43章 アブラハムより先にいた方
8章48節〜59節
■8章
48ユダヤ人たちが、「あなたはサマリア人で悪霊に取りつかれていると、我々が言うのも当然ではないか」と言い返すと、
49イエスはお答えになった。「わたしは悪霊に取りつかれてはいない。わたしは父を重んじているのに、あなたたちはわたしを重んじない。
50わたしは、自分の栄光は求めていない。わたしの栄光を求め、裁きをなさる方が、ほかにおられる。
51はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。」
52ユダヤ人たちは言った。「あなたが悪霊に取りつかれていることが、今はっきりした。アブラハムは死んだし、預言者たちも死んだ。ところが、あなたは、『わたしの言葉を守るなら、その人は決して死を味わうことがない』と言う。
53わたしたちの父アブラハムよりも、あなたは偉大なのか。彼は死んだではないか。預言者たちも死んだ。いったい、あなたは自分を何者だと思っているのか。」
54イエスはお答えになった。「わたしが自分自身のために栄光を求めようとしているのであれば、わたしの栄光はむなしい。わたしに栄光を与えてくださるのはわたしの父であって、あなたたちはこの方について、『我々の神だ』と言っている。
55あなたたちはその方を知らないが、わたしは知っている。わたしがその方を知らないと言えば、あなたたちと同じくわたしも偽り者になる。しかし、わたしはその方を知っており、その言葉を守っている。
56あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。」
57ユダヤ人たちが、「あなたは、まだ五十歳にもならないのに、アブラハムを見たのか」と言うと、
58イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」
59すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた。
■見える人と見えない人
キェルケゴールというデンマークの哲学者が、次のように言っています。「世間一般の人が信仰者を見ると、まるで何かに酔っているように思われる。彼らは、現実が目に入らずに、自分の思いに取りつかれているかのようだ。ところが、信仰者の側から見ると、全く逆なのである。世間一般の人は、まるで何かに取りつかれていて、自分たちを取り巻く真実が見えていない。本当の真理が目に入らないかのようである。」
宗教と自然とは、ある意味で似たところがあります。人々は自然の中に住み自然と宇宙を眺めます。しかし、全く同じに自然の中に住み、宇宙を眺めていても、ある人たちは、そこに神の存在を見いだし、他の人たちには、それが全く目に入らないのです。ある人は宇宙と自然の中に住んでいるまさにそのゆえに、そこに神を見いだします。ところが、そうでない人は、自分たちが自然を眺め、その中に生きているまさにそのゆえに、神を見いだすことができないのです。
宗教の場合でも、これと同じことが言えます。ある人たちは、宗教的環境で宗教的儀式にかかわっている中で、その宗教的世界に神の真理を見ることができます。ところがある人たちは、宗教にかかわり宗教に中で生活しているまさにそのゆえに、神を見いだすことができないのです。彼らには、そこに含まれている「真理」が見えてこないのです。自然そのものを神と見なして、これを拝むことも間違っていますが、宗教に関わることが、そのままで神を見いだすことだと考えるのも同じように誤りなのです。
■命の光
今回も「悪霊」が問題になります。敵対するユダヤ人たちは、イエス様がサマリア人のような異端者だから「悪霊である」と言います。けれども、悪魔も悪霊も狂った人も異端者も、ヨハネ福音書から見れば同じひとつの本質、すなわち「悪・闇・死」という「偽り」を意味します。したがって、悪魔/悪霊の反対は「真理」です。真理は「命」です。聖書で言う「命」とは「永遠の命」です。この命は、自然な状態にある人間の肉体的な生命のことではありませんから、この命は<啓示され>ます。聖書は、啓示を「光」で表わしますから、イエス様は、「命の光」を啓示する方です。わたしたちは、ここで1章の御言葉をもう一度想い起こす必要があります。「彼には命があった。この命は人の光であった」「すべての人を照らす真理の光があってこの世の中に来た。彼はこの世の中に宿っていたのに、世の人たちは彼を見分けなかった」とあります。この命が「見える」人と「見えない」人がいるのです。この問題は、ヨハネ福音書が、終始一貫して追求しているテーマです。
