37章 今しばらくの間
7章25〜36節
■7章
25さて、エルサレムの人々の中には次のように言う者たちがいた。「これは人々が殺そうとねらっている者ではないか。
26あんなに公然と話しているのに、何も言われない。議員たちは、この人がメシアだということを、本当に認めたのではなかろうか。
27しかし、わたしたちは、この人がどこの出身かを知っている。メシアが来られるときは、どこから来られるのか、だれも知らないはずだ。」
28すると、神殿の境内で教えていたイエスは、大声で言われた。「あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている。わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。
29わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである。」
30人々はイエスを捕らえようとしたが、手をかける者はいなかった。イエスの時はまだ来ていなかったからである。
31しかし、群衆の中にはイエスを信じる者が大勢いて、「メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか」と言った。
32ファリサイ派の人々は、群衆がイエスについてこのようにささやいているのを耳にした。祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスを捕らえるために下役たちを遣わした。
33そこで、イエスは言われた。「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。
34あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」
35すると、ユダヤ人たちが互いに言った。「わたしたちが見つけることはないとは、いったい、どこへ行くつもりだろう。ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでもいうのか。36『あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない』と彼は言ったが、その言葉はどういう意味なのか。」
■歴史のイエス様と啓示されたロゴス
ヨハネ福音書では、イエス様のお姿が、超歴史的で超時間的な存在として描かれていると言われています。これは、ヨハネ福音書がその冒頭で語るように、イエス様を世界の初めから存在している「先在のロゴス」として語っているからです。けれども、今回の箇所は、イエス様が、歴史に実在した方であることがはっきり確認されていまます。「わたしたちは、この人がどこの出身かを知っている」(27節)というエルサレムの人たちの言葉がきていて、イエス様ご自身も「あなたたちはわたしを知っており、わたしがどこの出かも知っている」と言われているからです。この箇所では、歴史に実在したイエス様に焦点が当てられているのです。
イエス様は「大声で」言われます。
「なるほどあなたたちはわたしを知っており、
わたしがどこの出かも知っている。
しかしわたしは、自分から来ているのではない。
そうではなく、わたしを遣わした真実な方がおられる。
それなのに、あなたたちはその方を知らない。」
(7章28節)
ここは、今回の中心となる箇所です。ここで、人々は、イエス様が<ほうんとうは>どこから来たのかを悟ることができないと指摘されています。イエス様は、彼らの目に見える人物として語っていますが、同時に、地上に啓示されている「先在のロゴス」としてのご自身をも併せて証言しています。けれども、人々は、目に見える人間的な存在に目を奪われて、ロゴスとしてのイエス様を知ることも信じることもできません。人間としてのイエス様と、神のロゴスとしてのイエス様、この間に横たわる「認識の溝」が、イエス様を囲む人々の前に大きく立ちはだかっているのです。人々は、このふたつのイエス様像の間で迷い、ある者はイエス様を信じ、ある者はイエス様に逆らい、ある者はただ傍観者として眺めるだけです。
イエス様が「大声で叫んだ」のは、神からの聖霊に促されたからです。イエス様を通して、神の聖霊が聞く人々に向かって語りかけているのです。同時に、イエス様を通して、様々なしるしの業が行なわれています。しかし、すでに指摘したように、しるしは、これを見て悟る人にはしるしとなりますが、悟らない人にはなにも語りません。イエス様に宿る神からの語りかけを悟るのは、聖霊のお働きによらなければならないからです。
■信じる人と逆らう人
イエス様の行なわれる「しるし」を見た人々の中から、「この方こそほんとうのメシアではないか」と言って信じる人たちが出てきました。しかし、そのような「しるし信仰」には「大きな働き」と共に「大きな限界」もあることをヨハネ福音書は知っています。なぜなら、しるしを見て信じることと、イエス様が先在のロゴスであることを御霊によって悟ることとは、決して同じではないからです。わたしたちは、このような限界を4章の癒し(48節)でも6章のパンの奇跡(しるし)でも(30節)見ました。しかし、戸惑ったり、判断を停止したり、イエス様を殺害しようと企てたりしている人たちの中にあって、この人たちは、とにかく「イエス様を信じた」のです。
こういう人たちと並行して、自分たちこそ「イエスを知っている」、したがって、自分たちこそ、イエスがメシアかどうかを判断できる、こう思いこんでいる人たちがいます。彼らは、このような思い上がりのために、目の前で起こっていることが目に入りません。イエス様の御言葉も聞こえません。こうして、見えると思っている人が見えなくなり、見えないと思っている人に神が啓示されるというなんとも妙なことが起こるのです(9章41節)。この結果、イエス様を通して行なわれる聖霊の働きは、人々を信仰へ導くと同時に、イエス様を確実に十字架の受難へ導いていくのです。
■今しばらくの間
「今しばらく」(33節)イエス様が彼らと共にいてくださるのは、「イエス様の時」がまだ来ていないからです。しかし、「彼らの時」はいつでも備えられています。「時」は神によって創られます。神の御言葉(こと)が語られる時に、出来事(こと)が生じ、事が重なって歴史が形成されます。イエス様の「時」とは、人類の歴史を分ける大きな出来事です。人類救済という神の聖なる歴史において、大きな転換となる事だからです。神の「聖なる歴史」に、戸惑いつつも参与する者、これに逆らう者、その機会を逃す者、このように人は様々に分けられていきます。こうして人は、イエス様の存在をめぐって、神の歴史の大事な「時の中」にありながら、人それぞれに、自己の存在の意味が問われることになり、自分の生きる価値を獲得したり、見逃したり、これに逆らったりする。こういう状況が「今しばらくの間」続くのです。
世の事について自分には知識がある、自分には聖書の知識がある、自分は真のメシアかどうかを判断できる、自分たちが認めた者こそが、神から遣わされた者なのだ、こう思いこんでいる人たちは、イエス様の「出身を知っている」がゆえに、イエス様を全く理解できません。イエス様は、そういう人たちに、「あなたたちはそのお方を知らない」と告げるのです。知識と教義と神学が、御霊の働きを認めることができない場合には、人間としてのイエス様の存在を知ろうとするほど、逆に神の啓示から遠ざかる、という皮肉な結果になります。これに対して、謙虚になって、神の御霊の御声に耳を傾け、これに応じることで心開かれ、先在のロゴスとしてのイエス様の啓示を受け入れる人は、ほんとうの「霊知の人」になるのです。
ヨハネ福音書の記者は、先在のロゴス・キリストが、人間となって遣わされたにもかかわらず、人々はそのことを悟ることができない現実をここではっきりと描き出しています。彼は、「歴史のイエス」に潜む躓きを鋭く見つめています(28節〜29節)。人がイエス様の霊性の意義を悟ることができるのは、神の聖霊に導かれた人の語る言葉を聞いて、聖霊のお働きに応えることによってです。この意味で言えば、イエス様がガリラヤの出であること、彼の両親を「知っている」ことは(27節)、むしろ真の霊的なイエス様を悟る妨げにこそなれ、「神の知恵」であるイエス様を知るのになんの役にも立たないのです(第一コリント1章20〜25節)。
知恵は巷で大声で叫び、
広場にその声を張りあげ、
雑踏の街角で叫び
城門の入り口で声高らかに言う、
「無知な者たち、お前たちは、いつまで無知を好むのか。
あざける者たち、いつまであざけりを楽しむのか。
愚か者たちは、いつまで知識を憎むのか。
わたしの教えに耳を傾けよ。
見よ、わたしの霊をあなたたちに注ぎ、
わたしの言葉をあなたたちに知らせよう。」