【注釈】
■今回の問題点
 8章では、7章と同じテーマが繰り返されていますから、この二つの章は、ひとつのまとまりをなしていると見ていいでしょう(7章16節=8章28節/7章20節=8章48節/7章28節=8章42節/7章29節=8章55節/7章33~34節=8章21節)。7章では、イエスの証言によって群衆の間に分裂が生じ、8章の前半(30節まで)では、ファリサイ派とイエスとの間に対立が生じました。さらに8章の後半(31節以降)では、「イエスを信じた者たち」とイエスの間にさえ厳しい対立が生じます。後半では、次第に「死」の影が濃くなり(8章21節/24節/37節/40節/44節/59節)、8章の終わりで、対立は頂点に達します。この意味で、8章後半でのイエスと敵対者の間の論争は、読む者をして「どの福音書においてもこれ以上に人を憂鬱にさせるやり取りを見いだすのは難しいであろう」〔カントリーマン〕と言わしめるほどです。
■8章
[48]【サマリア人で悪霊】サマリアの由来については、4章4節の「サマリア」の項目を参照してください。サマリアの人たちは、ユダヤとは異なる独自の神殿(ゲリジム山にある)と聖書(モーセによって書かれたと伝承される旧約聖書の始めの五つの書で、特にサマリアで伝承されてきたものは「サマリア五書」と呼ばれる)と祈祷書を持ち、「彼らの救済者」として「ターヘーブ」と呼ばれる「真の救済者」が来臨してイスラエルに永久の救いをもたらすという信仰を保持していました。したがって、彼らは、「ユダヤ人のみ」がアブラハムの正当な継承者であるというユダヤ側の主張を拒否していたのです。サマリア人でイエスをメシアと信じる人たちが相当数いたと思われますから(4章42節参照)、ヨハネ共同体にもサマリア系の人たちが含まれていたでしょう。イエスの敵対者たちが、自分たちの「アブラハムの子孫」の正統性に続いて「サマリア」を持ち出したのはこのためです。しかしイエスは、ここで、自分を「サマリア人」と同一視する敵対者たちの非難を否定していません。
 ただし「悪霊に憑かれている」という非難に対して、イエスはきっぱりとこれを否定しています。イエスへのこの非難の背後には、サマリア人は異端者であり、彼らの信仰自体が「悪霊的」であるというユダヤ側の主張があります。イエスもその「サマリアの悪霊」に加担しているというわけです。サマリアの「魔術師」(霊能者と見なされた)であったシモンも悪霊に憑かれた者として追放されています(使徒言行録8章9節以下)。ただし、今回の「悪霊に憑かれている」を「錯乱」「狂気」の意味に解釈して、「イエスは気が狂っている」という解釈もありますが、「悪霊に憑かれている」は、文字通りの「悪魔」の意味(マルコ3章20節以下)から「狂気」まで、様々な段階があります。52節での敵対者の批判は、イエスを狂気と結びつけているとも受け取れますが、ここでの「悪霊」には、これらの諸段階が重ね合わされていると思われます。
 48節でユダヤ人たちは、イエスに向かって「あなたはサマリア人で悪霊に憑かれているとわたしたちが言うのは当然ではないか」と言っています。「当然ではないか」とあるのは「わたしたちのほうが正しいではないか」という意味です。”Are we not right in saying that...?”〔NRSV〕ヨハネ福音書は、ここで、イエスと敵対者との論争を通じて、サマリア人の問題だけでなく、イエスとユダヤ人との間に根本的な対立関係を見て、いったいどちらが「正しい」のか? と問いかけているのです。だからここでは、単にイエスが「狂っている」かどうかが問題なのではありません。なぜなら、イエスの敵対者たちは、イエスが、ユダヤ人の誇りとする先祖アブラハムの正統性を根底から否定していると見ているからです。だから彼らは、イエスを異端だと見て、これを「悪霊的」だと非難しているのです。ところが、イエスは、サマリアと悪霊との結びつきをきっぱりと退けるだけでなく、彼らに対して、サマリアに対するユダヤ人の誇りのより所となる「アブラハムの子孫」としての正統性すら認めないのです(ただし4章22節を参照)。彼らは、このようなイエスの言葉が、イエスの不遜な思い上がりだけでなく、神に対する冒涜だと考えるのです。このように理解して始めて、イエスが「わたしは父を重んじるのに、あなたたちはわたしを軽蔑する」というイエスの答えに潜む深い意味が見えてきます。
