41章 「エゴー・エイミ」の警告
                 8章21〜30節
■8章
21そこで、イエスはまた言われた。「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない。」
22ユダヤ人たちが、「『わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない』と言っているが、自殺でもするつもりなのだろうか」と話していると、
23イエスは彼らに言われた。「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない。
24だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」
25彼らが、「あなたは、いったい、どなたですか」と言うと、イエスは言われた。「それは初めから話しているではないか。
26あなたたちについては、言うべきこと、裁くべきことがたくさんある。しかし、わたしをお遣わしになった方は真実であり、わたしはその方から聞いたことを、世に向かって話している。」
27彼らは、イエスが御父について話しておられることを悟らなかった。
28そこで、イエスは言われた。「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。
29わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである。」
30これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた。
                       【講話】

                    【注釈】
■この世に働く闇の力
 ヨハネ福音書では、同じ繰り返しのように見えながら、内容が、らせん階段のように、めぐりながらだんだん高くなり、登りながら底が深まります。7章では、イエス様をとり囲む群衆の間に、さまざまな波紋が広がり、分裂が生じました。8章12節からは、「ユダヤ人」の指導者たちとイエス様との間に論争が行なわれます。先に、イエス様は、彼らに「わたしがどこへ行くのかあなたたちは知らない」と言われ、「わたしの証しは真実である、なぜならわたしは父とともにいるから」と語られました。
 今回は、さらに、ユダヤ教の指導者たちに、彼らはイエス様の所へ来ることができないだけでなく、「自分たちの罪のうちに死ぬ」(21節)と厳しい言葉で警告します。宗教的な指導者であろうと一般の信者であろうと、政治や経済の指導者たちであろうと、イエスは一切区別しません。神様の目からは、世俗の人も、宗教人も、すべての人は「この世」に属しています。ヨハネ福音書の厳しさは、徹底した平等主義に根ざしていて、この点ではパウロと同じです(ローマ3章23〜24節)。人はすべて罪を犯したため、神の前に罪のうちにあって死ぬ存在であることをヨハネ福音書もここで確認するのです。
 「ユダヤ人」たちは、イエス様のお言葉を聞いて、この人は自殺でもしようとするのかと、嘲りを込めて語り合います。彼らは、自分たちが今語っている相手がどういう人なのか全く理解できません(25節)。なぜでしょう? 原因は、彼らのイエス様への問いかけ、「あなたはいったい何者か?」に隠されています。「何者か?」分からないのは、皮肉にも、彼ら自身のほうなのです。彼らは、自分たちが、ほんとうは「何によって動かされているのか」を悟っていません。その上、なお悪いことに、自分たちがしていることを「知っている」、何が正しいかをちゃんと「心得ている」と思いこんでいるのです。まさに、この思い込みゆえに、自分たちの業の真相が彼らには見えないのです。自分たちの背後に、自分たちの思いや力を超える「この世を支配する力」が蠢(うごめ)いていること、人間は、その闇の力に動かされやすい存在であること、すなわち、自分たちが「この世に属している」(23節)ことを洞察できないのです。
 イエス様は、「知恵の御霊」によって、ご自身のことだけでなく、彼らの背後で彼らを操っている「この世」の力を見抜いておられます。霊の人は、すべての事を判断するけれども、自分はだれからも判断されないとパウロが言ったのはこのことです(第一コリント2章13〜14節)。
 イエス様が、宗教的指導者に対して、「あなたたちは罪のうちに死ぬ」と言わたのは、彼らが「この世(時代)に属している」からです。イエス様が「この世」と言われるとき、それは世俗の事だけでなく、宗教的な指導者の業や教えが支配する領域をも含んでいます。「宗教する人」である人間が執り行なうその宗教的な業もまた、同じく「この世の支配」を免れることができません。どんなに立派に組織された宗団でも、さまざまなしるしを伴う霊能の業でも、それらが、人間に働きかける「世の悪の支配」から除外されていると判断する根拠にも、彼らの無罪への保証にもならないのです。「この世」は、それほど深く罪の闇に包まれているからです。
