【注釈】
■8章の構成と資料
イエスとファリサイ派の論争は7章32節に始まり、これが8章へつながります。7章と8章が一つのまとまりを形成していますから、7章10節でイエスが「密かに」エルサレムへ上がり、神殿の境内で「公然と」語り、8章59節で、神殿の境内から再び「密かに」出て行くことで終わります。だから、今回の場も、仮庵の祭りに設定されています。
8章12~59節は、「イエスは(再び)言われた」で始まり、全体が、12~20節/21~30節/31~59節の三つに区切られています。三つの対話/論争が並行するこの構成は、ヨハネ共同体のおそらく同一人物が語った言葉が、後から編集されたり書き足されたりした結果だという見方があります。だからと言って、ここに書かれていることが、すべてその人物の「創出」だとは言えません。ヨハネ共同体は、イエスの出来事を親しく目撃した始祖を柱とするユダヤ人キリスト教徒で成り立っていましたから、イエスの出来事の最初期からの伝承を保持していたのです。
8章12節以下での資料の編集と内容の分析は、「ヨハネ福音書の前半部(1~12章)のどの章よりも困難」〔ブラウン『ヨハネ福音書』(1)〕だと言われます。8章12節を10章21節の盲人の癒やしと関連させて、これらを「光講話」から離散した資料の一部と見なしたり〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕、8章21~29節を7章32~36節につないだりすることで〔前掲書778頁(注)139〕、ヨハネ福音書全体を寸断して編集し直すという試みがなされていますが、この福音書の真の編集意図から見て、成功しているとは言えません。
7章から10章(21節)までは、共観福音書との並行記事がほとんど見られないと言われていますが、今回の箇所には、共観福音書との接点が「数多くあり、微妙で、かつ教義的です」〔バレット『ヨハネ福音書』〕。「光」、「裁き」、父なる神とイエスの父子一体の「証し」、ファリサイ派との対立、これらはどれも共観福音書の随所に見られる思想であり出来事です。だから、ヨハネ福音書は、共観福音書の根底に流れる思想と信仰をいくつかの主題に凝縮して、これらをミドラシュの手法にならって並行させながら、それらの主題を敷衍し、かつ深めています。「光」にせよ「裁き」にせよ、「父の神」にせよ、採りあげられているのは、どれも旧約聖書から受け継がれた主題です。今回を含め、この福音書全体の語りの枠は、マルコ福音書の歴史的な枠組みを採り入れていますが、これも旧約聖書の叙事物語の手法に沿うものです。
■8章12~59節の概要
8章12節~20節では、「わたしは世の光である」に始まり、「自分についての証は真実でない」というファリサイ派からの批判に対して、イエスは、(1)自分の出自と行く先を知っていること、(2)イエスの証しはイエス一人ではないことをあげ、そこから「真実の証しと裁き」について告げています。イエスがどこへ向かうおうとしているのかが、イエスの霊的な権威によって彼らに新たに告げられますが、彼らは、イエスの証しを受け入れることができません。
8章21~30節では、イエスが「彼ら」(ファリサイ派)に自分が「去っていく」と告げることで始まり、さらなるユダヤ人たちの問いかけに応じて、イエスの行く先が、死と栄光であることが示されます。
8章31~59節では、「イエスを信じたユダヤ人」に向けて、「真理は自由を与える」という証しに始まり、イエスの真の弟子とは誰かが問われます。これに端を発した「自由と奴隷」の問題は、「真のアブラハムの子孫」とはだれのことか、という問題に発展します。ユダヤ人が、アブラハムこそ自分たちの父祖だと主張するのに対して、イエスは、相手の「ユダヤ人たち」に向けて、ヨハネ福音書全体で最も厳しい批判を加えることになります(8章44節)。
「神から来た者は神の言葉に聴き従うが、あなたがたが聴き従わないのは、神から来た者でないからである」(8章47節)。ここを8章12~59節の中心的なテーマだとする見方があります〔バルト『ヨハネ福音書』〕。イエスのこの証言を中心にした論争は、5章の癒しに続く論争に端を発していますが(5章38~42節)、8章は、多くの点で5章と対応していると言われます。
