44章 盲人の目を開く
9章1〜12節
■9章
1さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。
2弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」
3イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。
4わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。
5わたしは、世にいる間、世の光である。」
6こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。
7「シロアム、『遣わされた者』、の池に行って洗いなさい。」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰ってきた。
8近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。
9「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。
10そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、
11彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」
12人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。
【講話】
【注釈】
■遣わされた方 今回の癒しは、マルコ8章22〜26節で語られているベトサイダの盲人の癒しを思わせます。ヨハネ福音書の記者は、マルコ福音書を知っていたでしょう。ただ、マルコ福音書と違うのは、イエス様のほうから近づいていかれることです。しかも、癒された人には、積極的な信仰の動機が欠けています。
5章のベトザタの池の癒しの場合でも、癒された人は、癒しを願い求めることさえしていません。逆に、イエス様に悲観的なことを言います。それなのにイエス様は、数ある人の中からその人に近づいて、何もしないし、何もできない彼に癒しをお与えになった。なぜでしょうか。ひとつ考えられるのは、ベトザタの池の人は、38年間じっと坐っていて、言わば、癒しをあきらめていた人です。今回の9章の人も生まれながらの盲人です。だから、視力の回復など始めからあきらめている人です。イエス様は、こういう人たちにご自分のほうから近づいていかれた。4章のサマリアの女の場合でも、ユダヤ人から見ればサマリア人は異教徒に等しいから、彼女にユダヤ人の男性が近づくはずなどありません。だから、女のほうからはイエス様にいっさい話しかけませんでした。ところが、イエス様のほうからこの女に話しかけられた。弟子たちが驚いたのも当然です。
先在のロゴス・キリストが、神様から遣わされて受肉し、人間となられたのは、「この世の」人々を救うためだとあります(3章16節)。「この世の」とは、神様から遠く隔たった人の世のことです。神様は、イエス様の受肉を通じて、およそ神様とは縁のない「この世」に働きかけてくださるのです。人間のほうから求めていくのではなく、イエス様のほうからやって来られるのです。
人は、いろいろとやってみても、行き着くところは、イエス様の御霊の導きに己を委ねることだけです。「信仰がなければダメだから、信じなさい」などと言いますが、そんな次元では、まだほんものとは言えません。気を楽にして<イエス様の御霊の世界>に入っていく、と言うより、入らしめられていく。それだけです。そうすれば御霊はどん底から救い上げてくださる。イエス様のほうから近づいて語りかけてくださる。天地を造られた父の神が<まず>働いていてくださるから、その御子も、その御霊もまた働いてくださるのです(5章17節)。
■だれが罪を犯したのか
弟子たちは、イエス様に、「だれが罪を犯したのですか? 親ですか? それとも本人ですか?」と尋ねます。これは、ヨハネ福音書独特のアイロニー(皮肉)を帯びていますから、この問いに答えるのは簡単でありません。個人にせよ民族にせよ国家にせよ、何か不幸や災難が訪れるときは、それを「誰かのせい」にしたがります。いわば自分の身に降りかかる災難を誰かのせいにして、その人(たち)を悪者にしたり犠牲にすることで、問題を解決しようとするのです。実は、このことが、祭りや宗教と深く関わっています。人間を犠牲にして、自分たちに災害・災厄を降したカミを宥(なだ)めようとする。これが、原初の人間集団の宗教的な営みの特徴だったからです。戦いで相手を殺すことを「血祭り」と呼ぶのもそこから来ています。だから、大きな災厄や不幸に襲われると、集団でそのような「犠牲の祭り」が営まれたのです。ここに、「宗教する人」に潜む暗く怖い側面があります。ただし、こういう宗教的儀礼は、同時に、犠牲となった人たちを慰霊する鎮魂のための祭儀的性格も帯びています。神様は、なぜ、そのような犠牲の祭儀を要請する世をつくられたのか? これが、人類の抱いてきた大きな疑問のひとつです。
