【注釈】(その2)
■8章
[31]~[32]
イエスは、自分を信じたユダヤ人たちに言った。
「もしあなたたちがわたしの言葉にとどまるなら、
わたしのほんとうの弟子である。
そして真理を知るようになり、
真理はあなたたちを自由にする。」
【自分を信じたユダヤ人】「8章後半の区切り」の項で述べたように、30節では「<彼を>信じる」と対格が用いられ、31節では「<彼に>信をおいている」と与格が用いられています。どちらも“believe in him”と訳している英訳もありますが、NRSVの英訳版は30節で区切り、31節から新たに段落を設けています。ただしREBは30節で "many put their faith in him" を用いているのに対して、31節では"the Jews who had believed him" とありますから、31節のほうは、30節の人たちのことではなく、「以前からイエスを信じていたユダヤ人でありながら」、その信じ方に問題があると示唆しています。現行のネッスル=アーラントのギリシア語原典(2013年)は、30節から新たに区切っていますが、続く13節との間に空白を置いています。これだと、両節の人たちが同じかどうか、はっきりしません。ヨハネ福音書は、語法の微妙な違いで内容を示唆しますから、ここでの対格と与格の用法の違いを重視する見方が多数です。
【わたしの言葉に留まる】ただ「御言葉を信じる」だけでなく「御言葉に留まり続ける」ことが求められています〔バレット『ヨハネ福音書』〕〔バルト『ヨハネ福音書』〕〔岩波訳補注用語解説〕。これは、御言葉が<自分の内に>留まり続けることにほかなりません(6章56節)〔バーナード『ヨハネ福音書』(2)〕。
【真理を知る】パウロによれば、人間が神との交わりを回復できるのは、律法の諸行による人間の行為や努力の結果ではなく、「十字架の言葉」を聞いて、イエス・キリストにあって示された罪の赦しを受け入れることによってです。彼はこれを「信仰」と呼び、神から「義と認められる」大事な要件としました。しかし、ヨハネ福音書はここで「真理を知る」という言い方をします。これが「自由になる」ことの前提です。
 ユダヤ教では「律法を学ぶ」ことが人を罪から遠ざけると教えました。クムラン文書では「聖なる霊が人を(罪から)浄める」とあります〔『宗規要覧』3章7節〕。ギリシアのストア派の哲学者は「理性/知性」が人を自由にすると考えました。ヨハネ福音書は、「律法」や「理性/知性」ではなく、「イエスの言葉に留まり続ける」ことによって「真理を知る」ことであり、これが、その人を罪から「自由にする」と言うのです〔ブラウン『ヨハネ福音書』(1)〕。その「真理」とは、ナザレのイエスに起源を有し、イエス・キリストを通して啓示される「エゴー・エイミ」の臨在を「知る」(1章14節/8章28節)ことにほかなりません〔バレット『ヨハネ福音書』〕。だから、人が「真理を知って自由になる」のは、「真理についての知識」を自分なりに納得し理解することではなく、神からくる<真理それ自体>がその人に働く時に初めて、彼は<罪から自由になる>のです〔バルト『ヨハネ福音書』〕。
[33]~[36]
すると、彼らはイエスに答えた。
「わたしたちはアブラハムの子孫であるから、
今までだれの奴隷になったこともない。
あなたはなぜ、『あなたたちは自由になる』と言うのか。」
答えてイエスは彼らに言われた。
「アーメン、アーメン、あなたたちに言う。
罪を行なう者は、だれでも罪の奴隷にほかならない。
奴隷はいつまでも家にとどまる立場にない。
だが子はいつまでも家に留まる。
だから、もし子があなたたちを自由にするなら、
あなたたちはほんとうに自由である。」
【アブラハムの子孫】イエスの敵対者が、「自分たちはアブラハムの子孫」であると言うのは、アブラハムが神に選ばれたように、その子孫である自分たちも「選ばれた民」であるというユダヤ民族の誇りを表わします(創世記12章2節/詩編105篇6節/イザヤ41章8節)。新約では「アブラハムの子孫」の解釈が「霊と肉」二つの「アブラハムの子孫」へと発展します(マタイ3章9節/ローマ9章7~8節)。ただし、旧約のイスラエルの民が「アブラハムの子孫」であったがゆえに、歴史において常に「自由で」あったかと言えば、必ずしもそうではありません。イスラエルは、モーセによって導き出される前はエジプトで奴隷状態におかれていました。イスラエルが南北の王国に分裂した後に、北王国はアッシリアによって奴隷にされ、南王国はバビロニアによって捕囚の身にされました。だから、政治的に見る限り、「アブラハムの子孫」だからと言って奴隷でなかったとは言えません。しかし、たとえ他国で奴隷状態にあっても、イスラエルの民は、「神に選ばれた民」としてアブラハムの子孫であることを誇りにし、その信仰を保持しようと努めたのです。この事情は、ローマ帝国の支配下にあったイエスの時代でも、エルサレム滅亡以後のファリサイ派ユダヤ教徒の場合も変わらなかったでしょう。おそらくここでも、このようなユダヤ人としての誇りが、彼らの言葉の根拠になっています。
