【注釈】
■9章の構成
 盲人の癒しは、マルコ8章(22~26節)と同10章(46~52節)にも出ています。ヨハネ福音書とマルコ福音書の記事の間には、語法や内容に通じるところがあるものの両者の違いも大きく、ヨハネ福音書の作者が直接マルコ福音書を引用しているとは思えません。ただし役人の息子の癒しはマタイ8章(5~13節)の癒しと共通するところがあり、パンの奇跡はマルコ6章(32~44節)と、海上での歩行もマルコ6章(45~52節)とそれぞれ共通しますから、ヨハネ共同体は、共観福音書を生み出した諸教会、特にマルコ福音書の教会とつながりがあったと考えられます。
 9章は全体としてまとまっていて、しかも今までの章には見られない劇的な構成になっています。この章には、イエスとユダヤ人やファリサイ派との論争もなく、イエスの一連の説話も表われません。ただし、10章では、イエスの独白と、続いてユダヤ人との論争がでてきますから、9章~10章をひとつながりの構成として見るなら、ここで、今までよりもさらに手の込んだ手法が用いられていると言えましょう。マーティンによれば、9章のドラマは、主として双方の対話形式で進行する7場構成になっています〔
JL・マーティン『ヨハネ福音書の歴史と神学』原義雄/川島貞雄訳:日本基督教団出版局(1984年)〕。
イエスと彼の弟子たち(と盲人)(1~7節)→エルサレムの神殿に近い場所(ヨハネ共同体のいた都市のユダヤ人地区をモデルに?)。
盲人と彼の隣人たち(8~12節)→その男の家の付近(ヨハネ共同体の都市のユダヤ人地区がモデル?)。
盲人とファリサイ派(13~17節)→エルサレムの最高法院(ヨハネ共同体の都市のユダヤ人の会堂/法廷をモデルに?)。
ファリサイ派と盲人の両親(18~23節)→同じ法廷。
ファリサイ派と盲人(24~34節)→同じ法廷。
イエスと盲人(35~38節)→街頭(法廷があった会堂の近く)。
イエスとファリサイ派(39~41節)→同じ街頭で。
9章
 9章1節~12節は、ヨハネ福音書の作者がしるし資料/奇跡物語に基づいて劇的に再構成していると考えられます。ちなみに、フォートナによる原資料は、以下のとおりです〔
Fortna. The Fourth Gospel and its Predecessor.109〕。
「彼が去ろうとすると(座って物乞いをしている)生まれつき目の見えない人を見た。彼は地面につばを吐き、つばを捏(こ)ねてその人の目に塗って彼に言った。『行って、シロアムの池で洗いなさい。』そこで彼は行って洗った。すると見えるようになって戻ってきた。(彼が以前物乞いしていたのを見た人たちは言った『この人は以前座って物乞いしていた人ではないか?』)」
[]【通りすがりにこの句は、物語をつなぐためのものです。マルコ2章14節にも同じ手法が用いられています。
【生まれつき目の見えない】「生まれつき」は原資料からです。セム語的に言えば「母の胎内から盲目」となりますから、続く弟子たちの質問はこの考え方に基づいています。ヨハネ福音書は、この句によって盲人の両親を登場させ、かつ、イエスによる神の栄光の業を導き出すきっかけにしています。ヨハネ福音書の象徴的な語法から判断すると、人間は誰でも生まれつき「霊盲」であることが示唆されているのです。
[2]2~5節は作者ヨハネの編集です。ヨハネ福音書は、この奇跡を安息日と結びつけ、癒しの業を「闇に対する光の勝利」を象徴する「しるし」として解釈し直しています。すでに7章~8章で、イエスが「光」であり「命」であることが証しされていますから、今回は、1章5節を踏まえた上で、受肉した人間存在となった先在のロゴスが、この世に働く「光の業」を行なうこと、それが創造の業であることが証しされます。ロゴスが、人の肉体を通じて栄光を顕す贖罪的な視点(10章11節参照)から語られているのです。
【ラビ】ユダヤ教でこの呼びかけは、律法を解釈する神学的な問いをする際に用いられます。
【だれが罪を犯したから】子供が親の罪のために罰せられるのは不合理ですが、律法に基づく教理からすれば、人に悪いことが起こるのは、何か悪事を行なったからだという帰結になります。弟子の質問の背後には、神は完全な方であるから、不完全なものは神に喜ばれない。したがって、傷や損傷のある物、障害のある者は神の罰を受けているという見方があります(レビ記1章3~4節)。子供が、その親のために罰せれるという考え方は、出エジプト記20章5節やその他にもあります。
