36章 仮庵祭で
7章14〜24節
■7章
14祭りも既に半ばになったころ、イエスは神殿の境内に上って行って、教え始められた。
15ユダヤ人たちが驚いて、「この人は学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」と言うと、
16イエスは答えて言われた。「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。
17この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。
18自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない。
19モーセはあなたたちに律法を与えたではないか。ところが、あなたたちはだれもその律法を守らない。なぜ、わたしを殺そうとするのか。」
20群衆が答えた。「あなたは悪霊に取りつかれている。だれがあなたを殺そうというのか。」
21イエスは答えて言われた。「わたしが一つの業を行ったというので、あなたたちは皆驚いている。
22しかし、モーセはあなたたちに割礼を命じた。──もっとも、これはモーセからではなく、族長たちから始まったのだが──だから、あなたたちは安息日にも割礼を施している。
23モーセの律法を破らないようにと、人は安息日であっても割礼を受けるのに、わたしが安息日に全身をいやしたからといって腹を立てるのか。
24うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい。」
【講話】
【注釈】
■ユダヤの祭り
イエス様は、エルサレムで、安息日での癒やしのことでユダヤ人たちと論争になり(5章9〜18節)、その結果、ガリラヤへお帰りになります。ガリラヤでは、パンの奇跡や水上歩行などがあり(6章)、その後、再びエルサレムへ向かいます。今度は、二度とガリラヤへ戻りません。エルサレムでは、「ユダヤ人がイエス様を殺そうとねらっていた」(7章1節)とあり、「世はわたしを憎む」(同7節)とありますから、イエス様は、すでに受難を覚悟しておられます。ところで、イエス様のこの往来は、ユダヤの祭りと深くかかわっています。
パレスチナでは、9月半ば頃から10月半ばまで、熱風と雷鳴を伴う湿り気の雨があり、続いて本格的な雨期に入り、涼しい雨の季節が10月の下旬から1月頃まで続きます。これが「先の雨」と呼ばれるものです。したがって、雨を吸って柔らかくなった畑を耕して種を蒔くのは、11月の下旬から12月にかけてです。さらに、4月から5月にかけて、「後の雨」と呼ばれるにわか雨があって、雨期の季節が終わります。
収穫について言えば、3月の下旬から大麦の刈り入れが始まり、これが4月に終わると、続いて小麦の収穫が始まり5月中旬に終わります。5月半ばから6月半ばまでが、ぶどうの収穫の季節になります。オリーブの収穫は11月です。豆類は3月中旬から始まり、断続的に続きます。果物は夏でも収穫されます。
ユダヤには、大切な祭が三つあり、それらは巡礼と結びついていて、ユダヤ人の男性は、エルサレム神殿に詣でることが義務づけられていました。一つは過越の祭で、これは春、3月から4月にかけて祝われました。この祭りは、出エジプトを記念する「種入れぬパン」を食べる祭りと、カナンでの収穫の農耕祭(本来は6月)が合体した祭りです。その後、5月から6月にかけて小麦などの刈り入れが終わると、ぶどうの収穫を祝う五旬節(ペンテコステ)がありました。9月から10月の始めにかけては、仮庵の祭があり、巡礼に上京したユダヤ人たちは、小さな仮屋を作ってそこに住みました。これは7日間続き、8日目は「祭りの終わりの日」で、雄の羊と小羊とが犠牲に捧げられました。この祭りは、その年の収穫が終わったことを祝うと同時に、これから始まる種蒔きと雨期へ向けての雨乞いの儀礼をも兼ねていました。
■祭りと犠牲
古来、種蒔きと収穫は、人間の営みの最も重要な、そして神聖な「行事」とされてきました。「涙とともに蒔く者は、喜びと共に刈り取る」とあるとおり、収穫の喜びは、これにいたる苦労と密接に重なっています。だから、収穫の豊饒を祈願するために、人間は、太古からいろいろ宗教的な儀礼を営んできました。
祭りの本質は、今も昔も変わりません。祭りでは、なんらかの犠牲、すなわち、生け贄の供え物を神に捧げなければならないことです。穀物が実を結ぶためには、その種が必ず地の中で死ななければならない。穀物の種の死は、実りを豊かにする確実な保証だと信じられたのです。だから、穀物を豊かに実らせるためには、大自然の営みを司る神に犠牲を供え物として献げ、その功徳を通じて、穀物の種が、死んでもう一度よみがえる力を獲得しなければならない。これが、祭りの根底に流れている信仰です。
人間のこのような宗教性は、日本に限らず、アジアでもヨーロッパでも、世界中で形を変えて行なわれています。太古に行なわれた人身御供のほかに、小羊、牛、その他の生き物が、犠牲として捧げられてきました。ユダヤの世界も変わりません。国と民族の生存のためには、なんらかの犠牲が要求される。これが人類の悲しい神話であり、この神話は、今もなお形を変えて続いています。
■イエス様と祭り
「一粒の麦、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。もし、死ねば多くの実を結ぶ」というイエス様のお言葉は、人類の普遍的な宗教の根源を言い表しています。イエス様は、宗教の本質を深く洞察しておられた。だから、ご自分を「一粒の麦」として、神への聖なる供え物として、お献げになった。人類の祭りの本質を体現する最終的かつ究極の「犠牲」となられるために来られたからです(ヘブライ9章11〜14節)。
