【注釈】(その1)
■8章後半について
〔8章後半の構成と区切り〕
 8章31節からこの章の終わりまでは、ひとつのまとまりをなしていて、ここで「ユダヤ人」とイエスとの対決が一つのピークを迎えます。このため、ここは、ヨハネ福音書全体でも特に難解かつ重要な箇所とされています。作者は、イエス在世当時の「ユダヤ人」とイエスの対立を前提にしてこの場を構成していますが、同時に、エルサレム滅亡以後の1世紀末におけるヨハネ共同体とユダヤ教ファリサイ派との葛藤も重ねられています。今回展開される問答は、この時期に行なわれたユダヤ教の会堂での宗教裁判あるいは訊問をも反映しているのでしょう。
 しかし、8章の背景について、さらに立ち入って吟味しなければならない点があります。そのひとつは、それ以前の7章53節~8章11節、及び8章12節~30節と今回の31節以下との論議のつながりです。30節に「多くの人々がイエスを信じた」とあるのは、これに類する表現と共に、ヨハネ福音書では内容の区切りを表わします(2章23節/7章31節/8章30節/10章42節/12章11節)。
 8章31節も「自分に信をおいていたユダヤ人たち」で始まります。ところが、彼らは、今までのどの「ユダヤ人」に向けられるよりも厳しい批判をイエスから受けています。このため、30節の「イエスを信じた人たち」は、31節の「イエスを信じたユダヤ人たち」から区別しなければならないという見方もあります。文献的に見れば、30節と31節を、それぞれ別の編集者による加筆だと見て、8章29節までの対論をひとまず終わらせるために編集者が30節を加え、さらにその後で、おそらく別の編集者が論議をさらに続行するために31節前半を加えたという見方もあります〔ブラウン『ヨハネ福音書』(1)〕。
 31節からは、「(イエスの言葉に)とどまる」ことが強調されていること、「アブラハムの子/子孫」が重要なテーマとして浮上していることから、それまでとは違う段階に入っているのは確かです。しかし、本文をそのまま読むならば、30節の信仰者も31節の信仰者も本質的に区別する必要はなく、むしろ、イエスを信じる者が到達する「真理」と「自由」について、「ほんもの」と「偽もの」の信仰者の有り様について鋭く洞察されていると解釈するほうがより適切でしょう〔バルト『ヨハネ福音書』〕〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕〔バレット『ヨハネ福音書』〕。
 なお、8章48節からは、ただ「ユダヤ人たち」とあるだけですから、厳密に言えば、8章31節の相手とは異なることになります。内容は「アブラハム」をめぐる問題で一貫していますが、ひとまず、8章31~47節と同48~59節の二つに分けて見ていくことにします。
〔アブラハム問題〕
 今回の箇所から「アブラハム問題」が入り込んできます。これは、神がアブラハムとその子孫に与えた約束に基づくもので(創世記22章16~18節)、この約束によって、アブラハムの子孫であるイスラエルの民には、神の祝福が約束されているという信仰がユダヤ人(ユダヤ教徒)の拠り所でした。しかし、この信仰は、すでに洗礼者ヨハネによって厳しく批判されています(マタイ3章9節)。イエスもまた、先祖がアブラハムであることだけで、ユダヤ人が「御国の子」だとは見なされないとはっきり告げています(マタイ8章12節/特に同23章を参照)。ルカ16章19節以下のラザロと金持の話でも、ユダヤ人ならだれでも「アブラハムのふところ」に入れるわけではないと教えています。だから、今回の箇所も、洗礼者とイエスに始まるこのようなアブラハム伝承を受け継いでいます。
 「アブラハム問題」は、イエス復活以後の教会において、特にパウロ書簡で論じられています。ガラテヤ人への手紙では、祝福が約束された「アブラハムの<子孫>」(単数)とは、メシアであるイエス・キリストを指していること、したがって、<真の意味で>「アブラハムの子孫」となるためには、十字架のイエスを受け入れて、その御霊の恵みに与る必要があることが強調されています(ガラテヤ3章7~14節/同16節/同29節)。パウロはさらに、アブラハムの正妻であるサラの子イサクを、アブラハムの召使いハガルの子イシマエルと対照させて、「真の」アブラハムの子と「偽りの」アブラハムの子の違いを指摘し、「自由」にされた神の子たちと「奴隷」のままの罪人の状態を説明しています(ガラテヤ4章22~31節)。今回の8章31~41節にでてくる「自由」と「奴隷」の問題の背景には、パウロのこのイサクとイシマエル解釈があることが指摘されています〔ブラウン『ヨハネ福音書』(1)〕。
〔反ユダヤ主義の起源〕
 8章44節の言葉は、一人の激烈なユダヤ人嫌いの者、すなわち非ユダヤ人だけがこれを発することができるという意見がありますが、それなのに現行のギリシア語原典は、これを8章30~31節の「イエスを信じた者たち」に向けられた言葉だとしています〔スローヤン『ヨハネ福音書』〕。ところが、イエス以前のユダヤ人同士においても、例えばクムラン文書のひとつ「賛美の歌」(ホダヨット)と呼ばれ『感謝の詩編』と訳されている文書は、第一洞窟から発見されたコラム(1)~(11)までが前1世紀末に書かれたと考えられます〔Hartmut Stegemann. ?The Library of Qumran. Eerdmans (1998)107〕。この部分は、クムラン宗団の指導者とされる「義の教師」によると思われますが、そこには「暴虐者らはわたしの生命をねらったが、わたしはあなたの契約によりたのむ。/かれらは虚偽の群れ、ベリアル(悪魔)の会衆で、/あなたの所にわたしの足場があることも、/またあなたの慈しみよってわたしのいのちが救われ、/あたなの所にわたしの歩みがあることも、知らない。/しかもかれらは、あなたがたの所でわたしの生命を襲う」とあります〔日本聖書学研究所『死海文書』山本書店164頁/以下の英訳も参照して補充。Florentino Garcia Martines.?The Dead Sea Scrolls. Translated into English by G.E.  Watson. Brill (1994). 330. Col.x.20-23.〕。クムラン宗団の言う「ベリアル」は「サタン」(悪魔)と同義語ですが、これは、同じユダヤ人同士の間でありながら、エルサレムの神殿制度を批判するクムラン宗団の指導者が、彼を迫害し追放したユダヤの指導層へ向けた批判です。
