【注釈】
■8章21~30節について
今回は、これまで出てきた言い方の繰り返しのようですが、ここには、イザヤ書43章10節の「主に選ばれた証人」としての「主の僕」像が反映しています〔バルト『ヨハネ福音書』〕〔キーナー『ヨハネ福音書注解』(1)〕。21節では、イエスがユダヤ人たちから「立ち去る」ことと、彼らへの「裁き」が預言されます。22~23節では、イエスと彼らとの間には、「上と下」「天とこの世」の溝が存在すると指摘され、24節で、彼らの「罪と死」が「エゴー・エイミ」と対置されます。ここが今回の中心です。25~26節では、「あなたは何者か?」となおも問い詰める彼らに向かって、「イエスを遣わしたお方」の真実が、イザヤ書43章10節の預言を踏まえて告げられます。27~28節では、「イエスの父」を悟らないユダヤ人に対して、再び「エゴー・エイミ」が「イエスの受難予告」と共に告げられますが、ここで鍵となるのは、「エゴー・エイミ」が、彼らの「罪と死」に対応していることです。この裁きと断絶の影は、続く8章31節以下でさらに濃くなり、厳しい対立へ深まることになります。
■イザヤ書43章8~15節
今回の箇所には第二イザヤの預言が反映していますので、以下にその直訳をあげます。
あなたたちはわたしの証人である。(主の託宣)
わたしが選んだわたしの僕。
わたしを知り、確信させ、そして悟らせるため
<わたしはそれである>ことを。
わたしの前に造られた神々はなく
わたしの後にも存在しない。
(イザヤ書43章10節)〔私訳〕
イザヤ43章8~15節は、一つのまとまりを形成していて〔聖書協会共同訳〕、そこは裁判の場です(町の門前、あるいは宮廷か)。登場するのは、主(ヤハウェ)とイスラエルの民と諸国の民たちです。イスラエルの民は、「目があっても見えず、耳があっても聞こえない」(同8節)と言われますが、8節は7節までの締めくくりと見て、9節から新しい段落を始めるほうが分かりやすいでしょう〔フランシスコ会訳聖書〕。イスラエルの民は、ヤハウェこそ唯一の真の神であることの証人です。これに対して「諸国の民」は異教の神々を代表しています(9節)。
諸民族の神々を前にして、主であるヤハウェだけが「唯一の神」であることが「わたしはそれ」 (アニー・フー)"I (am) He"として告知されます。告知は12節で再び繰り返され、これによって内容がより明確にされます〔Baltzer.Deutero-Isaiah.164-65.〕。10節の「わたしが選んだわたしの僕」は単数です。このため古代の教父たちは、これをイスラエルを救うためにヤハウェが立てたキュロス王のことだと解釈しましたが〔フランシスコ会訳聖書イザヤ43章(注)5〕、この単数は、集合的にイスラエルの民を指すというのが一般的な解釈です。 "You are
my witnesses, says the Lord."〔NRSV〕〔REB〕。主がイスラエルの民を「選んだ」とあるのは、彼らが「アブラハムの子孫」であることを指します〔バルツァー前掲書〕。イスラエルの民は、自分(たち)が唯一神の「証人」であることを「知る」と「確信する」と「悟る」の三つの動詞で告げられますが、「知る」と「悟る」の間に「確信する/信じる」が入ることで、「知って悟る」ことにより、「信じる」ことが初めて可能になること、決してその逆ではないことが表わされています〔Westermann.Isaiah40-66.122〕。
「アニー・フー」は、ヤハウェこそが唯一の神であって、他に神なるものはいっさい存在しないことを告げると同時に、この神こそ、歴史において働き、その御業が現在すでに行なわれており、将来も続くことを指します。だから「アニー・フー」は、歴史を創造する神自身の臨在とその働きにほかなりません。イザヤ書のこの「アニー・フー」が、今回の「エゴー・エイミ」と重ねられ「父に選ばれた」イエスの証言となるのです。
■8章
[21]
そこで、イエスはまた彼らに言われた。
「わたしは去って行き、あなたたちはわたしを捜すが、