■イエス様に聴き従う
今回の論争の終わりに、イエス様は、「わたしはアブラハムよりも先に存在した」(58節)と証しされます。これは、1章の「初めにみ言(ことば)がおられて、そのみ言(ことば)は神と共におられた。み言は神とひとつだった」「万物は、このみ言なる方によって生起し、この世にあって生起するいっさいは、この方から生じる」とあるのに対応します。1章では、「この方に命があった。その命は人間の光であった」と続きます。
「初めからおられた」この方は、神と共に万物の創造にかかわった方でありながら、わたしたちと同じ「人間として」この世へ来られた。それは、このお方が発する命の光が、わたしたちに<宿ることができる>ためです。宇宙万物の創造者との交わりから断たれていたわたしたちにも、この方を通じて、創造者との交わりへの道が開かれたのです。創造者との交わりに入るためには、イエス様が発する霊光に「聴き従い」さえすればいいのです。「信従する」のです。
今回の8章で中心となるのは50〜51節です。そこでは、1章の「み言(ことば)」に加えて、これに「聴き従う」ように求められています。宇宙創造の始めから存在しておられたロゴスが宿るイエス様、このイエス様の御霊のお働きに素直に聴き従うならば、わたしたちは、自分自身もその一部である宇宙が、父にその源を持つことを悟るのです。ところが、ある人たちには、このことが見えません。だから、イエス様の語りかけを受け入れることができません。彼らは、この世に闇と死を見るだけです。
■イエス様と裁き
彼らは、なぜイエス様の語ることが受け入れられないのでしょうか?それは、彼らが「自分の誉れ」を求めて、父の神の栄光を求めないからだとイエス様は言われます。イエス様は「わたしの栄光を求め、裁きをなさる方が、ほかにおられる」(50節)と言われます。原文には「求めて、裁く(判断する)方がいる」とあるだけで、何を求めるのか? 何を裁くのか? いっさい触れられていません。だから、これを「イエス様の栄誉を求める方」と、「イエス様を侮辱する者を裁く方」との二つに分けて解釈する訳もあります〔岩波訳〕。新共同訳だと「御子の栄光を求める」のは父なる神です。ところが、イエス様のほうは、ご自分の栄光ではなく、父の栄光を求めるのですから、結局は同じです。
父を求める者と、逆らって裁かれる者、この二つに分ける解釈は分かりやすいですが、事はそれほど単純でありません。原文では、父のほうが栄光を「求める」ことであり(54節)、同時に「裁く(判断する)」ことですが(50節)、このふたつは、同じことの裏表です。神は、御子の栄光をお求めになりますが、同時に、御子がほんとうに父の栄光を求めているかどうか、このことをも「判断/判定」されるからです。だからイエス様は、ご自分を地上にいるわたしたちと同じ目線に置いて語っておられるのです。わたしたちは、イエス様のことを「天から降った」神的な存在として観るだけではありません。わたしたちと変わらない「人間的な存在」でもあること、これもまた、ヨハネ福音書が証しするイエス様の大事な側面です。「父の栄光を求める」のか? それとも「自分の栄光を求めて」父に逆らうのか? これが父によって「判断される」のは、御子自身についても、同時に、御子の声を聞いているすべての人たちについても言えるのです。裁かれるのは御子でもあり、同時に御子の声を聞くすべての人です。父は、御子に裁く役目を与えたとありますが(5章22節)、今回のイエス様は、裁く側ではなく、わたしたちと同じ裁かれる側です。
■神を知ること
今回の箇所で、イエス様は、相手に「なぜわたしの言うことが分からないのか」と言われます。イエス様は、「命の光」「真理」「自由」「偽り」などと言われますが、相手に語るそれらの「内容」については、ほとんどなにも触れません。だから、わたしたちは、イエス様の語るひとつひとつの御言葉のその「内容」についてはほとんど聞くことがないのです。つまりヨハネ福音書は、イエス様が「語っておられる」という、そのことをここでも語っているのであって、「何を」語っておられるのかは触れないのです。どうして、イエス様を通して神がお語りになっていることだけを語って、その御言葉の内容については詳しく語らないのでしょう?