5章では、モーセ律法の安息日規定を破棄したことで、「イエスは自分を神としている」という誤解が殺害への動機となります(5章17~18節)。5章45~47節と7章19~23節と8章17~18節では、モーセ律法について語られます。「父はだれも裁かない。子に裁きがゆだねられている」(5章22節=8章15~16節)。「わたしは自分では何もできない」(5章30節=8章28節)。「わたしの言葉を聴いてわたしを遣わした方を信じる者は永遠の命を持つ」(5章24節=8章51節)。また、「もしわたしが自分自身について証しするならその証しは真実でない」(5章31節)は、「たとえわたしが自分のことを証ししても、その証しは真実である」(8章14節)へと、対照的な言い方に変わります。
5章から8章へのこのような類似と対比は、単なる繰り返しではなく、対応し関連し合っていると見るべきでしょう。「わたしを遣わした父御自身がわたしについて証しをする。あなたがたはその父の声を聞いたこともなく、その姿を見たこともない」(5章37節)は、「あなたたちは、わたしもわたしの父も知らない。もしわたしを知っていたなら、わたしの父をも知っているはずだ」(8章19節)となり、「子があなたがたを自由にするなら、あなたたちはほんとうに自由になる」(8章36節)とあって、父とイエスの相互の交わりの深さが、8章ではいっそう徹底され、「イエス自身を通じて啓示される父」と、両者の一体性が深められてきます。言い替えると、イエスと父の関係が、イエスの人格的存在そのものに集中し、より深く「イエス自身の霊性へ」内面化されます。
■8章12~20節について
今回の箇所は、先ず「ファリサイ派」が相手であり、これに「イエスを信じたユダヤ人」との論争が続きますから、ヨハネ共同体とファリサイ派の間の論争と、続いてヨハネ共同体内部で生じた論争とが反映していると見ることができます。
〔光と裁き〕
「光」は、人を照らす神からの「啓示の光」であり、人に命を与える「救いの光」(3章21節)であり、神と人が「交わりに入る光」(1章4節/第一ヨハネ1章5~7節)です。ヨハネ福音書の「光」には、「啓示と和解(交わり)と救済が一点に凝縮している」〔バルト『ヨハネ福音書』〕のです。「わたしは(世の光で)ある」は、イエスの霊的人格の臨在を表わす「エゴー・エイミ」へつながります。これは、「真理の光」(1章9節)として「人に真の自由を与える」(8章32節)もので、「命の光」として「永遠の命」をもたらす働きをします(8章51節)。
しかし「光の働き」は、「救い」と同時に、その裏面に「裁き」を秘めているのが特徴です。啓示の光は、これを「理解しない者」を暴き、交わりの光は、これを「受け入れない」で拒否する者を生じ、救いの光は、「滅び」をもたらす結果をともないます。今まで見てきた「光と闇のこの不思議な交錯」は、今回に始まる8章全体の論争を通じて最も鋭い形で提示されることになります。
3章17~21節に始まる光による裁きは、5章19節以下の裁きを経て、8章につながります。これは9章38節の霊盲への裁きにつながりますが、「裁き」には「断罪」の意味がこめられています。ただし、「わたしは誰をも裁かない」と表裏を成していることからも分かるように、これら一連の「裁き」は、終末での「最終的な断罪」(ヨハネ黙示録20章12~14節)ではありません。それでも、イエスの臨在に不可避的にともなう「裁き」は、たとえその人自らが招いた結果であるとは言え、永遠的な「有効性」をも帯びるのです(8章16節)。
8章12以下では、この「裁き」が、<イエスとその父との一体性>を「知る」ことに絞られます。「わたしが父におり父がわたしにおられること」(14章10~11節)、これが、今回の箇所でもイエスの言葉が「啓示」することにほかなりません。ここで、8章だけでなく、ヨハネ福音書全体を理解するために決定的に大事なことが示されます。それは、「<父こそが>、人々が御子を認識し見るための前提、また御子を信じるための前提を造りだしている」〔バルト『ヨハネ福音書』〕ことです。
■8章
[12]
イエスは再び言われた。
「わたしは世の光である。
わたしに従う者は
暗闇の中を歩かないで
命の光を持つ。」
【再び言われた】7章37節を受けて、イエスは「再び」発言します。7章では境内の群衆に向けて語っていますが、今回は、続く内容から判断して、相手はおそらくユダヤ人の指導者たち(ファリサイ派?)です。
