【注釈】
■7章14節以下の構成
今回の14節から7章の終わりまでは、これを四つに分けて見ることができます〔バレット『ヨハネ福音書』〕〔新約原典〕。
(1)14~24節:仮庵祭の中日(なかび)の出来事です。ここでユダヤ人がモーセ律法を守っていないことが示されます。
(2)25~36節:イエスはメシアかどうかが問われ、これによってイエスの言動の源が父であることがはっきり啓示されます。しかし、このことが、イエスの逮捕と処刑を予想させる結果になります。
(3)37~39節:仮庵祭の最も重要な日に、イエスが神殿で聖霊の注ぎについて公然と語ります。
(4)40~52節:群衆の分裂と、指導者たちによる「無知な」群衆へのいらだちと、逮捕に向かった下役への非難とが語られ、これに対するニコデモからの批判が加わります。
ヨハネ福音書の編集者は、イエスの教えを16~24節と37~39節に分けて配置し、それぞれの教えに対応させて、人々の反応を25~31節と40~44節とで描いています。その上で、これらに対するユダヤの指導層の措置を、32~36節と45~52節とで対応させる、という構成をとっています〔バレット『ヨハネ福音書』〕。したがって、イエスの教え→人々の反応→ユダヤ人からの圧迫という流れが、14~36節と37~52節とで繰り返されながら、二つの流れが並行関係を保ちつつ物語が進行します。これは、資料からではなく、編集者の意図によるものです。
ヨハネ福音書では、5章で足なえの男を癒し、これに続いて起こったモーセ論争によって、ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしたために、イエスはガリラヤへ退いたことになります(6章1節)。イエスがガリラヤへ行かれたのが、5月頃とすれば、仮庵まで数カ月あります。おそらく、ヨハネ福音書の編集者は、5章と7章の間に6章を挟み込んだのでしょう。その上で、ユダヤ人が、イエスを殺そうとしていたことを7章1節で繰り返すことによって、5章から7章以降へつないでいます。「(こういう)ヨハネの時期的なつなぎ方は、少なくとも許容できる範囲であり、(これに対して)彼の神学的な配置は完璧です。後者(神学的な配置)を修正することはできません。前者(時期的なつながり)は、やや修正可能ですが、それによって後者が犠牲になります」〔バレット『ヨハネ福音書』〕。
7章14~36節で展開されているイエスとユダヤ人との論争は、8章で、さらに厳しさを増します。共観福音書には、ヨハネ福音書のこれに相当する部分は見あたりませんが、エルサレムでのイエスと指導者たちの「権威問答」が(マタイ21章23~27節=マルコ11章27~33節=ルカ20章1~8節)、ヨハネ福音書のこの箇所に相当すると言えましょう。なお、「なぜわたしを殺そうとするのか」(7章19節)は、5章17~19節と関係し、イエスが安息日を破って、自分を父と等しくしたことを指しています。この点では、マルコ3章1~6節と内容的に並行します。
今回の箇所でも、他の章のと同じ用語が繰り返されていますが、イエスを取り囲む人たちがイエスに向かって語る言葉を通じて、イエス像がより鮮明に浮かび上がってきます。また、イエスに向けられるあらゆる声が聞こえてくるにつれて、人々の間の分裂がはっきりした様相を呈(てい)し始めます。先に見たように、ヨハネ共同体が当時置かれていた状況がここにも反映されているのでしょう。
■7章
[14]【祭りも既に半ば】仮庵の祭は1週間続いたから、イエスが神殿に上ったのは、その4日目でしょう。仮庵の祭は、イエスが十字架にかかった過越と並ぶユダヤ教の重要な祭です。ただし、今回は「収穫の祭」です。この祭の「中心の日」にイエスが神殿に「上がり」、しかも初めて人々の前で聖霊の降臨について「公然と」教え始めたことは、この出来事が「父の御心に導かれた」重要な意味を持つことを示すものです。過越とイエスの十字架が結びついているように、仮庵とイエスの御霊の注ぎへの預言が結びつくことで、祭が意味する「実体」が、すなわちその霊的な意義が開示されるのです。
【神殿】イエスは、先に(2章)エルサレムの神殿を「自分の体」と同一視する熱意を表明しましたが(2章17節)、それは同時に、己の死を予告するものでした。父から遣わされたロゴス・キリストが「自分のところ」へ来たのに、「自分の民」は彼を受け容れなかったのです(1章11節/マタイ23章37~39節)。
[15]【学問をしたわけでもない】イエスの頃のユダヤ教では、資格のある特定の律法の教師の弟子として律法(聖書)を学ぶのが慣わしでした(使徒言行録22章3節)。だから、ユダヤ人の問いかけには、「あなたは(聖書解釈の訓練を受けた際に)誰の弟子だったのか?」という質問が含まれています。このことが、聖書解釈の権威を裏付けるひとつの根拠とされていたからです。「誰にも師事したことがない」〔岩波訳〕。