[50]【わたしは自分の栄光を】ここで「わたし」が強調されています。「自分の栄光を求めない」というこの発言は、イエスが今までも繰り返し主張してきたことですが、50節の注釈としては、フィリピ2章6節~11節が最も適切でしょう。イエスは「父の」栄光を求めますが、それは、「己の」栄光を捨てたこと、己を父のみ心に「明け渡して」(これを「ケノーシス」と言います)この世へ来たことを指すからです。イエスが、神性と同時に人間性を有するとは、この「神的なケノーシス(謙虚さ)」から来ています。だからこそ、イエスは、自分を敵対者と全く同列に置いて、彼らに語るのです。敵対者がイエスに躓くのは、イエスの神的な霊性それ自体に気がつかないというよりも、むしろ、そのような霊性を有することで父の言葉を宿しながら、そのイエスが、自分たちと全く同じ次元の人間として彼らに語るその姿にあるのです。自分の栄光を一切求めようとしないイエスの霊性それ自体に彼らは躓くのです。
【わたしの栄光を求め】50節後半の原文は「求めて裁く(判断する)方がおられる」です。ここには、何を求めるのか、誰を裁くのかは語られません。直前でイエスが、「自分としては」と主語を強調した上で、「自分の栄光を求めない」と言っていますから、「求める」のは「栄光/ほまれ」のことでしょう。では誰の栄光のことなのか?  原文の主語は神自身ですから、神が「自分の栄光を求める」という解釈もできないわけではありませんが、ここは、神が「イエスの栄光を求める」と解するのが最も適切でしょう。もっとも、イエス自身は、神の栄光を求めていますから、結果的には同じことです。ただし、これに続く「裁く」は「求める」とひとつになっていますから、神が「イエスの栄光を求める」ことが、神が「イエスを裁く/判断する」ことにもつながります。
 イエスは、どちらが「正しいのか」という相手の詰問に対して、これの判断の基準は、どちらがほんとうに「神の栄光を求めている」か? にかかると指摘します。「正しい」かどうかの判断の基準は、「真理か偽りか」です。この真偽の判断の根拠こそが「己の栄光を求めるか否か」なのです。「このこと」を「裁く/判断する」方こそ、父の神ご自身です。だから、「裁かれ/判断される」のは、イエス自身もその敵対者も含めて、全部の者たちです。人がほんとうに「正しい」かどうかは、人ではなく、神が判断することであり、しかも、父なる神は、人がどこまで真実に神の栄光のみを求めているかを誤りなく判断し裁定するのです。
 イエスをその敵対者と同列において、父の神が、その両方を裁き判断するという解釈は、神の御子を伝えるヨハネ福音書の言葉としてふさわしくないと思われるかもしれません。しかし、わたしたちは、人間存在から隔絶した神的な存在としての御子イエスに目を奪われるあまり、ともすれば、この福音書が、「イエスの人間性」に対して深い洞察を秘めていることを見逃してはなりません。ここで問われているのは、地上の人間性から超越した「神の子」のことではありません。そうではなく、「神が」イエスを含む人間全体にどのように己を啓示しているのか? ということなのです。福音書の記者は、まさに<このこと>をここで問うのです。「人間イエス」が、神のみ心に従って真理を語っていることが、福音書の著者にとって大事なのです。わたしたちは、後期の高められたキリスト論からのみ、ヨハネ福音書のキリストを判断すべきではありません。「注目すべきは、紀元1世紀のキリスト論であり、キリストへの信仰がどのように神信仰の開示にかかわるのかであって、その逆ではない。キリスト者が犯す深刻な過ちは、イエスを神の立場に置くことである」〔スローヤン〕という指摘は傾聴に値します。
