46章 会堂追放から「人の子」へ
                          9章24〜41節
■9章
24さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」
25彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」
26すると、彼らは言った。「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」
27彼は答えた。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」
28そこで、彼らはののしって言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。
29我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」
30彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。
31神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。
32生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。
33あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」
34彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。
35イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。
36彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」
37イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」
38彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、
39イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」
40イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。
41イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」
                 【講話】
                 【注釈】

■霊盲が啓(ひら)かれる
  今回は、ヨハネ福音書とユダヤ教とのかかわりから始めます。言うまでもなく、ヨハネ福音書は、旧約聖書に基づくユダヤ教から多くを受け継いでいます。しかし、受け継ぐと同時に、ユダヤ教の伝統を拒否していることも確かです。この福音書は、当時のヘレニズム世界、すなわち唯一の神を信じるユダヤ教から見れば異教世界と言うべきギリシア・ローマの思想の影響も受けているからです。このことは、この福音書が、いわゆる「異教世界」に受け入れられる要素ともなっています。ただし、ヨハネ福音書が、ヘレニズム世界を全面的に肯定していると言う意味ではありません。むしろ、ユダヤ教から受け継いだ思想によって、ギリシア・ローマの世界を逆に「克服していく」力を帯びていると言うほうが適切です。ユダヤ教を受け継ぎながら、最終的にこれを拒否し、ヘレニズムに入りながら、これに取り込まれず、最終的にこれを変革する。そういう力をこの福音書は秘めているのです。もっとも、このことは、ヨハネ福音書に限りません。新約聖書そのものが、このような二面性を帯びていると言えましょう。
 「生まれつき」目が見えない人が登場するのは、ここでの「盲目」が、身体的であるよりも、むしろ霊的な盲目を指しているからでしょう。「人は新しく生まれなければ神の国を観ることができない」とイエス様が言われたとおり、人間はだれでも「生まれつき」霊的なものを見る目を持ち合わせていません。だから、今回の盲人は、生まれつきの「わたしたち」であり、すべての人間です。では、どうして「見える」ようになったのか? 近所の人たちは彼にこう尋ねます。彼は、シロアム(「遣わされた人」)へ行って目を洗ったら見えるようになったと答えます。「遣わされた人」はイエス様ですが、同時にイエス様に「遣わされた」人たちをも含みます。イエス様の御言葉を聴いて、信じて、そのとおりに行なう、これに尽きます。「洗う」とは洗礼を受けることだという解釈もありますが、むしろ神様から遣わされたイエス様の語りかけに自分をすっかり「浸した」(バプテスマした)という霊的な意味でしょう。すると、少し見えるようになった。だから彼は、「あの人は預言者だ」と答えたのです。事態が進むにつれて、彼は、イエス様が「神から来た人」だと思うようになります。最後に、目がはっきりと見えるようになると、それが「人の子」だと悟って、イエス様を礼拝します。9章には、生まれつき見えなかった人間が、その霊盲を開かれて、イエス様を礼拝するまでの過程が語られているのです。