【世の光】仮庵祭の終わりの日には、神殿の燭台に特別の明かりが灯され「光の祭り」が執り行なわれました。ヨハネ福音書では、イエスこそ、ユダヤ教の神殿の光に代わる「世の光」です。ここの「わたしは~ある」にも、イエスの臨在を表わす「エゴー・エイミ」が反映していると見ていいでしょう。ユダヤ教の黙示文学では、終わりの日に起こるべきことが、ここでは、啓示者が「わたしが~である」ことによって、すでに現在化するのです〔シュルツ『ヨハネ福音書』〕。
(1)「光」は人類に普遍する神の象徴ですが、旧約聖書では、創世記1章3節の原初の「光」に始まり、詩編27篇1節の「ヤハウェはわたしの光」があり、イザヤ9章1節には「暗闇を照らす光」とあり、同49章6節では「主の僕」(メシア預言)が「地の果てまで照らす光」とあります。イザヤ60章1節では、イスラエルに新しい光が与えられたと第三イザヤが預言しています。すでに指摘したとおり、「知恵の光」についても箴言6章23節/知恵の書7章26節があります。
(2)「光」は、太陽と結びついて人類に普遍する神的な存在の象徴です。ヘレニズムで、特にヨハネ福音書との関係で注目されるのが『ヘルメス文書』で、これには、「光から聖なるロゴスがフュシスに乗った」〔CH(1)5節〕とあります。ここでは、男性原理の「ロゴス」(叡智)が、女性原理の「フュシス」(物質的存在)と性的に結合します。これは、火と空気と土と水の四大元素にロゴスが働きかける様を表わすものです。「あの光は、わたしであり、お前の神なるヌース(叡智)であり、闇から現われた湿潤なフュシスより以前にある者である。ヌースから出た、輝くロゴスは神の子である」(同6節)ともあります〔荒井献・柴田有訳『ヘルメス文書』朝日出版(1980年)〕。この文書が言う「わたし」とは、ここで語るポイマンドロスのことです。ポイマンドロスの言う「光」は、七十人訳の「光」とギリシア哲学のストア派の言う「光」を結んでいて、宇宙の原理を表わす「霊的ロゴス」のことです。
(3)『ヘルメス文書』の光と類似するのが、フィロンの「光」です。『ヘルメス文書』とアレクサンドリアのフィロンとヨハネ福音書の「光」は、類似するところが多いと言えます〔バレット『ヨハネ福音書』〕。
(4)共観福音書の「光」は、マルコ4章21節の「灯火」のたとえや、マタイ4章16節/ルカ2章32節が引用するイザヤ預言「異邦人を照らす啓示の光」があります。マタイ5章14節ではイエスの弟子が「世の光」ですから、イエスこそ、旧約聖書の「光」預言を成就した「メシア」です。
(5)ヨハネ福音書の「光」は、原初キリスト教からの「光」を受け継いでいますが(フィリピ2章15節/コロサイ1章12節/エフェソ5章8節)、ヨハネ福音書では、光が、とりわけイエス自身の人格的霊性に集中していて、救いと裁きをもたらす働きをするところに特徴があります〔バレット『ヨハネ福音書』〕。
【暗闇の中を歩かない】「暗闇を照らす光」については1章5節を参照。「暗闇」は光を拒絶する力ですが、同時に、光が「照らす」相手にもなります。なお、「光」という言葉は、クムラン宗団の文書でもしばしば用いられ、終末に、メシアとサタン(敵対者)、「光の子」と「闇の子」との間に戦いが起こり、メシアの王国が実現します。これが、クムラン宗団とエルサレムの神殿制度という「真理と虚偽」との戦いに重なります。
【命の光】「命の光」は、旧約の「律法は光である」(シラ書45章17節)と対照されているのかもしれません(1章17節参照)。先の「わたしは命のパンである」(6章35節)では、イエスこそ、「天から降って世に命を与える方」(6章33節)ですから、「命の光」とは、神の命から発する光として、人間に命を授与する光のことです〔バーナード『ヨハネ福音書』(2))〕。人間は、イエスを通じて、この光を受けることで初めて、これに「従おう」と「決断する」ことができます。その決断こそ、命の光が力を発揮する場です。人間は、「今の自分が明らかにされる危険を冒しても、あえて光のところに来る」〔バルト『ヨハネ福音書』〕ように求められているのです。
[13]~[14]
それで、ファリサイ派の人々が言った。
「あなたは自分について証しをするが
その証しは真実でない。」
イエスは答えて言われた。