【自由になる】ヨハネ共同体の中には、かつてパウロの論敵でもあった「ユダヤ主義の」ユダヤ人キリスト教徒たちの主張を受け継ぐ人たちもいたと推定されます。したがって、ここ8章での論争には、パウロ的な信仰義認と、これに対立するユダヤ主義キリスト教との間に交わされた論争と通底するところがあります。新約聖書には「自由」という用語が全部で32回ほどで〔新共同訳〕、そのうち24回ほどがパウロ(系)書簡にあり、ヨハネ系文書(黙示録を除く)ではここに集中して4回でてくるだけです。さらに「罪の奴隷」という言い方も特殊で、こことローマ人への手紙に2回(6章17節と同20節)でてくるだけです。34節の「罪の奴隷」では、「罪の」が有力な異本に抜けていますから、おそらく「罪の奴隷」という言い方は、パウロ的な義認論を意識した編者が、ローマ6章17節の表現をここに反映させるために加えたと見ることもできます。パウロにとっても、ヨハネ共同体にとっても、人が自由に「なる」ためには、その前提として、人は自由で「ある」ことが神によって成就されていなければならないのです。ヨハネ福音書の言葉で言えば、御子が、父のみ心に従って「十字架の栄光」を受けたことによって、人を閉じこめている霊の牢獄の扉が、すでに開かれていることが前提なのです。人は「このこと」を知ることによって初めて、自由に「なる」道へと歩み始めるのです。
【罪を犯す者】原文は「罪を行なう者」です。「行なう」とあるのは、日常的に罪の支配のもとにあること、その結果、罪の生活を行なわざるをえない状態に置かれているという意味です。このように罪に従属させられて「いる」状態のことを「罪の支配」と呼びます。この言葉は、一般で言う「犯罪を犯す」ことではありません(これも罪の支配に入りますが)。だから、「罪の支配」という概念は、律法に違反する具体的な行為を「罪」と呼ぶヘブライの伝統的な語法から出たものではないでしょう。人間が罪の奴隷状態に「ある」という考え方は、おそらくヘブライ独自の思想ではなく、人間を社会的身分でなく、霊的な世界観からとらえるヘレニズム的な見方が、ユダヤ教へ入り込むことによって生まれたと考えられます。したがって、この「罪の支配」は、捕囚以後のヘレニズム・ユダヤ教の時代(前250年頃~紀元100年頃まで)にさかのぼると考えられます。
 ただし、「罪の奴隷」がギリシア的な思想に基づくのなら、人間を霊魂と肉体に二分し、人の霊魂は「ほんらいの自己」であって善かつ自由であるが、肉体のほうはこの世の情念や欲望によって罪の奴隷にされていることになります。この場合の「自由」とは、人が本来の自己に目覚めて、己の理知によって、この世的な欲望・情念の「束縛」から解放されるという意味になります。
 ところがヨハネ福音書で言う「自由」は、そのようなギリシア的な自己理解とその意志によって自己を「解放する」ことではありません。「罪」をそのように人間の自己努力によって処理できると考えるのは「自由の本質」についての「錯誤」であり、したがってその結果到達したと思い込む自由は妄想にすぎません〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。なぜなら、たとえそのような自己啓発や悟りによって自由を得たと思っても、彼はいぜんとして神の前に「罪を行なっている」ことに変わりないからです。
 ヨハネ福音書がここで伝える自由は、イエス・キリストの「エゴー・エイミ」の臨在に「招き入れられてこれに与る」ことで初めて、霊的に実現するものです。だから、これは現在すでにその人に進行しつつあるものの、同時に、それの成就は、将来に向かう歩みに委ねられるという「終末性」を帯びています。
 人がたとえ「アブラハムの子孫」という過去からの資質を受け継いでいても、そのことが、彼をほんとうの「アブラハムの子孫」にすることはできません。なぜなら、「アブラハムの子孫」とは、イエスの父である神が啓示する霊的な臨在を歩むことによって、すなわち過去から未来へと目を転じることによって初めて、その人が、「アブラハムの子孫」に「なり」、自由が成就し始めるからです。人はたとえ「アブラハムの子孫」を自称していても、「啓示者イエスとの関係で、啓示者としてのイエスを否定し続けている限り罪が存在しており、したがって罪を行なっていると理解される」〔バルト『ヨハネ福音書』〕からです。
【奴隷は家に】34節の「罪と奴隷」の関係から、35節では、「奴隷」と「子」の身分の対比へ移行します。アブラハムの子孫から「家」での「奴隷と息子の身分」の比較へ、前節と異なる視点が導入されます。家での奴隷/僕(しもべ)と息子の身分との比喩は、共観福音書のほうにも表われます(マタイ17章25~26節)。35節の後半に「子はいつまでも(家に)いる」とありますが、これは有力な異本では抜けています。36節に「だから、もし子があなたたちを自由にするなら」とあるので、おそらく、これにつなぐために35節の後半に「子はいつまでもいる」が挿入されたのでしょう。ここでの「奴隷」と「子」には定冠詞がついていますから、35節「奴隷は家にいつまでもとどまるわけにいかない」は、諺として一般に語られていたのかもしれません。ただし、もしも35節全体が後からの挿入だったとすれば、36節は34節につながることになり、「あなたがたは罪の奴隷である」を受けて、しかし、もし「神の子」自身が、あなたたちを自由にするのなら、子は父の名代であるから、あなたたちの自由は「ほんもの」になるというのが、ここでのヨハネ福音書の論旨でしょう。