あなたたちは自分の罪のうちに死ぬ。
わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない。」
21節は7章33~34節と類似しています。ただし、7章では「わたしが<ある/居る>ところへ、あなたたちは来ることができない」とあるのに対して、今回は「わたしが<去って行く>ところに、あなたたちは<来る>ことができない」です。どちらにも「あなたたちはわたしを捜し求める」とありますが、先には「あなたたちはわたしを見つけられない」ですが、今回は「あなたたちは<罪の内に死ぬ>」です。先には、イエスとユダヤ人が<同じ時の中で>「わたしはある/エゴー・エイミ」を挟んで対峙しています。だから、ユダヤ人には「イエスの居るところへ」来ようとすれば来ることができます。しかし、今回は<これから起こる>ことですから、その時には、ユダヤ人はもはやイエスのところへ来ることができないままに「あなたたちの罪において死ぬ」のです。今回は、イエスの受難の陰(とその栄光)が濃く現われています。
【また言われた】8章12節の「また」と対応して、これから語られることが、先の8章12~20節を踏まえた上で、内容がさらに発展することを指します。すでにイエスは、自分のことを「命の御霊の水」と証ししました(7章38~39節)。8章に入ると「わたしは世の光である」と証しされますが、同時に、この証しは「裁き」をも伴うことが告げられます。
【わたしを捜すだろう】ここの「捜す」をイエスを逮捕するために捜すことだという解釈があります。「捜すだろう」とあり、続けて「わたしのいるところに来ることができない」というヨハネ福音書の言い方は、「たとえ捜してもイエスのところへ来ることができない」、すなわち、今はまだ、イエスは彼らの手の届くところにいて逮捕することができるけれども、「あげられた」その時には不可能になるという意味です。しかし、ここで語られている問題の本質は、イエスを「捜して捉える」ことができるかどうかではなく、その本質は、十字架の時を境にして、彼らがイエスに近づくことができなくなることです。ただし、十字架以後に、今敵対している者たちには、もはや救いの可能性が完全に閉ざされるのかと言えば、必ずしもそうではありません。この点は24節で再考します。
【罪のうちに死ぬ】ここでの「罪」は単数です。七十人訳の箴言24章9節に「死は諭しを受けない者を襲い、愚かな(無知な)者もまたその罪(複数)の内に死ぬ」とあり、さらに七十人訳のエゼキエル書3章18節には「不法/邪悪な者は自分の不義において死ぬ」とあります。「無知」と言い「不義」と言い、それらは決して特殊な人たちのことではなく、「人間は自分自身の意のままに生活することで<罪の中に>死ぬだろう」〔バルト『ヨハネ福音書』〕という意味です。
7章で、イエスは、ユダヤ人に「わたしのいる所へはあなたたちは来ることができない」(7章34節)と告げますが、その「わたしがいる場」とは、神から遣わされたイエスの霊性が顕れる場のことです。イエスが「エゴー・エイミ」を告知する時に現臨する「御霊の場」です。だから、それは、現在イエスと対峙している人々の目の前に臨在します。もしも、彼らが<このこと>を悟り、イエスの「エゴー・エイミ」のもとへ来るならば、彼らは救われます。しかし、彼らにはそれが見えません。
もしも、ユダヤ人たちに与えられた<現在の時>に、イエスを通して働く神の御業を認めることができないのなら、「あげられた」後になってイエスを捜し求めても、彼らはイエスの霊性の場を見いだすことができません(7章33~34節/13章33節)。今でも「わたしのいる」霊性の場に来ることができないのなら、その時には来ることはまず不可能だからです。「ユダヤ人」を含めて、人がイエスに「近づく」ことができるとすれば、それは「わたしはある」と語られる今の告知の場において、これを<受け入れ>、イエスに信託することによってです。ヨハネ福音書の告知は<この点だけに>集中するのです。「罪」とは、「このこと」ができないことであり、それゆえに単数の罪です。
