42章 真理と自由
8章31〜47節
■8章
31イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。
32あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」
33すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」
34イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。
35奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。36だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。
37あなたたちがアブラハムの子孫だということは、分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである。
38わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている。」
39彼らが答えて、「わたしたちの父はアブラハムです」と言うと、イエスは言われた。「アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をするはずだ。
40ところが今、あなたたちは、このわたしを殺そうとしている。神から聞いた真理をあなたたちに語っているのに。アブラハムはそんなことはしなかった。
41あなたたちは、自分の父と同じ業をしている。」そこで彼らが、「わたしたちは姦淫によって生まれたのではありません。わたしたちにはただひとりの父がいます。それは神です」と言うと、
42イエスは言われた。「神があなたたちの父であれば、あなたたちはわたしを愛するはずである。なぜなら、わたしは神のもとから来て、ここにいるからだ。わたしは自分勝手に来たのではなく、神がわたしをお遣わしになったのである。
43わたしの言っていることが、なぜ分からないのか。それは、わたしの言葉を聞くことができないからだ。
44あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。
45しかし、わたしが真理を語るから、あなたたちはわたしを信じない。
46あなたたちのうち、いったいだれが、わたしに罪があると責めることができるのか。わたしは真理を語っているのに、なぜわたしを信じないのか。47神に属する者は神の言葉を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである。」
■真理の宗教
人類は、太古の昔から、自然現象に対してさまざまな恐怖を抱いてきました。雷もそのひとつです。ところが、ベンジャミン・フランクリンという人が、雷が鳴っている時に凧をあげて、雷が電気であることを証明したことから、雷を避ける避雷針ができました。このように、自然に働く法則を知り、それが何であるかを認識することによって、自然に対する恐れを取り除くことができます。病原菌の発見も同じです。人類は、病気の原因を突き止めることができて、様々な病気から解放されました。自然の中に働く「真理を知る」ことによって、自然のさまざまな恐れから解放され、自然の力と支配から「自由になる」ことができたのです。
同じことが、人間の心の状態についても言えます。以前には、心の病気は、人の力ではどうにもならないと考えられました。しかし、19世紀に、フロイトという人が、夢を通じて人の心の働きを探り、そこから心に働く法則を発見しようとしました。これが現在の心理学につながります。このように、物事の真理を知ることは、人間がさまざまな束縛から解放される方法なのです。
ただし、ひとつだけ、人間がまだよく理解できない分野があって、そこは、自然法則よりも、心の法則よりもさらに見極めが難しい。それは、心霊現象をも含む神秘な霊性の世界、「宗教」の領域です。宗教は、人が平和に暮らしていくためにとても大事な働きをします。ところが、「宗教」は、逆に、さまざまな争いの原因にもなります。キリスト教対イスラム教、ヒンズー教対仏教、イスラム教対仏教、ユダヤ教対イスラム教など、現在の世界では、宗教の違いが、民族紛争や地域紛争の背景になっている場合が少なくありません。宗教は、これを正しい仕方で信じるときには、平和をつくりだす大事な働きをするけれども、誤った方へ向かうと恐ろしい害悪をもたらす結果に陥るのです。今回、イエス様が「真理はあなたたちを自由にする」と言われたのも、現在では、こういう視野から解釈されなければなりません。