[3]【神の業】ここで、わざわいの「原因」ではなく、その「目的」を明確にすることで、イエスは、過去から未来へ目を向け変えさせるのです。ここには、先祖と律法と個人の関係を問う重要な問題が提起されていて、律法を神聖視するイスラエルの宗教が「先祖の祟り」思想と結びついているのを見ることができます。ヨハネ福音書のイエスは、このような先祖と律法宗教による呪縛を根底から覆すのですが、この問題が癒しの業と律法(安息日)の正面衝突として描き出されます。イエスは、「律法」と「先祖」の二つながら、これらを盲人の病の原因とも結果とも見てはいません。盲人に生まれたことを未来へ向けての「神の栄光の現われ」と観ることで、発想を創造的に逆転させるのです。これが、イエスの言う「神のみ業」です(11章4節)。この逆転は、神の御子イエス・キリストの贖いの犠牲に基づくものであること、これが「わたしをお遣わしになった方の業」(4節)の意味です(ヘブライ9章11~14節参照)。ここで、ヨハネ福音書は、イエスのメシア性を強調するよりは、むしろイエスと父の一体性を証ししようとしています。イエスの業が、彼を遣わした「父御自身」の働きによる創造の業であることを明らかにするためです。
[4]【わたしたちは、わたしを】「わたしたち」と「わたし」(イエス)に注意。「わたしたち」は第一義的にイエスとその弟子たちのことですが、この「わたしたち」にはヨハネ共同体も含まれます。ここでも、イエスの生前の出来事が、後のヨハネ共同体の場と重なります。イエスと直弟子たち、続く福音書の共同体とこれに従うすべての人たち、これらが「父」にあって一つにされています。ただし「わたしたち」を「わたし」と読む異読があり、逆に「わたしを遣わす」を「わたしたちを遣わす」とする異読もありますが、これは後からの変更でしょう〔新約原典テキスト批評〕。
【日のあるうちに】「日」はヘブライ的に観れば人の一生を表わしますが、ここでは「イエスが地上にいる間」を指します。イエスの業が地上において現実する「出来事」であることを示すのです。
[5]【世にいる間】8章12節と比較すると、ここの「光」は、イエスに従う者に与えられる「啓示の光」であるよりも、3章16節の「この世を照らす」光の業を表します。この光は創世記1章3~4節の光とも通じるのでしょう。ロゴス・キリストのイエスが、肉体となって地上にいる間こそ、「この世界全体」が贖われて新たに創造される「神の業」が進行する時だからです。イエスの地上での生が、被造物全体の贖いが成就される「時・場」と位置づけられるのです。だから、イエスの生それ自体が、被造物全体を贖う<祭儀的な性格>を帯びていることに注意してください。
[6]【目にお塗りになった】これは原資料からです。共観福音書の場合と異なり、盲人から願い出るのではなく、イエスのほうから盲人に近づいて癒しを行なっています。癒しのために唾を塗るという行為も(マルコ8章23節)、唾で土をこねて塗ることも、当時のパレスチナでは異例なことでありません。盲人の目が直ちに開くのではなく、イエスの言葉に従って「目を洗った」結果として目が開かれたことにも注意してください。
[7]【シロアム】ネヘミヤ記3章15節で「シェラの池」とあるのがこれです。ここの水は、ダビデによってエルサレムが築かれる以前から、ダビデの町の地下を流れるギホンの泉から引かれていました。この泉(実は地下の川です)は、エルサレムに水を確保するために掘られた地下水道を通ってシロアムの池へ通じています。この水道はヒゼキヤの時に完成され、現在でも用いられています。シロアムの池は、神殿の南の谷にあり、仮庵祭には、ここから神殿へ水が運ばれて献上されました。ヨハネ福音書がその名前の意味を説明しているのは、イエスが「遣わされた者」であることを明らかにするためで、これはギリシア人の読者を考慮に入れているからでしょう。イザヤ書8章6節に「この民はシロアの水を拒み」とありますから、あるいは、この句を踏まえて、この世が、光を「受け入れない」(1章11節)ことをも暗に示唆しているのでしょうか。
[8]【近所の人々】原語は「その地の人々」です。この句はヨハネの挿入でしょう。ここから、今回の癒しをめぐって、様々な人たちが登場し始めます。先の「弟子たち」はもはや現われません。また、この段階では、まだファリサイ派も登場しません。続く9節で「盲人の目が開かれた」ことをめぐって人々が分裂する様が描かれます。
[11]【わたしの目に塗り】ここで用いられている「エピクリオー」(「キリスト」の語源となる動詞)は、「塗る」という意味と同時に「油を注ぐ」という意味でも用いられます。唾でこねた粘土を塗ることが、聖霊の「油注ぎ」をも示唆しますから、これはキリストの救いを象徴させています。
[12]【その人はどこにいるのか】この問いは、御霊のイエスにどうすれば出会えるのかという問いとも重なるものです。
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