「たとえわたしが自分について証しをしても、
その証しは真実である。
わたしは知っているからだ
どこから来てどこへ行くのかを。
しかし、あなたたちは知らない
わたしがどこから来てどこへ行くのかを。」
【自分について証する】旧約聖書には、裁判で処刑の判決を出す場合は「必ず複数の証人の証言によらなければならない」とあります(民数記35章30節/申命記17章6節)。ユダヤ教では、この規定がミシュナによってさらに拡大されて、自分について証する者を誰も信じてはならない、また誰も自己証言をしてはならないとされていました〔バレット『ヨハネ福音書』〕。
【その証しは真実でない】12節でイエスが証ししているのは「啓示の光」のことです。啓示の光が真理か否かは、その光源が真実かどうかにかかっています。しかし、もしもその光源が「人間によって理解できる」ものであれば、それはもはや「神から出た」ものとは言えないでしょう〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。ここでは、啓示すなわち「世の光」が<現実に存在して働いている>かどうか、その現実/事実それ自体については触れられてはいません。そうではなく、一般論として、そもそも一人の人間が証しする「啓示」なるものが「存在するのかどうか」が、イエスに対して問われているのです。啓示が啓示であることを人はどのようにして洞察できるのか? ファリサイ派は<このこと>に対して異論を唱えているのです〔バルト『ヨハネ福音書』〕。しかし、ブルトマンが指摘するように、人がその啓示を「理解できる」とすれば、それは<啓示それ自体を通じてのみ>洞察できるのであって、それ以外の人間的な見地からの「理解」は、もはや「神からの」啓示だとは言えないでしょう。
【わたし自身について証しする】14節は、5章31節の「もしわたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない」というイエスの言葉と「形の上では」矛盾するように見えます。しかし、5章31節と8章14節の両方には、イエスが「父と共にいる」という証言が共通していますから、5章から8章への移行は、この「父子一体」が鍵となります。「この点から」見て、8章14節は、5章31節よりも「さらに高い」根拠に立つ発言であることを洞察する必要があります。今回の箇所は、ヨハネ黙示録3章14節の「アーメンである方、誠実で真実な証人、神の創造された万物の源である方」の証しに匹敵するところまできています〔バーナード『ヨハネ福音書』(2)〕。
【わたしの証しは真実である】イエスとファリサイ派の「自己啓示」をめぐる対立は、ここで改めて露わになります。7章28~29節に始まる証言をめぐるここの対立は、8章42~44節にいたって、一つの頂点に達っします。ここで言う「真実」の原語「アレーテ(セ)ース」は、このほかに、この語に近い「アレーティ(シ)ノス」があり、ヨハネ福音書では、この二つが区別されていないと言われています。わたしは、ヨハネ福音書の言う「真実/真理」は、日本語の「ほんとう」が最も近いのではないかと思っています。「神はほんとうにおられる」「それはほんとうだった」「ほんとにそうなのか?」「ほんとうのことを言う」「夢がほんとになった」などの「ほんとう」です。これには「事実」「現実」「真相」「真理」などの意味が含まれるからです。
【どこから~どこへ】「どこから」(原語「ポセン」)は、ヨハネ福音書で13回もでてくる重要なテーマです。外見はヨセフの子でありながら、真実は「上から」来た者で、「天の父に由来する者」であると「知る」ことが、「どこから」と密接に結びついています〔間垣洋助『ヨハネ福音書のキリスト論』〕。
人間が確実に「知る」ことができるのは、自己の「過去」と「現在」の存在についてだけです。人間は、自己の「未来/将来」がどうなるのかを知ることができないからこそ、<確実な信頼>に値しないのです。これに対してイエスは、自分が「どこから来ていて、どこへ向かうのか」、その現在も将来も<知っている>がゆえに、その証しは<真実である>と言うのです。「ユダヤ人」には、自己についてそのように証言することができません。またイエスの将来を知ることもできません。彼らには、イエス・キリストの起源も、その存在意義も理解できないからです〔バレット『ヨハネ福音書』〕。「闇は光を理解できなかった」(1章5節)のです。
