48章 善い業を行なう方 
                  10章22〜42節
■10章
22そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。
23イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。
24すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」
25イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。
26しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。
27わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。
28わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。
29わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。
30わたしと父とは一つである。」
31ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた。
32すると、イエスは言われた。「わたしは、父が与えてくださった多くの善い業をあなたたちに示した。その中のどの業のために、石で打ち殺そうとするのか。」
33ユダヤ人たちは答えた。「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒涜したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ。」
34そこで、イエスは言われた。「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか。
35神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている。そして、聖書が廃れることはありえない。
36それなら、父から聖なる者とされて世に遣わされたわたしが、『わたしが神の子である』と言ったからとて、どうして『神を冒涜している』と言うのか。
37もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。
38しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」
39そこで、ユダヤ人たちはまたイエスを捕らえようとしたが、イエスは彼らの手を逃れて、去って行かれた。
40イエスは、再びヨルダンの向こう側、ヨハネが最初に洗礼を授けていた所に行って、そこに滞在された。
41多くの人がイエスのもとに来て言った。「ヨハネは何のしるしも行わなかったが、彼がこの方について話したことは、すべて本当だった。」
42そこでは、多くの人がイエスを信じた。
                     【講話】
                  【注釈】

善い業
 わたしたちの福音はきわめて単純です。イエス様は、神の国は「幼子のもの」であると言われましたが、そのとおりです。神は「善い神」です。父なる神が遣わされたイエス様のお働きもまた「善い業」です。ですから、三位一体の聖霊もまた「善い働き」を行ないます。ここで「善い」とは、人が健康で幸いになることを当然含んでいます。あることが「善い」か「悪い」かは、子供でも分かることですから。悪い人でも自分の子供には、善いものを与える。まして天の父は求めるものに善いものをくださらないだろうか。イエス様がこう言われたのもこのことです(ルカ11章13節)。
 ところが人間というのはおかしなもので、神がせっかくくださった善いものをことごとく争いの種にしようとするのです。食べ物や資源を自分だけが独占しようとする。イエス様が、病気の人や盲人を癒されたなら、そのことをとりあげて罪人扱いしようとする(9章24節)。あるいは病気や災厄を神が与えた「罰」と見なして、その上で、その罰を本人のせいにしたり、両親のせいにします(9章3節)。あるいは先祖のせいにします。こうして、まるで悪いことが、「神様から来た」ように思わせるのです。こうなると単純で分かり切ったことが、複雑でややこしくなります。何がなんだか分からなくなる。神様の働きは「分ける」働きです(創世記1章4節)。ところが人間がこれを「分からなく」するのです。善いは悪い、悪いは善いです。
  災いだ、悪を善と言い、善を悪と言う者は。
  彼らは闇を光とし、光を闇とし
  苦いものを甘いとし、甘いものを苦いとする。
  災いだ、自分の目には知者であり
  うぬぼれて、賢いと思う者は。
     (イザヤ書5章20〜21節)
 神様のなさることは単純ですが、宗教は複雑です。せっかくの祝福も人間の手にかかると呪いに転じてしまうことがあるのです。イエス様の神様は善い神様です。だから人はイエス様の父なる神についていくのです。ほかの人にはついていかないのです。神様は善い神様です。だから人々は心から感謝するのです。ほかのものには感謝しないのです。神様は善い神様です。だから人々は、この神様こそ、自分たちの造り主であると信じるのです。ほかの神を自分の造り主とは信じないのです。どうか皆さん、こういう神様を信じてください。
■石で打つ者
 ユダヤ人の指導者たちは、石を取り上げてイエス様を殺そうとします。すると、イエス様は訊ねます。「わたしが行なったいろいろな善い業の中で、どの業のためにあなたたちはわたしを殺そうとするのか?」 すると彼らは答えます。「あなたが行なった善い業ではなく、あなたが神を冒涜しているからだ。」