[51]【決して死ぬことがない】原意は「永遠に死を見ることがない」です。「死を見る」という言い方は「死ぬ」ことを言い表すヘブライ語の語法です(詩編89篇49節/ルカ2章26節/ヘブライ11章5節)。詩編89篇49節では、神がすべての生き物を「死を見る」ように「造られた」とあります。ところがヨハネ福音書は、ここで「イエスの言葉を保持する」者は「死を見る」ことがないと言うのです。イエスの言葉は、遣わされた者が語る父の言葉にほかなりませんから、神は、(堕罪の結果として)「死を見る」ように造られた人間を「死を見ない」ものに「再創造」しようとしているのです。
 ヨハネ福音書は、旧約から直接に引用せず、間接的に言及するのが特徴です。この8章には、全体としてイザヤ書43章が反映していると指摘されています。第二イザヤ書の43章では、神による新たな創造が、イスラエルの贖いと救いに結びつけられています(特にイザヤ43章1節/11節/19節)。8章51節のイエスの言葉は、イエスの人間性とはいったいなにか? という問いを誘発する(8章53節)と同時に、その問いは、イエスを遣わした神とは、いったいどのような方なのか? という問いをも指し示します。このことを理解して始めて、父が、神性と同時に、わたしたちと同じ人間性を具えたイエスを通して、わたしたち人間に成就しようとしている救いのほんとうの働き悟ることができるのです。
[52]【アブラハムは死んだ】原意は「アブラハムさえもほかの人間たちと同様に死んだ」です。「死を味わう」という表現は「死を体験する」ことで、この言葉は特に肉体的な死を意味します。敵対する彼らは言います。「アブラハムも預言者たちも人間である以上『死を味わう』のは当然ではないか。それなのに『肉体が死なない』と言うのは、人間が語る言葉ではなく、神が語ることにほかならない。人間を不死にする、あるいは復活させることができる唯一の方は神ご自身しかいないのだから。いったいお前は自分を何者として『装う』のか? お前は自分を神と等しくするのか? それこそ偽り者の行為であり偽預言者のすることではないか(55節後半のイエスの答えを参照)」。こう彼らは抗議するのです。
[53]【わたしたちの父アブラハム】「わたしたちの父」を省いた写本がありますが、おそらくこれは、「わたしたちの」を入れると、アブラハムが、イエスと彼ら敵対者との共有の父であるという含みになるからでしょう。先の44節で、「あなたたちの父」とあって、イエスは、自分の父と彼らの父とが異なることを明言しているために、両者の「父」が同一であるという誤解を避けるために省いたと思われます〔新約原典テキスト批評〕。しかし、先にも指摘したように、「人間的なレベルにおいて」見るならば、イエスと敵対者たちとの「父」の区別は、それほど判然としているわけではありません。
[54]【『我々の神だ』と言う】ここを「あなたたちの神だと言う」と間接話法で読む異読があります。「わたしたちの」という直接話法から「あなたたちの」という間接話法への読み替えのほうが自然ですから、原文は本来直接話法だったのでしょう〔新約原典テキスト批評〕。いずれにせよ44節での厳しい対立にもかかわらず、イエスと相手の間に、神をめぐる共通の場が、まだ失われていないことに注意しなければなりません。なぜなら、「成ったものには彼にある命があった」(1章4節)とあるように、地上に生成するすべてのものは、神のロゴスから発する命に支えられているからです。父からの啓示の光は、イエスを囲むすべての人たちを照らすのです。啓示の光は、闇の中に輝いていますが、闇はこれを理解することができません。しかし同時に、これを支配することも消し去ることもできないのです(1章5節)。
