45章 宗教家の盲点
                  9章13節〜23節
■9章
13人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。
14イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。
15そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」
16ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。
17そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。
18それでも、ユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった。ついに、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、
19尋ねた。「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。」
20両親は答えて言った。「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。
21しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」
22両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。
23両親が、「もう大人ですから、本人にお聞きください」と言ったのは、そのためである。
                   【講話】
                   【注釈】

世を照らす光
 今回も、見えない目が癒された人の続きです。彼は癒された後でファリサイ派のところへ連れて行かれます。キーワードは「ファリサイ派」と「安息日」で、この二つと対立するのが、イエス様の「神のみ業」です。これには、「霊の目を開く」という象徴的な意味もこめられています。イエス様は、「わたしたち」は「わたし」をお遣わしになった方の業を昼の間に行なわなければならないと言われていますから、この癒しの出来事は、イエス様お一人だけでなく、イエス様を信じる<わたしたち>のことでもあります。目が開かれるとは「闇」から「光」へ移されることです。永遠の命の「み言」イエス様が「この世」に宿られて(1章4節)、「この闇の世の人間を照らす光」となられた。だから、クリスチャンだけでなく、「この世」をも照らすのです。
 「ファリサイ派」とは、イエス様在世当時のファリサイ派を指しますが、今回も、エルサレム滅亡以後のユダヤ教ファリサイ派がこれに重なります。第二世代のイエス様の弟子たちと彼らとの間に、イエス様を信じる「メシア信仰」をめぐって対立が生じたからです。これに似た対立は、すでにパウロが経験したことです。ただし、この対立は、ヨハネ福音書の時代に限りません。それ以後も繰り返し起こる出来事の「しるし」なのです。
■神の出来事と宗教
 イエス様の「神のみ業」は、これに最も「ふさわしくない」と思われる盲人に働いて、彼に光をもたらします。ところが、御霊のお働きは、既成の宗教制度や教義と対立するのです。今回も、癒しが「安息日に」起こりました(14節)。これが、当時の宗教制度と相容れない行為でした。理由は15節にあるとおり、イエス様が「土をこねた」からです。そんな<些細なこと>で、どうしてせっかくの癒しが批判されるのか。キリスト教に限らず、宗教的な規則やしきたりには、一般の常識から見れば「些細なこと」にこだわる場合が現在でもあります。あってもいいが、なくてもいいもの。ないほうがいいのにあるもの。さらに、あってはならないのに、あるもの。こういうものが現在のキリスト教の中にもあります。そもそも病気を癒すという行為それ自体が安息日に違反する(5章9〜10節)と言うのですからおかしなことです。でも、そういう「おかしなこと」が今の宗教界にもあるのです。
 信仰の出来事は、子供でも分かる単純な事です。単純では威厳がないと思う人がいるかもしれませんが、偉大で崇高なものほど、実は単純なのです。「真理」は根源的に単純です。ところが、宗教的な制度や教義や宗教家の思惑などが入り込んで来ると、複雑でややこしいことになります。こうなると、信仰は人々の心から離れて、人は宗教に心を向けなくなります。「触らぬ神に祟りなし」です。今回の場合でも、目が開かれた人の身に、<その後で>起こったことは複雑怪奇です。見えなかったものが見えるようになる。それだけで、すばらしいです。単純なことです。ところがファリサイ派の指導者たちが介入するとややこしくなります。
