【注釈】
■9章
[24]【神の前で正直に】原文は「神に栄光を帰しなさい」ですが、ほんらい「神をたたえて神に感謝しなさい」という意味です。しかし、ここは「神に誓って真実を告白せよ」という意味で、これは、罪を犯してそれを隠している者に対して、神の名によって真実を告白せよと迫る言葉です(ヨシュア7章19節)。だから、ファリサイ派は、この男の言うことを信じていないのです。盲人として生まれたから「罪人」だと思い込んでいるからでしょう〔キーナー『ヨハネ福音書注解』(1)〕。さらに、イエスが安息日規定に違反したのは明白だと考えていますから、このふたつの条件から「あの者(イエス)は罪人だ」と神学的に断定するのです。
ここに、教義的な神学論理と現実の体験がはっきり対照されています。当時でも「ラビの百の神学よりもひとつのほんものの体験」と言われていました。しかし「あの人」(原語)という言い方が示すように、彼らにはイエスが「ただの人間」としか見えません(7章27節参照)。イエスの時代は、宗教的な律法と社会的な法律はまだ区分されていませんでしたから、ヨハネ共同体の頃でも事情は違わなかったでしょう。ここで言う「罪人」は、突き詰めると「神学的な」概念であって、社会的あるいは道徳的な概念ではありません。人間は社会的な犯罪者でなくても、宗教的に「罪人」とされることがあるのです。これが宗教の怖さであり、宗教的な律法の持つ重さです。イエスの「救い」の業は、このような宗教的律法の機能と対立するのです。こういう対立の構図は、すでにパウロが、福音と律法の対立関係として証ししていたことです。イエスの頃と同様に、パウロの時もヨハネ共同体の時も、現在でも、同じ鋭さと複雑さで、同じ問題が提起されています。なお、「神に栄光を帰しなさい」は、癒された人には字義どおりに「神に感謝しなさい」という意味にもなりますが、同時に、ファリサイ派からの彼への強迫の言葉ともなるという二重の意味を帯びているのに注意してください。ヨハネ独特の皮肉(アイロニー)がここにも表われています。
[25]【一つ知っています】これは前節のファリサイ派の主張に対する反論です。「見える」と「盲目」には、この福音書を一貫する「光と闇」の二元性がこめられています。律法によらない神からの救いが顕れることによって、人間の律法神学が破綻しているのです。このように「律法それ自体が無効になっている」事態は、パウロ書簡でも語られていますが(ガラテヤ3章10~14節)、9章でも同じ主題が一貫しています。
[27]【あなたがたもあの方の弟子に】原文は「まさか、あなたがたまでも、あの方の弟子になろうとしているのではないでしょうね」と皮肉がこもる言い方です。この言い方がファリサイ派を怒らせて、次の節で、「お前は」と「わたしたちは」という対立関係で、癒やされた人をイエス同様に「罪人」だと激しく決めつけることなります。
[28]キリストとモーセの対照は1章17節にでています。サドカイ派に比べて、ファリサイ派は「モーセの弟子たち」と呼ばれることがありました(マタイ23章2節)。従来の律法的権威に従うのか、それとも新たなイエス・キリストの霊的な働きに従うのか、癒された人は、ふたつの狭間に立たされています。新約聖書を一貫する「古いものと新しいもの」をめぐる対立がここにも表われているのです。
[29]【神がモーセに語られた】民数記12章8節に、神がモーセと顔を合わせて「口から口へ」語ったとありますが、そこでのモーセは、キリストを予兆する者として、旧約の中で最もイエスに近いと言えましょう。しかし、そのイエスが、ここで「モーセを頼みとする」ファリサイ派の究極の価値観と真っ向から対立するのです。ここでは、彼らの究極の拠り所である「モーセ」それ自体が問題にされます。イエスが行なわれた神の業は、彼らの神学的価値観の根幹を打ったのです。ただし、イエスは、決してモーセやアブラハムを否定していません。イエスが否定するのは、「彼らの」モーセであり、「彼らの教義体系の」アブラハムです。イエスとモーセが対立するという主張は、イエス自身によってはっきり否定されています(5章46~47節)。
[30]【どこから来たか】この福音書全体を通じて、イエスが「どこから来た」かが絶えず人々に問われます。この問いが、神のロゴスが宿るキリストとしてイエスを「見る」人と、そうは「見ない」人とに分けるからです(9章39節)。イエスが「どこから来た」かを「知る」ことが、イエスが「だれである」かを観ることです。そこから、イエスと「共に留まる」交わりが啓けます。こうして「見える」と「知る」と「信じる」がひとつになるのがヨハネ神学です。
【実に不思議】原文は「(どこから来たか知らないとは、)<このこと>は驚くべきだ」です。「このこと」あるいは「このことについて」は、具体的な出来事に関してヨハネ福音書がしばしば用いる句で、人々が「このこと」を「観て」霊的な内容を認識したり悟ったりするためです。