 わたしたちがイエス様の福音を伝えるのは、父なる神がイエス様を通して授与される聖霊の働きが、「いろいろな善い業」をしてくださるからです。イエス様がわたしたちに「善いこと」をしてくださった。わたしたちは、このことを体験するから、人々にこのイエス様を伝えたいと心から願うのです。ところが、ある人たちにとっては、そのような「善い業」はどうでもいいのです。彼らは、「あなたたちにとって」善い業、善いことが行なわれることには全く関心がない。彼らは、「自分たちにとって」良いか悪いかだけしか考えないからです。たとえあなたにとって善いことでも、それを見る人間には、それぞれに思惑(おもわく)があるからです。人が見る目は、神様が見ておられる目とは違うのです。自分たちの宗教、自分たちの教義、自分たちの制度、そして自分たちの価値観、これらを守ること、これを拡大させることのほうが、そういう人たちにとってはるかに大事なのです。だから、そういう教義や制度や組織にとって都合が悪いことを決して許そうとはしない。このようにして、せっかく神様が与えてくださった「善いもの」が、いつの間にか失われてしまいます。いつの間にかほかのものにすり替えられたり、置き換えられたりします。わたしたちは、与えられた御霊の賜を失ってはいけません。
 ユダヤ人の指導者たちは、イエス様を石で打ち殺そうとします。なぜでしょうか? イエス様を通して働くみ業(わざ)が、「父の名によって」行なわれていること、すなわち、神様ご自身が働いておられることを彼らは悟ることができないからです。したがって、彼らは、「わたしの羊」、すなわち「イエス様の羊」ではありません。神は今でも語っておられます。働いておられます。それなのにこれが分からない人たちがいるのです。彼らにはそれが目に入らない。なぜでしょうか。自分たちの思いにとらわれ、自分たちの考え方に縛られ、自分たちの利害に目がくらんで、父なる神のお働きには目を閉ざされ耳をふさがれているからです。
 これに対して、イエス様のみ声を聞いて、イエス様の後に従う羊たちは、イエス様のみ姿に自分自身の姿を映して歩むことができます。その結果、その人たちは、復活のイエス様のみ姿へ少しずつ「変えられて」いきます。新しい「あなた」が創造されていくのです。「わたしは彼らを知り、彼らはわたしに従う」とイエス様が言われたのはこの意味です。イエス様のみ姿に似せられていくその歩みこそ、その人にとって、永遠の命へつながるものです。その「あなた」は、たとえ地上を離れても失われることはありません。だから「わたしは彼らに永遠の命を与える」と言われるのです。イエス様はすでに復活されて、聖霊として働いておられますから、どのような力もこれに打ち勝つことができません。だから、「彼らをわたしから奪うものはひとりもいない」のです。
 ところが、ユダヤ人の指導者たちはイエス様に言います。「お前は人間であるのに、神を装っている」と。これに対してイエス様はお答えになります。「父なる神ご自身が、その人にあって働いておられる。そういう人たちを神の子たちというのではないのか」と。イエス様を通して働いておられるお方は、イエス様の十字架によって贖いの業を成就し、イエス様を復活させることで、その業を人々に顕し、今もなお、聖霊をお遣わしになって働いておられます。イエス様のことを「神の子」とわたしたちが呼ぶのは、この理由からです。イエス様が、ご自分の能力や自己の人間的な企みや意図から「自分を神に見せた」からではありません。父なる神が、イエス様を通してそのように働かれ、今もなお働いておられるからです。父なる神が、御子キリストをお遣わしになって今も働いておられること、これこそが、キリスト教の最も大事な本質です。神様がその方を通して善い業を行なって、さらにその方を復活させて、善い業を今も行なっておられる。この方が救い主でなければ、一体だれがキリストであり救い主であると言うのでしょうか。
■まず神様から戴くこと
 「キリスト教」と言い、「イエス・キリスト」と言います。しかし、人が教義としてのキリスト教を知り、歴史上のイエスを見ているだけでは、神様への信仰は生まれてきません。大事なのは、イエス・キリストの聖霊が、今、現に行なっている「善い業」を見ることです。その業を知ることです。そして、その業を悟ることです。これが、救い主イエス・キリストを知ることです。「たとえわたしを信じなくても、わたしのしている業を信じなさい」とイエス様が言われたのは、この意味です。
 「善いもの」を御利益宗教であると馬鹿にする人たちは、たいてい「批評家」です。批評家は、批評するだけで、イエス様にはついて行かないのです。彼らは御利益宗教だと言って笑い、あるいは批判するかもしれません。しかしわたしは、御利益宗教でもいいと思っています。サマリアの女のように罪赦された喜びを体験し、9章の盲人のように、目が開かれて、イエス様を礼拝する。これが大事なのです。なぜなら、「善いもの」を与えられたら、彼らはイエス様に従うからです。従い続けていくと「父がわたしにおり、わたしが父にいるように、あなたがたもわたしにおり、わたしもあなたがたにいる」という人格的な関係に導き入れられていきます。これがコイノニア(交わり)です。この交わりから、だんだんと「父とわたしはひとつである」とイエス様が言われた意味がわかるようになります。知らず知らずに、そういう霊的な世界へと導き入れられていく。最初は単純なことから始まるのです。御利益宗教でいいのです。初めにまず善いものを戴いて、それから一歩一歩と近づいていく。それでいいのです。
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