 このような「真理」と「偽り」、「神」と「悪魔」は、ヨハネ共同体が告白するイエスへの信仰と、これに対立する人たちとに対応します。おそらく、今回の8章も、イエスの生涯に関する「歴史的記憶」に由来するのでしょう〔スローヤン『ヨハネ福音書』〕。このような対立の特徴は、決してヨハネ共同体だけのものではありません。マルコ福音書やマタイ福音書やルカ福音書の信仰共同体においても、同様な対立を経て、イエス・メシア信仰を守ってきた過程があり、ヨハネ共同体は、これらの対立関係を最終的な形で立証しようとしているのです〔スローヤン前掲書〕。わたしたちは、ここで語られる論争が、<ユダヤ人内部の>相互批判であったことを銘記すべきでしょう。なお、ファリサイ派とヨハネ共同体の葛藤についての詳しい事情は、4章「ヨハネ共同体とユダヤ教」及び5章「ヨハネの手紙と共同体の分裂」を参照してください。
〔「罪の女」の物語の視点から〕
 最後に、8章後半の解釈についてどうしても述べておきたいことがあります。それは、8章冒頭の「罪の女」の物語との関係です。この物語がイエスにさかのぼるものであるとは言え、ヨハネ福音書ほんらいの原典に属していないことはすでに40章「罪の女」の注釈の「罪の女の挿話について」の項で述べました。同時に、それにもかかわらず、あえてこの挿話が8章の冒頭に置かれているその聖書解釈上の意義についても触れました。
 この物語は、「あなたたちは肉に従って裁くが、わたしは誰をも裁かない」(8章15節)へつながり、主題はそこから「イエスの父」の問題に移り(18~19節)、「父」をめぐる問題が、これ以後8章の終わりまで続きます。イエスは、自分からは何一つすることなく、ただ「父の御心」のままに、人々に「エゴー・エイミ」を啓示します(28~29節)。この啓示こそ、人をイエスへ導くと同時に、その「エゴー・エイミ」にどこまでも「留まり続ける」かどうかをめぐって、真の弟子と偽りの弟子が厳しく選別され、人にほんとうの「自由を与える真理」について語られます。「罪を犯す者は誰でも罪の奴隷である」(34節)、こうイエスは語った後で、「子があなたたちを自由にするなら、あなたたちはほんとうに自由である」(36節)と告げます。
 わたしたちはここで、イエスが与える「まことの自由」をあえて罪の女の「赦しと解放」に結びつけることができないかどうか、これを問うことが許されるでしょう。イエスが最後に彼女に向かって「これからはもう罪を犯してはならない」と告げて立ち去らせていることも、イエスの言う「まことの自由」と関連づけることができましょう。
 議論はそこから「まことのアブラハムの子」の問題へ移り、「アブラハムの業」とは何か、「アブラハムの正当な子孫」とはだれのことかが問われます。ユダヤ人とのこの論争は一気に加速して「悪魔である彼らの父」こそ、愛と真理に背く「人殺しと偽り」であることが暴かれます(44節)。この議論は、最後に「アブラハムが生まれる以前からわたしはある」というイエスの驚くべき発言へ到達することになります。
 「真理」と「自由」と「奴隷」の項目で指摘したとおり、ここには、ヨハネ福音書には珍しく、パウロ書簡に近い用語が表われます。「アブラハムの正当な子孫とはだれのことか?」をめぐる議論にいたって、わたしたちは改めて、パウロが伝えようとした「まことのアブラハムの子」という福音伝承との関連を考えないわけにいかなくなります。これこそガラテヤ人への手紙(3章6~9節/4章22~31節)とローマ人への手紙(4章)を通じて、パウロが「福音の真理」と呼ぶ「イエス・キリストの御霊」と「律法からの自由」をひとつに結びつけたパウロ神学の真髄だからです。「わたしたちは姦淫による子ではない」というユダヤ人の反論が、ガラテヤ人への手紙のイサクとイシマエル問題と関連づけられるのもこの視点からです。
 このように観ると、ヨハネ福音書は、この8章で、パウロ書簡に最も近づいているという見方ができます。50年代に書かれたパウロ書簡以後、共観福音書においても、牧会書簡(第一と第二のテモテへの手紙とテトスへの手紙)、コロサイ人への手紙やエフェソ人への手紙、ヘブライ人への手紙など、ヨハネ福音書とほぼ同じかこれに近い頃の文書では、ガラテヤ人への手紙とローマ人への手紙で提起されている律法と福音をめぐる弁証法的なパウロ神学が後退して(あるいは「すでに解決済み」として)、イエス・キリストの福音が教会での信者の生活への指針として解釈される傾向が生じてきます。こういう状況の中では、8章の「罪の女」の物語から、パウロのアブラハム伝承とその福音が、ヨハネ福音書においてさらに深みを帯びて継承されているのが見えてきます。わたしたちは、これを単なる挿入による「偶然」だと片付けるのではなく、そこに不思議な導きを読み取ることができるのではないでしょうか。
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