先に「風は思いのままに吹くから、どこから来てどこへ向かうのかを知ることができない」(3章8節)とあるとおり、イエスの自己証言は、「思いのまま」の現われです。イエスが<どこから来てどこへ行く>かは、イエスを遣わし、イエスが再び帰って行くところ、すなわち<父のみ心>にあります。イエスは<この次元>から語っていますが、ファリサイ派には<このような存在>が洞察できません。ファリサイ派の主張は、あたかも「啓示は、啓示自体によるよりもほかの仕方で証明されるかのようである!」〔バルト『ヨハネ福音書』〕。ここ14節には、1章1~3節のロゴスの起源に始まり、13章3節を経て、16章28~30節の弟子たちへの啓示にいたり、最後に20章17節で告げられるイエスの証しの過程全体が、その背後に潜んでいます。
[15]~[16]
あなたたちは肉に従って裁く。
わたしはだれをも裁かない。
だが、もしわたしが裁くなら
わたしの裁きは真実である。
なぜなら、わたしはひとりではなく、
このわたしをお遣わしになった父と共にいるから。
【肉に従って裁く】パウロと違って、ヨハネ福音書では、「肉の罪性」を強調する含みはありませんが、「霊のこと」を悟るには何の役にも立たないと指摘されています(6章63節)。ヨハネ福音書も、パウロ同様に、キリストの真の人間性を否定しませんが、ただ人間的にキリストを見て、彼を判断する/裁くことが偽りである点で一致しています(第二コリント5章16節)。
【だれをも裁かない】8章11節を参照。「罪の女」の物語が8章の始めに置かれたのは、15節のこの言葉からでしょう。このようなイエスの言葉は、ヨハネ福音書にしか見られませんが、その事例は共観福音書に多くでています(マルコ2章16節/ルカ7章39節/同15章2節)。イエスのこの言葉は、とりわけ<地上でのナザレのイエス>の言葉として受け取ることができます。イエスが「この世へ」遣わされてきたのは、イエスによる「世の救い」が目的ですが、この意味での「裁かない」は、イエスの父の御心でもあります〔バーナード『ヨハネ福音書』(2)〕。ただし、地上でのイエスの歩みは、自ずと人を「分ける」働きをもたらすこともまた事実です(3章17~19節/5章22~23節)。「愛」は人を分け隔てしませんが、まさにその愛が、これに接する人を分けるという不思議/逆説が現実なのです。イエスのこのような<地上での歩み>は、終末にいたるまで継続し、「人の子」が終末において顕れる時に完成することになりますから、この節は次の16節へつながります。
【もしもわたしが裁くなら】16節の「だが」(原語「デ」)は15節を転倒させます。イエスは裁かないが、イエスは裁きを否定もしないのです。ただし、イエスの裁きは、ファリサイ派の裁きとは異なる特徴を帯びています(3章19~20節/6章61~62節/7章24節)。なぜなら、裁きは、父と御子と聖霊による裁きだからです(16章8~11節)〔バレット『ヨハネ福音書』〕。
だから、「もしもわたしが裁くとすれば」とあるのは、イエスが「終末において裁く時」のことです〔バルト『ヨハネ福音書』〕。「もしわたしが~」は「たとえわたしが裁くとしても」〔岩波訳〕と訳すこともできます。この裁きは、必ずしも裁判での裁判官による「断罪」を意味しません。イエスを拒むこと、すなわち光を「憎む」ことそれ自体がすでに「裁きになっている」というのがヨハネ福音書の考え方だからです(3章18~20節参照)。「光」はここで「裁き」と関連づけられますが、「光が闇を裁く」とあるのは「真理が虚偽を裁く」ことですから、「裁き」は、霊的な意味で「真理か虚偽かを明らかにする」ことです。
【わたしの裁きは真実】原語「アレーシノス」(真実)を「アレーセース」(真理)と読む有力な写本やパピルスがありますが、ヨハネ福音書では「真実」と「真理」の区別はありません。なお「父」が抜けている写本がありますが、「父」を入れるほうが支持されています〔新約原典テキスト批評〕。