「イエスを信じる」ことに対立するのが「自分の罪」です。ユダヤ人を含めて、人間は一般に、「自分の罪」のなんたるかを「知る」、すなわちほんとうに覚知することができません。イエスのもとに来ることで、「わたしはある」に接した時に初めて、自分の罪深さがその人に啓示されるからです。その時初めて、イエスが「上から」の人であること、自分が「下から」出ていることを「自分の罪」として「知る/悟る」のです。しかも、これが、現在の時、すなわち、わたしたちがこの世で生きている「今の時に」すでに生起していること、この点が、天(上)と地上(下)を厳しく区別するグノーシス的な二元論と異なるところです。
今回は、イエスが彼らから「立ち去る時」のことですが、これは、「エゴー・エイミ」の現在の臨在が、未来の昇天の場へ時間的に移行することだけではありません。ここで語られている「時」の構造は複雑です。ヨハネ福音書では、受難と復活の栄光が「まだ来ていない」と言われるイエスの時が、「すでに来ている」ヨハネ共同体の時とも重ね合わされているからです。このように、イエスが自分の霊性を証しする時と、十字架と昇天によって「人の子があげられた」(28節)後の時が重なることで、ナザレのイエスの時とヨハネ共同体の時が重ね合わされるのです。だから、「自分の罪の内に死ぬ」という事態は、「エゴー・エイミ」が臨在する共同体の時でも、相手の「ユダヤ人」にあてはまることになります。
【あなたたちは来ることができない】これは7章34節と13章33節でも繰り返されます。今回は、イエスに敵対する「ユダヤ人」に向かって語られますが、13章では、同じことが地上に残る弟子たちに語られます。だから、今回のユダヤ人と13章で最後までイエスに従う弟子たちとの間に絶対的な区別は存在しません。どちらも地上にある限り、相対的な差異の中にある者であり、この意味で、どちらにも救いと滅びの両方の可能性が開かれています。この点は、続く24節においてさらに深められます。
[22]【自殺でもするつもり】ユダヤ教では、自殺者は陰府の深みに落ちるとされていました。「彼は」とあるから、直接イエスに向かって語られたのではなく、彼らが互いにイエスを嘲ってこう言ったのです。彼らの理解/誤解は、先の7章35~36節でのそれと対応しています。「ギリシア人たちに教えを伝える」ことも「自ら進んで死に赴く」ことも、<彼らが想定している>のとは異なる意味で、父の御心によって成し遂げられます。しかも、その出来事が、ほかならぬ彼ら自身の手によって実現すること、<このこと>も彼らから隠されています。だから「わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない」のです。ここにもヨハネ福音書独特の「皮肉」を読み取ることができましょう。
[23]~[24]
すると彼らに言われた。
「あなたたちは下からである
わたしは上からである。
あなたたちはこの世から出ている、
わたしはこの世から出てはいない。
だから、わたしは言った。
あなたたちは自分の罪のうちに死ぬと。
『わたしはある』を信じないのなら
あなたたちは自分の罪によって死ぬからである。」
なぜ彼らとイエスとはこうも異なるのか? なぜ彼らは理解できないのか? 答えは先の3章31~33節にもでてきました。イエスは、神と天使たちの領域(「上から」の意味)から啓示されたこと、「見たまま聞いたまま」を語っているのに、彼らのほうは、「この世の中」での領域でしか思考することができないからです。このために、イエスもその言葉も、<彼らなりの>視野で見聞きできる範囲の言葉としてしか聞くことができません。イエスの言葉は、この厳しい溝をさえ越えて働くことが、彼らには不可解に響きます。それにもかかわらず、不思議にも(!)、イエスの言葉を受け入れ、その証しがほんとうだと悟る人たちが「現われる」のです(3章33節/8章30節)!