 ここ35節の「家の奴隷(僕)と家の息子」は、ヘブライ人への手紙と関連づけることができます。ヘブライ3章5~6節によれば、モーセはイスラエルという「神の家/家族」全体を神からの委託によって忠実に管理する「僕(しもべ)」でした。したがって、たとえモーセと言えども、その身分は、神によって任命され神に「仕える者」にすぎなかったのです。「僕(しもべ)」と「奴隷」は異なりますが、パウロも自分はキリストの「奴隷=僕」であると言っているように、両者は相互に共通する意味で用いられました。35節でも「奴隷」と「僕」が同じだと見られています。もしもモーセが「僕/奴隷」であるのなら、万一彼が不忠実であれば、いつでもその家から追い出される可能性があります。同じように、モーセ律法に頼る者たちも、律法に忠実でなければ、神の家から追い出されてその特権を奪われることがありえます。パウロが指摘しているように(ガラテヤ4章30節)、アブラハムの女奴隷であったハガルは、アブラハムの子孫イシマエルを生みましたが、彼女は女奴隷であったために、その息子と共にアブラハムの家から追い出されることになりました(創世記21章9節以下)。パウロはこの比喩を用いて、モーセ律法を強制しようとしたユダヤ主義キリスト教徒に対抗して、律法(奴隷)からではなく、キリスト(神の子)にある自由を説いたのです(ガラテヤ5章1節)。
 ヘブライ人への手紙は、この意味のキリストと「僕/奴隷」身分のモーセを対照させ、キリストのほうは「神の子」であるから、「神の家」それ自体であって、モーセのように神の家を管理する僕ではないと述べています。任命された僕は追い出される可能性があり、管理者も交代させられるかもしれません。しかし、家そのものが存続する限り「子」の身分は変わりません。だからイエス・キリストの御霊に与る者は、キリストと共に「いつまでも家にとどまる」ことができるのです(ローマ8章2節/ガラテヤ5章1節)。彼らは「家それ自体」だからです。
 ヘブライ人への書簡は、エルサレム神殿が破壊される以前か、遅くとも80年~90年頃に書かれたと推定されますから、ヨハネ福音書と同じ頃か、あるいはそれ以前のものです。ヨハネ福音書の編集者は、ここで、ヘブライ人への手紙と共通する視点から、神の家そのものである「子」があなたたちを自由にしたのであれば、その自由は本物であると述べているのでしょう。だから、あなたたちはいつまでも子と共に神の家に「とどまる」ことができるのだと。ここでは、「神の子」と「とどまる」ことが、「自由」と「永遠の住まい」に結びつけられているのに注意してください。御子は神の家に永遠に住まうのだから、その自由も永遠に続くのです。
[37]~[38]
わたしは、あなたたちがアブラハムの子孫だと知っている。
それなのにが、あなたたちはわたしを殺そうとしている。
わたしの言葉があなたたちに届かないからである。
わたしは父のもとで見たことを語っている。
あなたたちは父から聞いたことを行っている。
【アブラハムの子孫】イエスの相手が肉による「アブラハムの子孫」であるのはその通りです。しかし、その実、彼らは「奴隷」であり(35節)、彼らの祖アブラハムとは異なる「父」の業を行ない(38節)、イエスを殺そうとするのです(40節)。
【受け容れない】原文は「場所を持たない」ですが、ここではイエスの言葉が彼らの心に「働くことができない」という意味。
【父のもとで見たことを】38節は、多くの異本に「わたしは<わたしの>父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは<あなたたちの>父から聞いたことを行なっている」とあって、「父」の前に所有代名詞を入れて読んでいます。"you do what you have learned from your father"〔REB〕。この読み方だと、二種類の「父」が語られていて、イエスの相手側の「父」は、イエスの父とは異なることになり、「彼らの」父とイエスの父とが対立します〔バーナード『ヨハネ福音書』(2)〕〔バレット『ヨハネ福音書』〕。「彼ら」は、かつてイエスを信じていたのに信仰を捨て去った人々ですから、この人々は、一方の「父」から別の「父」へと移ったことになります。たとえ一時はイエスを信じていても、「容易に暴力へ動かされる無知と偏見をいだくことがありえる」〔スローヤン『ヨハネ福音書』〕のです。イエスの言葉は、イエスの父に起源を持ち、彼らの行為は、彼らの父である悪魔に起源を持っています。自分を「アブラハムの子」だと見なしながら、ほんとうは悪魔の子なのです〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。
 ただし、所有代名詞を入れたこの読み方は、後の41節に「あなたたちは、<自分の>父と同じ業をしている」とあるので、これを逆に反映させるためにここに挿入されたと思われます。本来のテキストには所有代名詞がなく、したがってイエスの言う「父」と相手の「父」を同一の父として読むことも可能ですから〔岩波訳〕、この読み方をとれば、38節の後半は、「<わたし(イエス)が>父から聞いたことをあなたたちもまた<同じ父なのだから>行ないなさい」と命令形に読むことになります(幾つかの有力な写本はそうなっています)〔ブラウン『ヨハネ福音書』(1)〕。