15節では、「裁く」ユダヤ人と「裁かない」イエスとは対等でありません。ファリサイ派の人間的な「相対性」と、イエスが啓示する「絶対性」との間には、人間同士が対等に争う相互関係が成り立たないからです。イエスの絶対性は、「自分からは何も行なわず、ただ父から聞くままに判断する/裁く」ところにあります(5章30節)。しかも、イエスの父は、誰をも裁か<ない>のです。「裁き」は、ただ、御子と彼らとの出合いの場で生じることになります。父の御心を受けたイエスの啓示が、「救いの啓示」として認識されないからです。
彼らは、罪にまみれた女を断罪することもせずに、彼女を赦したイエスの業が、父からの絶対的な愛の啓示から発していることを理解することも受け入れることもできません。「誰をも裁かない」イエスの背後から差す絶対の恩寵の光も、自分たちの宗教的な慣行を破る勝手な行為だと相対化して見なされるからです。人間の宗教が帯びるこのような相対性に不可避的に潜むねたみ心や競争心のゆえに、彼らは、「罪の女」に向ける自分たちの宗教的憎悪と断罪を、そのままイエスに向けるのです。イエスを通じて啓示される父の驚くべき絶対的な愛と赦しの恩寵の業も(5章20節)、彼らの目からは、一人の男の思い上がった越権行為にすぎないと相対化されて映り、このために、彼らは、「お前は自分を神だと装(よそお)っている」(5章18節)と非難して、冒涜の罪を着せようとするのです。
人間同士の相対性から抜け出すことをしない彼らの宗教は、自分たちの裁きと断罪を目の前のイエスに投影することで、イエスを拒絶するだけでなく、逆に、目前の相手も同様に、自分たちを憎悪し断罪しているのだと「思い込む」ことになります。彼らは、己の相対性から生じる自己投影の結果、今の自分たちは、イエスが告知する絶対的な恩寵によって救われることなど望むべくもないと思い込んでいます。しかも、彼らは、自分たちがそのような<思い違い>をしているこさえも意識しません。「裁き」についての彼らのそのような「思いこみ」こそが、彼らへの裁きの現実を作りだしているのにです。これが、ここで生じている「裁き」の実態です。
「(救いと裁きの)二つの平面では、イエスと彼らの間に対立は存在しない。彼らは自由に活動できるし、判断もできる。父は誰も裁いてはいない。それにもかかわらず、彼らは現にイエスに逆らっているし、イエスの出現によって、イエスの父から裁かれていると<思いこんで>いるのである」〔バルト『ヨハネ福音書』〕。これが、イエスと彼らとの出会いにおいて生じる不幸な「裁き」の出来事に潜む「真実」です。
[17]~[18]
あなたたちの律法にはこう書いてある
二人が行なう証しは真実であると。
わたしは自分について証しをしている。
わたしを遣わされた父も
わたしについて証しをしてくださる。
【あなたたちの律法】「あなたたち(の律法)」が強められていますから、この言い方だと、イエス自身はユダヤ人でないかのように聞こえます。ここでは、イエスに敵対する者たちの聖書(律法)解釈と、イエスの聖書(律法)解釈とが区別されています〔バーナード『ヨハネ福音書』(2)〕。同時に、イエスがここで律法を否定してはいないことも明らかです。おそらく、ここには、ヨハネ共同体の頃のユダヤ教の会堂とキリスト教徒との律法解釈をめぐる対立が反映しています〔バレット『ヨハネ福音書』〕。
【二人が行なう証しは真実】申命記19章15節を踏まえた発言ですが、ここで証しされているのは、父と共にあるイエス自身が、新たな律法にほかならないことです。聖書が証しする「律法の光」とは、ファリサイ派が主張するようなものではなく、その実態はイエス自身を指すものです。イエスが「律法の光」として働くのです。しかし「彼ら」には、この律法の光が「裁きをもたらす」結果へ働きます。それも黙示的な遠い未来のことではなく、「真実である」とあるように、すでに現在の出来事として、「二人の証し」がこれを生起させるのです〔シュルツ『ヨハネ福音書』〕。
