【注釈】
■10章
 祭りによって区分するならば、仮庵の祭りのためにエルサレムへ上ったイエス(7章10節)の物語は、10章21節で終わり、22節からは冬の神殿奉献記念祭での出来事が10章の終わりまで続くことになります。
[22]【神殿奉献記念祭】「ハヌカ祭」とも言います。アレクサンドロス大王の死後、その王国は四つに分かれました(前301年)。その結果、パレスチナは、北のセレウコス王朝と南のプトレマイオス王朝との支配地域の狭間に位置することになったのです。セレウコスのアンティオコス四世エピファネスは、パレスチナをギリシア化しようとして、エルサレムの神殿にギリシアの神ゼウスを祀り、ユダヤ人の嫌う豚肉を強制するなど、パレスチナの「ユダヤ人」に激しい迫害を加えました。ユダヤ人の多くは、南のプトレマイオス王朝の側に立っていたのですが、アンティオコス4世に激しく抵抗し(第一マカバイ記1章)、ユダヤの民は、「マカバイ」(「鉄槌」を意味する)と呼ばれるユダとその兄弟たちを中心に独立を目指して決起します。これがマカバイ戦争です。一連の激しい戦闘の末に、最後には、マカバイ兄弟の指導の下に勝利を勝ち得ることができました(第一マカバイ記2章~4章35節)。こうして、ハスモン家の祭司ユダ・マカバイオスは、キスレウの月(ほぼ12月)の25日に、奪回したエルサレム神殿をきよめて、イスラエルの神に改めて神殿を奉献しました(前165年)。これが神殿奉献記念祭の始まりです(第一マカバイ記4章59節)。この日には8日の間灯火を灯し続けたという言い伝えに従って、ユダヤでは、ほぼクリスマスの時期にハヌカの祭りを祝って、最初の日に燭台の8本のろうそくに火を灯して、以後8日間、1本ずつ消していく慣わしがありました(シャンマイ流)。ヨハネ福音書に「時は冬であった」とあるのはこの時期を指します。
[23]イエスが神殿内の「ソロモンの回廊」を歩いていたのは、冬の寒さを避けるためでしょう。この回廊は神殿の東側にあり、立派な飾りの柱頭を持つ柱が並び、神殿の内部に向かって開かれていましたが、外へ向かう扉は閉じられていたからです。今回の箇所はマルコ11章27節以下となんらかのつながりがあるのでしょうか。そこでも、イエスが神殿の境内を歩いているときに祭司長たちがイエスに質問しています。
[24]【取り囲んだ】敵意を持って取り巻くこと(詩編118篇10節)。
【わたしたちに気をもませる】「気をもませる」とは「悩ませる」「いらつかせる」こと。彼らは、イエスを逮捕する口実を探していましたが、イエスがそのような口実を与えないように答えるので、業を煮やしたのです。「気をもませる」とあるのは、「(わたしたちの)命を取る/(わたしたちを)滅ぼす」の意味にもなることから、この意味も含まれているという解釈もあります。
【もしメシアなら】原文は「もしキリストなら」。ユダヤ人の指導者たちが言うとおり、イエスが、自分のことを「キリスト」あるいは「メシア」だと彼らに明言しているところはありません。ただし、サマリアの女にはそう証ししています(4章26節)。イエスは、信じる者に「エゴー・エイミ」の語りかけで自分の臨在を顕しますが、信じない者には、そのような語り方をしません。イエスのメシア性は、ある人には顕され、ある人には隠されるという二重性を帯びているからです。このあたりマルコ福音書に近いのですが、むしろ、ルカ22章67節と関係するのかもしれません。

 25わたしは言ったのに、あなたたちは信じない。
 わたしが父の名によって行う業、
 これがわたしについて証しをしている。
 26それなのに、あなたたちはわたしを信じない。
  わたしの羊ではないからである。
 27わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。
  わたしは彼らを知っており、
  彼らはわたしに従う。
 28わたしは彼らに永遠の命を与える。
  だから彼らは永遠に滅びることがない。
 だからだれも彼らをわたしの手から奪うことがない。
 29わたしに羊をくださった父は、
  すべてのものより偉大であり、
 だれも父の手からこれを奪うことができない。
 30わたしと父とは一つである。
               〔私訳〕
