと考えたのでしょうか。しかしここは、「わたしがあなたたちに語ったのは霊であり命である」を受けて、これと並行させる叙述です〔新約原典テキスト批評〕。
弟子たちも先のユダヤ人同様に躓いたのです。「彼らの誤解(52節/60節)は、彼らが間違った知識を持っているからではなく、むしろ、彼らが、イエスの言葉を聞く大切な時に、イエスの出自について問いを向け、そうすることで、イエスの言葉を彼らの<肉に従って>判断している点にある。彼らの知識は全く正しい。まさにその点にこそ逆説が潜んでいる。すなわち、彼らは、ここでも他の箇所でも、<肉に従って>判断しているが、まさにそのことによって、この世の領域の問いや判断ではとらえることのできない啓示に対して自己を閉ざすのである(7章28節参照)」〔ブルトマン前掲書603頁(注)219〕。彼らは、少なくとも初めのうちはイエスを信じて従った者たちです。では、いつからこのような<肉に従った>判断に陥ったのでしょうか。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む」と聞いたからでしょうか。御霊の語る言葉は<御霊にあって聴く>ことで初めて悟ることができるのを忘れたからでしょうか。霊の言葉は両刃(もろは)の剣のように救いと裁きの両方をもたらします(3章18~19節)。おそらく彼らも「霊で始まって肉で仕上がった」(ガラテヤ3章3節)のではないでしょうか。
【裏切る】原語は「手渡す」ことで、「騙す」「欺く」の意味だけでなく「敵の手に<渡す>」ことを意味します(「十字架につけるために渡す」19章16節/「(死に?)霊を渡す」同30節)。
[65]~[66]【わたしは言った】「わたしは言った」にあたるこれまでのイエスの言葉は5章44節です。そうだとすれば、5章と6章とは錯簡による入れ替えではなく、現行の順序がほんらいの順番になります。
【こういうわけで】「この時から」「このために」のふたとおりの意味があります。どちらの意味も含まれているのでしょう。
【離れ去り】原文は「後方へ立ち去る」で、ギリシア語としては不自然な言い方ですから、ヘブライ語の語法から来ているのでしょう。ヘブライ語では「後ろへ退く」(七十人訳イザヤ書50章5節/同42章17節)ことですがここでは「脱落する」ことです。
[67]「十二弟子」が出てくるのはここが初めてです。シモン・ペトロもユダもそうですが、ヨハネ福音書では、読者が、すでにこれらの名前をよく知っていることを前提にしています。「まさか君たちまでもが、わたしを見限ろうと思っているのではないだろうね?」という尋ね方は、相手に否定の答えを求める言い方ですから、ここにイエスの哀しみを読み取ることもできます。五千人へのパンの奇跡で始まり、イエスを王に祭り上げようとした群衆から逃れたイエスですが、ここに来て「12名」だけが残り、その彼らさえ、最後までイエスに付き従う確かな保証がないのです。
[68]68節は、共観福音書のフィリポ・カイサリアでのペトロの告白に相当します(マタイ16章15~16節/マルコ8章29節/ルカ9章20節)。四福音書共に、四千人あるいは五千人へのパンのしるしの後でこの告白が語られていることに注意してください。「しるし」は、与えられるが「要求」してはならないものであり、人を納得させる手段となるが誤解を招くものであり、信仰へ導くが信仰を保証してはくれないのです。
ただし、告白の前後の状況は、ヨハネ福音書と共観福音書では全く異なりますから、四つに共通するさらに古い伝承から派生して、ヨハネ共同体に伝えられたのでしょう。今回のペトロの告白は、共観福音書に比べて、はるかに厳しい状況の中で語られています。ペトロたちは、イエスに「永遠の命の言/事(レーマタ)」が宿っていることを「体験して知って」います(69節)。同時に、彼ら以外の多くの弟子たちがイエスのもとから「立ち去った」ことも知っています。12人は今、「立ち去る」か、それとも「留まる」か、この二つの狭間に立たされる厳しさを味わっているのです。自分たちが味わった永遠の命は、救いの喜びをもたらすものですが、その喜びの大きさと同じほど厳しい「裁き」をも離反者にもたらすことを知ったのです。「命の言葉」は、ある者には命へいたる薫りとなり、ある者には死にいたる「ひどい言葉」になります(第二コリント2章16節)。