[31]【神をあがめ】原語は「神を敬う」(形容詞)で、ここだけにでてきます。ヘレニズムで広く用いられるこの語法は、必ずしも旧約聖書の「敬虔な」の意味に限定されません(第一テモテ2章10節も同じ)。ただし、続く「神の御心を行なう」はきわめてヘブライ的な言い方です。ヨハネ福音書にしばしば見られるヘブライズムとヘレニズムの結合がここにも見ることができます。
[32]【これまで一度も】原文では、「永遠に」が否定辞と結びついて「決して~ない」(イザヤ64章3節)です。盲人の目が開かれる奇跡それ自体はヘレニズム世界で、すでに知られていたことです〔キーナー『ヨハネ福音書注解』(1)〕。しかし、ここは決して誇張ではなく、これには神による「霊的な開眼」の象徴的な意義がこめられています(3章2節)。
[33]【神のもとから来られた】先にはイエスを「預言者」(17節)と呼んでいますが、ここでは「神から来た人」です。ただし、「来られたのでなければ」という言い方は、イエスをまだ旧約の「神の人」と比較しているのでしょう。彼は、36節にいたって初めて、イエスが「人の子」であることを知るのです。3章2節のニコデモの場合と比較してください。
[34]原意は「お前は、生まれつき頭から足の先まで全くの罪人なのに、そのお前が俺たちに教えようとするのか!」です。「頭から足の先まで全く」という言い方は、イエスが洗足の際にペトロに語った言葉(13章3節)と同じです(ただしそこに含まれる意味は反対ですが)。彼が盲目で生まれたのは、彼個人の罪でも両親の罪でもありません。それなのに、目が開かれて「罪から救われた」彼を指導者たちが改めて断罪することで、裁く者が逆に裁かれる結果になります。ファリサイ派がこの人を見る目と、イエスが見る目との違いにこめられた皮肉がここにも読み取れます。
【外に追い出した】これは会堂からの追放です。「会堂追放」については前回の注釈を参照してください。指導者たちは、ここで霊的権威から世俗的な宗教権力へと変貌して権力を行使します。結果は16章2節へつながる事態です。ここでの「追い出す」は、10章4節で、善い羊飼いが羊を「連れ出す」ことと対照されているのでしょうか。
[35]【人の子】この呼び方は、ファリサイ派の指導者たちがイエスを「あの人」(24節)と呼んでいたのと対照的です。人の子を「信じるか」と訊かれていますが、この「信じる」と「見る」については12章34~36節でさらに語られます。「人の子」は、原初キリスト教では、終末に顕現するメシアとしてのイエスをも指す言葉ですが(マルコ14章62節)、ヨハネ福音書では、「地上を歩んだかつてのイエス」を指しています。「人の子」は、元来黙示文学(ダニエル書その他)に出てくる用語ですが、今回は、終末での顕現よりも、人が<現在の場で>「人の子」イエスに出会っていることが大切です〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。癒された人にとって、イエスはもはや「預言者」ではなく「人の子」です。
先在と受肉と終末が不可分に連結していることは、ヨハネ福音書をその創造論から解釈するときに初めて理解できます。「人の子」は天から降った者であり、また天へ昇る者ですが(3章13節/6章62節)、同時に受肉したロゴスは、この地上にあって創造の業を終末へ向けて成就するために働き続けるのです(5章17節)。ヨハネ福音書のロゴス・キリストは、光と闇、真理と虚偽の二元性の克服を目指して創造の業を遂行するのです。ファリサイ派の安息日制度は、神の創造の秩序が終末の安息にいたることを律法的に制度化したものでした。それゆえ、律法はユダヤ教では「光」であり「知恵」であったのです。ところが、受肉したロゴスは、十字架の贖いとこれに続く聖霊の降臨によって、律法化した安息日制度を根底から変革する新しい創造の業を開始したのです。終末の安息に向けて新たな創造を続けるロゴスの働きは、それゆえにファリサイ派の安息日制度と、これを支える律法制度と真っ向から衝突するのです。ヨハネ福音書のイエス・キリストは、天地創造の業に携わるロゴスですから、「人の子」の啓示によって人間が「分かたれる」のは、創造の初めに行なわれた神による分離行為(光と闇との分離)と関連するのかもしれません(3章19~21節)。
[36]【どんな人ですか】原意は「いったいそれはどなたのことですか?」です。語法的に見ると、原文の疑問文は「人の子」とはどのような方かとその内容を問うのではなく、それは誰かを尋ねています。「その方はいったい誰でしょう」〔岩波訳〕。
[37]【もうその人を見ています】「人の子」は現在すでに顕れているという意味です(6章36節参照)。「見ています」と言ったのは、彼がそれまで盲人だったからでしょう。共観福音書でも、「人の子」は、在世中のイエスと終末において顕現する「人の子」イエス(マルコ14章62節)を指しますが、ヨハネ福音書の場合は、受肉と関連して独特の黙示性を帯びています。
【その人だ】字義どおりには、「彼はいます」です。これは、イエスを通じて顕れる神の臨在を表わす「わたしはある」(エゴー・エイミ)を3人称で語ったものでしょう。癒された人は、イエスからの「語りかけ」によって、人の子との「交わり」へ導き入れられたのです。