[25]【父の名によって行う業】イエスは、ユダヤ人の指導者たちに、自分がメシア・キリストであるとは明言していません。その代わり、父なる神がご自分にあって働いているその「業」を通して彼らに語るのです(9章25節)。「父が共におられて働いている」ことが、イエスが神の子であることを彼らに証しするのです。神は、現実に生起する出来事を通じて語るからです。
[26]【わたしの羊ではない】「私があなたたちに語ったように」を加えている異読があります。おそらく、10章の始めの羊飼いのたとえを踏まえているのでしょう。したがってこの異読は、この26節が10章の羊飼いのたとえの「先にではなくその後に」置かれるべきであると判断したのです(前回の注釈の錯簡問題を参照)。
[27]【わたしの声を聞き分ける】これが10章5節や同16節を踏まえているのは明らかです。だれがイエスの羊なのか? その根拠は究極において「父のみ心」にあるのです(マルコ4章11~12節/マタイ11章25~26節/ルカ10章21~24節)。
[28]私訳のように、ヨハネ福音書は並行法で語ります。この福音書では「永遠に」が否定と結ぶときには、強い否定を意味すると考えて、新共同訳では「決して滅びない」と訳してあります。しかし、このような並行は、そのまま訳すほうがそこに含まれる深い原意をよく伝えると思います。なお「奪う」とあるのは、13節で狼が羊を「奪う」とあるのと同じです。
[29]【父がわたしにくださったもの】関係代名詞が男性か中性かによって、大きくふたとおりの読み方があります。
(A)「わたしに(羊を)くださった父は、すべてのものより偉大である。」
(B)「父が、わたしにくださったものは、すべてのものより偉大である。」
前節とのつながりから、(A)のほうが内容的にわかりやすいのは明らかです。(B)は「父」と「わたしにくださったもの」とのつながりが分かり難く、「もの」の内容もはっきりしません。このことから、(A)の読みを採る訳が少なくありません〔聖書協会共同訳(2018年)〕〔REB〕〔NRSV欄外の読み〕〔新改訳2017欄外の読み〕。しかし、逆に、分かりやすいものをわざわざ分かり難く変更することはありえないという理由で、(B)を原文とする見方があります〔新約原典テキスト批評〕。新共同訳も岩波訳も新標準改訂訳(NRSV)も(B)説に従っています。
[30]ここは、後の三位一体論の基礎となる節です。サベリウス(?~250頃)は、父と子と聖霊が、それぞれ異なる時代に顕現したことを認めながらも、三位一体ではなく、「ひとりの」ペルソナであるとして、父と子との完全な一体を唱えたと言われています。これに対してアレイオス(256頃~336)は、子は父によって創造されたとして、子を父の下に従属させました。サベリウスもアレイオスも三位一体の立場からは、異端とされています。原文の英訳は"The Father and I are one."です。ここから、上記の両説を否定して、次のような解釈をすることもできます。すなわち、述語(are)が複数であるから、父と子とはひとりではありえない。ただしOneとあるから、父と子とは別の存在ではない。ただし14章28節には「父はわたしよりも偉大である」とあります。しかし、ここを三位一体と結びつけて解釈する必要はないでしょう。「わたしと父は一つである」とは、真理、光、命などの父の性質を子が具えていることを意味します(1章18節/5章19節)。同時に、子もまた宇宙を創造した父なる神と共にあって働いていることを指しています(1章1節/3章35節/5章26節/17章5節)。
[31]【また石を】「また」とあるのは8章59節を念頭に置いているからです。ここを「それゆえに石を」と読む異読もありますから、もしもこれに従うなら、ユダヤ人の指導者たちは、イエスが自分を人間以上の者としていると判断したから、石で殺そうとしたのです。「神を冒涜した罪」は石打の刑に処すという規定があったからです(レビ24章14節)。
[32]【多くの善い業】原文は「父から出た善い働きをいろいろと」。「善い」という言葉は、この10章に「善い羊飼い」「善い働き」と5回用いられていて、人間に「健康と幸い」を与えることを意味します。イエスの父がイエスを通して働く業が「善い」ものであること、その善い業が「父から出た」ものであること、これをイエスは繰り返し説いています。だからイエスの父なる神は「善い神」です。