現代の「科学的な」考え方を主張する人の中には、宗教の「害悪」を理由に、宗教も神も否定する人たちがいます。人間の理性と科学の力に頼ってさえいれば、やがて宗教の必要がなくなる時が来ると言うのです。しかし、宗教は、科学の力を信奉するそのような「非宗教化」によって消え去ることはありません。なぜなら、宗教それ自体の内に働く真理、すなわち信仰とは何か、神とは何かという「霊的な真理」そのものを、どこまでも深く追求しいくことによって初めて、そこに潜む危険から解放され、真に平和な「宗教」へ到達する道が啓(ひら)けるからです。これ以外に「宗教的な害悪」から逃れる道はありません。とは言え。これは、「言うは易く」で至難の業ですから、これからの探求を待たなければなりません。
■宗教する人
宗教は、一般的に、「人間の想念に基づいて」作り出されたものだと言われています。人間には様々な欲望や知識がありますから、当然そのような欲望や知識から「願いごと」が生じます。「困った時の神頼み」と云うように、思い通りに行かない時、辛く苦しい状況に追い込まれた時、人は助けを求めてカミ頼みをします。「占い」やお呪い、お百度参り、お宮参りなど、いろいろな宗教的営みがあります。特別に宗教的な人、信心深い人でなくても、人は誰でも、程度の差こそあれ、「相互に信じ合う」共同体のメンバーです。わたしは、こういう人間の有り様を「宗教する人」(ラテン語で「ホモ・レリギオースゥス」)と呼んでいます。
「宗教する人」が行なう宗教行為は、個人から組織化された宗教団体にいたるまで多種多様です。宗教団体は、大なり小なり、それにふさわしい建物を所有し、そこには種々の宗教的な目的に沿う儀式を執り行なう人たちがいます。組織化した宗団は、宗団の信仰内容を分かりやすく理解させるための「教義」を具えています。宗教団体が多くの人を集めるためには、先祖崇拝と家族ぐるみの入信が大事です。
ある特定の宗教団体が、国家権力と結びついて国家の制度に組み込まれると、いっそう権威と権力を帯びるようになります。こうして宗教が、国家と民族の伝統に根ざすところまで浸透すると、その宗教は、国を動かし民族を支える機能を担うことになります。こういう国家宗教あるいは民族宗教は、国家や民族同士の争いや紛争を解決する働きをすることもできますが、逆に、国家間、民族間の紛争を<作り出す>原因にもなります。ほかならぬ宗教が、人と人、国と国、民族と民族を結ぶ代わりに、宗教の違う民族同士を対立させたり、争わせたりする背景にもなりえるのです。こういう場合に、「宗教する人」にほんらい具わる最も恐ろしい悪魔性が解き放たれることになります。この情況は、「愛国心」が人々を駆り立てて国家間の戦争に発展すると、あらゆる人間の獣性が正当化されるはけ口になるのと類似します。「宗教」に潜むこの善悪の二面性が、「宗教する人」に具わる矛盾です。
このような「宗教する人」の有り様を正しく洞察して、宗教の意義とその必要性と同時に、その危険性とそこに潜む恐ろしさをわきまえていることが、「宗教する人」としての人間の大事な心構えです。現在も、どこぞの国で「お一人様」への人間崇拝が行なわれています。「我が仏一人尊し」と昔から言います。旧約聖書には、イスラエル民族がその昔行なった「七民抹消」(申命記7章1〜5節)が記されています。
現在(2019年3月23日)、ニュージーランドで起きた白人男性によるイスラムのモスクでの銃乱射事件が、日本の新聞やテレビで話題になっています。これは、オーストラリアの白人青年が、フランスの白人至上主義者がモスクで行なった事件に見習って、ヨーロッパの白人至上賛美の歌を聞きながら、ニュージーランドのイスラムのモスクで行なった事件です。 しかも彼は、自己の行為をカメラで撮影して、SNSで流すことで、自分の信念を拡散しようとしたのです。この事件は、国籍、民族、人種、政治や社会の状況などにかかわりながらも、根源的には「宗教する」存在としての人間が起こした出来事であること洞察しなければなりません。しかも、こういう宗教的な様相を帯びた「相対立」が、SNS(social net system)を通じて急速に広がり集団を形成するのが現代の特徴です。
実は、先に旧約聖書から例をあげたのは意図があります。それは、たとえ「キリスト教徒」と言えども、今述べた国家宗教や民族宗教にまとわりつく相対的な性格を免れてはいないからです。「キリスト教」の名のもとに、過去においてどんなに恐ろしい殺戮と人間の隷従がもたらされたかをわたしたちは知っています。だから、宗教する人としてのキリスト教徒が、己の有り様を絶対化することもまた、ほかの宗教信者の自己絶対化と同様に、恐ろしい誤りに陥る危険があります。今回の8章で、「イエス様を信じた」はずのユダヤ人たちが、ほかならぬイエス様から「あなたたちの父は悪魔である」という驚くべき批判を受けるのはこのためです。
