40章 イエスは世の光
                                       8章12〜20節
■8章
12イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」
13それで、ファリサイ派の人々が言った。「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない。」
14イエスは答えて言われた。「たとえわたしが自分について証しをするとしても、その証しは真実である。自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ。しかし、あなたたちは、わたしがどこから来てどこへ行くのか、知らない。
15あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれをも裁かない。
16しかし、もしわたしが裁くとすれば、わたしの裁きは真実である。なぜならわたしはひとりではなく、わたしをお遣わしになった父と共にいるからである。
17あなたたちの律法には、二人が行う証しは真実であると書いてある。
18わたしは自分について証しをしており、わたしをお遣わしになった父もわたしについて証しをしてくださる。」
19彼らが「あなたの父はどこにいるのか」と言うと、イエスはお答えになった。「あなたたちは、わたしもわたしの父も知らない。もし、わたしを知っていたら、わたしの父をも知るはずだ。」
20イエスは神殿の境内で教えておられたとき、宝物殿の近でこれらのことを話された。しかし、だれもイエスを捕らえなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。
                     【講話】
                  【注釈】
■独りの証言
 今回の箇所で、イエス様は「わたしは世の光である」と言われます。すると、ファリサイ派の人たちが「あなたは自分で自分のことを証ししているから、それは真実(「真理」と訳すこともできます)でない」と言います。イエス様は、「たとえわたしが自分について証ししてもそれは真実だ」とお答えになり、さらに、その理由を「自分の証しは父とふたりから出ているからだ」と言われます。ファリサイ派は「あなたの父はいったいどこにいるのか」と言って、イエス様の答えを受け入れません。
 現代の裁判の席では、被告の父や家族の証言は真実とは認められませんから、現代の裁判でも、イエス様の訴えは認められないでしょう。裁判でなくても、イエス様が神を指して、自分は父とふたりであるからその証しは真実だと言っても、おおかたの人は、イエス様よりもファリサイ派の言うことのほうがもっともだと思うでしょう。だれにも見えない神を父と呼んで、その神と自分は一緒にいると主張しても、人はそれを理解することができませんから、「独断的な」人だと思われるだけです。ヨハネ福音書は、どうしてこんな「独断的な」イエス様を描いているのだろうと、読者の方は不思議に(あるいは不満に)思うかもしれません。
■真実な証し
 「父と自分のふたりの証し」が真実だというのは、現代の科学的な思考方法から見れば、主観的で実証性に欠ける「真実・真理」だと見なされるでしょう。誰の目にも客観的に論証できる「真理」ではありませんから。だから、イエス様の言われる「真理」に最も近い言葉は、現代では「良心」です(英語の "conscience")。これは「共に(con)知る(science)」こと、すなわち、誰かと「共に知る」ことです。
 裁判で「良心に基づいて証言します」などと言いますが、実際にその証言が「真実」かどうかはだれにも分かりません。だから、本心を偽らない「良心」は、現代では意味を失っているようにも見えます。けれども、「自分の本心から語る」こと、言い換えると「<自分に>嘘をつかない」で語る「良心」は、現代に最も欠けていて、最も大事なものなのです。イエス様がここで言われている「真実」、これが現代ほど切実に要求されている時はないと言えます。政治家だけでなく、経済人も、メディア人も、教育者も、あらゆる分野の人たちの発言が、この意味で言う「真実」の重要な重みを喪失しているからです。
 経済のことはよく分かりませんが、ひとつだけ確かなこと、それは、資本主義というものが、根底において、「経済する個人」の良心に基づく「信頼/信用」で成り立っていることです。警察が被告の証言した調書を勝手に改ざんする。官僚が議事録を改ざんする。薬物や放射能の検証結果のデーターを改ざんする。商品の表示を偽る。あらゆる面で「自分に対して嘘をつかない」というこの最も基本的なことを忘れるならば、政治も経済も教育も、さらに科学も崩壊します。現在の日本の指導層に最も欠けているものが、この意味での「真実」です。現代では「人目に」嘘をついたことにならなくても、いくらでも不正を働くことができます。「人に嘘がばれなければそれでいい」では済まないのです。「自分に嘘をつかない」こと。これがなければ、現代の人間社会は根底から崩れます。イエス様が、ここで「わたしの証しは真実だ」と言われていることは、ヨーロッパ中世の「聖堂建築の理念」から言えば、人の世を支える「大地の柱」です。
■「交わり」の御霊