[33]【神を冒涜した】ここで初めて、「神を冒涜する」という非難がイエスに向けられます。マルコ14章61~63節では、ユダヤ人の指導者たちがイエスに「お前は、ほむべき方の子、メシア」なのかと訊ね、イエスが「神の右に座る人の子」がやがて来ると答えると、これを大祭司が「冒涜」と見なしています。マタイ26章63~65節でも、大祭司がイエスに「お前はメシア、神の子」なのかと訊ねると、イエスは、マルコ福音書と同じように答え、それを大祭司は「神を冒涜した」と言います。ところがルカ22章67~71節では、ユダヤ人の指導者たちが、まず「お前はメシアか」と訊ねます。イエスはマルコ福音書と同様の答えをします。これに続いて、皆の者がイエスに「お前は神の子か」と訊ねます。イエスは「それはあなたたちが言っていることである」と答えます。ルカ福音書には「冒涜」という言葉こそ出てきませんが、事実上そう見なされています。ヨハネ福音書では、ここ33節~36節が、共観福音書のこの「冒涜」の場面に相当します。「メシア」とは区別される意味で、イエスが「神の子」だと称しているとユダヤ人の指導者たちが判断した点で、ルカ福音書とヨハネ福音書は共通します。ただし、イエスの時代に、「神を冒涜する」罪が、実際にどのような場合に適用されていたのかはよく分かっていません。このヨハネ福音書でユダヤ人の指導者たちは、イエスが「自分を神とする」ことが「冒涜」にあたると断定します。ユダヤ人の指導者たちは、どのような意味で、イエスが神を冒涜していると言うのでしょうか?これが次に語られます。
【自分を神とする】原文では、彼らはイエスが「自分を神に<見せる/仕立てる/装う>」という意味で冒涜の罪を着せています。5章ではイエスが安息日に病人を癒したこと、9章では安息日に盲人の目を開けたことで、ユダヤ人の指導者たちは、イエスを断罪しようとします。どちらにも共通するのは、彼らがイエスの行なった<癒しの業>にはいっさい言及しないことです。彼らは、イエスが「彼らの律法」である安息日を破ったというその一点だけをとりあげて、これを追求するのです。10章でも同じことをしています。「あなたは、人間なのに」とあるように、彼らはイエスを「ただの人間」としか見ていません。その人間が神を「わたしの父」としていることが許せないのです。ただし、イエスが、自分は「神の子」であると明言したことはありません。だから彼らは「気をもんで」いるのです(24節)。これに対してイエスは、神がその言葉を通してイエスにあって「現実に働いている」と指摘しています。イエスは「父から出た善い働き」を現に行なっています。このことを証しとしてイエスは「わたしと父とはひとつである」と言うのです。ところが「善い業のことであなたを殺そうとしているのではない」とあるように、ユダヤ人の指導者たちは、イエスが<現実に行なっている働き>をいっさい見ようとはしません。彼らには、イエスを通して働く神の御霊の働きが見えないから、イエスが「わたしと父とが一つ」と言う意味が理解できません。これらの問答は、福音書が書かれた当時のヨハネ共同体とファリサイ派ユダヤ教との論争がその背景にあると思われます。
[34]【あなたたちは神々】これは七十人訳の詩編82篇6節(七十人訳では81篇)からの引用です。この82篇は、「ヤハウェの天の宮廷」での「神々の会議」について述べています。そこでは、パレスチナの古くからの「カナンの神々」を初め、世界中の神々が、至高のヤハウェのもとに集められます。これらの神々は、ギリシア神話の神々と同じように、人間世界を司り、争いや平和など地上の様々な出来事を支配していました(現在の星占いにその名残を見ることができます)。ところが、地上では暴力がはびこり、貧しいものが虐げられて苦しんでいるのを見て、ヤハウェは、地上を支配するこれらの神々を集めて、彼らに厳しく警告し、もしもこのまま地上の圧政や暴虐が治まらないなら、わたしはお前たちを天の宮廷から追い出して、人間並みの王侯に格下げすると宣告するのです(詩編82篇6節以下の「神々」を地上の支配者/裁き司のことだと見る説もあります。これらの神々は「半神半人」の存在と見られていたからです)。詩編82篇6節は、そういうヤハウェの言葉から出たものとして、「わたしは言った。