39章 罪の女  
                 7章53節〜8章11節
■7章
53人々はおのおの家に帰って行った。
■8章
1イエスはオリーブ山へ行かれた。
2朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。
3そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、
4イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。
5こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
6イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。
7しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
8そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
9これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエス一人と、真ん中にいた女が残った。
10イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」
11女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」
                     【講話】
                 
【注釈】
 この話は、ほんらいヨハネ福音書の一部ではありません。どちらかと言えば、ルカ福音書の書き方に近く、夜は祈りに山へひきこもり、昼は神殿で人々に語るというのは、ルカの描き方です。「律法学者とファリサイ派」という表現もルカ的です。ヨハネ福音書なら「ユダヤ人」と言うところです。しかし、伝承そのものはずいぶん古いですから、この伝承は実際にあった出来事に基づいていると思われます。ただし、伝承の由来よりも、この物語が何を語ろうとしているのかを聞き取るほうが大切です。
 「石で打ち殺せ」というのは、正式の裁判で有罪とされた者に対するユダヤの処刑方法です。女性を「真ん中に立たせる」のもユダヤの裁判のやりかたです。罪を犯した者が、誰かの証言によって有罪とされます。すると、みんながその罪人を囲みます。次に、証人となった人が、「最初の石」を投げつけます(英訳聖書では"the first stone")。モーセの十戒の中に、「隣人に偽証を立てるな」とありますが、これは、裁判のときにきわめて重要だからで、偽証は恐ろしい罪です。その人の罪を「証言した人」が「最初の石」を投げると、みんながいっせいに石を投げつけます。この場合、全員が、石を投げなければなりません。
 ところが、今回は、「イエスを試す」ために律法学者やファリサイ派が罠を仕組んだとあります。当時のユダヤ地域は、ローマ帝国の直轄地になっていましたから、死刑を執行することは、ユダヤ人には許されていなかったのです。だから、たとえモーセの律法に背いても、ユダヤ人は、その人を勝手に死刑にはできません。必ずローマの代官の許可がなければなりません。だから、もしも、ここでイエス様が「石で打ち殺せ」と命じたら、ローマの法律に背いたことになりますから、イエス様をローマに訴える口実になります。もしも、イエス様が罰しなかったら、モーセ律法を守らなかったことになるから、神の預言者としての信用を失わせることができます。実に巧妙な企みで、権力がよく使う手です。
 ところがイエス様は、その悪巧みを見抜いておられた。そこで、地面に身を屈めて何か書き始められた。これにも意味があります。人を死刑にする場合に、ローマの代官は、訴えた人と訴えられた人の前で、判決文を書きます。その人が死刑になるかどうかがそれで決まるのです。イエス様は、律法学者たちに、「わたしにローマの代官になれと言うのか。よろしい。それなら、判決文を書いてあげよう」というわけです。ローマの権力を利用しようとするのなら、逆にそのやり方を利用して相手を痛烈に批判する行為です。
 ここで起こったことを描き出すのは至難の業です。実は、イエス様が書いておられたのは、女の人の判決文ではなく、周囲に立って訴える人たちの罪状であった。こういう言い伝え古くからあります。989年頃のアルメニアの写本には、「イエス自身が地面に屈みこんで、彼らの罪を書き連ねていた。彼らは、自分の罪が石に書かれているのを見た」とあります。
 「罪を犯したことがない者が」というイエス様の一言によって、人知れず犯してきた数々の己の罪が暴かれて、手にした石が自分に向かうことを怖れたのでしょうか。おそらくは、イエス様の御臨在の場に居合わせることで、己もその女と全く同罪であることが啓示されたのでしょう。年長の長老格の一人が、石を手にする己の自己義認を恥じて、黙って石をその場に置いて立ち去ったのです。これを見た者が、一人また一人と姿を消し始めます。神からの啓示は、不思議にも人から人へ伝わるのです。こうして、イエス様の御臨在の場から、彼女を罰する者がいなくなったのです。
  ファリサイ派がこの女をイエス様の前に引き出したのは、「イエスを訴える口実を得る」ためでした。彼らは、イエス様を陥れるために女の人を利用しようと企(たくら)んだ。彼女は、この目的のために「犠牲」にされた「生け贄の山羊」なのです。罪ある人間の弱さが、もっと大きな悪の権力に利用される。これをイエス様はお許しにならなかった。そして、彼女をその「恐ろしい罠」から救い出されたのです。
 立ち去った人たちが、自分も彼女と同罪であることをどこまで自覚し、どこまで深く恥じ入ったかは分かりません。彼女に向けられるイエス様の赦しの愛を知って、神が与えてくださった不思議な恩寵を悟り、喜びと感謝に包まれる。立ち去った彼らが、はたして、そこまでその場の神の恩寵を洞察できたか疑問です。
 しかし、一人残された彼女には、その喜びと感謝が伝わったでしょう。彼女は、「助かった!」という安堵感だけでなく、「わたしもあなたを断罪しない」のイエス様の一言が、彼女をそれ以上の恵みと平安で包んだことは確かでしょう。全く予想しなかった不思議な出来事が、今自分の身に生じたのです。「死ね」と言われて見限った自分が、「生きよ」と言われて見直す自分へ変容したのです。おそらく彼女は、自分でも理解できない不思議な力に支えられていることを実感したに違いありません。そんな彼女にイエス様は言われます。「もうこれからは罪を犯さないように」と。彼女は、人間の弱さと罪深さをも覆い尽くして働きかける神からの絶対恩寵が、これからも自分を支えてくださることをおぼろながも悟ったでしょう。
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