 癒しを受けた彼は、「あの方は神様のもとから来られた。そうでなければ、こんな不思議はできないはずです」(33節)と言いますが、これはニコデモがイエス様に言った言葉です(3章2節)。イエス様は、ニコデモに「御霊によって生まれる」よう教えます。ヨハネ共同体の頃には(紀元80年代以降)、ユダヤ教だけでなく、さまざまな宗教が「水のバプテスマ 」を行なっていましたから、水のバプテスマは、単なる儀礼でしかなく、すでに実体が見失われていたようです。ヨハネ福音書で御霊の働きが重視されるのはこういう事態とも関連します。
■霊盲の人たち
 霊盲を癒していただく人がいる一方で、最後まで霊の目が閉じられたままで終わる人たちもいます。今回の「ファリサイ派」がその例です。ここでの「ファリサイ派」や「ユダヤ人」を<文字通りに>受け取らないよう注意してください。それは現在のユダヤ人のことではなく、ここでは、「霊的に目が閉じられている人」たちを象徴する比喩的な用例だからです。だから、「見えない者」は、わたしたちをも含めて、だれでもが「ファリサイ派」であり「ユダヤ人」です。現在のユダヤ人のことだと思い違いをしないでください。
 彼らは、どうして「見えない」のでしょうか? 学問がないからでしょうか? そうではありません。聖書を知らないからでしょうか? 彼らは人並み以上に聖書に通じています。では、どうしてでしょう? 彼らが「見えると言い張る」からです。自分には知識がある。自分は聖書に通じている。自分は人を指導できる。こう言い張るからです。こういう人たちは、ほんとうに「ものの見える」人の言うことに耳を傾けようとしません。なぜなら、彼らは、目が開かれた見える人を「裁く」、すなわち「自己のほうから」判断するからです。だから、「お前は、生まれつき罪人のくせに、この俺たちに教えるつもりか!」と言うのです。なぜ「罪人」だと決めつけるのでしょう? 自分たちの宗教的な教義によって、自分たちのほうで「罪人」を定義し、これを人に当てはめることで、罪人を「作り出す」からです。彼らは、自分たちのしていることさえ気がつかない。神様は「彼らの言う」罪人に働いて、その人を救う力を持っておられることなど、とても理解できません。これが、「裁く者が裁かれる」ことの意味です。
 彼らは、癒された人に「神様に栄光を帰せ」と言います。これは「正直に真実を告白せよ」という意味です(注釈参照)。「見えるなどと生意気なことを言わないで、俺たちの言うことを聞け」と言うのです。ところが、言われたほうは「言われたとおり」正直に話した。「正直に真実を告白する」という言葉が、言うほうと言われるほうで、意味が全く逆になります。ヨハネ福音書独特の「皮肉」です。霊的な問題では、こういうことがよくあります。
 ヨハネ福音書は、さらに深い皮肉を込めて、ファリサイ派に「神様に栄光を帰せ」を言わせています。ところが彼らは、<ほんとうの意味で>神様に栄光を帰すことができないのです。彼らは、「自分の栄光を求めている」からです(7章18節)。自分の栄光(名誉)欲と誇りと思いこみに妨げられて、「見えるはずのものが見えない」のです。「神様に栄光を帰せ」と人に言いながら、自分にはそれができない。このギャップはものすごい。だからイエス様は言われるのです。
「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。神の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか分かるはずである。自分勝手に話す者は自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない」(7章17〜18節)。
■イエス様の神
 いくら「見える」と言っても所詮は人間のレベルです。1章18節のレベルです。あるいは第一コリント13章12節の程度です。だから、わたしたちは、自分に見える範囲から、ほかの宗教や宗派をどうのこうのと偉そうに言えません。人間の「宗教」は絶対ではない。相対的です。
 今回のところに「人の子」が出てきますが、「人の子」とは人間と神様とを結ぶ方のことです(1章51節)。超在の神様と地上のわたしたち、この間には越え難い溝があります。これを結ぶためにイエス様が来られた。だから、イエス様こそ、わたしたちに「まことの」神を顕してくださいます。「まことの」には、二重の意味があります。一つは、イエス様がわたしたちに顕す神は超越の神で、天地万物を創造された主であること。もう一つは、この超越の神が、「人間の姿で」人類に顕れて、人間に宿ることです(1章14節)。超越の絶対性と内在の真実、矛盾するとも思えるこの二面性こそ、イエス様が啓示される「まことの神」の御性質です。
 盲目を癒された人は、始めのうち、誰が自分を癒やしてくれたのか分かりませんでした。だからイエス様は、この人をもう一歩導いてくださった。すると、イエス様が「預言者」だと分かった。イエス様は、さらに彼に出会われた。そこで彼は初めて、イエス様が神と人とを結ぶ「人の子」だと悟って、イエス様を礼拝します。「自分には見えない」と思う人をイエス様は導いてくださいます。ヨハネ福音書が言う「神の愛」が、だんだん拓けます(3章16節)。「一麦の愛に啓くや春の風」です。
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