あなたたちは神々である。皆、いと高き方(ヤハウェ)の子たちである」と告げています〔フランシスコ会訳聖書〕〔聖書協会共同訳(2018)年)〕。詩編のこの箇所を新共同訳は「~神々なのか~子らなのか」と疑問あるいは問いかけに訳していますが、原文も七十人訳も英訳も岩波訳もはっきりと断定的に訳しています(ただREBは「~子らであるけれども~人間として死ぬ」となっています)。おそらく新共同訳は「それでもお前たちは~なのか」の意味をこめているのでしょうが、誤解を生じると思います。だから、ヤハウェは「もろもろの主の主」「もろもろの神々の神」「諸王の王」ですから、ここに、まだ古い時代の多神教の名残を見ることができます。ヤハウェは、この段階では「神々の最高神」ですが、やがてこの「最高神」から「ヤハウェのほかに神はいない」という「唯一神教」へと移行することになります。
 ヨハネ10章でイエスは、「神の言葉がその人たちにあって実現している/働いている」(次節注参照)場合には、その人たちは「神々であり、神の子らである」と言って、この詩編の言葉を引用しています。イエスはここで、地上の人間について、神の言葉を託された者たちは「神々である」と言っているのですが、すでにイエスの時代のユダヤでは、「父なる神」は、「神々の最高神」ではなく(したがってユダヤ人にはもはや「神々」は存在しません)、「唯一の神」ですから、その言葉を託された者は、地上の人間以外にはありえません。だから「神の言葉が働いている人たち」こそ「神の子たち」であると言うのです。なお、イエスのこの言葉の背景には、詩編82篇のこの節を根拠にして、イスラエルの裁き司たちあるいはイスラエルの民が、シナイで律法を授けられたとき、かれらは「死の天使」にもはや支配されない者にされたという伝承が、ユダヤ教にあったと考えられます。イエスが、「あなたたちの律法」と言ったのは、この意味を含めているのかもしれません。神の言葉が託されている人たちが「神の子たち」と呼ばれるのであれば、イエスを通して働いている父の働きは、これをはるかに超えているとヨハネ福音書は言うのです。なお、イエスが、このように、イスラエルの古い聖書解釈に基づいて引用し、「神の言葉を託された者」が「神の子」であると言うのはとても重要です。
[35]【神の言葉を受けた人たち】原文は「(その人に)神の言葉が出来事として生起している人たち」という意味です。イエスは、自分を通して現実に父なる神が「働いている」ことを指しています。
[36]【聖なる者】「聖なる」の原義は、特別に「神のご用のためだけに選ばれて捧げられた」物あるいは者のことで、「聖なるもの」「聖別された」と訳すこともできます。例えばモーセは「聖別された者」(シラ書45章4節)であり、エレミヤもそうです(エレミヤ書1章5節)。ただし、ここでイエスが「聖なる者」であると言う時、ヨハネ福音書は、イエスが神に<特別な意味で>聖別され捧げられた者であるという意味です。すなわち、イエスが苦難を受け人類の贖いを成就する方であることです。これは、イエスがキリストとして、人類の罪のゆえに執り成してくださる「永遠の大祭司」(ヘブライ4章14節~5章6節/同10章11~14節)とされるためです。
 33節から36節までは、難解なところで、同時にとても重要な内容を含んでいます。モーセがシナイでイスラエルの民に律法を授けたことによって、その律法を宿す者たちが「神の子たち」であるという伝承が受け継がれました。ヨハネ福音書は、この伝承を受けて、イエスこそが、そのモーセ律法に先立つ「先在の神の言葉」(1章1節/5章45~47節)であり、その意味で「神の子」であると告げているのです。
 5章17節の安息日問題で、イエスは、父が働いておられる間は、自分には安息はないと言います。6章の過越の祭りで、イエスは、自分が「命のパン」であると言います。光の祭りとも呼ばれる仮庵の祭りでは、自分を「世の光」(7章12節)として顕します。9章で、安息日と律法が問題になると、イエスは、自分を律法に代わる「人の子」として顕します(マルコ2章27~28節参照)。ここ10章の神殿奉献祭では、イエス自身が、神に「捧げられた」者、すなわち神に「聖別された」神殿であり人類の執り成しを行なう大祭司であるとヨハネ福音書は証しするのです。ヨハネ福音書では、このように、ユダヤの祭りあるいは祭儀によって、イエスこそ、これらの祭儀に取って代わる存在であることが証しされます。言い換えると、そこには、旧約の祭儀に代わるイエスの到来という「置き換えの論理」が働いているのです。