「誰のせい」あるいは「何のせい」というこの問いに答えるのは難しいですが、あえて大きく二つに分けると、一つは、弟子たちの言う「親のせい」、すなわち「先祖のせい」です。「先祖を祀る」のは、人類に普遍する古来の祭儀ですが、日本では、祀らないと「先祖の祟り」を恐れると同時に、「先祖の罪を滅ぼす」こと、すなわち因縁をきよめるという意味も含まれます。
もう一つは「本人のせい」、すなわち不幸が来るのは、その人が「悪を行ったから」だという考え方です。悪いことをするから悪いことが生じるという因果応報の思想は昔からのものです。イエス様の頃のイスラエルの律法制度は、こういう勧善懲悪思想に基づくところが大きかったようです。悪いことが起きるのは神に対する罪が原因であるという信仰がキリスト教にも根強いのはこのためでしょう。ヨブが災難に見舞われた時に、彼の友人たちは、その理由を彼の「不義」に求めました。ユダヤ教では「不義と罰」を結びつける傾向が強かったからです。不幸の原因を先祖という過去に求める、あるいは自己の不義に求める。この二つには、それなりの理由があります。しかし、これが宗教として律法的に制度化されると、その宗教は暗い呪縛の様相を帯びます。
■律法制度
弟子たちは、イエス様に「ラビ」と問いかけます。これは神学的な律法の教師に答えを求める問い方です。旧約聖書では、律法を守れば祝福が与えられますが、逆に律法に背くならば呪いがくると告げられています(申命記11章26〜32節)。律法によれば、病気は罪の結果であると教えられています。因果応報と言って、悪を行なえばなんらかの報いがあることを否定はできませんが、その逆は必ずしも真ではありません。「悪を行うと神罰が降る」ことと、「不幸が訪れるのは神罰である」ことは同じでないからです。ところが、不幸が、神の律法を破ったことの証拠にされると、人間のあらゆる不幸に神の律法違反が適用されて、律法は、人間を救うどころか、人間を断罪し罰する根拠になります。これが人間と神との間に入り込むと、「律法体制」は、人を生かす宗教ではなく、人を殺す宗教に転じます。イエス様が批判されたのはこのような「宗教」の実態なのです。
律法体制的な聖書解釈は現在でも根強く残っています。病気をその人の罪の結果だと見る。何か不幸が起こると「神罰」だと思い込む。こうなると、その不幸から人を助け出すことは、神に逆らうことにもなりかねません。災厄をサタンのせいにするのも同罪です。サタン的な悪霊の存在を否定するものではありませんが、何もかもサタンのせいにするのは危険です。クリスチャン同士が、互いをサタン呼ばわりすることがありますが、自分に身近な者ほどサタンに見えやすいから、困ったものです。
■シロアムへ行く
イエス様は、人に起こる悪いことが、先祖からの因縁だとか、自分の過去に原因があるとか言われませんでした。代わりに、それが生じたのは「なんのためか」と、その「目的」を問うのです。その人の不幸を「神様の御栄光を顕す」方へ逆転するのです。原因を過去に求めることそれ自体は、間違っていないかもしれません。しかし、それにこだわっていては未来が開けません。イエス様は「未来を創造する」方なのです。
イエス様は、解決の道筋をも示して、その人にはっきり分かるように「触れて」くださった。粘土を唾でこねて塗ったのはこのためです。塗られたほうは「ああ、誰かが今触れてくださっている」と分かります。でも、それだけではなんにも起こらない。外から神の御手が触れてくださったと分かるだけでは、なんにも起こらない。それから「シロアムの池に行って目を洗いなさい」と御言葉が与えられます。イエス様は、「その人ができない」ことをお命じになりません。必ず「なにかできること」をお命じになります。それは、本人が思っている方法ではないかもしれません。あなたが期待したり考えたりしている仕方とイエス様の御霊の導きは違うからです。問題は、あなたがイエス様の言われたことに「従うか」どうかです。人に相談して、せっかく良いアドバイスを受けても、気休めに相談するだけで、それを「実行しない」人が多いからです。イエス様の御霊の語りかけは「気休め」ではない。とにかく示されたとおりにやる。これがなければ何も起こりません。
人間の力ではどうにもならない問題が、個人としても社会としても多々ありますが、どうにもならないところに目を留めているだけでは未来は拓けません。では、どうすればいいのか? 「祈る」のです。"Well prayed, half done."「よく祈れば半分成就」と言われますが、信仰とはシロアムへ行くことです。「遣わされた方の言うとおり行なう」ことです。とにかく自分の問題をイエス様のところへ「持って行く」。そうすれば、イエス様は、どうするのかを教えてくださいます。言われたとおりにするなら、イエス様が今も生きて働いておられることが分かります。これが一番大切なのです。同じ問題を解決するにも、自分の知恵や策略で解決を図るのと、イエス様に祈って応えられるのとでは大きな違いがあります。まず主様に委ねる。その結果、主様が成就してくださる。これがどんなにすばらしいか分るからです。
■神の御栄光のために