[38]この節と次の節の冒頭の「イエスは言われた」までが抜けている異読があります。原語の「ひざまずく/伏し拝む」がヨハネ的ではないことなど、この節には、後の教会での礼拝形式が反映していると見て、この部分を後からの加筆と考える説があります〔ブラウン『ヨハネ福音書』(1)〕。ただし、この省略は、37節のイエスの言葉を直接39節の「わたしがこの世に来たのは」へつなぐための編集と見ることもできます〔新約原典テキスト批評〕。いずれにせよ、ここで盲人の霊的な開眼が完成したことが語られているのです。盲人の癒しは、マタイ9章27~31節やマルコ10章46~52節やルカ18章35~43節などでも語られますが、ヨハネ福音書ほど霊的な救いが完成された形で語られる例はありません。この物語は、イエスが唾で土をこねたこと(贖罪の塗油を表象する)やシロアムの池などから、ヨハネ共同体が受け継いだ独自の伝承に基づいていると見ることができましょう。
[39]【裁くため】原語「クリマ」は、ヨハネ福音書ではここだけで、「判決・裁き」を意味しますが、裁きの「内容」を指す場合が多いようです。「裁き」には、別に「クリシス」があります。こちらは、裁きの「行為」に関連します。イエスが言う「裁き」は、裁きそれ自体が目的ではなく、どこまでも結果としての裁きです。イエスはだれも裁かない。逆に人をして彼を「判断」"judge"させるのです。だから、人はイエスを判断することで、自分自身が「判断」されることになります(8章15~16節と3章19節参照)。
【わたしがこの世に来たのは】「わたしが~来た」という言い方は、イエスが遣わされた<目的>を指すヨハネ福音書の言い方です(10章10節と12章46節)。これは1章9節で、先在のロゴスが「この世」に来たことと関連します(5章43節/7章28節/8章42節など)。メシアによる盲人の癒しの背景には、特にイザヤ書があると考えられます(イザヤ29章18節/35章5節/42章7節)。自分は「見える」と思う者はすべて霊盲であり、「見えない」と自覚する者こそが「見える」人です〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。
[40]【我々も】原文は「まさかわたしたちまでもが、見えないと言うのではないでしょうね」です。これは、あきらかに相手の否定、「そういう意味ではない」を期待した問いですが、これに対するイエスの答えは、一見このファリサイ派の言葉を完全に否定しているように見えます。しかし注意深く読むなら、その答えは、決して単なる拒絶ではないことが分かります。「もしあなたたちが見えなかったのであれば」という条件をつけて、彼らが、ほんとうは霊盲であることを悟らせようとしているからです。さらに「今もなお、あなたがたは見えると言い続けている」と指摘することで、彼らが、自分たちの罪に「留まり続けようとしている」ことを批判して、悔い改めを迫るのです。イエスの否定の言葉の裏には、このように、相手を肯定的に導く意図がこめられているのを読み取ることができます。この「イエスと一緒にいた」ファリサイ派は、16節でイエスの側にいた人たちを指すのでしょうか? そこでは、いったん「ユダヤ人」という呼び方に変わり、ここで再び「ファリサイ派」に戻っています。これを編集の結果と見る説もありますが、内容が相互に交換できるからでしょう。
[41]【「見える」と言う】ファリサイ派には「律法の光」という言い方がありましたから、彼らが、「この意味で」光と律法を同一視している限り、イエスの救いは見えてこないことになります。逆に「見えなかったのなら」は、異邦人のように律法について完全に無知で、律法に接する機会さえなかった人たちのことを指しているのでしょう。これは、パウロの言う「律法なしに罪はない」(ローマ4章15節)状態を指すと思われます。ファリサイ派は、神の律法を知り、かつこれを人に教えながら、自分たちの霊的な盲目性に気づかないのです。この状態では、律法は救いではなく逆に罪をもたらす働きをすることをパウロはローマ7章で指摘しています。救いの恵みは、その裏に、これを拒む者への裁きを必然的に含むことをイエスは逆説的な表現で語るのです。
【罪は残る】「残る」「留まる」は、ヨハネ福音書でしばしば用いられる言葉ですが、通常「イエスのもとに留まる」のように善い意味を表すことが多いのですが、ここでは、「罪が残る」あるいは「罪のうちに留まる」という否定的な意味です。ほかに3章36節に「神の怒りがその人の上に留まる」があります。だからこの「留まる」には、悔い改める機会が与えられながらも、なおも意図的に、己の正当性に固執し続ける罪への批判がこめられています。一方では、イエスの命に「留まり続ける」者たちがいますから、光は闇に包まれながらも、闇を照らし続けることを止めないのです。救いの機会は、いつでも誰にでも開かれています。しかし、この神の恵みが、逆にこれを拒み続ける人たちには、より重い深刻な「罪」をもたらすという皮肉がここにはあります。
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