【どうして聖書をこんなによく】これは意訳で、原語の字義どおりの意味は、「どうして文字が読めるのか」〔岩波訳〕です(イザヤ29章11~12節参照)。当時の読み書きは聖書の学習として行なわれましたから、新共同訳は、ここで、文字の読み書きのことではなく、「聖書とその解釈を学ぶ特別の訓練を受けていないのにどうして」という意味に理解しています。5章の39節や46節~47節で、「モーセの書いたもの」をめぐってイエスとユダヤ人が論争しているのも、「聖書が読めるかどうか」ではなく、その解釈についてです。
[16]【わたしの教えではない】イエスは、ここでユダヤ教の教師たちに向かって答えていますから、「教え」(原語「ディダケー」)という語は大事な意味を持っています(18章19節/Ⅱヨハネ9節~10節を参照)。「教義」〔ブラウン『ヨハネ福音書』(1)〕。「イエスの師がだれであるのか」が問われていたとすれば、その師の弟子であるイエスが「自分から勝手に語る」ことは、自分の教えが偽ものであることを証しすることになります。だから、イエスは、「自分の教えではなく<わたしをお遣わしになった方>の教え」であると告げるのです。
[17]【御心をおこなおうとする】イエスが父なる神の御心を「行なう」とは、ユダヤ人たちが考えるように、モーセ律法を「実践する」という倫理的な行為だけを指すのではありません。イエスはここで、父なる神が人間にほんとうに求めておられることは何か?と問いかけています。人間の側から神に向かって「行なう」ことのできる「業」があるとすれば、それは「神が遣わされた方を信じる」(6章29節)ことだけです。この信仰の従順から出ていない「倫理」をヨハネ福音書は知らないのです〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。だから人は<神の求めに従う>こと、すなわち「神によって引き寄せられる」(6章44節)ことを通して初めて、神の御心に応じることができるのです〔バルト『ヨハネ福音書』〕。では、そのような信従はどこから来るのでしょうか? 彼らに向かって、今<語りかけている>イエス、これ以外に信仰はどこからも来ないのです。
【神から出たものか】「正しい行為は正しい信仰から生まれる」というのがラビの教えでした。だから、イエスは、「父の御心を行う(=正しい行ないをする)」意志が聴く者にほんとうにあるのなら、父の神の業を「信じる」はずだと言うのです。イエスは自分の師が父の神であると述べてから、自分が真実であることを証しするふたつの根拠をあげます。一つは自分に神の言葉が与えられていること(5章38節~39節参照)。もう一つは自分が心から神のみ心を行なおうとしていることです(7章18節)。
【わたしが勝手に】「自分の師の権威」によらず、「自分自身の権威」で語ることは、思い上がった不遜な行為です。イエスは、ヘレニズム世界の人たちが想い描く「神的な人」としてではなく、父に己を「明け渡した人」として語っています。しかし、まさにそのことが、敵対者たちの目には「非常に疑わしく」〔バルト『ヨハネ福音書』〕、「啓示者が無私であることは、それほど明白でない」〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕のです。むしろ彼らには、ちょうど正反対に見えるのです(5章18節)。
[18]【自分の栄光を求める】「自分の<栄誉を>求める」[フランシスコ会訳]。これは、イエスに敵対するユダヤ人たちが、とりわけ名誉欲に取り憑かれているとか、逆に、名誉に無関心な人だけがイエスが無私であると分かるという意味ではありません。名誉に関心があるなしにかかわらず、人はだれでも自分が人々から認められたいという欲求を意識的にせよ無意識にせよ抱いています。だからこそ、<イエスもまた自分たちと同じように>自分の名誉を求めているという誤解を生むのです。
【真実な人】原文は「真実である」。上に述べた誤解を免れて、イエスが<ほんとうに>どのような人なのかを知ることは、イエスに<入信する>者だけに与えられる啓示です。父からの導きを受けるままにイエスを信じ従う者だけが、啓示の光を受けて「真理を行なう」者にされるからです(3章21節)。
【不義がない】この言い方は、ヨハネ福音書ではここだけで、「不義」は「嘘」と同じ意味です。「すこしも偽りがない」〔塚本虎二訳〕。このような場合の「不義/嘘」は死刑にも値します(サムエル記下14章28~33節を参照。アブサロムは、32節で「もしわたしに不義〔七十人訳〕/罪/嘘があるなら死刑にされてもいい」と言っています)。