神が遣わされた方によって事が解決するのは「神様の御栄光が顕れる」ためです。「神様の御栄光が顕れる」とは、第一に神様の存在が顕れて、神様が働いておられることがはっきり分かることです。「自分の」祈りが聴かれること、神様がおられること、しかもその神様が「自分と共に」いてくださること、この三つが一度に分かるのです。自分の計らいでうまくいったのなら、ラッキーで「幸せ」です。しかし、主様の計らいで成就したのなら「祝福」になります。これが聖書の言う「祝福」です。御栄光が顕れるとは、本人に神様のお働きがはっきり分かるだけでない。周囲の人たちにもこれが示されることです。たとえ人目には「悪い」と思われること、世の人が言う「不幸」でも、イエス様の霊光に照らされると違った側面が見えてきます。「不幸」が、実はそうでなかったことが見えてくる。その不幸が「なんのためだったのか」分かるのです。こういう「祈りの人生」が、イエス様の御霊の人の生き方です。
■絶対恩寵の光
9章8節で分かるように、イエス様によって霊の目が開かれた人は、どう考えてもそれらしくない人です。信心とか宗教には無縁に見える人です。彼も宗教のことはいろいろ聞いていたでしょう。しかし、まさか自分にイエス様のほうからきてくださるとは思ってもみませんでした。彼はイエス様を見たことがありませんから、イエス様が彼に近づいても、だれだか分かりません。なにかが、自分に「外から」近づいている。そんな気がするだけです。自分の身になにかが起こっているのが分かっても、いったい何が起きているのか、この段階では分かりません。ただ、自分に優しくしてくれる、自分に善いことをしてくれると感じただけでしょう。実は、この時イエス様は、彼に驚くべきことをされていた。すると「遣わされた者」という池に行きなさいと言われた。彼は言われたとおりに従った。イエス様が語られた通りにするなら、結果は「イエス様が責任を持ってくださいます」。
実は、ヨハネ福音書そのものが、「遣わされた者」なのです。ヨハネ福音書には、生前のイエス様と復活され御霊となって働いておられるキリストが重ねてられていますから、これは、御霊のイエス様が現臨して働く場、神様のお言葉が働く「シロアムの池」です。そこに自分の目を「浸して」みた。「洗う」とは「浸す」ことです。するとだんだん目が開いて見えるようになったのです。
「いったい君に何があったのか? 君はあの乞食と同じ人なのか?」と人々が彼に尋ねました。イエス様に出会って目が開かれると、彼は「別人」にされた。霊的なことが「見える人」なったからです。ところが、自分に近づかれた方はいったいだれなのか?これが彼にはまだよく分かりません。だから、自分に起こったことを人に説明できません。御霊のキリストは、時代と場によってさまざまな姿をとられますから、それまでの固定的な伝統や先入観を超えるからです(3章8節)。言えることは、だれかが自分に近づいて来られて、自分の目にこねた土を塗ってくださった。すなわち「キリスト」してくださった。自分はなんにもしないのに、神様のほうから不思議な恵みの光が注がれてきたのです。人間の努力を超越したところから差してくる絶対恩寵の光です。
■「わたしたち」と「わたし」
4節に「<わたしたち>は、<わたし>をお遣わしになった方の業を」とあります。「わたしたち」はイエス様と弟子たちです。同時にこの「わたしたち」は福音書を書いているヨハネ共同体をも指します。「わたし」とはイエス様です。だから地上でのイエス様とヨハネ共同体、この二つの「時」がヨハネ福音書ではダブらせてあるのです。この後で出てくる「ファリサイ派」も、イエス様とその弟子たちが直接出会ったファリサイ派であると同時に、ヨハネ共同体がこの福音書を書いているその時期のファリサイ派をも含みます。イエス様の時のファリサイ派とヨハネ福音書の時代のファリサイ派とは異なっています。イエス様の時代にはエルサレムの神殿が存在していましたが、ヨハネ福音書の時には破壊されていました。イエス様がメシアであることを頭から否定したファリサイ派と、イエス様のメシア性をある程度聞き知っているファリサイ派との違いもあります。しかし、そこに流れる「ファリサイ的」な立場は本質的に変わりません。このように、復活のイエス様の御霊の働きによって、イエス様の時がヨハネ福音書の時につながり、今度は、福音書を読む「わたしたち」の時へつながります。このように、ヨハネ福音書を読むとは、生前のイエス様とヨハネ福音書の時が重なりながら、しかも、この両方を結んでいる御霊が、わたしたちの今の時に働くのです。
「イエス様のみ業(わざ)」についても、イエス様はこれを「神の業」(9章3節)と言われていますから、父子一体です。ヨハネ福音書にいたって初めて三位一体の神が顕れます(教義化するのは後のことですが)。ここにも二重三重の時のつながりがあります。ヨハネ福音書は、かつての地上のイエス様とその父である神のことを語りながら、復活して御霊となって現臨するイエス様が、ヨハネ共同体を通じて働いておられるその「み業」をも語るのです。同時に、ヨハネ福音書を読むわたしたちをにも働く御霊のみ業ともなります。イエス様は今は肉眼では見えません。この見えないイエス様を御霊がわたしたちに顕してくださる。そして、今度は、わたしたちを通じて、御霊が人々に語ってくださる。これが、ヨハネ福音書のすることなのです。
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