だから、国家や民族の伝統と結びついた宗教といえども、「宗教する人」に潜む矛盾と危険性を察知して、宗教が、不当な「絶対性」を帯びることがないように注意しなければなりません。異なる諸宗教の営みを比較対照させて、それらのどれをも絶対化することなく、また排除することもしてはならないのです。これを宗教の「相対化」と言います。とりわけ、アジアでは、仏教、儒教、イスラム教、カトリック・キリスト教、プロテスタント・キリスト教、ヒンズー教、また日本の神道のような土着の民族宗教にいたるまで共存していますから、世界で最も複雑で多様な宗教的環境にあります。人間は「宗教する人」ですが、人間のすることは、決して絶対的ではありません。絶対でない人間が自己の宗教を絶対化する。ここに「宗教的な争い」の根本原因が潜んでいます。結論を先に言えば、宗教する人によるこのような絶対化を破る力こそ、真理の神の啓示の働きです。人間のもろもろの宗教的な営みを絶対化させることなく、これらを常に相対化していく働き、実は、聖書が言う「聖なるもの」とは、こういう<啓示の働き>を指しているのです。
「真理の宗教」とは、自己の信仰を決して絶対化しないことです。しかし、まさに「このこと」に大きな矛盾が潜んでいます。宗教を信じる営みには、その宗教を絶対化することが不可避的に含まれてくるからです。「宗教する人」に具わる宗教性は、人類の共同体の形成に深くかかわっていますから、人間の努力や反省でも、学識や知力でも、これを乗り越えることができないほど心情的に根強く頑固です。だから、イエス様は、彼らに向かって「アーメン、アーメン、あなたたちに言う。罪を犯す者は<罪の奴隷>である」と言われるのです。奴隷は、どんなにもがいても、自力で自由になることができません。
■アブラハムの子孫
8章32節でイエス様が「真理はあなたたちを自由にする」と言われたのを受けて、相手のユダヤ人たちは「わたしたちはアブラハムの子孫です」と答えます。神から「選び出されて」特別の恵みを受けたアブラハムは、ユダヤの民の父祖となりました。ユダヤ人たちは、このように、先祖伝来の宗教に支えられていました。彼らは、その先祖アブラハムが神と結んだ契約に守られていましたから「アブラハムの子孫」と呼ばれました。また、モーセ律法という最も高度な宗教的規範を所有していたので「律法の民」とも呼ばれました。彼らこそ、「宗教する人」としての人類が、その最も高い段階に到達した民だったと言うことができます。だからユダヤ人たちは、「わたしたちの父はアブラハムだ」と自分たちの父祖からの宗教を誇り、イエス様に言い逆らうのです。
ユダヤの先祖伝来の宗教は、歴史の出来事を通じて語る神からの啓示によって成り立っていました。だから、その啓示は、常に「現在自分たちに生じている出来事」と切り離すことができません。今、ユダヤ人たちは、イエス様の臨在という不思議な出来事の前に立たされています。その現実の中で、彼らは、この「イエス様の出来事」を通じて、神からの語りかけに出逢っています。
ところが、その啓示は、彼らがこれまで大事にしてきた先祖伝来の宗教を根底から脅かすほどの変革をもたらすものなのです。はたして彼らに、現在生じている「イエス様の出来事」に自らを明け渡して、神からの啓示を受け入れることができるでしょうか? それとも、過去から受け継いだ「自分たちの宗教」をどこまでも固守することで、目の前で生じている啓示の現実を頑なに拒否するのでしょうか?
アブラハムの子孫であるはずの彼らは、自分たちの目の前に居るイエス様を今にも殺そうとしています。彼らが「アブラハムの子孫」であるのは、人種的に言えばそのとおりです。その彼らが、神から遣わされた者を殺そうとしている。アブラハムはそんなことをしませんでした(8章40節)。続いてイエス様は、決定的な発言をします。彼らは「彼らの父である悪魔」の意のままに行なっているのだと。彼らは、「今現実に彼らの面前で生じている」ナザレのイエス様の臨在という神からの啓示を拒否するからです。これはアブラハムが行なったことではありません。
8章42節から、議論がさらに重要な展開を見せ始めます。「神があなたたちの父であるのなら」で始まる論争は、これまでイエス様が、暗黙の内に前提としてきた「神」についての議論をいっそう深める方へ向かいます。「父」とは「神」のことですから(8章19節)、啓示者たる「神」それ自体が、ここへきて改めて問われることになります。いったい「神」という言葉で、ここでは何が問われているのでしょうか?