[19]【律法を守らない】この19節を5章45~47節へつないで読むなら、ユダヤ人たちが<イエスを信じる>ことができない理由は、彼らが「モーセを信じていない」からだということになります。それゆえ、彼らは「律法を行なっていない」のです。なぜなら、モーセは「イエスを証ししている」からです(5章46節)。この場合、「モーセ」とは「モーセ律法」を指すだけでなく、「神の律法全体」を指します〔バレット『ヨハネ福音書』〕。だから、「あなたたちがだれ一人として律法を守らない」のは、「あなたたちが、だれ一人わたし(イエス)を信じない」ことと表裏一体です。
イエスこそ、神の律法(御心)そのものを顕すというこの論法は、「わたしの神よ、わたしは御心を<行なおう>と望みます。あなたの律法(教え)を胸に刻むからです」(詩編40篇9節)というユダヤ教の信仰告白に通じています。イエスを信じることが、神の御心である律法を行なうことにほかならないからです。ここでは、イスラエルの神の律法全体がイエスを証しするものであり、イエスを信じないことそれ自体が、神とその律法に逆らうことにほかならないという論理が働いています。しかもここでは、「神の御心を求める者が真理/真実を行なう」ことですから(17~18節)、「律法を行わない」ことは「真理を行わない」ことであり、それがイエスを信じない「自分勝手な偽りの歩み」にほかならないことになります。不義(偽り)を行なう者でありながら、なにゆえ、真理を行なう者(モーセ律法を行う者)を殺そうとするのか(19節)? というのがここでのイエスの問いかけです。
この論法は、ガラテヤ2章13節~14節で、パウロがペトロに向かって「福音の真理(イエスをキリストとして信じることだけを目指す歩み)に向かって真っ直ぐに歩まず」「ほかのユダヤ人たちもペトロと共に偽善をなした」と批判しているのを思わせます。どちらの場合も、イエスを信じることこそ「真実に律法を行なう」者のすることであり、「律法を真実に行なわない者」が<イエスを殺す者>なのです。この論旨もまた、パウロがローマ2章17~29節と同3章21~26節で語っていることに通じます。ヨハネ福音書は、「ユダヤ人が律法を真実に行なっていないことこそ、イエスを殺す理由である」というパウロの福音を鋭く簡潔に言い表わしているのです。今回の部分には、イエス以後の教会の歩み、とりわけヨハネ共同体が、当時のユダヤ教の指導者たちと争った跡が反映されているのでしょう。キリスト教がユダヤ教から独立する当時の状況をうかがい知ることができます。
[20]【悪霊に取りつかれている】19節の「あなたたち」は、15節の「ユダヤ人たち」を指しますが、20節では、イエスとラビたち(「ユダヤ人」)の議論を聞いていた12節の「群衆」が入り込んできます。「悪魔に憑かれている」〔岩波訳〕という言い方は8章48節にもでてきますが、今回は、むしろ10章20節のように、「気が変になっている/狂っている」〔ブラウン訳〕という意味に近いでしょう。「ユダヤ人」にイエスを殺す意志がないと群衆が言うのは、彼らの指導者の企みをまだ見抜くことができないからです。ただし、25節の「エルサレムのある人たち」は、「ユダヤ人」がイエスを殺そうと企てているのを知っています。なお、「悪霊に憑かれている」は、洗礼者ヨハネに向かっても言われたことです(マタイ11章18節)。また、イエスについて律法学者も同じことを言っています(マルコ3章22節)。ただし、今回は、「群衆」がイエスに言うのですから、共観福音書の場合とは意味合いがやや違っています。
[21]「イエスは彼らに答えて言われた」の「彼ら」は、群衆のことではなくユダヤ人たちを指します。「誰があなたを殺そうなどと思っているのか?」という群衆の反論から見えてくるのは、イエスのほうが、ユダヤ人たち指導層の密かな企みを見抜いていることです。だからこそ、見抜かれたユダヤ人指導者たちは、イエスに対していっそう「憤激した」のです〔バルト『ヨハネ福音書』〕。
【一つの業を】具体的には5章1~9節の癒やしのことですから、この「業」(単数/複数とも)は、父なる神の「力ある業」を指します。5章では、この「業」が、ユダヤ人たちの見解とは反対に、「善い業」として語られています(5章14節)。"I did
one good deed." 〔REB〕
【驚いている】イエスの業は、人を「びっくり仰天させる」(「驚く」の意味)ものでした。それが、驚くべき神癒の業であるだけでなく、事もあろうに、安息日に行なわれた「律法に違反する」ことだったからです。安息日に生じた神の奇跡を見た人々が「びっくりして当惑した」様子がここにもうかがわれます(4章27節参照)。彼らが驚いた(ショックを受けた)のは、癒しの出来事だけでなく、それが安息日に行われたからで、これは、ユダヤ人の目からは死に値するほどの行為です(出エジプト記31章15節)。ただし、当時のラビの教えでは、安息日に危険に陥った人命を救助することは認められていました。ベトザタの池での癒しの場合は、長年患っていた病人であったために、「ほかの日でも癒しができる」ので、逆にこの規定が適用<されない>と見なされたのです。