【自分について証しする】原文の「わたしは自分について証しする者である」は、「エゴー・エイミ」(わたしは~ある)に「わたし自身について証しする」が述語的につながっています。だから、「わたしは命のパンである」(6章35節)、「わたしは世の光である」と同じ文型です。イエスがこの世に遣わされたのは、「神の御名を知らせる」ためだとありますが(17章6節/同26節)、「エゴー・エイミ」がヘブライ語の「アニー・フー」(I am He)にあたる神名を表わすように、今回の「わたしとわたしを遣わした方」も、ヘブライ語の「アニー・ヴァフー」"I and He" に近い言い方ですから、「神それ自体とこれと共なる者」を示唆していて、これも神名に近い存在を表わします〔ドッド『第四福音書の解釈』〕〔キーナー『ヨハネ福音書注解』(1)741頁(注)361〕。ファリサイ派が言う「あなたの証しは真実でない」に対して、「<エゴー・エイミ>こそ真実の証しである」。こう、「父と共に居る」イエスの神的な臨在が応えるのです〔バーナード前掲書〕。なお、この18節の背後には、イザヤ書43章10節の七十人訳「『あなたはわたしの証人となり、わたしも証人となる』と主なる神が言われる」があると指摘されています〔バレット『ヨハネ福音書』〕他。
[19]
彼らが「あなたの父はどこにいるのか」と言うと、イエスはお答えになった。
「あなたたちは、わたしを知らないし
わたしの父をも知らない。
もしもわたしを知っていたなら、
わたしの父をも知っているはずだ。」
【あなたの父はどこにいるのか】この質問は、先に群衆が、イエスの出所を「知っている」と語り合っていたことと対応します(7章27~29節)。その時、イエスは、群衆に今回と全く同じことを告げています。ただし、今回の相手は、先の群衆のように、イエスの出自を「知っていると思い込んでいる」のではなく、そもそも「イエスの父」は<どこに>いるのか?という疑問、イエスの出所から、さらに一歩を進めて、イエスの存在それ自体をめぐる根本的な問いの前に立たされています。「ここで相手側は、8章とヨハネ福音書を理解するために決定的に重要な事柄の前に立たされている。すなわち、人間が御子を見て、その真の霊性を認識するための前提、また御子を信じるための前提、これを造り与えるのは<父なる神御自身>にほかならないことである」〔バルト『ヨハネ福音書』〕。しかも、イエスの答えは、相手側に、先の7章と全く同じ対処法を生じさせます。「イエスの時がまだ来ていなかった」からです(7章30節/8章20節)。ここでユダヤ人たちは、イエスの言う父とは、「どこにおられるのか分からない方」のことだと察知しますが、このことが、8章でのこれ以降の「父をめぐる」論争へ発展します。さらに、この問いかけは、受難の前夜、今度は、イエスの弟子の一人フィリポによって「父を見せて(すなわち啓示して)ください」という形でなされます(14章8節)。イエスは、彼に「<わたしを>見た者は父を見た」と告げて、ナザレのイエスから目をそらさないことが、父と子の交わりが啓示される前提であると告げますが、さらに、これを信じる弟子たちが、イエスにあって「もっと大きな業」をすると予告します(バルトは、ここでも、<父のみ>がこの啓示を行なうことを強調しています〔バルト前掲書〕)。
[20]【宝物殿の近く】原語は「ガゾ(宝物)+フュラキオン(保管庫)で」です。神殿本殿の聖所と至聖所をコの字型に囲むように、3階建てがあり、その中に「保管庫」が数多くあって、それらの保管庫には、神殿の宝物や祭儀の用具が保管されていました。しかし、福音書で言う「ガゾフュラキオン」は、これらの保管庫のことではなく、「献金箱」のことです(マルコ12章41節)。境内から神殿の本殿に入るには、通常南と北の両側にある入り口から「女性の庭」に入ります。女性の庭の内部は、東側に男性の庭に入るニカノル門があり、庭を囲む他の三方は回廊になっていました。その回廊の13箇所に、ちょうど角笛/トランペットの先端を切った形の青銅の?瓶(かめ)が置かれていました。これが「献金箱」で、男性でも女性でも、そこへ献げ物をすることができました。献金箱の六つは、「新シェケル用」「旧シェケル用」「鳥の供え物」「燔祭への若鳥用」「香料用」「贖いの座への黄金用」などに用途が分かれていましたが、そのほかは「随意の献げ物用」になっていました〔Ritmeyer.
The Ritual of The Temple in the Time of Christ. Jerusalem: Carta (2002).〕。今回の箇所に「宝物庫<で>」とありますが、これは実際には「献金箱の近く/側で」と訳すのが正しいでしょう。したがって、イエスは、女性の庭を囲む回廊で語っていたことになります〔バレット『ヨハネ福音書』〕他。
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