[56]【見るのを楽しみに】原文は「わたしの日を見ることを予期(予知)して喜び躍った」です。最初の動詞「喜び躍った」のほうが、後の動詞「見るのを」よりも強いのは、アブラハムが、それだけ待ち望む喜びに満ちていたことを表わします。ユダヤ教では、創世記15章18節に基づいて、アブラハムは、イスラエルの全歴史を見通したという伝承がありました。さらに、アブラハムは「神殿の再建」を見たという伝承もあり、この伝承は、2章でのイエスの体の復活と、ここ56節とを結ぶものとして注目されています。イエスが、アブラハムは決して「死んだ」のではない。彼は、神の言葉によって活きる日を待ち望んでいたと言うのは、こういう伝承を踏まえているのでしょうか。イエスを通して働く命の聖霊は、アブラハムを通して働いたものと変わらない。だが、それは、アブラハムよりも先に、すでに存在していた神のロゴスの御霊によるもので、そのロゴスが、今すでに来ているとイエスは言うのです。
【それを見て、喜んだ】前半と同じことが繰り返されています。後の教会は、この箇所に基づいて、キリストが黄泉へ降った時に、陰府にいたアブラハムを始め旧約の聖徒たちは、待ち望んだ救いの訪れを喜んだと解釈しました。使徒信条に、キリストは「陰府に降り」とあるのを参照してください。
[57]【五十歳にもならない】ルカ3章23節によれば、イエスが伝道を開始したのは「およそ30歳」とありますが、ここではイエスの年齢が50歳に満たないことになっています。なお、ここを「40歳に満たない」と読む異読がありますが、これはルカ福音書に合わせるための後の訂正だと思われます。
[58]【アブラハムが生まれる前から】「生まれる」を省く異読があります。しかし、ここをアブラハムが「出て来る」(原語の意味は「生まれる/生成する」)前からと読むなら、原意は「アブラハムの出て来るより先にわたしは存在している」という意味になり、これは1章3節とつながります。イエスの敵対者は、イエスもアブラハムも、肉体的な存在としてしか見ていません。ところがイエスは、アブラハムの歴史的で肉体的な存在それ自体の奥に、神のロゴスによって創造され生起する「出来事」、すなわち、アブラハムをしてアブラハムたらしめている「霊的な命の出来事」を読み取っているのです。ここで語られているのは、アブラハムの肉体的な存在のことではなく、アブラハムが「出来た」その事を生起させた根源の働き、すなわち神の言葉(ロゴス)の働きです(創世記12章3節を参照)。父の神と共に創造に携わったロゴスの働きが、今聖霊によって「わたしはある」と言うイエスの「出来事」として現臨し、イエスの周りにいるすべての人たちに働きかけるのです。イエスに働くこの「霊的な出来事」と、これを成り立たせる神の御霊、この御霊の働きにあずかることが、ほんとうの意味での「アブラハムの子孫」になることです。
[59]【石を取り上げ】相手側は、イエスの言わんとすることを察知したのです。だが、それを受け入れることができません。石打は神への冒涜の罪に対するユダヤの処刑方法です。当時は神殿工事がまだ完成していなかったから、境内には多くの石があったのでしょう。ヨハネ福音書には、後期の父と子と聖霊との三位一体の神秘はまだ明確に表われされていません。しかし、三位一体の霊性は、すでにこの福音書のイエスの言葉に組み込まれています。おそらく、この霊性が、ユダヤ教の伝統的な「唯一神」と相容れないことをわたしたちはここで読み取るべきでしょう。
【身を隠して】わたしたちは、ここで、イエスが「密かに」エルサレムへ上ったこと(7章10節)へ戻ります。イエスの出来事が、「密かに」進行し、イエスもまた、自分の真の有り様について「身を隠して」いるのです。「神殿の境内から出て行かれた」とあるところも、異読には「彼らの真ん中を通り抜けて」出て行ったとなっています。この読みは、おそらく後の加筆でしょうが、イエスを通して働く御霊が、人間の思惑や行為や圧迫に左右されずに、ただ「神が備えた時」に従って、出来事が進行していることを言い表そうとするのです。イエスの出来事は、これにかかわっている周囲の人の目からは、まだ「隠されて」います。ヨハネ福音書の言語は隠喩的です。だがそれは、イエスの出来事それ自体が霊的であること、すなわち隠喩的であることと密接に関連しています。
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