■相対者と絶対者との出逢い
今回の出来事は、ユダヤ人の相対的な宗教とイエス様を通じて啓示される神の絶対的な霊性との出逢いの場で生じています。ここで、ユダヤ人と、神の御子イエス様との出逢いの厳しさが、その頂点に達します。これを読み解くためには、「相対と絶対」の関係、とりわけユダヤ人の相対性とイエス様の父なる神の絶対性について考察する必要があります。至難の業ですが、「相対と絶対」に関する西田哲学を援用しながら、あえて試みることにします。
わたしが西田哲学を援用するのは、西田哲学は、少なくとも「心霊的な出来事」を真正面から見据えて、これを解き明かそうとしているからです。西田の「論証」が成功しているかどうか、わたしには判断できませんが、彼がこのような霊性問題を説明しようとしていることは間違いありません。彼の論文「場所的論理と宗教的世界観」に見る「論証」は、わたしには、ほかのどのような神学的、心理学的、社会学的な説明よりも、癒しの問題や異言の問題、その他の聖霊体験をよく「解説」してくれます。わたしは、いまだかつて、西田哲学以上の解説を日本の内外の聖書注解や伝道者たちの口から聞いたことがありません。とは言うものの、わたしには、「おぼろに見える」のがせいぜいで(第一コリント13章12節)、解明にはほど遠いです。
改めてお断わりしますが、ここで扱うのは、「宗教」ではなく、宗教する「人間」のほうです。人は相対的な存在であり、互いに絶対ではなく、相対(あいたい)する関係にありますから、政治にせよ、経済にせよ、宗教にせよ、「相対立する」ことが避けられません。だから、個人にせよ宗団にせよ、「宗教する人」の間には、なんらかの「競い合い/争い」が生じざるをえません。同業者同士、政治家同士にも見るように、相対者は、互いに似るほどに、そこに生じる「競い合い/争い」も厳しさを増します。とりわけ、宗教問題においては、相対者による相互の「自己絶対化」が生じやすく、自分を絶対視する相対者同士の「相対立(あいたいりつ)」は、それだけすさまじい様相を見せることになります。16世紀のカトリックとプロテスタントの争い、2019年の現在では、イスラムのシーアー派とスンニー派との相克がこれを実証しています。ユダヤ=キリスト教の伝統では、異教徒に対するよりも異端者に対する批判のほうが、いっそう厳しくなるのもこのためです。
だから、多種多様に相対する「宗教する人」が、互いの相対性に留まる限り、真の意味での「一致」に到達することはありえません。相対性が解消されて一つになることを「多即一」と言いますが、これは、相対者の相対性の「自己否定」によって初めて成り立ちます。しかし、自己に対してであれ、他者に対してであれ、相対する人間に「立ち向かおう」とすること自体が、自己の相対性の証しですから、人が人である限り、真の自己否定は不可能です。
宗教する人あるいは宗団としての相対同士の一致は、「相対者が絶対者と出逢う」場において、初めて可能になります。この場合、相対者である個人あるいは宗団は、他者である絶対者との出逢いにおいて「死ぬ」あるいは「消滅する」ことが生じなければなりません。宗教する人は、絶対者という他者を通じて「自己に死ぬ」ことで初めて、自己の内に絶対者の永遠性を宿すことができます。「自己に」死ぬことで「自己に」永遠が宿るというこの矛盾は、西田哲学で「矛盾的自己同一」と呼ばれています。
だから西田は、イザヤが主なる神と出逢った時の言葉を引用して(イザヤ5章6節)、次のように述べています。「相対的なるものが絶対者に<対する>とはいえない。また相対に<対する>絶対は絶対ではない。それ自身また相対者である。相対的存在が絶対者に<対する>という時、そこに死がなければならない。それは無となることでなければならない」〔「場所的論理と宗教的世界観」『西田哲学選集』第三巻:宗教哲学論集:上田閑照監修:灯影社(2001年)〕。西田は、このような絶対者との出逢いの場で起こることを「どこまでも個の働く世界である。作られたものから作るものへと、人格的自己の世界である」と定義するのです。
ところが、相対者同士を一つにする絶対者のほうは、絶対者「それ自身の内に」自己否定を宿していなければなりません。相対者は、自己の外にある絶対者との出逢いにおいて「死ぬ」ことになりますが、絶対者のほうは、自己の内に「絶対の自己否定」を宿していなければならないのです。言い換えると、絶対者は、絶対的な自己否定を通じて、あらゆる種類の相対者に向いて「無になる」ということが生じなければならないのです。「相対者に向かう」ことそれ自体が、すでに相対的な行為ですから、絶対者は、「無」に対面して「無である」とでも言うべきでしょう。いわば絶対者は、あらゆる相対者に「無」にあって臨むことで、あらゆる相対者に自己を「無」にする場において、「一即多」となることができるのです。かつて、小池辰雄師が「無者キリスト」と言っていたのを想い出します。絶対者である神は、このようにして初めて、多種多様に相対する個人や宗団それぞれに働きかけ、「多即一」を達成することができます。