"as for you, you should do what you have heard from the Father." 〔NRSV〕
 確かに、後に続く論議の展開から見る限り、所有代名詞を入れて読むほうが、神と悪魔のふた種類の「父」を区別する論旨を明確にすることができます。しかし、38節のこの曖昧さはそれなりの重要な含みを帯びていると見るべきでしょう〔バルト『ヨハネ福音書』〕。38節は、41節以降へいたるその「前」段階にあると見ることができます。ここでは、「イエスを信じた」はずの人たちの「父」とは、はたしてほんとうに「アブラハムの神」だったのか?まさに「このこと」が問われてくるのです。もしも彼らの父が、ほんとうにアブラハムの神なら、イエスの言葉のうちに「とどまり続ける」はずです。なぜなら、父を知るとは御子を知ることであり、御子を通じて<ほんとうの父を知る>ことだからです。<この>啓示に対してはっきりした決断をせずに、曖昧なままの状態にしておくことは、「罪の奴隷」にとどまり続けることにほかなりません。なぜなら、その結果として、彼らは「イエスを殺そうとする」具体的な選択を「行なう」ように仕向けられるからです。彼らのほんとうの「父」はだれなのか? この曖昧さが彼らの罪を具体化し、これによって彼らのほんとうの父が露わにされるのです〔バルト『ヨハネ福音書』〕。
[39]~[41a]
彼らが答えてイエスに言った。
「わたしたちの父はアブラハムである。」
答えてイエスは彼らに言われた。
「ほんとうにアブラハムの子なら、
アブラハムと同じ業をするがよい。
ところが今、あなたたちはわたしを殺そうとしている。
神から聞いた真理をあなたたちに語っているのに。
そんなことをアブラハムはしなかった。
しているのは、あなたたちの父と同じ業である。」
【わたしたちの父】「あなたたちは(自分の)父から聞いたことを行っている」と言うイエスへの相手側からの答えです。彼らが、イエスの言葉を「あなたたちの父はわたしの父とは異なって、悪い父だ」という意味に受け取ったのなら、これに反発して、自分たちの父こそアブラハムだと答えていることになります。しかし、「イエスと同じ父なら、その父の業を行なうがよい」という意味に受け取ったのなら、今度は逆に、イエスの父と自分たちの父を区別してイエスのほうを否定し、自分たちの父こそ、アブラハムだと主張していることになります〔ブラウン『ヨハネ福音書』(1)〕。
【アブラハムの子なら】異読があって原文の読み方が大きく三通りに分かれます。
(1)「もしアブラハムの子で<ある>(現在形)のなら、アブラハムの業を<するはず>(未完了形)だ」(事実かどうかは明らかでない)。
(2)「もしアブラハムの子で<ある>(現在形)のなら、アブラハムの業を<行なうがよい>(命令形)」(事実を認めて命令する)。
(3)「もしもアブラハムの子で<あった>(未完了形)とすれば、アブラハムの業を<行なった>(未完了形)だろうに」(事実に反する仮定)。
 (1)が現行の原典の読みですが、条件の「もし~」節が現在形で、帰結のほうが未完了の混合体なので、彼らがアブラハムの業を行なうのか、そうでないのかが、はっきりしません。おそらくこれが本来の形でしょう〔新共同訳〕〔フランシスコ会訳聖書〕〔バレット『ヨハネ福音書』〕。(2)と(3)は、曖昧さを避けるために、それぞれに、より文法的に「正しい」形に整えて、帰結を命令形に〔バーナード『ヨハネ福音書』(2)〕、あるいは仮定の未完了形に〔岩波訳〕〔ブルトマン『ヨハネ福音書』〕変えたのでしょう〔新約原典テキスト批評〕。
【わたしを殺そうと】「アブラハムの子孫」であるはずの人たちが、イエスを殺そうとしているのです。パウロが、ユダヤの民を「アブラハムの子孫」と呼ぶ場合には、「肉による」アブラハムを父祖とするイスラエルの民を指しますが、同時に彼は、これを「霊による」アブラハムの子孫、すなわち異邦人キリスト教徒を含むキリスト者こそ、アブラハムの信仰を真に受け継ぐ者だとして、「肉による」アブラハムの子孫と対照させました(ガラテヤ4章21~31節)。ヨハネ福音書にもパウロ的な「霊的な」意味と「肉的な」意味の二分法が背景にあると思われます。
 ところが、ここでは、「イエスを信じた」人々(8章31節)が相手ですから、事は単純でありません。なぜなら、ユダヤ人キリスト教徒たちは、「肉」のみならず「霊」においてもアブラハムの子孫だからです。しかも、イエスはここで、相手がそういう者であることを認めています!ここには、たとえ「イエスを信じる」と言う者でも、自分が「アブラハムの子孫」であることに安住するならば、イエスの敵対者へ移行する危険性があることが指摘されています。ヨハネ福音書では、霊的な「アブラハムの子孫」になるとは、ごまかしがきかない出来事であるという「厳しさ」があります。