前回「真理を知る」で説明したように、「知る」とは、ある知識や言葉の「内容を聞いて」知ることではありません。ここで「知る」のは父なる神と出会うことであり、その父の神がイエス様を通して語っておられる<そのこと>を知ることなのです。だから「知る」とは、知識や概念によって知ることではなく、神様が、イエス様を通じて、「現実に語っておられる」、そのことを悟って、「その語りかけ」にあなたが「応じる」かどうかが問われるのです。神があなたに<お語り>くださる、という「そのことを」知ることこそ、神との「交わりに入る」第一歩なのです。わたしたちは、これ以外に、「神を知る」ことができません。求められているのは、わたしたちのほうから神についての知識を学ぶことではなく、イエス様を通じて「語りかける」父なる神に聴いて、これに応じることであり、全人格的にこれに応対することで、イエス様の啓示を「受け入れる」ことです。ヨハネ福音書が、ここで、神が語りかけておられるという「そのこと」だけを語るのは、まさにこの理由からです。
ここでは、「知る」とは、神の語りかけを通じて「交わりにある自己」を知ることです。わたしたちは、そのような自己を分析したり認知したりすることができません。知るとは父と御子に「知られる」ことであり、神に知られているそのことを自分が「知らされる」ことであり、そういう仕方で、今まで存在しなかった自己が生まれ創りだされていることを悟らされることなのです。自己ならざる自己、知らない自己を知らしめられ、存在しなかった自己があらしめられている、そのことを知るのです。これが聖霊の働きです。
■敵対者の躓き
今回のイエス様の論敵からの指摘は、わたしたちが見落としがちなイエス様の姿を教えてくれます。それはイエス様が、どこまでも、わたしたちと全く同じ人間であることです。「自分を何者だと思って(原語は「装う」)いるのか?」という発言から読み取れるように、敵対する者は、イエス様の内に働く何か理解できない霊性を感じ取っています。彼らは、それを神からの霊性とは見なさず、逆に、イエス様が、神に対する冒涜の罪を犯していると見なすのです。彼らは、イエス様が自分たちと全く同じ人間であり、そうでありながら、そのイエス様の内に「神のようなものの臨在」を感じて、ある種の恐怖を抱いているのが分かります。イエス様が、アブラハムを始め、わたしたち人間と全く同じでありながら、同時に自分の内に「神ご自身」を宿しておられることを彼らは(この点では、わたしたちも同様に!)受け入れることができないのです。
彼らが受け入れることができないのは、イエス様に宿る神性それ自体が原因ではありません。人間が「神の子」となり、その「神性」を誇示すること、そのこと自体は、古代の王朝時代から、しばしば経験してきたことです。だから、彼らは、こういう「神を装う」王や権力者たちなら、同意できないまでも、決して理解できないことではありません。問題は、その神性が、目の前にいるイエス様のあまりにも権力者らしくない「ただの」人間性と釣り合わないことなのです。人間でありながら神性を帯びていると「装う」王侯たちとイエス様とが、あまりも違うのです。だから彼らは、「イエス様の内に宿る」神性を信じて受け入れることができず、これを「侮辱する」のです。躓きのもとは、イエス様の神性それ自体にあるというよりも、神性を宿すイエス様の「人間性」のほうが、彼らにとって躓きの石なのです。「彼らは啓示を見てとらなければならないところで、悪霊憑きと異教を見てとっている」[バルト]のです。
■イエス様のお答え
これに対して、イエス様は答えます。
「わたしが(従来の王侯のように)自分の栄光を誇示したり求めたりしているのであれば、そのような行為はむなしい。父がわたしに与える栄光とは、受難の栄光にほかならないことを、あなたたちは知らない。わたしは自分からはなにひとつできない。ただ、父から聴くままに従うだけである。父が自分になすべきことを語り、父がそれを行なわれる。だから、自分にあって働くのはわたしの父であって自分ではない。あなたたちは、アブラハムは死んだと言う。しかしアブラハムは死んだのではない。彼は、肉体にあった時でも、神を仰いで神からの命を待ち望んでいた。アブラハムも預言者たちも、神が彼らを永遠の命に導き入れる日を待ち望んでいた。この神は、人間が、その肉体的な存在にある時でも、なお命を与え人を活かすことのできる創造主だからである。アブラハムはこれを知って躍り上がって喜んだ。その喜びが今あなたたちにも来ている。」
「ところがあなたたちは、わたしの内に働くこのような神を知らない。あなたたちが自分たちの神だと主張するその神とは、まさにこのような神ではないのか。ところが、その方をあなたたちは知らない。しかし、わたしは知っている。現に今、わたしを通して働いていてくださっているからである。父とともに原初の創造に携わったロゴス・キリスト、その方が今、かつて地上にいたアブラハムと同じような人間存在となって、あなたたちの前にいる。あなたたちに語りかけている。父がわたしを通して創造の霊言をあなたたちに働かせているではないか。あなたたちは、こんなに近い神を、あなたたちの口にあり心にある神、死ぬべき肉体を具えた人間に永遠の命を与えるこのような神をどうして受け入れることができないのか? これこそ現に今、神がわたしを通じてあなたたちに行なおうとしている事ではないか?」 これがイエス様のお答えです。
ヨハネ福音書講話(上)へ