西田哲学では、絶対者のこのような有り様を「絶対矛盾的自己同一」と呼んでいます。神は、自己の「絶対矛盾的自己同一」を通じて、多様な相対者同士を真の一致へ導くのです。「絶対矛盾的自己同一的世界は、自己否定的に、どこまでも自己に於いて自己を表現すると共に、否定の否定として自己肯定的に、どこまでも自己に於いて自己自身を形成する、すなわち創造的である」〔「場所的論理と宗教的世界観」〕と言うのです。
だから、絶対者は、相対者のように相対立することがなく、「無」に接するに「無」で臨むことになります。このように、「絶対無」として自己否定する神が、自己をあらゆる多様性へと言わば「相対化」する時、そこに「一即多」が生じ、同時に、相対者同士の「多即一」が成就することになります。「一即多」による「多即一」が成就するこのような場を、西田は、絶対者の「絶対矛盾的自己同一」と、相対者の「矛盾的自己同一」という独特の哲学用語で表わすのです。
この難解な哲学をわたしなりの神学的な用語で言えば、自己の罪性を深く洞察する「宗教する人」は、「宗教する人」の相対性に留まる限り、どこまでも、相互の一致に達することがありえません。宗教する人の相対性が、聖なる者の絶対性と出逢う場において初めて、宗教する人に真の意味での「自己否定」が生じ、「宗教する人の死」が実現することになります。こうして「宗教する人」の相対性が解消されて初めて、「宗教する人」同士の一致が啓かれるのです。
多種多様に相対する「宗教する人」の限界を解消するこのような神の働きは、宗教する人に具わる根源の罪性に「立ち向かう」と言うべきではありません。もしも、神が人間に「立ち向かう」なら、それは、せいぜい相対(あいたい)する神に過ぎず、もはや絶対の神とは言えないからです。絶対の神は、己の絶対無を通じて、相対する人間の相対性それ自体を、小池師の言葉を借りれば、恩寵によって「照破する」のです。照破することで「無」に帰せしめて解消するのです。だから、神の絶対は、人の相対を「否定する」と言うよりも、むしろ人の相対性を逆手にとって、相対同士の「自己否定への意志」を通じて、相互の一致へ導くと言うべきでしょう。
「宗教する人」の相対性に潜む罪性を明るみに出し、そうすることで、相対者が、自己の相対性に潜む罪性を悟り、「己の相対性に死ぬ」ことを意志する。絶対の神からのこういう働きかけは、人の罪性を言わば逆手に取る絶対者の「絶対恩寵」と呼ぶことができましょう。わたしは、これを絶対者が相対者の罪性をどん底から救う「逆転の絶対恩寵」と呼ぶのです。
神からの「真理」は、日常の具体的な行為となって現われます。だから「霊と真理」において神を礼拝するとは(4章24節)、しばしば誤解されるように、外形や外面から区別された人間の内面性や精神性を特に強調しているわけではありません。「霊的な礼拝」とは、内面的で外に現われないことではなく、神御自身が、その御臨在を「エゴー・エイミ」として具体的に顕しておられる場において実現する人間同士の「交わり」こそが、「霊と真理の礼拝」です。例えば、敵対する者同士が和解して、共に神を礼拝するという不可能とも思われる交わりが、御霊のお働きによって実現する、そこに「真理」の働きを見るのです。
イエス様は、悪魔を父とする相手とさえも、相手に「語りかける」ことを止めず、彼らとの交わりを求めようとしました。この語りかけは、自己の「無」を通じて、「悪魔」と呼ぶ相手の相対性さえも、なお自己自身のものとして受け入れていることを意味します。イエス様の絶対のアガペーは、絶対の悪人にまで及ぶからです。
「単に悪に対して戦う神は、悪に対立する相対的な神にすぎない。単に超越する神は、抽象的な神にすぎない。絶対の神は、自己自身の内に絶対の否定を含むから、極悪まで降ることができる神でなければならない。かくして、悪逆無道を救う神こそが、真に絶対の神である。」
〔西田幾多郎「場所的論理と宗教的世界観」〕。
8章の冒頭で、イエス様は、罪を犯した女を断罪する人たちに囲まれながら、「無言で」地面に何か書き始めました。イエス様のこの絶対無の御臨在は、その場のすべての人たちに向けて、父なる神の絶対恩寵を発し続けました。こういう場から発せられるイエス様の無言の言(ごん)を聞くと、人々は、彼女への裁きと断罪を止めて、無言でその場を立ち去るのです。そして、残された女には、断罪の代わりに、「もう罪を犯さないように」という赦しの絶対恩寵が降るのです。