【あなたたちの父の業】彼らは「わたしたちの父はアブラハムだ」と言います。そう主張する以上、彼らはアブラハムの業を「行なっていなければなりません」。では「アブラハムの業」とはいったい何か? 神がアブラハムに顕した啓示を受け容れて、「その真理」に自分を委ねて歩むことではないのかと問いかけるのです(創世記15章6節)。「神が遣わした方を信じること」こそ「神の業」だからです(6章29節)。ところが今、彼らは「エゴー・エイミ」の真理を顕すイエスを殺そうとしています。「真理」すなわち「神からの啓示」を受けれることができないからです。アブラハムは<そんなことを>しなかった。アブラハムは、神からの啓示に<信仰によって身を委ねた>からです(ガラテヤ3章2~6節)。彼らの行なおうとしていることは、彼らが<ほんとうに>アブラハムの子かどうかを疑問にするのです。彼らの選択と行為が<彼らの父>を決定するのです〔バルト『ヨハネ福音書』〕。彼らの殺害の意志は、彼らが<ほんとうは>自由で<ない>ことを露呈させています。「真理」が一般的な倫理や自然観察に基づくものではなく、神からの啓示に、すなわち宗教的、霊的な真理として啓示される時に、人は、自分たちが束縛された奴隷状態にあることを暴露されるのです〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。
[41b]
そこで彼らはイエスに言った。
「わたしたちは姦淫によって生まれたのではない。
父はただひとりの神である。」
イエスは彼らに言われた。
「もしも神があなたたちの父であったなら、
わたしを愛したはずである。
なぜなら、わたしは神から来て、
  ここにいるのだから。
わたしは自分から来たのではなく
  神がわたしをお遣わしになった。」
      (41節後半~42節)
【彼らに言われた】ここで言う「彼ら」とは、8章31節にでてきた「イエスを信じたユダヤ人」のことよりも、むしろ同48節、あるいは52節の「ユダヤ人」を指していると見るほうがいいでしょう。そうでなければ「(イエスが)姦淫によって生まれた」という当てこすりの言い方も、また44節の「悪魔であるあなたたちの父」も意味を持たないからです〔ブルトマン『ヨハネの福音書』778頁(注)148〕。
【姦淫によって生まれた】イエスが「あなたたちは<自分の父>と同じ業」と言ったことを受けて、もしイエスの言う父の神のほかにも、彼らに別の「父」がいるとすれば、彼らは「正式の結婚でない仕方で生まれた」ことになります(創世記38章24節のタマルの例を参照)。このために、ユダヤ人はイエスに抗議するのです。原文は「<わたしたち(のほうは)>姦淫による生まれではない」とあって、「わたしたち」が強められています。これによって相手は、逆に、イエスのほうが正式の結婚によらない「淫行の結果」生まれたのではないか、すなわちヨセフの正式の子ではないと当てこすりを言っていると解釈することができます〔バレット『ヨハネ福音書』〕。イエスの出生が正当でない(嫡子でない)といううわさはユダヤ人から出ていて、ケルソスは『真理の教え』(177/8年)でこの件を利用して、キリスト教論駁の材料にしています。オリゲネスは、これに対抗して『ケルソス論駁』(248年)を著わして反論しました〔ブラウン『ヨハネ福音書』(1)〕。
 しかし、この「姦淫の生まれ」の背景には、48節に出てくる「サマリア人」の問題があるという見方もできます〔バルト『ヨハネ福音書』〕。北王国イスラエル(後のサマリア)の預言者が著わしたホセア書には、ヤハウェとイスラエルの民は夫と妻の関係にあるという思想に立って預言活動をしました。しかし、北王国イスラエルは、偶像礼拝によって夫(ヤハウェ)を裏切り、ほかの神々と「淫行」を重ね(ホセア2章4節)、その結果、民はヤハウェに捨てられ、北イスラエルは捕らえられて他国へ移されました。その代わりに、ほかの異教の民が北王国の地に移されて住みついたために、原住民との間に混血と混交が進むことになります。これがサマリアの由来であり、このために、南王国のユダは、北のサマリアを同じヤハウェの民だとは認めませんでした。
 イエスが、どこまでサマリア人に対して友好的であったか、必ずしも明確でありませんが、「善いサマリア人」のたとえ話にもあるように、イエスのサマリアへの態度は、通常のユダヤ人のそれと異なっていたのは確かです。このためか、サマリア人でキリスト教徒になる人たちが大勢いたと思われます。「淫行の結果生まれたのではない」というユダヤ人の発言は、自分たちは、ヤハウェとイスラエルとの正式の契約関係から生まれた嫡子であるという意味で、ここは、48節で「サマリア人」へ言及する伏線になっているとも考えられます。
【ただひとりの父】原文は「ただひとりの父すなわち神」。"one father, God himself"〔NRSV〕/"God is our father, and God alone" 〔REB〕。
[42]【わたしを愛する】相手側が持ち出した「出生」の問題を採りあげて、イエスは、「父/父祖」から「父である神」のほうへ話題を移します。ここで、イエスの父こそが、アブラハム以来の<ほんとうの神>であることが、今までになくはっきりと語られます。同時に、イエスと父なる神との交わりの深さが啓示されます。31節に始まる「イエスの真の弟子」とはどのような者か、これが、「聴き従う」「分かる/悟る」「知る」などの言葉と共に、「愛する」というこれまで出てこなかった言葉で語られます〔バルト『ヨハネ福音書』〕。この「愛」は、13章1節へつながり、同34節で「新しい戒め」として与えられ、第一ヨハネの手紙では、この愛が、「神は愛である」と定義されます(第一ヨハネ4章7~12節)。