[69]【神の聖者】「神の聖なる者」は、旧約では神に聖別された人のことで(七十人訳士師記13章7節/同16章17節)、ヘブライ語では「神のナジル人」(ネズィール・エロヒーム)とも呼ばれました。詩編106篇16節では祭司アロンを指す言葉です。新約聖書では、この言葉が、悪霊どもが自分たちから<離れ去る>ようにイエスに求める時に、彼らの口から出てきます(マルコ1章24節)。したがって、この呼び方それ自体は、必ずしも「メシア」を指す用語ではありません。共観福音書では、ペトロの告白がイエスの受難予告を導き出しますから、今回も、「自分を世のために犠牲として献げた」方として「神の聖者」が用いられているのでしょう(17章19節参照)〔ブルトマン前掲書〕〔ブラウン前掲書〕。
【信じ、知っている】二つの完了形の動詞を結んで「現に信じかつ認知している状態にある」〔バレット『ヨハネ福音書』〕ことを表わすヨハネ福音書独特の言い方です(17章8節を参照)。
[70]【選んだ】「離れ去る」のも「留まる」のも人間の意志と無関係ではありませんが(3章17~21節)、このことと、神に「引き寄せられた者」だけがイエスを信じる「選ばれた者」(13章18節/15章16節)になることとは、矛盾し排除し合うものではありません。
【悪魔】原語「ディアボロス」"devil" は、ほんらい「中傷する」という動詞から出ていますから、現在の「悪魔」の意味とは異なります(シラ書28章9節)。しかし「ディアボロス」は、七十人訳で、ヘブライ語「サーターン」(敵対する者)の訳語として用いられたために、「敵対者」「訴え非難する者」の意味になりました(ヨブ記1~2章/ゼカリヤ書3章1~2節)。ヨブ記でもゼカリヤ書でも、「サーターン」は、神に敵対して人間と神の間を<引き離す>というほんらいの意味を保っていますが、ほとんど固有名詞として用いられています〔TDNT(2)71-75〕。エジプトのアレクサンドリアで前1世紀にギリシア語で書かれた知恵の書(2章24節)には、「神は人を朽ちないものとして造り、ご自分の永遠性の似姿として造られた。しかし、<悪魔>のねたみによって死がこの世に入り込んだ」とあります。捕囚期以後の旧新約中間期のユダヤ教では、創世記6章2~5節の伝承から、神に逆らって天から堕落した「堕天使ども」が、悪霊の起源とされるようになります。悪霊どもの頭が「サタン」と呼ばれるのは、ヘブライの悪霊伝承では比較的後の前2~1世紀頃からです。新約聖書では、「悪魔」は「サタン」と同じです〔TDNT(2)79〕。マタイ福音書では「悪魔」と「サタン」の両方がでてきますが、マルコ福音書では「サタン」だけです(「悪霊」が「悪魔」と訳される場合がありますから注意〔新共同訳〕)。ルカ福音書では、8章12節までは「悪魔」が用いられていますが、10章18節からは「サタン」に変わります。ヨハネ福音書では、「悪魔」が3回(6章70節/8章44節/13章2節)で、「サタン」が1回(13章27節)です。「悪魔」は、聖書に限らず一般的な用語ですから、後のキリスト教会では、「サタン」に代わって「悪魔」がより多く用いられるようになったのでしょう〔ブラウン『ヨハネ福音書』(1)〕。
[71]【ユダ】原文は「ユダ、シモンの(子)、イスカリオート(の人)」で、イエスの頃のアラム語の語法から判断すると、「カリオテの人シモンの息子であるユダ」あるいは「カリオテの人シモンの息子であるカリオテの人ユダ」の意味です。ユダが「シモンの息子」とあるのはヨハネ福音書だけです。父子共にカリオテの出身だったのでしょうか。ヨハネ福音書にユダのことは全部で8回でてきますが、この言い方は、異読を無視すれば、今回を含めて3回です(13章2節/同26節)。「イスカリオテ」の意味ははっきりしませんが、おそらく「イーシュ・ケリヨト」(ケリヨトの人)という意味でしょう。「ケリヨト」については諸説がありますが、おそらくイスラエルの南部で、ヘブロンの南方にあった村でしょう。共観福音書では、これを「ケリヨトの人ユダ」と呼んでいます。これから判断すると、12人の中で、このユダだけが、ガリラヤではなくユダヤの出身であったことになります。共観福音書では、ペトロの告白の後にイエスの受難が予告されますが、ヨハネ福音書では、ペトロの告白の後でユダの裏切りが予告されます。
【十二人の一人】原文は「十二人の一人でありながら(それなのに)」です。自分の決意や選択でイエスを選んだのではなく、自分がイエスを通して神に「選ばれた」こと、このことを悟ること、しかも自分には、そのような選びに値するなんらふさわしい理由がないこと、これを忘れると、「人は高いところに上がれば上がるほど(選ばれた高みから)墜落する」のです〔ブルトマン前掲書〕。信仰の歩みでは、どのような人間的な美徳も、霊的な特権や安全を保証してくれません〔バレット前掲書〕。
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