■イエス様の十字架
しかしながら、今回の場では、石を置いて立ち去るファリサイ派はいません。恩寵の交わりの場が啓ける代わりに、イエス様が十字架への途上にあることが浮き彫りにされるのです。「この上なく憂鬱な」と注釈者が嘆くほどのこの場の厳しさは、どこから来るのでしょう。
「まことの神」からの真理に到達するためには、自分が今まで信じてきた「宗教」が、場合によっては破棄される過程を通らなければなりません。これは相当に辛いこと、厳しいことです。人がイエス・キリストの御霊の啓示に接することで、自分が誇りにしてきた宗教的信念が神からの真理に悖(もと)ることが明らかにされた場合、その人は、はたして、そういう啓示の重みに耐えられるでしょうか?自分の宗教的信念に下される「裁き」に直面して、それでも神からの裁きの啓示にあえて身をさらして、己を神から遣わされた方の御臨在に委ねる勇気を持つことが、人にはできるでしょうか? わたしたちは、改めて「このこと」が今回問われていることに気づきます。
「宗教する人」と言えども、相手を憎む「人殺し」であり、自己義認を正当化する「偽り者」であること(8章44節)、しかも、自分が偽り者であるというそのことさえも気がつかないほどまで<本質的に>偽り者であること、この現実を悟らせてくださるのが、イエス様の御臨在であり、わたしたちへの御言葉の働きかけです。これから目をそらさないことが「真理」です。
マタイ23章(と共観福音書のこれの並行箇所)でも、イエス様は、ファリサイ派に厳しい弾劾の言葉を向けています。この記事は、イエス様の在世中に、自己を絶対化する指導者たちが、イエス様を「悪霊の頭だ」とののしった出来事と関連づけられていて、マタイ23章は、こういう具体的な出来事の伝承が基になって、イエス様以後のキリスト教会とユダヤ教との相互対立の過程で、この伝承が拡大解釈され、その結果、マタイ23章の厳しく長い裁きと批判が形成されたと考えられています。同様に、今回も、ほんらいは、指導層によるイエス様への断罪とこれに対するイエス様の応答であったものが、ヨハネ共同体と当時のユダヤ教指導層との激しい論争の過程で拡大され、さらに、ヨハネ共同体内部の分裂も重なって、いっそう厳しさを増した結果として、現行の厳しい場が形成されたと推測することができます。
西田幾多郎は、最晩年の「場所的論理と宗教的世界観」の結びとして、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を引用して、次のように述べています。
「私はイヴァン・カラマーゾフの詩劇に興味を有する。『主なる神よ、我らに姿を表わし給え』と哀願する人類への同情に動かされて、キリストがまた人間の世界へ降って来た。場所はスペインのセルヴィアであり、時は15世紀時代、神の栄光のために毎日人を焚殺する、恐ろしい審問時代であった。大審問官の僧正が、キリストがまた奇跡をなすのを見て、たちまち顔をくもらせ、護衛に命じてキリストを捕らえて牢屋へ入れた。」
ここで大審判官は、再び訪れたイエス様に向かって、自分たちが成し遂げた宗教の成果を得々(とくとく)として語ります。
「お前は何のために出てきたのか。お前はもはや何一つ言うことがないはずだ。人民の自由ということは、1500年前からお前に何よりも大切なものであった。『我は汝らを自由にせんと欲す』と言ったではないか。今お前は彼らの自由な姿を見た。我々が、お前の名によって、この事業を完成したのだ。人民は、今いつにも増して、彼らが自由になったと信じている。しかし、その自由を、彼らは進んで我々に捧げてくれた。おとなしく我々の足もとに置いてくれたのだ。これを成し遂げたのは我々だ。お前の望んだのは、こんな事ではあるまい。こんな自由ではあるまい。」
「つまり審問官らが自由を征服して人民を幸福にしてやったというのである。人間には、自由ほど、堪えがたいものはないのだ。人はパンのみにて生くるものにあらずと言って、キリストは、人間を幸福になしうる唯一の方法を斥けた。しかし幸いにもキリストがこの世を去る時、その仕事をローマ法王に引き渡した。」〔「場所的論理と宗教的世界観」〕
この大審判官の言葉を聞いても、イエス様は、あたかも影のように、終始一言も発しません。無言のまま、突然老審判官に近づいて接吻するのです。イエス様は、何も言わず、ただ沈黙の闇の奥から、不思議な霊光をほのかに発っし続けるのです。
ヨハネ福音書講話(上)へ