[22]原文は「<このためにこそ>、モーセはあなたがたに割礼の掟を」〔岩波訳〕ですが、「このために」が省かれている訳が多いようです〔新共同訳〕〔フランシスコ会訳聖書〕。<このためにこそ>は、イエスが神の業を行い、そのことによって人々が驚く「そのことのために」ともとれますが、イエスが安息日に病人を癒したことをも含めているのでしょう。"But consider, Moses gave you... " 〔REB〕
【もっとも、これは・・・・・】これは編集者の注で、割礼がアブラハム(最初の族長)に始まることを指します(創世記17章10節参照)。
【安息日でも割礼を】モーセが割礼を命じたことを根拠に安息日でも割礼が行なわれました。『ミシュナ』の「ナシーム」の巻「ネダリーム」(3の11)に次のようなユダヤ教のラビたちの言葉があります。
ラビ・ヨセは言う「割礼は偉大である。それは安息日の厳命さえも超える」。ラビは言う。「割礼は偉大である。我らの父アブラハムが成就したあらゆる宗教的な義務にもかかわらず、彼が割礼を受けるまでは<完全>とは呼ばれなかった。『あなたはわたしの前に完全な歩みをしなさい』と書かれているとおりである」(創世記17章1節)。
〔The Mishnah.
Translated from the Hebrew by Herbert Danby. Oxford (1933).268.〕
ユダヤ人たちはここで、一方ではモーセ律法を真実に行なっていないと批判されながら(19節)、もう一方では、モーセ律法の割礼規定を安息日でも固守していると指摘されています。律法違反と律法遵守、一見すると正反対の批判がイエスからユダヤ人に向けられているのに気がつきます。どちらも批判される理由は、律法以上に大事なもの、すなわち律法が指し示すほんらいの神の御心を彼らが悟らないからです。イエスのこの指摘は、パウロがユダヤ人に向けた批判と通じます。彼らは、「神の義」を忘れて律法を守らず律法に違反する一方で(ローマ2章17~24節/同7章12~20節)、律法に固執して律法による自分たちの義を主張するからです(ガラテヤ3章10~13節/同21~25節/ローマ9章31~32節)〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。結果として、イエスに敵対する「ユダヤ人」が、イエスを(十字架で)殺そうとすることになります。ヨハネ福音書のイエスがパウロと共通するのはこれです(ガラテヤ3章13節)。ただし、ここで忘れてはならないのは、イエスもパウロも真実なユダヤ人であったことです。
[23]【全身をいやした】原義は「その人間全体を回復した」です。ここでは、病気の癒やしはその人間全体の救いと一つになっています(古英語の"make a man whole" にあたる)。ユダヤ人から見ると、イエスは、一見律法に違反しているように見えます(5章18節)。しかし、割礼は肉体の「一部に」施すだけですが、イエスは「その人全体」を癒やした(救った)のです。安息日の律法を破ったのではなく、安息日の律法を「完全にした/成就した」のです〔バレット『ヨハネ福音書』〕。
【なぜ怒るのか】ユダヤ人に言わせると、「安息日でも割礼が許され、人命救助が許されるのは、それが人の命に関わる大事で緊急な場合だからです。しかし、38年間も病気であった人をなぜわざわざ安息日に癒やさなければならないのか?」ということです。これに対して、イエスが言うのは、旧約の律法全体(モーセ律法)は神の御心の表われであり、その神が、人間の救いを「完全にする/成就する」よう働いたことは、神の御心に違反するどころか、これこそ、安息日でも神が<求めておられること>ではないのか、ということです。これは、従来の安息日の律法論議を突き破るものです。安息日は、共観福音書でもしばしば問題にされますが、ここのヨハネ福音書ほど、徹底して論じられている箇所は見あたらないようです。
[24]「上辺で人と物事を判断せず、正しい判断をする」ことは、律法でも定められていることです(申命記16章18~20節)。これまでの解釈では、5章での安息日の癒やしが正当か否かが、今回も問われているように見えます。しかし、実はそうではなく、この24節の「正しい裁き/判断」とは、7章18節の「自分を遣わされた方の御心を求める者こそが、真実で不義がない」ことを告げて、その上で、イエスを「殺そうとする」のではなく、「信じる」ように求めているのです。イエスは、律法的・教義的な判断ではなく、より深い霊的な真実を洞察するよう警告するのです。
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