■神学の絶対性
 断わっておきますが、ファリサイ派の律法解釈は変化に対応できる柔軟性を具えていました。パウロ自身も、かつてはファリサイ派のユダヤ教に誠実で熱心だったと述べていますが(フィリピ3章5〜7節)、ファリサイ派の信仰や考え方は、ある意味で柔軟で、キリスト教に近いとさえ言えます。このこと、彼らが変化に対応する解釈ができたことが、ここでファリサイ派同士の分裂を招いたのでしょう。あるファリサイ派が「イエス様は神から来たものではない」と言うと、ファリサイ派の別の人たちは「罪のある人がこのようなしるしをなすことができるのか」と反論します。こちらのほうは、ニコデモ(3章)やアリマタヤのヨセフ(19章38節)のように心の開かれた人たちです。
 イエス様の癒しを批判する指導者たちは、宗教人特有の伝統的な考え方をみごとに反映しています。彼らは「その人は、安息日を守らないから、神から来た者でない」と言います。「神から来た者でない」(16節)とは、イエス様が、メシアでなく、逆に偽者で神に逆らう「罪人」だという意味です。彼らがそう判断する根拠は「安息日を守らない」からです。安息日制度は、ユダヤ教の律法体系をその民に実践させるための要(かなめ)でした。その神学体系は、旧約聖書に基づいていましたが、その上に細かい規則が網の目のように張りめぐらされていましたから、厳密な<教義的論理性>に貫かれていたのです。これが怖い。彼らは癒された男の言うことなどなに一つ聞こうとしない。聞こえてはいますが、まったく無視する。彼らにすれば聞く<必要がない>のです。イエス様がどのような人かを調べようともしない。イエス様に会ったこともない。それなのにどうして「神から来た者ではない」と断定するのでしょう。彼らの「神学的な論理性」がそう断定させるからです。自分たちの組み立てた神学体系は聖書に基づいている。したがって、権威ある正しい教義的整合性を保持している。その神学理論からすれば、安息日を破るのは罪を犯すことである。しかるに、このイエスは安息日に禁じられていることを行なった。したがって、イエスは罪を犯している。罪を犯しているのであれば、彼は罪人である。罪人が神から遣わされた者であるなどということはありえない。だから、イエスはメシアでない。これが彼らの神学的論理の帰結です。この論理に従えば、イエスはメシアでないというよりも、メシアで「あってはならない」のです。それは神学的に「許されない」から「正しくない」のです。イエス様がどんなに立派な人間であろうとも、どんなに不思議なしるしを行なおうとも、目の前でどんなことが起ころうと、彼らにはいっさい目に入らない。彼らは、「聞く耳も見る目も持たない」のです。
■宗教的霊盲
 宗教的な信念に基づく神学的思考は、これが絶対化される時に、現実に生じている出来事に対して人を盲目にします。たとえ目の前に起こっていることでも、それが「あってはならない」ことであれば、「あるはずがない」と判断するのです。始め彼らは「どうやって」目が開いたかと尋ねます。ところが話が進むと「お前は彼をどう思うか」とその人を訊問します。これは尋ねているのではありません。自分たちの神学ではイエスは罪人だ。だからお前も彼を罪人と認めよと、彼に迫っているのです。ところがその人は「彼(イエス様)は預言者だ」と答えた。自分の目を開いてくれたからです。イエス様が罪人なら、神はイエス様の言うことを聞かれるはずがないからです。この「口答え」に彼らは我慢できない。ファリサイ派は、今度は目が治ったという「事実それ自体」を否定しなければならなくなります。「目が見えるようになったことをまだ信じなかった」(15節)とあるのはこの意味です。「信じなかった」のは「事実を認めなかった」からです。彼らが両親を呼んだのはこの事実を否定させるためです。そういう事実が「あってはならない」からです。ところが両親はちゃんと彼らの意図を見抜いています。「息子の目が治った」と言えば、「イエスはメシアだ」と認めるのと同じ意味を持つことを知っています。そうなると自分たちもが「イエスをメシアとする者」だと判断される危険がありますから、両親は、わざとあいまいに答えます。この点を読者に分からせるために、「両親がユダヤ人を恐れていたからだ」とヨハネ福音書はコメントしています。