「上から来る者」は、地上の者にはとうていできないことを成し遂げることが<できる>のです。このゆえに、敵対する彼らにも、まだ道は開かれています。こうして、理解し悟ることができない者たちの間にあって、理解し悟ることができる人たちが現実に現われるのです。しかも、闇から光に来るこの道が、<すべての>人に例外なく開かれることで、この世の不信仰にもかかわらず、信じる者が与えられ、救いの業が終末に成就するという不思議が生じるのです(17章14~16節/コロサイ3章1節)。だから、ここでの「あなたたち」は、第一義的には、目前のイエスの敵対者を指していますが、ヨハネ福音書の含みでは、<彼ら>の存在が、弟子たちをも含むすべての人間とも重なることを示唆しています。「地に属する者」と「上から来る者」との対立は、<啓示の世界では>、決して固定されてはいないのです。事態は流動的です。父とその御霊は、この世の対立を超えて働くことができますから、<「エゴー・エイミ」を受け入れない場合には>とあるように、「ユダヤ人」の信仰の可能性が、ここでもう一度注視されているのです〔バルト『ヨハネ福音書』〕。
【この世】ヨハネ福音書には、「世/世界」(コスモス)という言葉が5回以上でてきます〔新共同訳〕。「この世」は、御子イエスによる神の救いの対象であると同時に、御子による救いを悟らず、御子を受け入れるのを拒むことで自らに裁きを招く場ともなります(3章19節/9章39節)。「世」はこのように常に救いと滅びの両方の可能性を帯びるのです(1章9~12節)。
【わたしはある】この「エゴー・エイミ」"I AM"は、イザヤ書43章10節の「わたしはヤハウェである」の「アニー・フー」"I AM HE"を反映していて、神の御臨在を表す「ヤハウェ」の名に由来しています。イエスの存在それ自体が神の御臨在を啓示しているというヨハネ福音書独特の用法です。だからここには、特にイザヤ書43章10節の70人訳「わたしが(主なる神で)あることをあなたたちが知り、信じ、理解する」が反映しています。絶対的な「エゴー・エイミ」は、この世の相対性と対立し争うことを<しない>のです。下巻末の補遺編「エゴー・エイミ」を参照。
【自分の罪の内に】21節と異なり「罪」は複数です。イエスが語りかける「エゴー・エイミ」を「信じないのなら」は、彼らが「罪の内に死ぬ<ことになる>」のか、そうはならないのか、道はまだ開かれているのでしょう。この意味で、ここにもイザヤ書43章24~25節が反映していると指摘されています〔バレット『ヨハネ福音書』〕。
[25]~[26]
すると彼らはイエスに言った。
「あなたは、いったい、だれなのか。」
イエスは彼らに言われた。
「それは初めから話しているではないか。
あなたたちについて、言うべきこと、裁くべきことが多くある。
しかし、わたしをお遣わしになった方は真実である。
わたしはその方から聞いたこと、
これを世に向かって語っている。」
25節のイエスの答えは、「テーン・アルケー」を「始めから」ととるか「そもそも/いったい」の意味にとるのか?「ホ・ティ」と読んで「~するところのこと」と関係詞と指示代名詞にとるのか、それとも「ホティ」と読んで疑問詞の「なぜ」の意味にとるのか?さらに、これは疑問文なのか、感嘆文か、平叙文かで幾通りもの訳が可能になります。
(1)疑問文として、相手の無理解にやや絶望して。
「それは始めから(あなたたちに)話している(こと)ではないか」〔フランシスコ会訳聖書〕〔新共同訳〕。「なによりもまず(それこそが)私はあなたたちに語ろうとしていることではないか」〔岩波訳〕。
「いったい、なぜ(それを)あなたたちに話すのか?」
"Why do I speak to you at all?"〔NRSV〕。
(2)感嘆文で驚きを込めた叱責として。「そんなことをあなたたちに(いまさら)話すとは!」〔新約原典テキスト批評〕。