■「エゴー・エイミ」
 ナザレのイエス様が、「エゴー・エイミ」として御臨在くださるとき、そこは、「この世の罪業」にあるわたしたちを覆う「絶対恩寵」の働く場に変じます。「上から」と「下から」、「天国」と「この世」の二分法は、わたしたち人間の視界に映る相対的な世界像です。絶対恩寵の光は、そのような相対世界の二分法に左右されることなく、わたしたちの罪業をも包み込んで働きかけるのです。このような事態は、相対世界のわたしたちから見れば、「受け入れがたい」矛盾であり、「納得しがたい」逆説になります。だから、彼らが、イエス様からの「エゴー・エイミ」の働きを拒否して(24節)、どこまでも「この世にある」自分に留まろうとする限り、「自分たち自身の」罪の内に死ぬことになるのです(24節後半)。
 十字架の恵みは、十字架の「裁き」となって指導者たちに迫ります。しかし、神の恵みの裏に神の裁きがあるように、神の裁きの裏には神の恵みがあるのです。だから、神によって「裁かれる」ことを避けてはなりません。自分を偽る必要はありません。あるがままそのまま、主様の御霊の働きにあえて己を曝す。御臨在にお委ねする。十字架の前に自分を投げ出す。そこに恩寵の光が差して、あなたに救いが訪れるのです。己の罪をも御霊に曝す者が救われ、裁きを受け入れることで救いが訪れる。この不思議が、御霊にあって実現するのです。「真理を行う者は皆光に来る」(3章21節)とある十字架の神秘がここにあります。
■上から来る者
 「わたしは上から来た者であり、あなたたちは地から出た者である」とイエス様が言われたのは、この世が深く悪に染まっていることを意味します。2014年の今、世は不況のために、多くの人たちが命を断っています。この世のさまざまな矛盾を身に受けて、世に働く悪の力に耐えることができず、ついにその命を断ってしまう(22節!)。重く厳しい困難に出逢う時、わたしたちは意気阻喪して生きる望みを失いそうになります。そんな時、自分の身に生じている出来事を世間一般の目で見るのではなく、御霊にある祈りによって自己を見ると、「死ね」と言われて自分を見限るのではなく、「生きよ」と言われて自分を見直すことができます。「あなたたちはこの世のものであり、わたしはこの世のものではない」とイエス様が言われたことが、ここで非常に大事な意味を帯びてきます。自分の身に生じていることをこの世的な見方から切り離して、御霊の目でとらえ直すのです。「この世」から切り離された御霊にある自分から、全く新しい視野と、新しい自己認識の希望が啓けるのです。
 この世に「属さない」ことは、この世に「いない」ことではありません。天に「属している」ことが、現在すでに天に「いる」ことではありません。あなたの存在の起源が<どこから>出ているのか? それが問われているのであって、今現在あなたがどこに<いる>のかが問われているのではありません。たとえ己が闇に囲まれる世にあっても、御霊の命の光が差す時、心には闇に勝つ命の灯がともるのです。これによって、世の十重二十重の悪の力にめげることなく、己の内に命の御霊を宿すことができるのです。苦しみにあっても、この灯を頼りに、命を断つことをせずにすむのです。
■生きる喜び
 前回、イエス様は、「わたしは御父との交わりの内にある」と言われました。今回は、一歩を進めて、わたしは御父との交わりを「喜ぶ」と言われます(29節注釈参照)。御父との交わりを喜ぶとは、神を喜ばせることだけでなく、それによって、自分自身も喜ぶことです。主様は、神の御栄光をお求めになり、そうすることで自分自身もお喜びになる。その喜びは、すべてのものを造り、全てのものを生かし続けておられる神の御霊から来ます。天地を創造された方の御霊は、今も刻一刻命を与え、命を創り出しておられます(1章3節)。神の御霊のこのお働きが、イエス様のうちに働く「わたしはある」です。主様が、「父はわたしと共におられる」と言われる時、このように、大自然に命を注ぎ、これを活かし続けておられる神の命そのものを指しておられます。この御霊のお働きこそ、神との交わりの喜びの源であり、この喜びにあずかることが、聖霊にある喜びです。逆に、この喜びを断とうとして、人間を束縛し支配して、人の心を抑えつけて、これを自殺に追い込むのが、この世に働く闇の力であり、イエス様の言われる「この世の支配」です。
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