 御霊の働きは何かと言えば、それは「交わり」(コイノニア)です。「交わり」と言えば、わたしたちは「人と人との」交わりを思い浮かべます。人との交わりも「霊的な働き」から生じますから、聖霊体験をした人が、まだ体験していない人に語り、その人と共に祈ると、同じような霊的な体験が相手にも注がれます。同じ霊的な体験の人たちが集まって祈ると、ひとりで祈るよりも楽に祈ることができます。それまで祈ることができなかった人でも、みんなの祈りに支えられると、自分も祈ることができるようになります。これは、聖霊の働きが「交わり」から生じるからです。では独りで祈るときには御霊が働かないのかと言えば、そうではありません。独りで祈る時に御霊が注がれて恵みを体験する人がけっこういます。どうして独りでも御霊が働くのか? それは、たとえ独りで祈っても、聖書の神は、本質的に「交わりの神」だからです。祈る人とイエス様との交わり、この交わりこそが御霊の働きそのものなのです。だから、わたしたちは、イエス様との交わりを通じて、「三位一体」の神との交わりに導き入れられるのです。「<わたしたちの>交わりとは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです」(第一ヨハネ1章3節)とあるとおり、御父と御子と聖霊の交わりがあるところ、<そこに>御霊が働くのです。
■御霊にある真実
 「カリスマ」は、人と人との交わりの中で働きます。しかし、「真実の」カリスマ(御霊の働き)は、人と人との交わりの前に、<父と子と聖霊の交わり>から発するものです。カリスマの「真実性」は、そのカリスマを抱く人が、「自分以外のところ」から来る聖霊と交わり、そこに生じる偽りのない心に宿るものです。カリスマ性は人を指導する上で大事な要素ですが、そのカリスマ性は、まず「自分に対して偽らない」ことから始まります。これが、あらゆる分野の指導者に一番大事な資質です。
 「一部の人を何時までも欺くことはできる。すべての人をしばらくの間欺くこともできる。しかし、すべての人を何時までも欺くことはできない。」これは確かリンカーンの言葉でした。「すべての人を何時までも欺かない人」というのは、どんな人でしょう。 それは<自分に>嘘をつかない人、「偽りのない」人です。自分と神の間に交わりを保ち続ける人です。聖霊の働きから生じる「真実」は、自分勝手な「思いこみ」ではありません。自分だけに都合のいい勝手な思いこみ、あるいはその場の都合で動くご都合主義、御霊にある「良心」は、人をそういうことができないようにさせる力です。イエス様が模範を示された「御霊にある真実」、これこそ、今最も切実に求められているものではないでしょうか。
■肉による判断
 ファリサイ派の人たちは、イエス様を批判して言いました。「あなたは自分で自分の証しをしている。これはおかしいではないか」と。彼らは、イエス様のお言葉が「現実に働いて生じている出来事」それ自体についてはいっさい論じません。その代わりに、イエス様の言われる「啓示」の<論証の仕方>がおかしいと異議を唱えるのです。するとイエス様は、「たとえわたしが自分で自分について証しをしても、その証しは真実である。なぜなら、わたしは一人ではなく、わたしを遣わされたお方もわたしと共にいてくださるから」と応えられた。
 「啓示」とは、啓示してくださるお方とこれを受ける人以外の人に向かっては、証明することができません。その人に神が示されたことは、それ以外の人に向かって、客観的な根拠を持ってその啓示を論証することができないのです。だから、<啓示を論証する仕方>を求めるのは、そもそも「啓示それ自体」を全面的に否定することになってしまうのです。ファリサイ派は、イエス様の行なわれたこと、イエス様のお言葉によって「現実に」働かれる力についてはなにも言わない。ただ批判的に啓示を論証せよと言うだけです。これが「肉による」人間的な判断です。
■啓示を歩む
  啓示が「真実」であることを証しするものはなんでしょうか。イエス様は、ファリサイ派の質問にちゃんと答えておられます。それは、イエス様が「一人でなく二人である」ことです。言い換えると、ここでイエス様は、「父なる神がご一緒に働いておられる」ことを言おうとしています。啓示は、その人の勝手な思いこみでもなければ、単なる私的な見解でもない。啓示とは、本質的に「交わり」を生み出すもの、すなわち「共同体的」"communal"に働くからです。だから啓示は、「共同体」"community"をつくることができるのです。神からの真実の啓示は、自分を求める人にではなく、「いつも遣わされたお方のみ心を行なおうとする」人に臨むのです。自分を遣わされたお方のみ心を求める。これが、その人の証しが「真実」かどうかを決めるのです。わたしたちクリスチャンは、よほど注意しないと、この点で「偽善」に陥ります。
 父が遣わされたイエス様、この方と共に歩むなら、その人には、自分自身の証しが真実かどうかが分かります。それは、自分勝手な空想でも思いこみでもなく、自己義認の偽善でもありません。イエス様の御霊に従うと、自分にも「神からの出来事」が生じるのが分かります。人には説明できなくても、ああこれはできる。これはだめだと、なんとなく分かるのです。少なくとも、「今の自分に」必要なことだけは、ちゃんと示されます。だから、その示しの中を歩く。その示しの中で、「今現在やるべきこと」を示された通りにやる。そうすれば、次にやるべきことが必ずその人に示されます。これが、その人にとっての「真実」です。信仰とは、主の導きに委ねて「今の時を」歩むことです。啓示された事が、たとえ人から見て分からくても、どうか<自分に与えられた>ことをいい加減に扱わないでください。
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