 こう言うと、ファリサイ派というのはずいぶん傲慢で思い上がった人たちだと思うかもしれません。ところが、彼らは真面目で、律法にかけては博学で、こと律法に従うことについては、命をかけるほど誠実なのです。人間的にも決して「悪い人」ではない。それどころか、頭もいいし、人柄もいい。要するに人の上にたつ「立派な」人たちとして世間で通っています。ですから、「彼らの言うことに従いさえすれば」、彼らは実に温厚で物わかりのいい人たちなのです。実は今の世の中こういう人たちがたくさんいます。こういう人に向かって、だれかが、わたしはこういう体験をしたと言っても、それが自分の頭の中で納得できなければ、「そんなことはありえない!」と平然と言うのです。体験を話した人のほうが、あっけにとられてしまうくらいに確信を持っている。一般的な学問をやる人たちの中にさえこういう人たちがいます。だからシェイクスピアは、『ハムレット』の主人公にこうが言わせています。「この世界には、君の学識では想像もできないことがあるんだよ、ホレイショー君。」
■創造の御霊と霊盲
 2006年の夏期集会で、神の超在と内在についてお話ししました。福音に顕れた三位一体の霊性には、超越した父なる神と、御子イエス・キリストを通じて人間に宿る内在の御霊があります。人間を超えた神と人に宿る父なる神の御霊、この両方を結ぶものが、神の御子イエス様の十字架による贖いです。御子イエス・キリストは、神と人間との断絶の闇の中で、神と人間の「交わり」という「光」を創り出してくださいました。天地創造の初めに、神が「光あれ」と言われて、光を創造されたのと同じみ業です。ヨハネ福音書は、御子イエス・キリストが、「父とひとつになって」新しい創造のみ業を地上において成就されたことを証しするのです。
 夏期集会では、御霊の内在に強調を置いてお話ししましたが、今回は、もう一方の「御霊は神である」ということを話したいのです。御霊は、わたしたちに内在するだけでない。同時に、御霊は神ご自身でもあるのです。御霊は神と同じですから、わたしたちと同じではない。神は「造り主」であり、わたしたち人間は神に造られた「被造物」だからです。創造主の御霊がわたしたちの内に働くのですから、常に新たに創造のみ業が生じます。これは、わたしたちが、絶えず自分の考え方、自分の思い込みを御霊によって克服されていくことを意味します。
 ところが、一つ問題があります。それは「神」という日本語です。日本語のカミは、ご存知のように必ずしも超越的ではない。「カミがかり」というのは、実はその人物とカミが一つになる事態のことだからです。しかもそのカミが、どこそこの山のカミであったり、森のカミであったり、神社のカミであったりします。これに「カミがかり」しますと世に言う教祖様です。だから、皆さんは、御霊を宿すなどと言うと、すぐにこういう「神憑(がか)り」すなわち「カミにとりつかれる」状態を連想します。ところが、聖書の神は超越の神です。ここがとても大切で、しかも説明しにくい。なぜなら、このイエス様の御霊のお働きは、そういうカミがかり状態とはまったく違うからです。この辺は、クリスチャンと言われる人でも分からない人が多い。実は牧師さんや神学者でも分からない人が多いのです。だから、「聖霊に満たされた」などと言うと、なにか人間的な霊に踊らされているとしか理解されないのです。そうではなく、御霊は、イエス・キリストの御霊ですから、わたしたち人間とは絶対に一つになりません。
 ここが福音と、いわゆる人間的な「宗教」との根本的な違いです。霊がその人の一部であれば、その人間自体が「神格化」されます。けれども、イエス様の御霊ご自身は、神ご自身であって人ではないから、どんなに深く交わっても、わたしたちと御霊とは混同されません。だから、わたしたちは、常に自分の考えではなく、御霊の思いに導かれることになります。イエス・キリストを通じて示される「神様の道」を選ぶように仕向けられるのです。こうして、わたしたちは、イエス・キリストの御霊によって、自己絶対化の誤りから身を守ることができます。これを逆に言うと、御霊の働きを自分自身のものと取り違えて、<自分が>やっているんだと錯覚するところから、霊盲の誤りが始まります。自分を神と同じに思わせようとする蛇のたくらみがまさにこれです。これが、クリスチャンでも牧師でも神学者でも、イエス様を信じる者の犯す最大で最も危険な「誤り」です。
■唯一神教
 話題が少し変わりますが、この頃新聞などで、欧米の「唯一神教」を盛んに批判する人たちがいます。キリスト教もイスラム教も唯一神教だから争いがなくならない。だから、多神教あるいはアニミズムのほうが優れている。だいたいこんな調子です。ところが、今述べたように、わたしたちの人間的な思いが絶対化するのを防いでくれるのは、この超越的な唯一神教なのです。人間同士の宗教的な争いは、唯一神教から生じるのではない。超越神を「自分の考えと混同する」ところから生じるのです。人間的で相対的な「宗教」を絶対的な神と同一視するところに争いが生じるのです。唯一神教でも多神教でもアニミズムでも、宗教それ自体を人間的なレベルで自分の利益や考え方と同一化するなら、そこには必ず宗教の名による争いが起こります。唯一神教がはっきりと顕れるのは旧約聖書の時代で、特に第二イザヤの頃からです。イザヤは、南王国ユダとその周辺国家が争いに明け暮れているまっただ中にありながら、人類の終末における絶対平和の思想に到達しました。「剣を鋤に変える」平和思想を唱えたのです。