【わたしは神から来て】42節は「エゴー・エイミ」の本質を語っていますから、「わたしは神から来て、ここに居る」は、後にニカイア信条で三位一体の「御子は神から出た神」の出所となります〔ブラウン『ヨハネ福音書』(1)〕。しかし、ブラウンも指摘するとおり、今回は、そのような御子の神学的な存在論ではなく、父なる神がイエスを地上に遣わしたその現実の働きのほうに重点が置かれています。
【自分から来たのではない】イエスが自らの意志と自己追求を完全に放棄していること、これはヨハネ福音書が終始一貫証ししていることで、イエスの霊性の本質です(7章17節など)。
[43]
なぜわたしの言っていることが分からないのか。
わたしの言葉に聞き従うことができないからである。
あなたたちは、悪魔である父から出た者であり、
あなたたちの父の欲望を遂げようとしている。
彼は初めから人殺しであり、
真理に立ってはいない。
彼には真理が宿っていないからである。
彼が偽りを言うとき、その本音を語っている。
自分が偽り者であり、偽りの父だからである。
だから、わたしが真理を語るので、あなたたちはわたしを信じない。
あなたたちのうちのだれが、わたしに罪があると責めること
   ができようか。
わたしが真理を語っているのに、なぜわたしを信じないのか。
神から出る者は神の語ることを聞く。
あなたたちが聞かないのは、神から出ていないからである。
               (8章43~47節)
【なぜ分からない】彼らはイエスの「話し」を聞くことができるのに、現に今イエスが発している「言葉」が理解できません。彼らが、イエスの「話しを聞いても」、語りかける言葉に「聴き従おう」としないからです〔バレット『ヨハネ福音書』〕。彼らは、イエスの言葉が「分からないから、聞くに堪えない」と言う。しかし、イエスは、相手が「聞こうとしないから分からない」と言います。「啓示は自然的な人間に疑問を投げかけるものであるから、自分自身の疑わしさを悟らない人間には啓示の理解は存在しない」のです〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。
[44]【悪魔である父】原文は「悪魔の(起源である)父」です〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。しかし現行のほとんどの訳は、これを「<彼らの>父が悪魔である」という意味に訳しています〔新共同訳〕〔フランシスコ会訳聖書〕。"from your father the devil" 〔NRSV〕"your father is the devil" 〔REB〕。もしも、これを原文の字義どおりにとれば「悪魔を生み出した父」という意味になりますから、その意味が問われてくることになりましょう。「父から」を省略した異本があり、これだと「悪魔から」となり疑問は生じません。しかしこの異読はおそらく「悪魔の父から」という読みを避けるために「父から」を削除したと考えられます。現行の訳は、「から出た」を「父」と「悪魔」の両方にかけて読んでいますが、原語の読みとしては「悪魔の父から出た」のほうが語法的に自然です。
 「悪魔の父」を原語の通りに「悪魔たちを生んだ父」という意味にとるなら、わたしたちは、グノーシス的な傾向について考察しなければならなくなります。ヨハネ福音書とほぼ同じ頃に書かれたと思われる『真理の福音』は、グノーシス文書と見られていますが、そこには、宇宙の根元である「父」から派生した「迷誤」が、宇宙の形成原理として働くとあります。グノーシス思想では、創造は、より次元の低い「悪魔的な力」の業によるものです。このグノーシス思想において、悪の宇宙を創造した「カミ」を「悪魔の父」と呼ぶ思想に出合います〔ブラウン『ヨハネ福音書』(2)〕。
 しかし、ヨハネ共同体の頃には、まだ明確なグノーシス思想は現われていません。後の2世紀のグノーシスでは、ユダヤ教の旧約の神ヤハウェをこのような「不完全なカミ」(デーミウールゴス)と同一視して、これを非難したり悪魔呼ばわりしたり揶揄する文書が書かれるようになりますが、現在では、今回の箇所をグノーシス思想と結びつけるのは時期的にも内容的にも不適切だと考えられています〔バーナード『ヨハネ福音書』(2)〕。ヨハネ福音書の作者は、イエスに敵対する者たちの殺意が、「悪魔であるあなたたちの父」から出ていることを言おうとしているのです。44節の「悪魔の父」という読み方は、セム語の資料の訳し方から生じた誤訳だという見方があります〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。ここでは「疑いもなく、<悪魔の父>ではなく<悪魔>のことを語っている」〔バルト『ヨハネ福音書』〕のです。