(3)平叙文として、相手の問いかけに応えて。「今まであなたたちに話してきたとおりの者である」〔ブラウン『ヨハネ福音書』(1)〕。"What I have told you all along /from the beginning."〔REB〕〔NRSV欄外〕。
疑問文にとる解釈が多いようですが、平叙文とする説も有力です。ここの「あなたは何者か?」は、24節の「エゴー・エイミ」に対して発せられたものです。これこそが、イエスとその相手との間に横たわる主題であり、彼らの最大の疑問です。これに対するイエスの答えは、素直に読めば、平叙文として「わたしが始めからあなたたちに話してきたとおりの者である」と理解するのが自然でしょうか〔バレット『ヨハネ福音書』〕。
「言うべきこと裁くべきこと」は、ヨハネ福音書流に言えば「裁きを告げること」です。だから、25~26節を「私は、あなたたちに向かって語っていることには希望がない。あなたたちについて語るべき多くのことは、裁きと判決でしかない」という解釈もあります〔バルト『ヨハネ福音書』〕。ただし、バルトは、続く26節後半では、それにもかかわらず、イエスを遣わされた方は真実であるから、相手を断罪するのではなく、なおも聞き手が真実を悟るよう招き続けると結んでいます(3章33節)。
【裁くべきこと】これは16節の「イエスが父と共にいて語るところに生じる裁き」のことです。イエスは、すでに21節と24節で、二度「罪のうちに死ぬ」と語っています。「しかし」とあるのは、たとえ相手が受け入れなくても、<それでもなお>、父はイエスを通して語り続けること、<それでもなお>、父と子の言葉は「真実」であり、「世の人たち」に光をもたらすからです(5章30節を参照)。しかし、その「真実」を拒む者たちには「裁き」になると38節と40節で繰り返されます。
[27]~[28]
彼らは、イエスが父のことを言われたのが分からなかった。
そこで、イエスは言われた。
「あなたたちが人の子を上げるとき
その時に、『わたしはある』ことが分かるだろう。
また、わたしが、自分からは何も行なわず、
ただ、父に教えられたとおりに語っていると分かるだろう。」
【父のこと】冒頭の部分は、ヨハネ福音書でしばしば用いられる著者/編者によるコメントです。「父である<神のこと>」と補っている異読がありますが、意味は同じです。
【人の子をあげる】ここは、マルコ8章31節でのイエスの受難予告と対応する箇所です。「人の子」に含まれる多様な意味についてはすでに指摘しました(1章51節を参照)。ただし「人の子」は、四福音書が書かれた頃には、「高挙されたキリストとして」世を裁くために再臨するお方をも表わす称号でした。ヨハネ福音書のここには、マルコ福音書には表わされていない受難のもう一つの意義がこめられています。それは、十字架の受難とともに、イエスが栄光を受けて父のもとに「上げられる」ことであり、イエスの受難と高挙が、ひとつになって人の子の「栄光」の顕れとされていることです。ヨハネ福音書の「人の子」は、地上での歩みと分かちがたく結びついていて、それが「わたしは何も行なわず」以下で示されます。これに対して復活したイエスは「主であり、父と一つの神」です(20章28節)〔ブラウン『ヨハネ福音書』(1)〕。
【わたしはある】すでに出て来た重要なイエスの告白です。ここの「エゴー・エイミ」は、とりわけ述語なしの絶対的な用法として注目されています〔ブラウン前掲書〕。これこそ、受難と高挙が一体化したヨハネ福音書ほんらいの「エゴー・エイミ」です。これが、ヨハネ共同体が、当時のユダヤの会堂とその指導者たちとヘレニズム世界の人たちに証ししていた「エゴー・エイミ」であり、御子イエスの臨在を明確に表わすものです。