 イエス様の御霊は、わたしたちの能力をぎりぎりまで引き出します。御霊に従うと、いつのまにか「自己突破」させられます。イエス様の御霊によって絶えず「自分自身を乗り越えていく」ように仕向けられます。超越と内在の問題は、東洋と西洋の考え方を結ぶ大切なポイントです。超越の神は西洋の神、内在の神は東洋的なカミなどと言われますが、そういう割り切り方では、どちらの側も正しく理解できません。美智子皇后陛下が、フランスのカトリック哲学者ジャン・ギトンと会見されたときの記事を読んだことがあります。会談の中でギトン氏は、美智子皇后陛下が、東洋と西洋、キリスト教と神道との統合を目指しておられることを見抜きます。そこで二人の対話は、自然に「超越」と「内在」の神の問題に及ぶのです。
■創造する御霊
 自分は神ではない。だから、目の前になにが起こっているかを謙虚に見つめる。そうすれば「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるのだろう」と当然思うはずです。イエス様が「わたしの父の業を見なさい」と言っても、ファリサイ派の人たちには目に入らない。イエス様は、そういう人間のこしらえた「宗教」を厳しく批判された。口で「批判」する代わりに、わざわざ<安息日に目を開く>ことで「創造のみ業」をされた。創造こそ最大の批判だからです。だから、イエス様の父のみ業とファリサイ派の神学が真っ向から衝突したのです。
 イエス様の御業の特長の一つは、癒しの対象となった人物です。この人は、宗教的にも無知で伝統的な宗教からは無価値だと思われていた。それどころか、目が見えないのは「罪人」だとされていた人です。こういう人に、イエス様のほうからわざわざ近づいて癒しを行なわれた。これが「神の恩寵(おんちょう)のみ業」です。しかも、これを安息日に行なわれたのです。従来の宗教制度では容認できないやり方です。<神のみ業>は人のつくった宗教制度に縛られません。「安息日に病気を癒してはいけない? しかし、安息日でも太陽は昇る。風も吹く。人間の心臓も止まらない。天の父は安息日でも働いておられる。だからわたしも働く」(5章17節)のです。このように、イエス様のとられた方法と対象、この二つが伝統的なユダヤ教の価値観を根底から脅かしたのです。イエス様の御業には、彼らの教義を根底から揺るがすものがあったので、イエス様の御霊の働きと伝統的な「宗教制度」が衝突することになったのです(5章18節)。
  ヨハネ福音書を書いた人たちは、自分たちに宿るイエス様の御霊によって(旧約)聖書を理解しました。ファリサイ派もまた、ユダヤ教以外の「異教徒」を彼らの聖書の神に改宗させようと努力していました。しかし彼らは、「彼らの解釈している」聖書の神に改宗させようとした。彼らにも価値観の変化に対応できる柔軟性がありましたが、それは、どこまでも、「彼らの」価値観の発展であり、その延長上でのみ容認できるものでなければならなかった。これがファリサイ派の宣教理念です。イエス様の御霊は、そういう「彼らの」価値観を支える理念それ自体を打ったのです。
 このやり方は、イエス様にならってパウロが大胆に行なったことですが、ヨハネ福音書の共同体もこれを受け継いでいます。それは、パウロの語るように、ユダヤ教的な優越性を、すなわち従来の宗教制度的な制約を徹底的に砕くものでした(ローマ2章)。現在でも、伝統的なキリスト教国と言われる国は、自分なりのはっきりした神学や思想体系を持っています。自分たちの体系こそが本物で正統だ、そういう理念に立っています。この信念は、聖書やキリスト教の伝統に支えられているからきわめて強固です。わたしたちアジア人の福音が、これからどういう方向へ向かうのか? どういう人たちと付き合っていかなければならないのか? その時になにが起きるのか? このことを今回の箇所は教えてくれます。
 神様の御霊の働きは大きくて広い。イエス様の御霊を通じて働く「神の業」は、人間の宗教制度や宗教思想が導き出す論理や教義に束縛されません。それはイエス様の御霊ですから、人格的〔ペルソナ的〕霊性です。御霊は生命を宿し、創造のみ業を行なわれます。聖霊とは慈愛の御霊です。宇宙の創造者がお遣わしになったイエス・キリスト、そこに顕れる神様の恩寵、これをわたしたちに啓示してくださるのがイエス様の御霊なのです。
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