 ヨハネ共同体は、後に分裂を体験した結果、はっきりと「反」仮現説の傾向を帯びるようになります(第一ヨハネ4章1~3節)。ヨハネの手紙では、兄弟を愛さないで分裂をもたらす者たちが「悪魔の子たち」と呼ばれていますが(第一ヨハネ3章8節/同10節)、これは明らかに分裂をもたらした仮現説的な傾向の者たちを指しています。このように見てくると、ヨハネ共同体の人たちの間に、相当に複雑な対立が起こっていたと推定されます。実情は単純でなく、論争は渦を巻くように錯綜していたに違いありません。おそらく、ヨハネ共同体内には、ユダヤ主義的なキリスト教徒たちと同時に、後にグノーシスに走るキリスト教徒たちもいて、この両者の間で厳しい対立が生じていたのでしょう。
【父の欲望を】「欲望することを行なう」は、神がイスラエルの民を捕囚から救い出すために、彼らの過去を暴いた預言から来ています(イザヤ書43章25~27節)〔バレット『ヨハネ福音書』〕。しかし、今回のこの言い方は、イエスの父と相手の父との本性を先鋭にえぐり出しています。第一ヨハネ3章8節に「罪を犯す者は悪魔から出た存在である。そもそもの初めから悪魔は罪を犯すものだからであり、神の御子が顕れたのはこの悪魔の仕業を滅ぼすためにほかならない」とあります。ここで問われるのは、「誰が」罪を犯す悪魔の子として、その「父の業を行なう」かではなく、わたしたち人間は、そもそもの初めから、罪を犯す存在として悪魔の子であり、その子として悪魔の業を行なう素質を具えている、ということにあります。神と御子の啓示に与るとは、これによって、わたしたちの人間存在それ自体が疑問とされ、自分の有り様そのものが、神と悪魔のどちらを「父」とするかが問われることなのです。
【最初から人殺し】原語の「人殺し」(アンスローポクトノス)は、新約聖書で今回以外に第一ヨハネ3章15節だけにでてきて、そこには「すべて兄弟姉妹(クリスチャン仲間)を憎む者は人殺しであり、人殺しはだれであれ、そのうちに永遠の命を宿していない」とあります。知恵の書2章24節には「悪魔のねたみによって死がこの世に入った。悪魔に属する(支配される)者らは死を味わう(体験する)」とありますから、これは創世記での蛇(悪魔)の誘惑による堕罪へさかのぼるのでしょう。
 「彼は<初めから>人殺しである」の「初めから」は、時間的な意味というより「その根源において」、あるいは「その本性において」の意味です。敵対者たちは、その根源において人殺しの霊に支配されていることになります。この「初めから」は、第一ヨハネ3章8節と同じで、ヨハネ共同体の内か外かで、あるいはその両方で、おそらく共同体のメンバーが、対立する相手によって処刑されるという事態が生じたことをうかがわせます(16章2~3節)。したがって、この謎のような言葉の背景を探るのは容易でありません。
 第一に考えられることは、イエスを十字架につけたユダヤ人指導者たちへさかのぼることです(マタイ23章29~34節)。第二には、ファリサイ派ユダヤ教徒とヨハネ共同体との間に生じた対立が頂点に達したことです。その結果、「アブラハムの子孫」であると告白する者同士が、ちょうどカインがアベルを殺したように、ファリサイ派によってユダヤ人キリスト教徒に死刑(石打ちの刑?)が科せられたと推定されます。このようなことを行なう者は、カインと同様に「初めから」人殺しです(創世記3章4節)。「その本性から偽りを言う」とあるのも、兄弟を殺した後のカインの言葉を指すのでしょう(創世記4章9節)。同じ「アブラハムの子孫」でありながら、彼らは、イエスをメシアと信じる者たちを殺すからです。イエスの口から出た「悪魔である父」は、「ユダヤ人」のカイン的霊性を指すと考えられます。
【真理に立つ】「真理」とは、「イエスがその父から聞いた真理」(40節)のことです。原文では「初めから人殺しで<あった>(不定過去形)。だから真理に立って<いなかった>(不定過去形)とあって、原文の動詞はどちらも不定過去形です。しかし、有力な幾つかの異読には「立っていない」とあって、現在もなおその事態が継続している「完了形」が用いられています。このように、原初にはじまり、現在もなお続いている状態、「(人殺しで)あった」"was"(不定過去)~「(真理に)立っていない」"does not stand"/ "is not rooted"(完了)と読む訳が多いようです〔新共同訳〕〔フランシスコ会訳聖書〕〔NRSV〕〔REB〕。
【偽りを言う】「真理と命」と「偽りと死」が対照されています(創世記3章4~5節)。「偽りを<語る>」とあるのは、「悪魔である父」を定義する言い方よりも、歴史的な現実の場で発せられる具体的な発言を指します。だから、「真理」も「偽り」も、この世の人の目に直接現われない「隠れた」性格のことではなく、イエスを通して啓示された神の現実の中において、自己を発見するのか、それとも神からの現実に反抗する自己主張によって、自らを虚無(偽り)の中に見いだすのか、そのどちらかです〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。だとすれば、「偽りを語る」のは「悪魔である父」の業であるだけでなく「悪魔の子」である人間の行為をも指しています。なお、「偽る/偽り者」は、第一ヨハネの手紙に多くでてきます(1章10節/同2章4節/同22節/4章20節/5章10節)。