[37~38]イエスは、自分を通じて働く父なる神の業を観るように告げます(14章11節を参照)。その業を観て、イエスの父がどのように大きな出来事を成就しているのかが分かれば、イエスが「神の子」であることが、自然と洞察できるからです。ただし、ヨハネ福音書は、奇跡や癒しの業それ自体を重視するのではなく、それらは、いわば、イエスが父から遣わされたことの「しるし」と見なすのです。「しるし」は、これを見る人の霊的な深さに委ねられますから、ヨハネ福音書は、「しるし」を観ることによって、イエスが父から遣わされた「神の子」であることを人は「知って、悟る」と言うのです。
 イエスの時代のユダヤ教では、「神の使い」とは、イザヤやエレミヤなどの預言者たちから区別されて、特別に「しるし」となる奇跡を行なう人を指すことがありました。たとえば、エリヤ、エリシャなどが、これにあたります。しかし、ここでイエスが言うのは、このような狭い意味での「神の使い」ではなく、世の救い主として遣わされたメシア・キリストのことです。また、ここでのイエスの働きとその「しるし」は、イエス在世当時だけでなく、ヨハネ共同体のイエス・キリスト観とも重なります。
【知って、悟る】「知って」は接続法のアオリストで物事の始まりを表わし、「悟る」は接続法の現在で物事の継続を表わします。だからここでは、イエスの働きを観て、そこに父のみ業を「見いだし」、そうすることによって、さらにイエスの働きの意味を悟るようになるという意味です。
[39]【イエスを捕らえようと】7章30節/8章20節/同59節でも同じことが語られます。「イエスの時がまだ来ていなかった」と言おうとしているのです。「イエスの時」については、7章6節とその注釈を参照してください。39節は大事な区切りになっています。ここで、ユダヤ人の指導者たちとの対決が終わり、11章からは、ラザロの復活が語られ、これに続いて受難週の出来事へ入ることになるからです。
[40]この節から42節までは、39節までの結末と見ることも、ここから次のラザロの復活の物語が始まると見ることもできます。「ヨルダンの向こう側」とラザロのいるベタニアとは、距離的にずいぶん離れているので、ここはやはり、11章と切り離すほうがいいと思います。
【ヨルダンの向こう側】1章18節に、「洗礼者が洗礼を授けていたヨルダンの向こう側、ベタニア」とあり、これはヨルダン川の東のペレア地方のことです。1章28節の「ベタニア」は、「ベタバラ」など幾つかの異読がありますが、11章のエルサレム近くのベタニアのことではありません。おそらくイエスは、ユダヤ人の指導者たちの追求を逃れるためにペレアに渡ったと思われます。しかし、ここは、イエスが洗礼者によって洗礼を受けた場所でもあり、エルサレムでの受難を前にして、もう一度宣教活動の出発点へ戻ったとも考えられます。
[41]【ヨハネは何のしるしも】洗礼者は、メシアの到来を告げる「荒れ野で叫ぶ声」として、奇跡やしるしなどをいっさい行ないませんでした。洗礼者については、1章19~36節/3章22~30節/5章33~35節に出ています。記事がだんだん短くなっていくのは、1章での洗礼者の祭司たちに対する返事と同じで、「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」ことを表わしているのでしょうか。「多くの人が」とあるのは、洗礼者の弟子たちのことかもしれません。洗礼者宗団とヨハネ共同体とはつながりが深く、ヨハネ福音書が書かれた頃にも、洗礼者の宗団は、まだ活動を続けていたと思われます。その中から、多くの人がヨハネ共同体へ参入したことが、この節の背景になっていると見ることができます。
[42]かつての洗礼者の弟子たちは、洗礼者がイエスについて証ししたことが正しかったことをあらためてここで確認して、イエスを信じるようになったのです。
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