ヨハネ福音書は、なぜ、わざわざイエス様を祭りの真ん中に登場させたのか? わたしたちは、今その意図が分かります。イエス様こそ、この祭が指し示す本体であり、その意味で「まことの祭り」だからです。ユダヤでも、ギリシアでも、世界でも、そして現在の日本でも、人々は、祭りがほんとうに求めているものを知らないのです。だから、人類は、いつまでたっても、国家や神々を祀る祭壇に、民の命、人の命を犠牲にして捧げることを求め、しかも、そのことを美化するのです。
神は、いわば人類のための犠牲として、御子をお与えになることで初めて、もう犠牲を求めない宗教、犠牲を要求しない共同体を可能にしてくだいました。ヨハネ福音書は、このことを伝えたいのです。
■モーセ律法とイエス様
人類のさまざまな祭りの形態は、旧約聖書に受け継がれ、そこでは、「モーセ律法」という形でイスラエルの民に啓示されました。神殿での祭儀を頂点とするイスラエル民族の法体系全体が、ここでいう「モーセ律法」です。ですから、イエス様の登場は、こういう「モーセ律法」それ自体を完成し、その祭儀と律法に含まれる真の意義を成就するものです(ヘブライ10章1〜7節)。イエス様は、旧約聖書を始めとして、人類のすべての祭りとそこに含まれる祈りを成就させるために来られた。これが、ここでのヨハネ福音書のメッセージです。
このように見てくると、「なぜ私を殺そうとするのか?」というイエス様の問いかけには、二重の意味が込められています。イエス様こそ、本来の意味でモーセとその律法を成就するいわば「本尊」であるのに、人々はこれを知らずに彼を殺そうとしていること。さらにもう一つ、イエス様が人類を救う罪の贖いの犠牲として神に捧げられようとしていること、そのために「神ご自身の手によって」殺されようとしていること、この二重の意味です。人々は、このことを知らないのです。ここにも、「ヨハネ的皮肉」と呼ばれているヨハネ福音書独特の描き方を見ることができます。
■お前は狂っている
イエス様は、群衆によって、「あなたは悪霊に憑かれて狂っている」と非難されています。天皇制を批判する福音伝道者は、憎まれたり非難されたりはしますが、「狂っている」とは言われません。「ユダヤ人」とその宗教を非難するクリスチャンは、反ユダヤ主義という非難を受けるかもしれませんが、気が狂っているとは言われません。なぜなら、この場合、敵意を抱くほうも抱かれるほうも、どちらも相手の言うことを<それなりに理解した上で>、批判や非難の応酬をやっているからです。ところが、ここでのイエス様はそうではありません。彼は全く理解されないのです! 人々は、イエス様が何を言おうとされているのか、見ることも聞くこともできず、ましてや理解することなど及びもつかないのがここでの状況です。
一般的に言えば、権力や宗教制度を敵に回してこれと争う人は、それなりに厳しい迫害を受けます。しかし、いくら迫害が行なわれても、迫害するほうもされるほうも、対立し憎み合いながらも、相手が思い違いをしているとか「狂っている」とは思いません。どちら側も同じ空間、同じ時を共有しているからです。この場合、権力や宗教的権威に逆らう者たちは、少なくとも、そのような権力や宗教と「同じ次元」で争っているのです。
ところがここでは、同じ空間、同じ時を共有しているように見えながら、実は全く似て非なる者同士が「遭遇」しているのです。エルサレムにいる「ユダヤ人」から見るなら、イエス様は別の国や人種の人ではなく、また政治的や宗教的な反乱を企む者でもなく、まるで次元の違う人に見えたでしょう。群衆とイエス様の間にはあるのは「憎しみ」でありません。それは「驚き」であり「ショック」であり「戸惑い」です。だから彼らは、イエス様を「悪霊に憑かれて狂っている」と判断したのです。
イエス様は決して狂っていません。このような彼我の断絶を見抜いておられるのです。その上で、イエス様は、群衆が困惑状態にあって自分を理解できないでいること、しかも、そのような群衆の陰に潜んで、この群衆を操ろうとする霊的な力が蠢いているのを見抜いておられます。その力が、イエス様を殺そうとしているのです。目前で生じている出来事を自分の感覚や判断でしかとらえることのできない人たち、自分たちが今言ったり行なったりしていることが、どういう意味を持つのかも理解できないままに、論じ合い動きまわる人たち、そういう彼らの行動それ自体がもたらすであろう結果をイエス様は見抜いておられます。この世の人たちが、それぞれに、自分なりの立場や論理で判断しても、なんの意味もない籾殻のように吹き飛んでしまう。このことをイエス様は、ご自身の霊的な次元から予見されています。だから「自分から語るものは、己の栄光を求めるが、その内に真理がない」と言われるのです。
イエス様が見抜いておられたのは、この世に潜む闇の正体です。安息日は、(アブラハム以来)モーセが命じたことで、それは神がお定めになったものです。これが、「この世の」制度と化して、人を活かすのではなく人を殺す制度へと転落していた。その結果、安息日に「命の業」を行なったイエス様を「死の業」を行なっている者が裁くという逆転が生じています。しかも「死の業」を行なう者が、「命の神」の名により、モーセの権威を利用してイエス様を裁くという「驚くべきこと」が起ころうとしています。すべては「神からでている」ことです。「上辺で人をさばかないで、正しい裁きをする」とは、<こういうこと>を見抜くことです。
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