【その時には分かる】この「エゴー・エイミ」は、受難と高挙が一つにされた栄光の「エゴー・エイミ」です。今回これが、ユダヤ人を含むすべて人々が「分かる(観る)だろう」と預言されていることです。ただし、今回の「その時に分かる」のは、ほかならぬイエスを十字架しようとしている当の「ユダヤ人」たちです。彼らは何を「分かる/見分ける」のか?そのことはいっさい触れられていません。「彼ら(ユダヤ人)自身が(イエスの)高挙の遂行者となり、この高挙と同時に扉が閉められて啓示が完成し」〔バルト『ヨハネ福音書』〕、彼らは「外の暗闇に放り出される」のでしょうか(マタイ8章12節)。ヨハネ共同体は、ユダヤ人たちが、結局イエスを受け入れなかったことを踏まえて、「遅すぎた」彼らを「教会の敵」と見なして、彼らに裁きを宣言しているのでしょうか〔バレット『ヨハネ福音書』〕。それとも、「テキストはもう一度ユダヤ人に呼びかけつつ彼らの救いの可能性へ戻っていく」のでしょうか〔バルト『ヨハネ福音書』〕。今回は、「その時分かる」と告げられた彼らの中から、「多くの人がイエスを信じた」(30節)で終わっています。厳しい裁きとその裏に秘められた救いへの可能性、ヨハネ福音書のメッセージの不思議な二重性がここにも表われています〔キーナー『ヨハネ福音書注解』(1)〕。
[29]~[30]
「わたしを遣わした方は、わたしと共におられるから
わたしをひとりのままにはされない。
わたしが、いつもこの方の御心に適うことを行うからである。」
イエスがこれらのことを語られると、多くの人々がイエスを信じた。
【お遣わしになる】3章17節、8章16節を参照。なお父と子の一体性については10章38節を参照。
【ひとりのままに】「エゴー・エイミ」から発せられる言葉が真実である根拠は、すでに8章16節で語られています。また、たとえ人がイエスを見棄てても「ひとりのまま」ではないことが、受難前夜の16章32節で告げられます。なぜなら、イエスは常に「父の喜ぶこと」を行なうからです(特に10章18節を参照)。父子一体のこの栄光は、受肉以前に始まり、終始地上でのイエスを支え、受難を直前に控えたイエスは、この栄光を父に切に祈り求めています(17章5節)。ここは、十字架上で、神に「見捨てられた」とも思われるイエスの叫び(マルコ15章34節)と矛盾するとか、ヨハネ福音書は、マルコ福音書のこの記述を「修正しようと」意図しているという論評があります。しかし、マルコ15章のイエスの叫びのその中にあって父も共に働いていたことは、マタイ27章51~53節で、はっきりと証しされています。ヨハネ福音書が、イエスの受難それ自体に「父からの栄光」を見ているのもマタイ福音書と同じ洞察からです。だから、ここにマルコ福音書に対する「修正」を読み取ろうとする論評は的外れです〔バレット『ヨハネ福音書』〕〔バルト『ヨハネ福音書』〕。
【御心に適うこと】原語は「父が喜ばれること」。父との交わりの「喜び」については第一ヨハネ3章22節を参照。この言い方は、新約聖書で、2カ所だけです。
【人々はイエスを信じた】この言い方は、ヨハネ福音書の随所にでてきて、それまでの記事をしめくくっています(7章31節/10章42節/12章11節/同42節)。今回は、4章39節の場合と同じく、原語は英語の "believe in him" にあたります。しかし、次の31節では "believe him" が用いられていますから、この二つを区別して、それぞれ異なる人たちを指していると見ることもできましょう。この場合、31節を新たな段落の始まりとします〔新共同訳〕〔フランシスコ会訳聖書〕〔NRSV〕〔REB〕。新約原典は、29節と31節との段落間に30節を置いています。ただし、そのように区切ったとしても、30節で述べられている人たちと31節で述べられている人たちとのなんらかのつながりを無視することはできないでしょう。
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