【その本性から】原文は「自分自身<から>」です。だから悪魔が偽りを語る時には、自分自身は偽りを語っていると思っていないのです〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。ここは、続く「神<から>出ていることを語る」と対応します。神からの啓示の前に立つ人が「選ぶ」とは、神の前で<自分が>選ぶことではありません。なぜなら神の前で選ぶとは、自分の<起源>を選ぶことだからです。この場合、人は、自分自身がどこから出ているのか? その根拠となる自己を選ぶのです。神からの真理の語りかけを聴くのか、悪魔の支配の中でこれを聴こうとしないのか、「悪魔からか、神からか」、これを選ぶのです〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。31節と34節のどちらかを選ぶことが、イエスの啓示の前に立つ人に<生起する>出来事です。それは「赦し」と「裁き」が表裏を成している出来事にほかなりません。
【偽りの父】原文は「その父」で、「それ(中性)/その者(男性)」のふたとおりの読み方ができますから、男性か中性かで「偽り者の父」か「偽りの父」かになります。「偽り者」とは悪魔を指すと同時に「真理に関わろうとしない人」のことです。学問であれ、芸術であれ、人間が神に対して自己弁護しようと身構える時に語るすべての言葉において「偽り」が生じますから、「偽り」とは不信仰が発する言葉のことです〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。
[45]【わたしは真理を語る】43節から47節までは一続きの論証になっています。43節で「わたしの言うことがあなたたちになぜ分からないのか?」という問いが発せられ、その理由として、「あなたたちはわたしの言葉を聴くことが<できない>からだ」と言われます。なぜ、彼らはイエスの言葉を聴くことができないのか。それは、彼らが、悪魔を父として選び、これに支配されているからです。だから<あなたたちは>悪魔の欲望をどこまでも求め続けていると言うのです。その欲望とは何か? 神からの真理を語る者を「殺す」ことであり、神の真理に代えて自分たちの欲望である「偽りを語る」ことです。
 これに続いて45節が来ます。だから、45節の冒頭の「わたしは」は、44節冒頭の「あなたたちは」と対照され、45節の「真理を語る」は、44節の「偽りを語る」と対比されます。「わたし」が強調されていて、「わたし(イエス)が真理を語っている<からこそ>、あなたたちはイエスを信じることができない」と言うのです〔バルト『ヨハネ福音書』〕。「なぜ分からないのか?」は、次節に続きます。
[46]【わたしを責める】彼らがイエスを信じることも理解することも<できない>のは、彼らが、神から啓示された霊的な出来事の正当性をどこまでも<自分たちの基準で判断しよう>とするからです。だから、イエスが語る真理を判断する際にも、<自分たちの基準>に照らして、イエスを「責める」ところがないかどうか、 過誤や罪がないかどうかを、神からの啓示を度外視して、自分たちで自由勝手に対処し裁こうとするからです。神から啓示される霊的な真理を人間の自己追求の欲望で支配しようとするからこそ、彼らは信じることも理解することもできないのです〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。ところが彼らは、イエスが神からの真理を語っているそのこと以外に、何一つイエスを非とする理由を見いだすことができません。だからイエスは、「わたしが真理を語るのに、なぜわたしを信じないのか?」と訊(き)くのです。
[47]【神に属する者】原文は「神から出た者」。この節が8章全体の核心です〔バルト『ヨハネ福音書』〕。今回のイエスと敵対者との対立はヨハネの手紙に受け継がれています(第一ヨハネ3章10節/4章6節/5章12節/第三ヨハネ11節)。第一ヨハネ4章6節では、「神から出たもの」と「そうでないもの」の対比が、イエスを信じるエクレシアと、これに対立するこの世との対立関係としてとらえられています。
 47節は43節の問いかけに戻り、これへの最終的な答えです。これを、ある人は悪に定められており、ある人は善に定められている、のように解釈することはできません。その人が、神から来て<いる>のか、神から来て<いない>のか、これは、イエスの語りかけとその人との出会いによって定まるからです。「彼らが信じないならば、神はその者の傍らを通り過ぎるのであり、彼らが信じないそのことによって、神からの彼らへの決断が下されている」のです〔バルト『ヨハネ福音書』〕。しかもこの決断の時は一回限りではなく、繰り返されることを8章26節は教えてくれます。「あなたたちは悪魔の子である」という運命的な響きは、同時に、それが「解決されている」という語りかけの前に立たされることで、その恐ろしさと厳しさを減じるのです。厳しさは、<この>問いかけが、幾度も<繰り返される>そのことにあるのです〔前掲書〕。
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